〜研究作文其の三九〜

陸軍機動輸送中隊概史


日本陸軍には千差万別、色々な種類の部隊がありました。歩兵や砲兵、戦車兵ならまだ名前を見ただけで分かるのですが、工兵や輜重兵については、部隊名だけでは「なんだろう、この部隊は?」という編成がたくさんあります。

今回、簡単にまとめる「機動輸送中隊」もその一つです。ご存知の方は「ああ、あの部隊か」と思われるかも知れませんが、知らない方は「機械化された輸送部隊なんだろうな」ということしか、分からないかと思います。

この「機動輸送中隊」というのは船舶兵に属しており、「機動艇」と呼ばれる輸送用船舶を用いて、戦争末期に決死の輸送を繰り広げた部隊です。太平洋戦争の船舶兵というのは、最も悲惨な戦歴を辿る兵科の一つですが、その中でほとんど名も知られずにひっそりと誕生し、ひっそりと消えていった30個の中隊について、今回はレポートしてみたいと思います。




1.日本陸軍の揚陸戦と機動艇の誕生

1937年8月13日、日中の本格的な戦闘がはじまって一ヶ月が経ったこの日、太沽沖に数隻の船団が碇泊しました。開戦直後に日本軍に占領されていた太沽では、その船団に対する戦闘行動が起こされることはありませんでしたが、折から近づいてくる台風に追い立てられるかのように、船団の1隻の後部甲板のデリックからは、次々と装甲艇が海面に下ろされました。
前部甲板からは高速艇が同じように下ろされ、港内偵察のために太沽湾内に次々と侵入していきました。翌14日朝には、甲板のあちこちに搭載されていた小発動艇(以後、小発)が下ろされるとともに、後部の船尾門を開いて、次々と大発動艇(以後、大発)が発進していきました。それらの舟艇は、何時の間にか周辺海域に集まっていた船団に取り付くと、乗船していた第十師団の将兵を乗せて、太沽港内に進んでいきました。
日本陸軍が秘密裏に建造した上陸用特殊船「神洲丸」の初陣です。

1932年の七了口上陸作戦において、日本軍は敵前上陸作戦の難しさを初めて知り、先鋒兵団の迅速な上陸を行なうために、専用の船舶の開発・保有が必要なことを痛感しました。
この作戦では、当時、上陸用作戦を実施する丁工兵を持っていた数少ない師団である第五師団工兵第5大隊第3中隊を基幹として、臨時派遣工兵隊が編成されました。 そして、やはり丁工兵を持っていた工兵第11大隊の1個小隊や、舟艇操作に慣れている海軍から派遣された兵員等も組み込んで、日本軍初の敵前上陸作戦を敢行したのです。
先行していた装甲艇が煙幕を展張する中、銃弾の飛び交う海岸に次々と大発が進撃していきました。中には被弾して動きが止まってしまう艇もあり、遠浅の海岸への上陸はひじょうな苦労を伴いました。
結局ほとんど損害なく上陸を成功させ、海岸一帯に橋頭堡を築くことができましたが、船舶関係者は現状の装備での上陸作戦が際どいものであることを、実地で知ったのです。

この作戦には、日本工兵が上陸戦の尖兵として投入する装甲艇が数隻参加していましたが、当時の輸送船のデリックの能力では、一部の大型貨物船しか搭載して運用することが出来ず、この作戦のときは揚子江の河口で曳航船に舫綱を繋いで、引っ張って上陸地まで移動するという迂遠な方法を取らざるを得ませんでした。これはやはり大型艇である大発も同様です。
また、通常貨物船のデリックの能力や甲板の配置では、上甲板に搭載した小発を泛水させるのにひじょうな時間がかかり、奇襲的要素の強い上陸作戦の大きな弊害となりました。
搭載した兵員と兵器の速やかな上陸の実施、この時から日本陸軍はこの問題の解答を探して、試行錯誤を繰り広げることとなります。


この結果として建造されたのが、陸軍特殊船「神洲丸」でした。上陸地点まで舟艇を運ぶ苦労が船舶関係者によほど堪えたのか、急速に計画は具体化していきました。1932年暮には基礎設計が形を成し、翌1933年4月8日に播磨造船所で起工され、1934年11月15日に竣工しています。
当然、攻撃兵器である特殊船(今で言うところの揚陸艦)は、機密兵器扱いでした。公式だって発表されていませんでしたが、海軍が仮想敵国としたアメリカと一朝事あらば、陸軍はフィリピンを攻略してアメリカアジア艦隊の根拠地を失わせるという任務があります。フィリピン攻略は完全な渡洋作戦となり、中国戦線以上に迅速な揚陸作業が求められたのです。
機密兵器の宿命として、「神洲丸」は、その生涯で様々な名前を名付けられることになります。建造中は関係者から「GL」と呼ばれ(「神洲」=「GOD LAND」の略字のようです)、作戦参加時は「MT」とか、「龍城」とか呼ばれていました。「神洲丸」と呼ぶことのほうが、むしろ少なかったようです。

建造なった「神洲丸」ですが、その性能は初めて建造した上陸用船舶としては、そこそこの性能だと認識されました。色々な要求を詰め込んだせいもあり、あちこちに不都合は生じていましたが、運用実績的には陸軍船舶関係者が満足の行くものでした。
8000トン前後の大きさの船に、大発だけで29隻、しかも中甲板に搭載された大発は、戦車を搭載したまま船尾門から泛水することが可能なため、上陸作戦のネックとなっていた重装備部隊の迅速な揚陸が可能となりました。上陸地点の制圧援護を行なう装甲艇や、兵員輸送を任ずる小発等も多数搭載しており、これまで上陸地点までの輸送に苦労していた舟艇群をまとまった単位で搭載することが出来るようになっています。
他に上陸作戦時の上空援護用として、航空機を4機搭載できるようになっていましたが、着艦甲板がなく、また陸軍では適当な水上機を保有していなかったことから、実際に艦上から航空機を運用することはありませんでした。この航空機用甲板はのちに改装されて、兵員収納用のスペースとして利用されています。


「神洲丸」の運用実績が好評なことから、陸軍はこの系列の特殊船の建造に突き進んでいくこととなります。2番艦としては、「陸軍空母」として有名な「あきつ丸」が建造され、甲乙丙と3クラスに分かれた特殊船が、太平洋戦争中に続々と竣工し、南方戦線に投入されていきました。
しかし、これらの特殊船は、上陸地点の沖合いに位置し、搭載の上陸用舟艇を用いて迅速な揚陸を行なうというスタイルの船舶です。搭載舟艇を船尾門から直接泛水出来るようになったとは言え、敵地前面で上陸舟艇を海に下ろし、兵員を移り渡らせるといった運用が、今後激しくなっていく戦況に対応できるかという疑問がありました。
より迅速に搭載兵員や装備を上陸させる方法、それには船舶を直接接岸させ、搭載部隊を自力で陸上に移らせる「擱座上陸」があると、船舶関係者が思いつくまで、そう時間はかかりませんでした。
元々、大発や小発といった上陸用舟艇は、海岸線に擱座し、船首扉を開いて搭載している人員兵器を自力で海岸に到達させます。舟艇級の大きさのものを、上陸用舟艇の母船そのものの大きさにスケールアップしてしまえば良い。発想としては、分かりやすく、確実性も高いといえます。

ですが、小さな発動艇と大きな船舶の間には、深い喫水と高い乾舷という、スケール的な問題がありました。擱座して歩板を倒した後、そのまま歩兵が飛び降りれる高さの大発なら、何の問題も生じていませんでしたが、大型船となると船高はどうしても5メートルを越えます。そんな高さから飛び降りれる訳もなく、砂浜に擱座した後、如何に素早く簡単に搭載部隊を揚陸させるかという、技術的問題を解決する必要がありました。

