〜研究作文其の四〜

日本の沿岸要塞について(改訂版)

(壱岐要塞黒崎砲台40センチ連装砲塔跡)




日本の要塞というのは海軍とともに始まりました。
元々、幕末に異国船打払令によって、沿岸各藩に台場(砲台)を建設することを 幕府が命じたのが、その端緒といえます。そもそも、日本の要塞というのは、のちに関東軍が満州のソ連国境沿いに建設した永久陣地 以外は、重要港湾と海峡を守るためのものがほとんどでした。それらの元祖は、この各所に作られた台場から来ているともいえます。
これらの台場の幾つかは、幕末に砲火の洗礼を受けました。鹿児島湾の台場群の戦闘(薩英戦争)と、長州下関台場の戦闘(下関戦争)が そうです。これらは英国を中心とする外国船と砲撃戦を演じましたが、砲の性能、砲員の能力、管制技術の全ての点で欧米艦隊の火力に 大きく劣り、これらの局地戦は薩長の完敗に終りました。これらが原因で、両藩は攘夷から開国論へと転換することになり、また国防力 としての海軍の重要性に気付くこととなりました。
維新後、海軍が誕生すると、その艦隊の整備とともに、沿岸砲台の建設にも力を入れていくこととなります。砲台や要塞の管理は基本的 に陸軍の担当で、主な建設地点は東京湾や、日本の各海峡、国防上重要な半島等でした。
これらは明治から延々と整備され、日本各地に 「要塞地帯」として国民の目に触れることなく、増え続けました。今回はこれらから、陸上要塞ではなく、沿岸防備のための要塞について 取り上げてみたいと思います。(陸戦要塞は、用途や構造、戦歴等が沿岸型とまるで異なり、そちらにも一章割きたいので)




日本はその軍備の中で、かなり重要な位置に要塞を考えていました。特に明治期に、まだ外国の攻撃が直接本土を狙って来ることがありえる、 と考えられていた時期はそうです。
維新後、陸軍は各藩の有していた台場へ海岸砲隊を配備しましたが、その配備地は函館、横浜、新潟、長崎、下関、鹿児島といった、港湾を直接 守る位置に存在する旧態依然とした台場で、装備火砲も維新の時に所有した旧式の砲ばかりでした。
しかし、この時期の陸軍は、士族の反乱や一揆に対応するための野戦兵力を整備するのに精一杯で、海岸要塞砲という高価な兵器を準備すること は、予算の面からもとても無理な話でした。
陸軍がようやく沿岸要塞の整備に着手するのは、西南戦争が終わり、ようやく国内が安定した明治13年(1880)からです。


それまでの台場から、洋式要塞への転換を計った要塞整備が始まり、最初の砲台として、 観音崎第一砲台が起工されたのを始めに、特にロシアや清国との戦争が現実見を帯びてきた明治20年頃より、その整備 が急ピッチで進んでいきます。

準備が急がれていた割に着工が遅いのは、まず、要塞陣地の砲台に据え付ける、砲そのものを作らなければな らなかったためです。要塞そのものより、最初は大阪砲兵工廠や横須賀海軍工廠の生産力を上げる必要がありました。これらの工廠が本格生産にかかれたのが明治10年代からですから、初期の建設の遅れは仕方がないとも言えます。
大阪砲兵工廠がようやく大口径要塞砲の製造能力を持ったのは明治20年頃で、その前後に日本全国で始まっていた要塞整備の備砲は、国産のものより、輸入砲、それに日清・日露の戦争で鹵獲した砲が主力を占めている状況でした。
特に加濃砲ではそれが顕著で、国産要塞主砲の第一陣として登場した24センチ加濃砲が制定されたのは明治23年、それまではフランスのカネー社から輸入した加濃砲(加式と称していました)で、要塞装備を充足していたのです。

要塞砲が量産され、特に有名な28センチ榴弾砲(これは総計約220門も量産されました)が各要塞に配備されて、要塞砲の国産化の道が開かれましたが、加濃砲については明治期を通じて、フランスやドイツの砲を買い続けることとなりました。
量産はされていますが、砲の精度や当時の国産技術の未熟さを考えると、主要要塞には外国砲を装備したいというのが人情です。
輸入する砲については、日露戦争前までほとんどがフランス製でした。日本陸軍がその創建時にフランス陸軍に範を置いたこと、砲兵といえばフランスのイメージがあったことなどが、その原因となっています(日露戦争前後より、ドイツ系の要塞砲も入手するようになりました)。