最初に考えられたのは艦首から舷梯を下ろして、そこを兵員に駆け下りさせるというものでした。「五郎丸」という300トンくらいの小さな船で実験を行ないましたが、この方法では歩兵は下ろせても、戦車や砲は下ろせません。
次に、艦首を観音開きの扉とし、擱座後に開放して、そこから兵員・重装備を下ろす方法でした。そこで「よりひめ丸」という526トンの汽船を用いて、1940年に実験を行い、戦車部隊の揚陸に適しているとの判定が出ました。その結果、試作艇を1隻建造することになり、1941年に播磨造船所に発注されました。
大きさとしては、「神洲丸」級の大型艦で擱座上陸をすると、再び自力離岸するのが大変ですし、自重により船底にダメージを受けることも考えられ、結果として構造を相当堅牢化せねばなりません。
そのため、大きさとしては「海上トラック」サイズが適切ではないかと考えられ、試作船の建造も海トラサイズで実施されました。ちなみに「海上トラック」というのは、1000トン未満の貨物船のことで、沿岸航行中心に利用されていましたが、航洋性も備えており、貨物ハッチにそれなりの物件の搭載も可能な船舶の総称です。

「特大汽艇」と名付けられて播磨造船所に発注されたこの試作艇は、以下のような要件が示されていました。

●九七式中戦車を10両搭載できること。
●傾斜1/20までの海岸に擱座揚陸できること。
●速力13ノット以上。
●巻波3メートルまでの海岸に達着できること。

さらに北方海域で運用することを考え、簡易な砕氷能力を与えることも要求されました。こういったスペックをまとめつつ、播磨造船所では設計を進めていきましたが、ここで問題になったのが、兵員と戦車を下ろす時に使用する歩板です。
「よりひめ丸」の方法は、船首に直接歩板を取り付け、パタンと倒してその上を揚陸していく方式でした。ところがこの方法では、歩板の長さは船首高分しか稼ぐことが出来ず、九七式中戦車の揚陸に必要とされた、長さ16メートルの歩板をつけることが出来ません。
そこで考案されたのが、艦首門扉の後ろに箱型の構造体をくっ付け、門扉開放後にそれをスルスルを送り出す方式です。さらにその先にも折り畳んだ歩板が付いていて、それを展長させれば17メートルの長さにまですることになりました(その長さまで伸びるようになったのは、2番艇以降で、1番艇は12メートルでした)。
文章で書くとひじょうに分かりにくいですが、丁度、テレビでやってるロボット選手権なんかで、折りたたみ式のアームを延ばす方法の一つと同じやり方と言えば、分かりやすいかもしれません。


ようやくまとめられた設計を元に、播磨造船所では建造がスタートしました。1941年7月18日に起工、1942年1月26日に進水、1942年4月1日に竣工した本船は、「蛟龍」と命名されました。以下、要目を記述します。

総トン数 641トン
重量トン 651トン
満載排水量 850トン
全長 53.9メートル
全幅 9.0メートル
喫水 3.2メートル
機関 ディーゼル2基 1200馬力
速力(最大) 14.5ノット
速力(通常) 13.0ノット

完成後の1942年9月、三浦半島野比海岸で、船舶兵団主催の研究演習が行なわれました。目的は本船の揚陸作戦の能力を測ることと、本船をタイプシップとした特大汽艇の運用方針を検討するためです。
本演習は成功を収め、その結果として、戦車10台の揚陸を目的とした戦車揚陸艦的な発想から、戦車4台を中心とし、工兵や通信兵等を組み合わせた諸兵科連合を1ユニット乗船させ、上陸作戦第一波に使うことが適当という考えに切り替えられました。
この時に同時に発想されたのが、「海上機動兵団」という上陸作戦や島嶼作戦のための洋上機動戦力で、この機動という単語を取って、特大汽艇も「機動艇」という名前が名付けられたという説があります。ちなみに「機動艇」の陸軍内部呼称は「SS艇」と名付けられました。

本演習の結果、幾つかの問題点も出てきました。既に太平洋戦争が開戦し、太平洋の方々で上陸作戦や輸送作戦が展開されており、その戦訓も頻々と入ってきます。幾つか出た要望としては、(1)艦首扉から戦車を揚陸するとともに、小発を搭載し、同時に歩兵も揚陸させるようにする。(2)船首に迫撃砲を搭載し、上陸地点の制圧砲撃を行なう。(3)対空・対潜兵器の装備。(4)歩板の延長。(5)将来に備え、現在の九七式中戦車を越える20トン級の戦車の揚陸能力を持たせること、等でした。
そして、何より要望されたのが、速力の増加でした。研究のはじまった当時は、既にソロモンの死闘が始まっており、陸軍の増援船団はソロモン諸島において次々と沈められていました。
夜のうちに強襲揚陸を行い、夜明け前に敵制空権内から離脱する、それだけの速力を用兵側から強く求められたのです。

試作艇として建造された1番艇「蛟龍」の設計を要望に沿って改めつつ、2番艇の建造が行なわれました。20トン級戦車を運用できるように船幅を拡張し、小発3隻を上甲板に搭載、船首に中迫撃砲を搭載し、また、1942年末に実施された「蛟龍」による寒冷地試験の結果を踏まえて、対寒装備も備えるようにしました。
しかし、求められた速力30ノットというのは、設計を根本から改める必要があり、また中速ディーゼル以上の機関を大量整備することが難しかった、当時の陸軍船舶行政の関係から、高速力については別個に艦艇を設計することとし、とりあえず、現状の機動艇を整備していくこととしました。

こうしてまとめられて建造された2番艇は、1942年8月8日起工、1943年5月17日進水、1943年7月30日竣工となり、「蟠龍」と名付けられました。この改定型が以後のSS艇の基本設計となります。
「蟠龍」の要目として、

総トン数 730トン
排水量 948トン
全長 63.02メートル
全幅 9.6メートル
喫水 4.0メートル
機関 ディーゼル2基 1200馬力
速力 13.5ノット(計画値、実際には12ノット後半くらいでした。最高速力が15ノット、14ノットとする資料もあります)
兵装 高射砲1門(八八式) 中迫撃砲1門 高射機関砲4門(九八式双連機関砲2基) 重機関銃4丁
搭載力 戦車4両 自動貨車1両 小発3隻(実際は1隻しか搭載していなかったようです) 兵員140名
乗員 40名(計画値、武装を強化した後の乗員は長以下83名でした)

機関は、550馬力のもので馬力が上がるように改良したものを2基搭載した他に、発電用ディーゼル(120馬力)を搭載していましたが、SS建造中に金輪の倉庫で眠っているディーゼル機関が発見され、これを補機として(60馬力)搭載することにしました。もっともこの補機については知らない乗組員も多く、艇が沈んだ後に初めて知ったという乗組員もいるくらいです。

ようやく建造の準備が出来たSS艇ですが、これには海軍も興味を持ち、1943年8月に計画された「第三段戦備計画」にて、艦艇として整備したいと要望した中に、SS艇が合わせて16隻含まれていました。もっとも、これを海軍が建造した形跡はなく、計画造船中に含まれたと思われます。


2番艇「蟠龍」の後、続いて3番艇「海龍」も準備されましたが、この3番艇から戦時標準船の建造線表に折り込まれました。この時、戦時標準船のE型の中に含まれて、「ES船」として建造されています。「ES船」の建造数は合わせて20隻で、「蛟龍」「蟠龍」もそれぞれ「SS1号艇」「SS2号艇」と改名したので、SS艇が合計22隻誕生したことになります。




2.機動輸送中隊の編成と実戦投入

1943年12月28日、「軍令陸甲第112号」により、機動輸送第1〜5中隊と、それを指揮する第1機動輸送隊本部が編成されました。
ようやく実艦がそろい始めたSS艇を運用する船舶部隊です。

もっとも、「蛟龍」「蟠龍」くらいしか、まだ運用可能なSS艇はありませんでしたが、南方の船舶不足はいよいよ深刻になってきており、船舶輸送部隊では機動艇は「新型輸送艇」として、大きな期待がかけられていました。
そこで、まだ中隊すら編成されていない1943年12月2日、「蟠龍」(SS2号艇)は南方での輸送実験を兼ねて、訓練未了のまま出撃することになりました。この艦の乗員が機動輸送第2中隊として編成を完結するのは、遥か洋上を航海中に行なわれています。
ちなみにこの「SS2号艇」は、その後各地を転戦し、出撃した門司に再び帰ってくることはありませんでした。

「SS2号艇」は、途中に台湾・マニラに立ち寄りつつ、1943年12月28日にハルマヘラ島ワシリ湾に到着します。その後、ハルマヘラ島マクノワリに移動し、ここを拠点にモミ湾ヌンホルにピストン輸送を実施しました。
このクラスの船舶を船舶兵のみで運用するのはこれが初めてで、陸兵のみでの洋上機動はひじょうに苦労を重ねたようですが、1944年3月にマニラに帰着するまで大過なく任務をこなし、船舶関係者はSS艇の能力や運用に大きく自信を深めることが出来ました。


この頃、陸軍としては新しい部隊の編成を行なっていました。先述した「海上機動兵団」の最初の部隊となる海上機動第一、第二旅団です。
結論から先にいうと、どちらの部隊もその海上機動の根幹たる「輸送隊」を編成完結させることが出来ず、一旅団はマーシャル諸島の守備隊として細切れに配置されて次々と玉砕し、二旅団ビアク島の救援作戦だった「渾作戦」に参加する際に輸送隊が自前で準備できず、結局海軍艦艇での輸送となっています。その後、ニューギニア西部にて防衛部隊に組み込まれ、ほぼ固定した守備隊として終戦を迎えました。
ただし、海上機動第二旅団輸送隊は、その後パラオにて編成を進め、同地を守備していた第十四師団の海上輸送部隊として使われることになります。
この輸送隊の編成は、本部と4個輸送中隊と1個護衛中隊、それに材料廠からなっていました。装備として、九七式中戦車を搭載することの出来る「特大発」10、「大発」150、「駆逐艇(カロ艇)」10、それに「SS艇」を3隻持つことになっていました。
実際に対魚雷艇用の高速護衛艇である「駆逐艇」(もし本当に配備されていたら、水冷エンジン搭載の1型ということになりますが)も、「SS艇」もこの部隊に配備されたという資料はなく、量産のタイミングや装備支給を考えると、大発と機帆船のみの部隊となっていた可能性が高いようです。

機動大隊3個を基幹とした「海上機動旅団」は、総人員が5000名前後の小ぶりな旅団のため、これだけの輸送隊を編成すれば、自前で短距離洋上機動は可能と考えられますが、当時の船舶部隊、特に大発を運用する船舶工兵の実情を考えると、これだけの部隊装備が編成できたとは疑問です。
この時期、あちこちの戦線から緊急投入の要望が上がり続けていた船舶工兵連隊は、慢性的な兵員不足に陥っており、河川渡河部隊である「戊工兵」の独立工兵連隊を船舶工兵に改編して、急場をしのいでいた状態でした。いくら海上機動専門の部隊とはいえ、それだけの船舶工兵を1部隊のために貼り付けられるような状況ではなかったのです。


「SS艇」を装備する可能性のあったもう一つの部隊はこういった状況であったため、「SS艇」は「機動輸送中隊」のみが専門的に運用することになりました。そして「機動艇」の需要が増えることに対応し、1944年3月30日に機動輸送第6〜15中隊が編成されます。

この時期の機動輸送中隊の編成ですが、中隊長は中尉級の士官で、少尉・大尉の人もいました。この中隊長がそのまま艇長となり、艇の全責任を負うことになります。乗艇している中隊の士官としては、機関長、甲板砲付将校3名、機関将校2名、それに庶務担当の准士官が1人、下士官兵は合わせて75名でした。



1944年3月に、機動輸送中隊は、先般の南方輸送作戦の成功を受けて、いよいよ主力を実戦に投入することとなりました。出撃先はフィリピン地域、この時点では後方地区ですが、急速に守備を強化する必要に迫られていた地域です。

1944年3月28日、第1機動輸送隊本部は、その編成地である宇品を離れて、長躯マニラに進出することになりました。マニラに集結することになっていた機動輸送中隊を指揮するためです。
この時期、南方での輸送作戦に一段落つけた機動輸送第2中隊は、マニラで整備に入っており、小樽−新潟間の輸送任務に駆り出されていた機動輸送第1中隊を除く、機動輸送第3〜5中隊を率いていくことになりました。
この時の機動輸送中隊の編成は以下の通りです。

機動輸送第1中隊 中隊長 中武俊顕中尉 SS1号艇(蛟龍)
機動輸送第2中隊 中隊長 隈崎一雄中尉 SS2号艇(蟠龍)
機動輸送第3中隊 中隊長 望月中尉 SS3号艇(海龍)
機動輸送第4中隊 中隊長 井上政章中尉 SS5号艇
機動輸送第5中隊 中隊長 川井輝臣中尉 SS7号艇

このうち、機動輸送第3中隊は僚艦と離れ、一隻だけ台湾の高雄に先行しました。6月1日に高雄港に入港しているのですが、艦に根本的問題が起こったのか、6月20日に再び内地に帰り、ここで、SB124号艇に乗り換えています。SB艇というのは、SS艇の後に量産された同じ揚陸用機動艇ですが、これについては後述します。

残りの2隻、SS5号艇(第4中隊)SS7号艇(第5中隊)は、第一機動輸送隊本部(長大久保少佐)に率いられ、一路フィリピンを目指すことになりました。しかし、この2隻は、フィリピンにたどり着くまで大変な苦労をすることになります。それは、一緒に行くことを命じられた、ある船舶部隊のためでした。


機動艇が本格量産される前の演習で、実戦を経験してきた用兵側から幾つかの要望が出されたことは前述しました。またガダルカナル島における船舶輸送の経験からも、次々と緊急要望が出されています。その中で、最も強い要望として挙げられていたのは、敵制空権下における行動を可能にする要素としての、求めうる限りの高速力でした。
機動艇の建造については、既に設計を一からやり直している余裕などなく、そのまま量産が開始されましたが、それとは別個に高速輸送船を新たに設計し、船舶部隊に装備することになりました。
1943年に横浜ヨットに対して出された要望は、「南方方面のみの運用、貨物も50トン程度の搭載能力で良いので、30ノット以上を出せる、量産が簡単な高速輸送艇を早急に建造せよ」という、かなり無茶なものでした。

横浜ヨットでは悪戦苦闘を続けながら、1943年9月に試作艇を竣工、耐波性等の指摘された問題点を手直しした、試作2号艇は1944年初頭に完成し、とりあえずの性能を見せたこの舟艇は、緊急増産を開始しました。この輸送艇の名前を「伊号高速艇」と称します(五式高速輸送艇とも呼ばれていたようです)。

最初に量産されたのは、水冷エンジン搭載の「一型」と呼ばれるタイプで、

排水量 95トン
全長 33.0メートル
幅 5.0メートル
機関 水冷式エンジン3基 2400馬力
速力 25ノット
搭載量 50トン
武装 37ミリ舟艇砲×1 20ミリ機関砲×1 爆雷投下機×2
乗員 28名

といった小さな船で、高速力を出すためにV字型の船形をしており、目標の30ノットには大きく及ばない25ノットの速力ながら、前線の緊急要望に答えて量産されたものです。
また、この舟艇を運用するために、1943年12月23日に高速輸送第1大隊が編成されました。本部中隊、材料廠と、第1〜6中隊という編成で、各中隊は伊号高速艇4隻を装備していました(編成上、5隻という説もありますが、各中隊が実際に戦線に投入されたのは4隻編成です)。

まだ、量産艇も揃わないうちに編成された高速輸送第1大隊は、横浜ヨットや日本造船等で竣工した高速艇を受領しながら訓練を続けていましたが、数隻が揃った1944年3月に、1個中隊をフィリピンに派遣するよう命じられました。
この派遣中隊は第6中隊が指定され、宇品に集まった後、マニラに向かうことになりました。ところが、海面の静かな南方での使用を前提とした伊号高速艇はベニヤ板作りとなっています。波の荒い日本近海や台湾近海を、こんな艇で越えることはできません。そこで、同じくフィリピンに向かう、SS5号艇、SS7号艇に曳航してもらうことにしたのです。

こうした話に困惑したのは、機動輸送中隊のほうでした。12月末に中隊を編成し、艇を受領してようやく操作に慣れたところです。近海の航行ならともかく、初めての外洋遠征に、小型艇を曳航(しかも4隻いるので、SS艇1隻で高速艇2隻を曳航)して出撃せよと言われた訳です。
3月28日に宇品を出航したSS5号艇、7号艇の航海は、苦労の連続でした。もちろん曳航作業など、ほとんど練習したこともありませ2し、海軍ならともかく、外洋についてはあまり知識のない陸軍船舶兵が動かしています。
舫綱は絡まる、衝突はするといった具合で、とうとう沖縄付近で高速艇2隻が沈んでしまいました(これは空襲という説がありますが、文献により錯綜しており、正確なところは不明です)。
鹿児島、奄美大島、沖縄、台湾、と少しずつ前進しながら、6月25日にはとうとう魔のバシー海峡を突破、6月29日になんとかマニラにたどり着きました。その間、3ヶ月もかかり、艇の破損や消耗、続発する事故等、ひじょうな苦労をしたということです。