一方国産の砲については、ほとんどがイタリア式の砲を設計・生産しています。これは陸軍砲兵の育成時に、国産火砲として青銅製野山砲を正式化したのですが、この設計に携わったのが、イタリア軍の砲兵将校達だったのです。
75ミリの野戦砲の設計を終了したグリロー少佐等のイタリア人技術者の協力を得て、19センチ加濃砲、24センチ加濃砲、12センチ加濃砲等が製造され、明治20年前後より各要塞に配備されはじめました。


陸軍が建軍の参考にしたためか、初期の要塞は煉瓦作りの丸いアーチを描く、フランス式のものが主でした。要塞は洋上から発見されにくいように、 山中の高所に樹木に隠れるように建設され、コンクリートで固めた砲座と、少々の砲撃にも耐えられるように頑丈に作られた弾薬庫、砲員の 援体壕とその居住施設からなっていました。海軍の砲塔式艦砲を流用した要塞では、砲塔のみ地上に露出し、他の施設は全て地下設備として しまったものも散見できます。
また、各要塞工事の中で、最も難工事だったのが、東京湾のまん中に浮かぶ、第一、第二、第三の3つの海堡 でしょう。明治14年より始まった工事が完了したのは、大正に入って後のことでした。


明治20年になって、清国との戦争がいよいよ現実味を帯びて来ると、日本艦隊よりはるかに有力な清国艦隊に対処するため、沿岸各要塞の 建設が一層促進されることとなります。清国戦までに作られた主な要塞は、「対馬要塞」 「下関要塞」「由良要塞」等です。これらは一から建設したものばかりではなく、元あったものに 近代的砲座を建設して、戦力化したものも含まれます。清国と開戦するまでに全国各地に50を超える保塁が作られ、砲が備えられました。
日進戦争が終っても、対露戦に備えて要塞の拡充は続きます。対清戦からロシア開戦までに作られた主な要塞は、 「芸予要塞」「広島要塞」「佐世保要塞」 「舞鶴要塞」「長崎要塞」「函館要塞」 「基隆要塞」「澎湖島要塞」等です。これらの要塞は直接ロシア艦隊と撃ち合うことはありませんでしたが、 重要港湾防備の拠点として、またその備砲を陸揚げして、旅順や奉天で要塞陣地相手に威力を発揮しました。


第一次世界大戦後、ワシントンで海軍軍縮条約がまとまり、日本は既成の2艦を除いて、建造中の八八艦隊計画艦の全艦を放棄することとなりました。また、旧式艦も廃艦 となり、それらの備砲が浮いた為、要塞砲として転用することとなりました。主なものとしては、「壱岐要塞」に戦艦 「土佐」の40センチ連装砲が装備され、東京湾にあった「千代崎砲台」には戦艦「鹿島」の30センチ主砲が備えられた といったぐあいです。これらの艦砲はもっとも重要と思われた地域の要塞、「東京湾」「対馬」「壱岐」「鎮海湾」の4つの要塞に装備されました。
この後も、大正軍縮や国防方針や海軍戦略の転換等で、要塞の統廃合、整備が進みました。太平洋戦争開戦時に日本が沿岸要塞として戦力化していた要塞は、 「東京湾」、「下関」、「由良」、「舞鶴」、「津軽」、「佐世保」、「長崎」、「鎮海湾」、「対馬」、「壱岐」、「豊予」、「旅順」、 「大連」、「永興湾」、「羅津」、「基隆」、「法湖島」、「高雄」、「奄美大島」、「父島」の20要塞と、「北千島」、「 宗谷」、「中城湾」、「船浮」、「狩俣」等の臨時要塞がありました。
これらの要塞は太平洋の戦雲が高まるにつれて、1941年の8〜11月に、「警急戦備」、「準戦備」、「本戦備」と段階的に臨戦態勢を整えて、開戦を迎えたのです。