日本海で輸送任務についていた機動輸送第1中隊もマニラに到着し(6月23日)、第1機動輸送隊は1、2、4、5中隊の計4隻のSS艇を指揮下に入れました。この4隻は、次期決戦場と目されたフィリピンの船舶輸送に投入されることとなります。
3ヶ月間も荒波にもまれ、あちこちに被害の出ているSS5号艇(第4中隊)SS7号艇(第5中隊)は、マニラで1ヶ月ほどの整備が必要で、先にSS1号艇(第1中隊)SS2号艇(第2中隊)セブ方面への輸送任務につくことになりました。当時、セブ島には、海軍の根拠地部隊(第33特別根拠地隊。8月5日編成完結)が進出してくる予定であり、他にも海軍の航空基地や陸軍船舶工兵の補充隊が展開していました。
この補充隊というのは、船舶工兵第1野戦補充隊のことで、1942〜43年のソロモン・ニューギニア戦線の激戦がいよいよ盛んな頃、この方面に進出した船舶工兵連隊の補充(要員補充もそうですが、新設連隊を訓練して実戦投入できる錬度に鍛えるというのも任務でした)を引き受けていました。そのうち、南東方面との連絡が途切れ、東南アジアやフィリピンの船舶工兵連隊の補充を行いながら、 セブ島周辺の輸送任務も同時に行なっていた部隊です。
フィリピンに連合軍は押し寄せてきた場合、ルソン島と共に激戦地となることが予想されたレイテ島の後方拠点に当たる場所となるセブ島の整備は、中南部フィリピンの守備体勢確立のために、至急実施する必要があったのです。
ただ、セブ島近海も既に安全な海域ではなくなり、SS2号艇は8月20日に、セブ沖で対潜戦闘を繰り広げています(2号艇自体への被害なし)。長距離機による偵察も頻々と来襲するようになり、いよいよ戦雲が近づいてきていました。

ようやく第4、5中隊の整備が7月終わり頃に終了し、第4中隊(SS5号艇)は9月の一ヶ月間、マニラ海底のケーブル引き上げ作業を実施し、第5中隊(SS7号艇)は、バターン半島西岸のマバヨ(スピック湾の南のビナンガ湾にある漁村)に、舟艇基地を設けるための物件輸送を船舶工兵と共同で実施したり、9〜10月にかけてはバシー海峡へ独立混成第六一旅団を輸送するための緊急展開任務を、高雄−アパリを拠点として数度実施したりしました(この任務は第4中隊も参加予定でしたが、機関故障のため、単独で実施しています)。
尚、この作戦には3月30日に編成された、機動輸送中隊の第二次編成部隊の一つ、機動輸送第7中隊(SS4号艇)も参加しました。この部隊は、行動時期は第5中隊と同じ時期ですが、高雄第1船舶輸送司令部高雄支部の指揮下で第2機動輸送隊本部に所属して活動しており、5中隊の所属する第1機動輸送隊とは指揮系統が異なっています。
フィリピン全土の輸送についての船舶総指揮は、マニラの第3船舶輸送司令部が取っていたため、同じ作戦で一時的に5中隊第1船舶輸送司令部の指揮下に入った可能性はありますが、別個に動いていたと考えるべきでしょう。部隊輸送を行なったバターン・パブヤン諸島の島々の到着地も異なっています。

この輸送任務を完遂した第5中隊(SS7号艇)は、10月4日にアパリを出航し、10月7日にマニラに帰港しました。魔のバシー海峡を4回も行ったり来たりして無事だった5中隊は意気揚揚とマニラに帰ってきましたが、そんな気持ちはマニラ湾の惨々たる有様を見て、一気に沈んでしまいました。9月21日〜24日にマニラは米艦載機の大空襲を受け、大型・小型合わせて50隻近く、20万トンの船舶を撃沈されました。5中隊が帰ってきたのは、そんな空襲の後の、荒れ果てたマニラ湾だったのです。

さらに帰ってきた5中隊を待っていたのは、僚艦たる第2中隊(SS2号艇)の戦没の知らせでした。
9月中旬(12〜14日)に中部フィリピンを襲った米機動部隊は、前述のように9月21〜24日にマニラを空襲し、さらに返す刀で24日に再度中部フィリピンセブ島を襲い、残敵掃討を行なったのです。
先の空襲で無事だった2中隊ですが、セブ島南方のタリサイ沖を退避行動中に艦載機に補足され、何とか艇を沈めずに艦載機の来襲を撃退したものの、中隊長以下28名もの戦死者を出し、艇も航行不能の損害が出たため放棄することとし、残員はセブ島に上陸して所在の船舶部隊の指揮下に入ることとなりました。
その後、2中隊は12月13日にマニラへ帰還し、12月22日というギリギリのタイミングで内地へ再編成のために戻ることとなり、新たな機動艇を配属されて、輸送作戦に従事することとなります。

このSS2号艇は機動輸送中隊初めての被害となりましたが、この後、被害が続出することとなります。マニラ空襲とタイミングが外れて出動した第5中隊はやはり幸運な中隊だったのでしょう。何故なら、この後すぐに台湾も米機動部隊の大空襲を受け、同じ作戦に参加した第7中隊(SS4号艇)は撃沈されてしまったのです。

もっとも、この大空襲は他の機動輸送中隊と無関係な訳ではありませんでした。10月12日に高雄・平安沖で対空戦闘の末、被爆大破してしまった7中隊ですが、この空襲の後、在台湾の航空隊は米機動部隊に対して航空決戦を行ない、大損害と引き換えに米空母11隻の撃沈を報じました。
その結果、米機動部隊は壊滅状態と判断され、これまでルソン島での持久決戦だった方針は、レイテ島に推進しての大決戦となってしまいました。そして、機動輸送中隊はレイテ島への部隊輸送に投入されることとなります。
この直後、この航空戦は「台湾沖航空戦」と大本営に命名されました。

ちなみに7中隊も12月上旬に門司に帰還し、新たな機動艇(SS22号艇)を受領して、再び激闘を繰り広げることとなります。




3.フィリピン輸送作戦と機動輸送中隊の激闘

前項で機動輸送第7中隊が登場したので、ここで第二次編成の機動輸送中隊について見てみましょう。

第二次編成部隊は、1944年3月30日に第6〜15中隊の計10個中隊が編成されました。この中隊達もSS艇が与えられる予定でしたが、幾つかの中隊は別の艇が与えられました。先に少しだけ記述した「SB艇」を装備した中隊が3つ誕生したのです。


1943年夏、ガダルカナル島から撤退をした日本軍でしたが、中北部ソロモンの激戦は依然として続いており、海軍は「東京急行」と連合軍に呼ばれた駆逐艦による強行輸送を繰り広げていました。
本来、高速雷撃戦を主任務とする駆逐艦は、大馬力の機関と兵装に艦のスペースのほとんどを割かれており、輸送できる物件はたかが知れています。しかも、投入された駆逐艦の相当数が未帰還となり、高価で建造にも時間のかかる艦隊型駆逐艦をこのような任務に投入するのは、ひじょうにコスト的にも戦力的にも痛いものでした。

そこから、輸送任務専用の高速輸送艦の建造要求が出され、海軍艦政本部では2種類の艦を建造することとなりました。1つは「特々(特務艦特型)」と呼ばれた、艦尾につけたスロープから舟艇を下ろす方式の艦で、もう1種類は「SB艇」と呼ばれた、艦首扉をパタンと倒して、そこから揚陸部隊を上陸させる擱座型の輸送艦艇です。
この「SB艇」の建造には、1942年に連合軍が北アフリカ上陸作戦を実施した際に投入した、イギリスの「LCT(Mk5)」の図面がドイツから提供され、それを参考にしたそうです。
この「LCT」と呼ばれる艦種は、戦車等の車両を揚陸するための外洋航行能力のない大型上陸用舟艇で、通常はLSD(ドック型揚陸艦)や、LST(戦車揚陸艦)の上部などに搭載されて運用されていました。大発サイズの舟艇なら日本でも運用していましたが、より大きな艦艇についての情報は大きく参考になったと思われます。

色々と要件をまとめて作り上げられた諸元は、

●排水量 870トン
●全長 72.0メートル
●幅 9.1メートル
●機関 タービン1基 2500馬力
●速力 16.0ノット
●搭載物件 九七式中戦車なら9両

というものでした。
こうして、着々と建造を開始した「SB艇」ですが、その頃、陸軍の機動艇建造計画は大きく変更されようとしていました。1944年4月の計画造船計画時に「SS艇」の建造打ち切りが決まったのです。とりあえず建造してみた「SS艇」でしたが、やはり陸軍独自の建造能力には限界があったのでしょう。「SS艇」以外にも多数建造しなければいけない特殊船を抱えていた陸軍としては、これ以上の「SS艇」の単独建造は厳しいものがありました。

そこで、海軍が似たような艦艇を設計・建造するということで、これを計画造船の線表の中に入れ、鋼材・資材は陸軍の負担、設計・建造は海軍の担当で、出来た艦は折半するということが決められました。陸海軍で共通の艦艇を運用することになった訳です。
ちなみにこれらの特務艦ですが、海軍では新たに「輸送艦」という艦種を定めて、「特々」を「一等輸送艦」、「SB」を「二等輸送艦」として命名しました。これまでの運送艦とは異なり、危険海域を強行突入することが定められた艦艇だったので、あえて輸送艦という名前にして従来の運送艦とは分けました。当然、その装備も対空装備が大きく増強されています。

一方の陸軍では、この新たに手に入れた「SB艇」を、従来の「SS艇」同様に機動艇の仲間に入れました。基準排水量870トンというサイズも、投入される任務も、ひじょうに「SS艇」と似通ったいるため、機動輸送中隊で運用させるのが一番手っ取り早いということになった訳です。

ところが、ここで大きな問題が生じます。それは「SB艇」の装備していた主機関が、タービン機関だったということです。タービン機関は高速発揮のためには便利な機関ですが、その代わりディーゼルに比べて燃費が悪いという欠点があります。
海戦をするわけではない陸軍としては、高速力は「あればあるだけいいけど、そんなに重用ではないです」というスタンスだったため、船舶部隊の装備もほとんどディーゼル機関でした。そのため、このような大型艇の高速タービンについての運用知識はほとんどなく、やむなく最初の艇の受領に当たっては、海軍による慣熟指導がしばらく続くこととなります。

どの艇にあたるのかは、資料が不明確で正確なところが分かりませんが、6月15日に機動輸送第11中隊SB101号艇を受領しており、7月6日に機動輸送第13中隊SB102号艇を受領しています。この2艇がどうも初期訓練に使われたようです。
ところが6月15日付で機動輸送第12中隊SB101号艇に乗艦しているという資料があり、資料から類推すると、11、12中隊は同時編成の中隊ですが、6月15日に機動艇に乗り組んだ後、8月17日まで作戦任務についていません。そのため、この2中隊がSB101号艇を用いて慣熟訓練をしていたと考えられます。
一部資料では、SB101号艇は最初の航海の後、海軍に移管されたとありますが、12中隊が同艇を用いて八丈島や硫黄島への輸送作戦を行なっており(1944年10月10日〜14日)、同乗した11中隊は最初の宇品−横浜間の航海の後、一旦大阪に戻り、そこでSB103号艇に乗り換えたものと思われます。

教育については、やはり相当の苦労をしていました。教官そのものがタービンについて知らないのですから、それは想像するに難しくありません。
陸軍船舶教育部にて、機動艇を動かす幹部士官の教育が行なわれていましたが、講習生は陸士30−52期くらいの佐官や尉官で、既に部隊を率いた経験を持った人も多数いました。今更、新兵のように、船舶のイロハを勉強するのも馬鹿らしいということで、あまり身が入ってなかったようです。
この幹部教育にて実施された過程は、運用術、天文航法、地文航法、航海兵器、海上法規、主機、補機、缶、電気等の各項目でした。これらの教育を3ヶ月以下の短い時間で叩きこまなければならなかったこと、実習用の各種資材、特に機関用ディーゼルの教材がない等、教育のためには酷い状況でもありました。

「SS艇」と区別するために百番台の番号がつけられた「SB艇」ですが、このように陸軍側で乗りこなすには随分と苦労をしています。建造も海軍が行なうことになっていたのですが、実際に建造されたのは、大阪造船所や川南工業浦崎造船所、日立向島造船所といった陸軍御用達の造船所でした。もっとも、これらの造船所は海軍の強度管理工場に指定され、指導管理下に置かれました。事実上の分工場扱いです。

また、建造しているのが海軍ということで、海軍艦名も付けられていました。例えば、「SB101号艇」「第162号輸送艦」「SB102号艇」「第163号輸送艦」「SB103号艇」「第116号輸送艦」といった具合です。ちなみにこの海軍艦名は、海軍船籍からは抹消されています。



話を元に戻し、第二期編成で作られた機動輸送中隊は、以下のように乗艇を定めました。この2期までの編成部隊が、フィリピン戦線に投入されて、激しい苦闘を繰り広げることとなります。

機動輸送第6中隊 中隊長 斎藤安雄中尉 SS14号艇
機動輸送第7中隊 中隊長 向次作中尉 SS4号艇(台湾空襲で艇損失後、1945年3月22日にSS22号艇に乗り換え)
機動輸送第8中隊 中隊長 高木誠吾中尉 SS6号艇
機動輸送第9中隊 中隊長 徳永十三中尉 SS10号艇
機動輸送第10中隊 中隊長 古閑行益大尉 SS12号艇
機動輸送第11中隊 中隊長 関谷深中尉 SB103号艇
機動輸送第12中隊 中隊長 平佐守中尉 SB101号艇
機動輸送第13中隊 中隊長 牛久保直次中尉 SB102号艇
機動輸送第14中隊 中隊長 香山祐三朗少佐 SS8号艇
機動輸送第15中隊 中隊長 小林安雄大尉 SS9号艇

これらの艦は、まだ艦に慣れていない「SB艇」の3個中隊と、鹿児島湾にて上陸演習に参加することになった第6中隊を除いて、全てフィリピン方面に投入されました。ちなみに第6中隊は演習後、乗艇を船舶練習部に引渡し、代わりにSS16号艇を受領したようです。

さすがに後発の10個中隊を第1機動輸送隊本部だけで全て統括するのは難しい為、1944年8月3日に第2機動輸送隊本部櫛ヶ浜で編成されました。ちなみにこの櫛ヶ浜ですが、1943年12月に最初の5個中隊が編成された際に、同時に機動輸送補充隊が編成され、以後、機動輸送中隊の編成と補充要員の育成に当たることになる、機動艇部隊の拠点の一つとなります。
ちなみに櫛ヶ浜の訓練拠点が出来たのは1944年の5月で、それまでは陸軍検疫所のある広島県似島にバラック兵舎を立てて訓練をしていました。



編成なった第2機動輸送隊本部8、9、10中隊を指揮下に入れ、まずは沖縄−九州間の輸送に従事しました。ただ、10中隊は既にマニラに進出し、現地で輸送任務に当たっていた為、残りの8、9中隊を率いて輸送業務に当たっていたものと思われます。
8月24日に那覇に到着した第2機動輸送隊本部は、この時期、南西方面海域で活動していた7中隊(SS4号艇)14中隊(SS8号艇)も指揮下に入れ、高雄を拠点に活動を続けることになりました。当時、7中隊は台湾−沖縄間の輸送業務に、14中隊は南大東島に対する補給任務を実施しており、移動先にいた中隊を次々と指揮下に加えた形となります。

台湾に移動した第2機動輸送隊本部は、前述の独立混成第六一旅団の輸送指揮や、台湾近海の輸送業務に当たっていましたが、そこで米機動部隊の大空襲に遭い、第7中隊が乗艇を大破されることとなってしまいました。