これらの要塞のどのような戦力が配備されていたかというと、
  • 要塞司令部
  • 要塞重砲兵連隊
  • 要塞歩兵隊
  • 要塞通信隊
  • 要塞陸軍病院
  • 要塞憲兵隊
  • (要塞山砲兵隊)
  • (要塞工兵隊)
  • (要塞防空隊)
といった部隊が配属されていました。この中で要塞主力となるのが、要塞重砲兵連隊です。各要塞には固有の重砲兵連隊が 配属され、その備砲の運用に当たっていました。以下に主な要塞重砲兵連隊を挙げていきます。
  • 奄美大島要塞重砲兵連隊(19年に重砲兵第六連隊となり、独混六四旅団に配属)
  • 中城湾要塞重砲兵連隊(19年に重砲兵第七連隊となり、独混四四旅団に配属。沖縄戦では知念半島の火力の中心となったが玉砕)
  • 船浮要塞重砲兵連隊(19年に重砲兵第八連隊となり、独混四五旅団に配属。当初は西表島に要塞を構えていたが、のち石垣島に移動)
  • 父島要塞重砲兵連隊(19年に重砲兵第九連隊となり、第百九師団に配属)
  • 澎湖島要塞重砲兵連隊(19年に重砲兵第十二連隊となり、独混七五旅団に配属)
  • 基隆要塞重砲兵連隊(19年に重砲兵第十三連隊となり、独混七六旅団に配属)
  • 羅津要塞十砲兵連隊(19年に重砲兵第十四連隊となり、九十九里に展開)
  • 永興湾要塞十砲兵連隊(19年に重砲兵第十五連隊となり、独混九八旅団に配属。志布志湾に展開)
  • 高雄要塞重砲兵連隊(20年に重砲兵第十六連隊となり、独混百旅団に配属)
  • 長崎要塞重砲兵連隊(20年に重砲兵第十七連隊となり、独混百二二旅団に配属)
  • 豊予要塞重砲兵連隊(20年に重砲兵第十八連隊となり、独混百十八旅団に配属)
  • 東京湾要塞重砲兵連隊(東京湾兵団に所属して、東京湾周辺の各砲台を運用)
  • 対馬要塞重砲兵連隊
  • 壱岐要塞重砲兵連隊
  • 下関要塞重砲兵連隊
  • 釜山要塞重砲兵連隊
  • 由良要塞重砲兵連隊
  • 津軽要塞重砲兵連隊
  • 宗谷要塞重砲兵連隊
  • 麗水要塞重砲兵連隊
  • 旅順要塞重砲兵連隊(19年に備砲転用のため、廃止)
  • 舞鶴重砲兵連隊
  • 佐世保重砲兵連隊(16年に佐世保重砲兵連隊補充隊と改称)
要塞はこうして、数を増やしていきましたが、その装備ははなはだ旧式なものばかりでした。太平洋戦争時でも、まだ骨董品的な 「28センチ榴弾砲」(日露戦争で旅順攻略に使われた有名な要塞砲。東京湾第一海堡や千代ヶ崎、父島要塞等に装備された)や、旅順に装備された 「克式15センチ榴弾砲」(クルップ社製で明治30年始めに輸入した)等が現役装備として用いられていました。
また、前述した通り、軍縮の結果として、要塞砲に転用されることとなった連装砲塔の艦砲が12基あり、その中でも、最大口径の40センチ連装砲が、 「対馬」「壱岐」「釜山」の3要塞に配備されたのは、述べたとおりです。
大正軍縮時の要塞整理でも、当時としては新式の「四五式15センチ加農砲」が、対馬海峡や津軽海峡等 の重要と思われる地帯の要塞に配備され、昭和に入ってからも、新型の「九六式15センチ加農砲」が、わずかな数ですが 重要要塞に装備されました。
しかし、要塞全体としては、極めて旧式の装備で太平洋戦争に突入しました。その備砲の旧式さや観測装備の貧弱さもさることながら、対潜、対空装備を ほとんど持たなかったことは、戦争末期に重要な意味を持つこととなります。



ここで幾つかの主要な要塞について、簡単に解説します。


東京湾要塞

1880年(明治13年)に最初に起工された要塞です。目的は言うまでもなく、帝都東京を含む京浜地域(東京湾内)の防衛です
最初は観音崎、富津崎、猿島の3ヶ所に砲台が建設されましたが、明治24年に第一海堡が概成すると、富津崎砲台は廃止され、代わりに第一海堡に28センチ榴弾砲12門を装備しました。
さらに明治期に完成、または概成した砲台は以下の通りです。

笹山、夏島、箱崎、波島、米ヶ浜(以上4砲台は横須賀防衛用砲台、大正4年廃止)
走水、花立、三軒屋、千代ヶ崎(東京湾口より侵入してきた艦隊用砲台、湾口付近で撃破するように指向されている)
第二海堡(東京湾内進入を阻止するための砲座で、湾外には指向できない)
これらの砲台には、27センチ加濃砲、28センチ榴弾砲、15センチ加濃砲(砲塔式)等を装備して、東京湾の守りを固めました。