一方の既にマニラにいた第1機動輸送隊本部ですが、陸上で輸送作戦の指揮を取りつつも、この頃の戦局悪化を肌で感じるようになり始めました。それは所在していたマニラに対する徹底的な艦載機の空襲です。
レイテ島に連合軍が上陸作戦を開始する直前の10月15日、上陸後の11月13〜15日とマニラは次々と艦載機の来襲を受け、所在の艦艇・船舶に大きな被害を受けました。レイテ海戦から帰ってきた重巡洋艦「那智」をはじめ、この方面に残った大型船舶が「根こそぎ」と称してよいほど叩かれています。

幸いなことにこの空襲では機動艇は無事で、各艇とも輸送作戦で傷ついた艦艇の整備や、フィリピン中部に対する輸送作戦に従事し続けることとなります。

その中で特記できる輸送作戦として、4中隊(SS5号艇)が、10月20日に既に連合軍が上陸しているレイテ島に対して、第三五軍通信隊(電信第27連隊)の強行輸送に成功したことが挙げられます。この輸送作戦は、この後に死闘として語られる「多号作戦」とは切り離されて実施された、陸軍の独自輸送にて輸送されています。
連合軍上陸の矢面に立っていたのは第十六師団ですが、激戦に巻き込まれ、後方にいた現地軍司令部(第三五軍)との連絡も途絶に近い状況でした。そのため、軍直轄の通信隊を現地に派遣し、通信体制を確保しようというものです。
10月30日にマニラを出航した4中隊は、31日にオルモックに到着し、無事に乗船していた電信連隊を揚陸して帰路につきました。帰りがけにマバステ島の沖で米軍機に発見され空襲を受けましたが、なんとか切り抜けてマニラに帰還しています。マニラについた4中隊は、休む間もなく新たな輸送任務に付くために台湾に向かいました。

また、5中隊もレイテ周辺の緊急輸送に駆り出されていました。レイテ島の北にあるサマール島とルソン島の間にサンベルナルジノ海峡があります。10月25日にレイテに向かう第一遊撃部隊が突破する海峡ですが、その海峡にはカプル島ダルピリ島という小さめに島が二つあります。この2島に小規模の部隊を派遣し、重用なこの海域の情報収集と守備に当たらせる為の輸送を行なうことになりました。
マニラを出発した5中隊は途中のルソン島パカサオで兵員物資を搭載し、10月21〜24日にこの2島と対岸のサマール島アレンに部隊を輸送し、空襲を排除しながら25日に帰路につきます。帰りがけにルソン島の南の端のブーランに前進して輸送指揮を取っていた第1機動輸送隊本部と航空隊要員を収容し、あちこちの島に遭難して漂着した機帆船乗り組み員を救助しながら、マニラに向かいました。
その帰りがけにマニラの南にあるサンチャゴ岬SS7号艇は座礁してしまいました。船体は完全に岩礁に乗り上げ、右のスクリューは岩礁に接触して完全に砕け散りました。搭載していた重量物を全て放棄し、搭載の大発に錨を載せて、沖合いまで運んで投錨させ、擱座上陸時の離岸と同じように錨を巻き上げて移動させる手段を試みました。
苦闘7時間、ようやく離礁に成功し、左舷の推進機のみでなんとかマニラに入港することが出来ました(28日)。出航は14日の夕刻ですから、実に15日間に渡り、制空権のない中を輸送作戦に邁進したこととなります。



一方の第2機動輸送隊本部ですが、10月にバタン・バブヤン諸島独立混成第六一旅団を輸送する任務を実施していましたが、11月5日(11月10日という説もあり)に新たな命令を受けました。海軍の第1輸送戦隊の指揮下に入り、独立混成第六八旅団の輸送作戦に参加せよ、というものです。

この第1輸送戦隊というのは、9月25日付で編成された海軍の新しい戦隊です。輸送艦という新艦種が誕生し、その数隻を集めて強行輸送作戦を遂行するために編成されました。
この時編入された輸送艦は輸送艦第9号、10号、111号、113号、114号、135号、136号、139号、140号、159号、160号が編入されています。他にも112号、142号等も編入されていたようです。
このうち9号、10号輸送艦以外は、全て二等輸送艦で、フィリピン輸送作戦には海軍のSB艇が根こそぎかき集められた感がありました。当然、消耗も激しく、135号、136号輸送艦は10月25日の空襲によりラボック湾で撃沈されて、この作戦には参加できませんでした。

この第1輸送戦隊の指揮下に入った第2機動輸送隊本部ですが、続々と機動艇が集結してきました。7中隊(SS4号艇)は台湾空襲で撃沈されましたが、他にも8月に4中隊(SS5号艇)14中隊(SS8号艇)が、11月4日にも15中隊(SS9号艇)17中隊(SS11号艇)が配属されました。このうち17中隊は、第三次編成で編成された15個の中隊のうちの最初の中隊ですが、この第三次編成中隊については後述します。

こうして、独立混成第六八旅団を輸送することになった第2機動輸送隊本部は、4、8、9、10、14、15、17中隊の計7中隊を指揮することになり、第1機動輸送隊本部が輸送作戦に使っていた5中隊と、マニラで整備中だった1中隊を除く、運用可能な全中隊を指揮下に入れたことになりました。


独立混成第六八旅団の輸送船舶は五次に分かれていました。前述の第一輸送戦隊が1、2、5次の輸送を担当し、3、4次の輸送を第2機動輸送隊が担当することとなりました。
輸送作戦では、11月1〜5日の間に基隆を出航してマニラに向かう予定でしたが、第2機動輸送隊各艇の基隆集合が間に合わず、乗艇予定の部隊は已む無く高雄に移動し、ここで乗艇することとなりました。乗艇した部隊は以下の通りです。

旅団司令部
歩兵第126連隊第二大隊
旅団砲兵隊第二大隊

他通信隊等。

第2機動輸送隊本部は隊長以下、本部人員の半数を乗艇させ、残りは台湾に残置させました。ようやくのことで11月13日に高雄を出航、そのまま一路、マニラへと南下しました(12日という説もある)。

恐れていた敵潜水艦の攻撃も受けず、ルソン島北サンフェルナンド沖に19日に到達しましたが、ここでフィリピン近海を遊弋していた米機動部隊搭載機の攻撃を受けます。
機動艇はそれぞれ海岸に緊急擱座し、乗艇部隊の揚陸を試みましたが、船団の中央に位置していたSS8号艇(機動輸送第14中隊)が艦爆に補足され、2波目に投下された爆弾のうち一発が右舷後甲板に直撃、煙突を粉砕し、機関室を大破しました。
急速に艫が上がり、左舷に傾きつつあったSS8号艇には、歩兵第126連隊の連隊本部と歩兵砲中隊・速射砲中隊等が乗艇しており、艇長室には軍旗も安置されていました。

約2分で轟沈したSS8号艇は、海岸線に近いこともあり、ほとんどの乗員・搭乗者は海岸に上陸することが出来ました(連隊長や軍旗も上陸しています)。もっとも、乗員でも18名の戦死者が出ており、乗艇を失った機動輸送第14中隊は、12月3日に吉備津丸で内地へ帰還し、のちに新たな乗艇(SS18号艇)を支給されることになります。

空襲終了後、残った中隊は、上陸させた部隊を再び乗艇させて、マニラへと向かいました。



さて、空襲時の緊急揚陸でしたが、ここで機動艇の部隊揚陸作業が出てきたので、ちょっと機動艇の揚陸方法を解説しましょう。
機動艇の揚陸は時間をかけない急速揚陸にその真骨頂があります。実際の運用手順より見て見ますと、

(1)バラストに注水し、艇の重心を後ろに移し、艇首を軽くして、海岸線150メートルのところに艇尾錨を下ろす。
(2)前扉を開放し、歩板を繰り出して海岸に着達。
(3)装備火砲で援護射撃をしながら、艇内で始動待機中の戦車を最初に上陸させる。
(4)続いて、歩兵等の徒歩部隊、後方に搭載していた自動貨車・火砲を揚陸し、錨を巻き上げつつ、全速後退で海岸より離岸する。

慣れた艇だと、この間は30分とかかりません。デリックを利用した通常の輸送船の揚陸作業が、半日やそれ以上かかることと比較すると、機動艇を始めとした揚陸戦艇の揚陸の迅速さがわかるかと思います。