大正年代に入り、三崎砲台、第三海堡の整備が整い、東京湾要塞はほぼ完成しました。しかし、大正12年に起こった関東大震災の結果、各砲台は大損害をこうむりました。特に第二、第三海堡でそれは顕著で、要塞防備はそのままでは使用できないほどの損害を受けています。
その結果、東京湾要塞は再編成が行なわれることとなり、花立(28センチ榴弾砲8門を撤去し、代わりに15センチ加濃砲4門を装備)、剣崎(砲塔式15センチ加濃砲2基装備)、城ヶ崎(砲塔式25センチ加濃砲4基、戦艦安芸主砲の転用)、金谷(15センチ加濃砲4門)、千代ヶ崎(27センチ加濃砲4門を撤去し、代わりに砲塔30センチ加濃砲2基装備、戦艦鹿島主砲の転用)、坂田(30センチ榴弾砲4門)等が、建設、更新されました。
一方、明治期に装備された旧式火砲は順次撤去されていきました。

昭和期に入ると、要塞整理修正計画が実施され、見物砲台砲塔式30センチ連装加濃砲2基が、また大房崎砲台砲塔式15センチ加濃砲4基が装備され、洲崎砲台(10センチ加濃砲4門)と、海軍転属艦砲等を利用した砲台の整備が進み、昭和7年(1932年)に東京湾要塞の整備が終了しました。

また、この時期に重要性の減った第二、第三海堡の装備を全て撤去しています(第二海堡は現在、東京湾を守る灯台島となっています)。

東京湾要塞の特徴として、神奈川側と房総側の2ヶ所に砲台が分かれていたこと、多数の砲台と、多種多様の要塞砲を装備していたことが上げられます。 要塞砲については、純粋な陣地砲の他に野戦砲を砲座に入れて使用していた場合も多く、新型砲を装備していた砲台は、太平洋戦争中に要塞砲を取り上げられて、明治時代の旧式砲を代わりに与えられた場合も多かったようです。




対馬要塞

明治20年(1987年)に整備の始まった要塞です。要塞の目的は対馬海峡の防備、及び朝鮮半島に対する戦略的防衛基地として建設が進みました。
対馬には竹敷要港という拠点があり(これは日本海海戦で艦艇拠点となったところです)、最初はこの周辺に軽野砲を装備した砲台を設けましたが、威力や防衛上の意味(襲い掛かってくるのは、戦艦を並べた大艦隊のはずですから)より、明治末には廃止されています。

対馬要塞が本格的に整備されはじめたのは、日清戦争後の明治33年頃からで、姫神山、根尾28センチ榴弾砲を配備してロシア艦隊に備えました。戦争中はさらに、郷山、樫岳、多切崎にも28センチ砲を配備し、総数は20門となりました。
ただし、28センチ榴弾砲の射程距離は僅か7800メートルで、三浦湾等の対馬の港湾部の防衛戦力となるだけで、対馬海峡を突破する艦隊に対する迎撃戦闘は、ほとんど不可能でした。

ワシントン条約が締結され、建造中止の艦艇や廃棄艦の備砲が要塞砲に転用されることとなり、対馬要塞は対馬海峡系要塞の中核として、大口径砲の整備が決定しました。昭和14年まで営々と建設された砲台は、龍ヶ崎第一、第二砲台(それぞれ、30センチ連装砲塔1基、戦艦摂津主砲の転用)、豊砲台(40センチ連装砲台1基、戦艦土佐搭載用)、豆酸、棹尾崎、海栗島、郷崎、大崎山、西泊、竹崎砲台(それぞれ、15センチ加濃砲4門)が装備され、この結果、40センチ砲2門、30センチ砲4門、15センチ砲22門という重要塞と化しました。
ただし、対空、対潜能力がほとんど皆無であったため、戦争中に海峡防衛にはほとんど寄与することはありませんでした。




津軽(函館)要塞

明治31年より建設が始まった函館要塞は、ロシア艦隊の津軽海峡突破を阻止するための海峡東西出口の制圧を目的としていました。
当初は薬師山、御殿山、千畳敷等に、28センチ榴弾砲を装備していましたが、この射程の短い砲では満足に海峡を制圧することができず、一部を残して明治末には廃止されています。