ちょっと話がそれましたが、沈没したSS8号艇以外の各艇は、20日に無事にマニラに到着しました。この時期のマニラは頻繁に空襲を受けており、湾内には沈船があちこちある凄惨な状況でしたが、レイテ決戦の出撃基地ということもあり、陸海軍の船舶が頻繁に出入りして活況を呈していました。
第2機動輸送隊が率いた本隊の他にも、パラパラと後発してきた機動艇もあり、指揮下の各中隊が揃ったのが11月28〜29日頃で、集まりつつある機動艇を掌握しつつ、輸送隊はいよいよ一大作戦を決行することとなります。
レイテ決戦を支援するための輸送作戦、「多号作戦」への機動艇の参加が命じられたのです。

もともと、敵前上陸を前提として建造されていた機動艇ですから、この作戦に参加が命じられるのは当然な訳ですが、この時期のレイテ輸送作戦は言語を絶する厳しさとなっていました。
「多号作戦」が開始された当初は、大型輸送船による揚陸作戦等も成功していましたが、その後は輸送船どころか、護衛の水雷戦隊までもが全滅する状況で、既に鈍足な艦艇ではレイテ島に近づくことすら出来ませんでした。
こんな中、第2機動輸送隊「多号輸送第七次作戦」への参加が命じられます。この「七次作戦」は、陸軍の機動艇が主力として参加した最初で最後の「多号作戦」となります。


11月27日、10中隊(12号艇)17中隊(11号艇)の2艇は、遊撃第1中隊、第57野戦道路隊と弾薬・衛生材料を搭載し、マニラを出撃しました。この遊撃第1中隊というのは、台湾の高砂族出身者を基幹要員として編成された遊撃戦部隊で、本来はブラウエン飛行場に降下する予定でしたが(和号作戦)、積み残されてしまったために、已む無く船舶輸送でレイテに向かうことになったものです。
この2艇の護衛には、海軍の駆潜艇第20号がついていました。

翌11月28日、第2機動輸送隊隊長中園少佐自らが指揮し、4中隊(5号艇)9中隊(10号艇)の2艇が、残りの人員資材を搭載し、前日の2艇を追いかけて出撃していきました。

この2隊は、はっきりと明暗が分かれることとなります。


最初の10、17中隊はマスバテ島西岸、セブ島北岸を経由して、特に異常なく12月1日にオルモック湾に突入、駆潜艇の援護のもと、オルモック東南岸のイピルに搭載物件を揚陸し、無事にマニラまで帰還しました。損害もなく、この時期のレイテ輸送作戦としては僥倖に近い成功でした。


一方の4、9中隊ですが、出航した翌日の30日、マバステ島のカタエンガン沖で米機に補足され、大空襲を受けることとなりました。その中で、4中隊(SS5号艇)は激しい防空戦の末、とうとう撃沈されてしまいます。
生き残りは泳いでマバステ島カタエンガンに上陸しましたが、上陸できたものは僅か55名でした。4中隊は、その後のレイテ決戦に船舶部隊が全力を投入したために帰還させる船舶も用意できず、已む無くマバステ島の守備隊に合流します。その後、1945年3月3日に連合軍がマバステ島に上陸し、その陸戦に巻き込まれることとなりました。マバステ島のデマサロン西方に移動し、終戦まで戦闘を継続しますが、ほとんどの中隊員が戦死し、生還できたのは極僅かです。

残った9中隊ですが、マバステ島からセブ島に向かう中間地点で、今度は魚雷艇と駆逐艦、合わせて6隻に襲われました。衆寡敵せず、SS10号艇は撃沈され、生存者はセブ島に漂着しましたが僅か15名となり、その後のセブ島での陸戦に巻き込まれ、大部分は戦死しました。乗艇指揮を取っていた機動輸送隊指揮官も漂流中に救助されましたが、その後、ネグロス島で終戦を迎えました。この結果、第2機動輸送隊本部は指揮官不在という状況となってしまいます。


上記の作戦は「多号輸送第七次第一梯団」と呼ばれる輸送作戦でしたが、「第一梯団」とあるということは、当然第二以降もあります。
防衛庁の「戦史叢書」では、「第二梯団」SS10号艇、14号艇が参加したことになっていますが、SS10号艇は前述の通り、水上艦艇に襲われて沈没しており、SS14号艇はまだフィリピン海域には進出してきていません。

確実に参加したと類推できる輸送梯団は、「第七次第六梯団」です。この船団には、第5中隊(SS7号艇)第8中隊(SS6号艇)第15中隊(SS9号艇)の3艇が参加しました。

12月5日の0時過ぎに、マニラ湾外で集結した3艇は、先行している「第八次船団」の後方をついていくかのように、レイテ島に向けて南下を始めました。「第八次船団」はあちこちの輸送船をかき集め、やはり稼動の駆逐艦を護衛にくっ付けた、この時期のフィリピンで編成できる最良の輸送船団で、搭載されていたのは、先ごろ機動艇で運んできた独立混成第六八旅団でした。
3艇が搭載しているのは先行した旅団の残人員と物資で、目的地はレイテ島西岸のサンイシドロです。既にオルモックは連合軍で充満しており、とても到達できる港湾ではありませんでした。已む無く、ほとんど港湾設備はないですが、まずは部隊を無事にレイテに届けること、ということを目的にサンイシドロに揚陸点が変更されました。


この独立混成第六八旅団の上陸作戦は凄惨なものとなりました。レイテ作戦の終盤に差し掛かってきたということもあり、上陸した連合軍はレイテ島にいる第三五軍に止めを刺すべく、いよいよ全力を挙げての攻勢へと転換します。そんな中、新規兵団の上陸など許せるわけもなく、輸送船団がレイテ島に近づいているという報告を受けるとともに、航空隊を出撃させて、海上でこの部隊の息の根を止めようとしました。

第八次船団はかき集めた5隻の輸送船(第11号輸送艦も加わっていました)で編成されており、当初はオルモックに向かう予定でしたが、進撃中にオルモックに連合軍が上陸中との連絡を受け、レイテ島西岸のサンイシドロに揚陸点を変更しました。7日朝にサンイシドロに突入したのですが、すぐに連続した空襲を受けて、次々と輸送船は火を噴いていきます。
正午過ぎには全船轟沈という結果となり、乗船部隊も大きな損害を受けながら、何とかサンイシドロに上陸しました。護衛についていた駆逐艦3隻もマニラに帰還は出来ましたが、それぞれ何らかの損害を受けていました。



その後ろをついて行ったSS艇の3艇も、やはり連合軍の航空機に補足されることになります。途中まで「第八次船団」にくっ付いていって、レイテ西岸で分離、この3艇だけ西海岸に揚陸の予定でしたが、本隊も西海岸に上陸をすることになったので、結局最後まで一緒にいることになりました。
12月5日12時過ぎにマニラ湾を出撃した機動輸送中隊は、機数は僅かながらも友軍機の直援を受けつつ、その日は無事にやり過ごすことができました。しかし、6日5時頃に第8中隊(SS6号艇)が機関故障のため後落し(船団速度を落として、6号艇を同行させるのは、自殺行為でした)、その日の朝から連続して敵機に接触されつつも、なんとかレイテ西岸を目指します。
7日朝、ようやくサンイシドロまであと30海里というところまで接近したとき、B24やP−38の編隊に補足されました。船団司令の駆逐艦からは「隊列解除、各艦艇は付近に擱座すべし」という輸送指揮官命令が発令されました。ここからは各船とも単独行動をとり、もっとも最善の方法で、搭載部隊を揚陸せよということです。

この作戦に参加した3艇の個々の動きを見ていくと、



第8中隊(SS6号艇)
6日朝に落伍後、7日11時頃になんとかサンイシドロ北方のパロンボンにたどり着きますが、ここで空襲に遭いました。第一波は何とか撃退したのですが、15時半頃、パロンボン北方5キロ地点にて第二波の空襲に遭い、直撃弾や海岸線を見張っていたゲリラからの攻撃を受け、艇は大破炎上し、乗船していた独立混成第六八旅団の200名と、乗員はなんとか付近の海岸に上陸しました。乗員の戦死13、重傷4の損害が出ています。

付近に滞在していた中隊主力は、12月23日に機帆船でセブ島に後退することが出来ましたが、そこでセブ島防衛隊(陸軍船舶廠服部部隊)に編入され、セブ島の陸戦に参加することになります。
1945年3月25日に米軍がセブ島に上陸し、4月中旬に守備陣地を喪失した後、密林内に退避しましたが、残党狩りと栄養失調のために、次々と戦死していきました(中隊長の高木中尉も7月12日に戦死しています)。
生存者は、終戦とともにセブ島の他の部隊同様、米軍に収容され抑留生活に入りました。