大正8年の要塞整理計画では30センチ砲級の装備を充実させて、津軽海峡の守りの要となるはずでしたが、計画がころころ変わり、昭和4年の概成時には、大間崎(30センチ連装砲塔1基、巡洋戦艦伊吹主砲の転用)、汐首岬(30センチ榴弾砲4門)という装備になりました。この間、昭和2年に津軽要塞と改名しています。

もっとも海峡を扼すにはあまりにも貧弱な装備のため、昭和15年までに龍飛崎、白神崎にそれぞれ15センチ加濃砲4門を装備させました。

しかし、この要塞も対空、対潜能力はほとんどなく、戦争末期に津軽海峡を潜水艦に突破されたり、目の前で青函連絡船が撃沈されても、何もすることが出来なかったのです。




旅順要塞

日露戦争で、日本軍はようやくのことで旅順要塞を落し、この近代要塞を自軍のものとしました。しかし、既に戦場は遠く北方に去っており、旅順要塞の再整備は、港湾地区(大連地区を含む)、特に港口の防衛に主眼を置いたものとなりました。

日本第二軍が上陸した大連では、当時まだ旅順のロシア艦隊が健在だったこともあり、28センチ榴弾砲16門という、当時としてはなかなか重装備を誇っていました。これは大連港に突入してきたロシア艦隊を迎え撃つために建設されています。

一方、旅順では、陸上方面の火力は当座必要なしとして整備されず、海側の敵艦隊迎撃のための砲台のみ改修されました。
要塞の整備については、基本的にロシア軍の鹵獲砲をそのまま利用する形で整備を実施し(海側の砲台は陸に指向できないものが多く、ほとんど戦闘に参加していません)、黄金山の28センチ臼砲4門、25センチ加濃砲4門や、楊家屯、城頭山、南夾板嘴砲台等の15センチ速射加濃砲10門等が、主な装備でした。

当初、別個に司令部を持っていた、大連と旅順は、明治39年に旅順要塞として統合されましたが、その後、大正、昭和とまったく増強されませんでした。ただ、旧式兵器の廃棄を進めていったのみです。
理由としては、やはり旅順要塞の重要性が上げられます。普通に考えて、旅順まで攻め寄せてくる敵艦隊がもしあったら、その時は本土が蹂躙された後のはずです。それなら、限られた予算の中、本土の要塞を強化したほうが良いという形に落ち着くかと思います。
太平洋戦争中は、旧式の15センチ速射加濃砲や、7センチ速射加濃砲が少数門配備されたのみで、要塞としての価値はほとんどありませんでした。




壱岐要塞

ワシントン条約(1918年)により、当時進んでいた陸軍の要塞建設も、大きな影響を受けることになりました。大正8年(1919年)より始まった要塞整理計画がそれに当たりますが、当時、海軍は廃艦にする戦艦の主砲が多数あり、これを陸軍の要塞主砲として転用することになったのです。
といっても、大型ガントリークレーンのある造船所の桟橋まで自航でき、動力源も自ら持っている海軍主力艦とは異なり、陸軍の要塞は人里離れた辺鄙なところにあるのが普通です(一般人は要塞地域には立ち入り禁止でした)。野戦重砲なら20トンを越えるものなど滅多にありませんが、海軍砲塔は全重量200トンを越えるものすらあります。当然、その設置には海軍の協力が全面的に必要でした。

海軍主砲は敵戦艦を撃破するために設計製造されたため、陸軍の要塞砲などより遥かに威力があります。当然その威力は、日本沿岸のもっとも重要なところに配置されることになりました。要塞整理計画とは、そのことを踏まえた新たな要塞整備要綱だったのです。

壱岐要塞は、その「最も重要な」要塞として、建設が始まりました。転用されたのは45口径40センチ連装砲塔。八八艦隊計画艦に搭載される予定だったものです(これは戦艦土佐の搭載砲と、巡洋戦艦赤城の搭載砲の2説があります。どうも赤城というのが正しいようです)。
昭和13年までに壱岐北部黒崎砲台に装備が完了し、同時に名島、小呂島、渡良、生月の書く砲台に15センチ加濃砲を中心とした中口径火砲を装備して、太平洋戦争を迎えました。

壱岐要塞は対馬要塞と並んで、対馬海峡の制圧が任務でしたが、戦争中はほとんど成すことがありませんでした。島内にあった海軍水測所よりの情報を受けて、15センチ砲で潜水艦の制圧射撃を行なった程度のようです。





太平洋戦争開戦後、戦場がはるか南方だったこともあり、日本本土の沿岸要塞群は海峡を通過するかもしれない敵潜水艦を警戒する程度で、比較的楽な体勢を取っていました。 しかし、戦争がはげしくなるにつれ、本土近海でも潜水艦による被害が急増していきます。特に釜関連絡船や青函連絡船は、いい目標となったため、各要塞は厳重な 警戒を引きましたが、対潜兵器も水中聴音機も装備していない状態では、出来ることはたかが知れていました。
水測兵器については、海軍も重要地点各所に配備していましたが、陸海軍の反目のため、相互の連絡はほとんど全くなかったといってもよいものでした。また、戦場が 本土に近づくにつれ、大型重爆による空襲が懸案となってきましたが、要塞には機関銃が数丁ある程度で、防空能力という点では全く役に立ちませんでした。

こうした中、台湾や沖縄では連合軍の上陸作戦が近づくにつれ、要塞の防備体勢の拡充も急がれることとなりました。しかし、要塞砲兵どころか各野戦軍にすら満足な 砲兵の配属がなく、そのため、沖縄、台湾地域の要塞を中心として、要塞重砲兵の野戦重砲兵連隊化が進みました。これらの重砲兵連隊は現地守備隊の主力砲兵隊とな ります。
昭和20年に入り、まず硫黄島が戦場になりました。ここには「父島要塞」の派遣隊が、「混成第二旅団砲兵隊」 に配属されており、旧式火砲で守備隊火力の一翼を担って奮戦ののち、玉砕しました。
ついで、沖縄に連合軍が上陸します。この地には「中城湾臨時要塞」があり、「重砲兵第七連隊」が配備 されていました。装備は12センチ加農砲2門、三八式野砲12門、高射砲4門で、第五砲兵団(司令官、和田孝助中将)に配属され、 「野戦重砲兵第一連隊」、「野戦重砲兵第二三連隊」、「独立重砲兵第百大隊」、「独立臼砲第一連隊」等と共に、沖縄戦の特徴となった重砲戦の主力となり ます。沖縄での連合軍の損害5万の主な原因となったのは、この重砲陣によるところが大です。沖縄の要塞部隊は6月には玉砕して消滅しました。

その他の要塞砲兵隊で戦場加入したのは、ソ連参戦により、「羅津要塞」「北千島臨時要塞」の占守島派遣隊( 15センチ加農砲2門、10センチ加農砲2門の2個小隊)等がソ連陸上部隊相手に砲火を交えています。一方、内地の各要塞は重要地点を守備していましたが、空襲には その貧弱な防空力により、全く無力な点を暴露しました。また、要塞目前で潜水艦による被害が出ても、対処しようがなく、切歯扼腕するしかありませんでした。

こうして、本土決戦に備えて、その備砲を再配置したり、要塞の強化を計ったりしているうちに終戦をむかえ、日本の要塞の大半はその自慢の巨砲を一発も撃つことなく、 武装解除していったのです。しかし、その頑丈に作られた砲座は簡単に破壊することが出来ず、現在でも函館湾要塞や観音崎要塞の台座は、ピクニックコースの途中で、朽ち果て いる姿を見ることが出来ます。






2年ほど前に書いた「沿岸要塞」の文章を加筆しました。主に、明治期の火砲の変遷と、主要要塞を幾つか具体的に取り上げています。実際、高雄要塞とか中城要塞とか、書いてもいいなと思った要塞もあったんですが、切りがないので今回は見送っています。

要塞というのは皆さん興味があるらしく、この記事を書いた直後から、結構な数の感想をいただけました。ありがたいことです。今から見直すと随分冷や汗ものの記述もあったので、その辺は「こっそりと」直してあります(笑)

トップに飾った黒埼砲台の写真は、夕凪様より以前頂いた貴重な資料を転用しております。壱岐要塞なんて、滅多に行けない場所なので、臨場感溢れる多数の写真をいただいた時は、ひじょうに嬉しかったです。この場を借りて感謝いたします。

要塞といえば、満州国境要塞もいつかやりたい話ですし、東プロイセンのケーニヒスブルグ要塞も書いてみたい話です。余裕を見つけてちまちまと進めていこうかな、と思います(いつも口ばっかですが^^;)

主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
  • 「丸別冊」忘れえぬ戦場(太平洋戦争証言シリーズ18)/潮書房/1992
  • 「丸」昭和48年12月号/潮書房
  • 「日本陸軍機械化部隊総覧」/新人物往来社/1991
  • 「日本の海軍(上)」(航空戦史シリーズ84)/池田清/朝日ソノラマ/1987


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