第15中隊(SS9号艇)
この中隊は元々レイテ西岸のパロンボンに揚陸命令が出ていたため、途中で単艦でパロンボンに向かいます。12月6日にマスバテ島沖で空襲に遭いますが、何とか撃退し、サンイシドロ湾に到着しました。しかしここで二波目の空襲を受けて、艇は被弾炎上しましたが、燃え盛る艇を何とか海岸線に擱座させ、搭載人員の揚陸には成功しました(上陸地点はサンイシドロ西方3キロのアレバロ海岸)。

艇を失った中隊は、しばらくこの付近の海岸に待機していましたが、12月31日に救援の船が来てセブ島に移動することが出来ました。この後、さらにネグロス島に移動しますが、ここで米軍の上陸に遭遇します。激しい陸戦で次々と戦死者を出し、終戦まで生き残った将兵は僅かでした。



第5中隊(SS7号艇)
途中で分離した2艇とは異なり、最後まで船団と一緒にサンイシドロに向かいました。僚艦が次々と直撃を受けて炎上するのを見つつ、7日の揚陸戦ではサンイシドロに擱座上陸戦を刊行しましたが、船団の中で一番小さな輸送艦船だったのが幸いし、7号艇に向かってくる空襲は数機ずつの比較的軽いものでした。搭載火器の全力を挙げて防空戦を繰り広げつつ、サンイシドロ海岸から少しだけ離れたところに着岸し、急速に揚陸作業を実施しました。

遠浅の海岸だったため、歩板を目一杯伸ばしても岸には届きませんでしたが、物資の揚陸には充分役に立ったようです。また搭載の小発も利用しての全力揚陸でした。激しい空襲に晒されながらも12時半に上陸部隊に見守られながら離岸し、凡そ3時間の揚陸戦を終えてマニラへの帰路につきました。あれだけの空襲に遭いながら、果敢な防空戦の結果、損害はなく、12月8日にマニラに入港しています。この作戦で無傷で帰還したのは、本艇一隻だけでした。


この後も「多号作戦」は第九次が海軍艦艇を利用して実施されますが、十次以降は中止されました。それはミンドロ島に連合軍が上陸したこと、そして何よりいよいよ連合軍がルソン島に上陸する気配を見せ始めたからです。既に勝負があったレイテ島に増援部隊を出す余力は、陸上部隊にはありませんでしたし、何より、輸送船舶が底を尽いていました。
結局、機動輸送中隊がレイテに揚陸作戦を行なったのは、この七次の1回だけとなっています。




4.フィリピンからの後退と日本近海作戦

「多号作戦」を始めとするレイテ方面の輸送作戦で、機動輸送中隊も大きく消耗しました。この期間中にレイテ海域で撃沈された機動艇は、SS2号艇(第2中隊)SS5号艇(第4中隊)SS6号艇(第8中隊)SS9号艇(第15中隊)SS10号艇(第9中隊)の5艇で、他に第14中隊SS8号艇が台湾からマニラに向かう途中に沈んでいるので、計6艇が失われたことになります。
残った各中隊も、酷使により艇がガタガタになっていましたが、この後もルソン島の沿岸輸送に狩り出され続けます。


レイテの死闘から帰ってこれた艇が整備に勤しんでいた12月18日、機動輸送第5中隊(SS7号艇)機動輸送第10中隊(SS12号艇)機動輸送第17中隊(SS11号艇)の3中隊はバターン半島のオロンガポに遭難者救助に向かうように命じられました。
オロンガポはマニラの西にあるバターン半島の西海岸、スピック湾の付け根にある街です。この沖合いはマニラから北上する船団が必ず通らなければならない海域のため、航空機や潜水艦が網を張っており、多数の艦船が撃沈されていました。それらの艦船に乗船していた多数の人員がここに漂着し、救助を待っていたのです。

7号艇を先頭に、11号艇12号艇の順で一列縦隊を組み、粛々とマニラ湾外へと向かいました。既に米軍がルソン島上陸を狙っていた時期で、マニラ湾外に出ると完全に制海権を喪失しており、全艇厳戒態勢のままオロンガポに到着、急いで遭難者を乗船させ、1000人を 越える人数をマニラへ帰すことが出来ました。
この時期の機動艇の輸送作戦としては、運に助けられたとはいえ、ひじょうな成功といえます。



この作戦の直後、マニラに集まっていた輸送船舶に新たな作戦が命じられました。急いでマニラを出航し、台湾やサイゴンに向かい、その後はルソン島に対する突破輸送作戦を実施するように指令が下ったのです。
もはやルソン島への連合軍の上陸が避けられず、またマニラに艦船を置いておいても、早晩空襲で全滅することが確実なため、少しでも船舶の損害を減らすという意味も含まれていました。この退避船舶の中に、機動輸送中隊も含まれていました。
12月22日に、3個中隊の機動艇がマニラを出航しました。どの艇も内地帰還員を満載した状態です。

機動輸送第3中隊はフィリピン戦に参加した機動輸送中隊で、一番最初に投入された「SB艇」中隊で、これは元々乗っていた「海龍(SS3号艇)」を一旦降りて、その後に支給されたSB124号艇に乗ってフィリピンに参戦していました。レイテ戦中はミンドロ島付近に進出して、輸送作戦を実施していたようですが、正確なところを書いた文献がなく、不明な状態です。
単艦で出航したSB124号艇は、道中無事に1月18日に門司に帰還することができました。

機動輸送第5中隊(SS7号艇)機動輸送第10中隊(SS12号艇)は連れ立ってマニラを出航しました。
深夜にマニラを出航したのですが、出航直後に両艇ともバターン半島でいきなり座礁し、なんとか離礁した犀に7号艇の左舷のスクリューに錨鎖が巻きついて動かなくなり、近くの湾に潜みながら23日は必死の修理を行いました。
翌24日はルソン島北端で暴風雨に遭遇し、船団を組んでいた両艇はバラバラになってしまいました。両艇ともあちこちに不調子な部分を抱えながらも、26日になんとか台湾の高雄に入港しています。


上記3艇は何とか内地までたどり着くことが出来ましたが、後発の機動艇は前者ほどの運がありませんでした。
22日に3個中隊がマニラを脱出した頃、機動輸送第1中隊(SS1号艇)機動輸送第17中隊(SS11号艇)はそれぞれ北サンフェルナンドへの軍需物資輸送任務についていたり、整備を行なっていたりしたので、同行することが出来ませんでした。

この2艇がマニラを出航したのは1945年の1月1日で、まずは北サンフェルナンドへ向かいましたが、1月2日にリンガエン湾の上陸地掃討を行なっていた米艦載機に補足され、手前のボリナオ岬沖で数十機の空襲に遭遇し、僚艇とも相次いで轟沈しました。
戦死、行方不明を多数出しながらも両中隊とも付近の海岸に上陸し、それぞれルソン島の北部拠点であるバギオに向かうことになります。しかし、その数日後の1月7日にリンガエン湾に連合軍が大挙して上陸したのです。追い立てられるように戦闘を避けてバギオに向かいましたが、相次いで倒れるものが続出し、1中隊は北部山中のツゲガラオ周辺で、17中隊はタルラックで終戦を迎えることになります。17中隊は生還者の数が判明していますが、僅か4名となっていました。


また、同じ時期に1個中隊が残留人員を救出するためにフィリピンに派遣されました。機動輸送第13中隊(SB102号艇)で、これまで櫛ヶ浜や宇品で訓練や近海輸送に従事していましたが、海没船舶が多数出て、遭難者が滞留しているサンフェルナンドに派遣されています。
11月28日に宇品を出航した同中隊は、途中の空襲や潜水艦攻撃をかわしながら、ようやく12月29日にサンフェルナンドに入港できましたが、その手前のリンガエン湾で米中爆の空襲に遭い、艇にかなりの被害を出しました。幸いにも航行には異常がなかったため、1月1日に多数の乗船者を載せて、リンガエン湾を出航、1月3日に高雄に入港しています。
この救出は、時期的にも最後のルソン救出船の1隻となりました。



フィリピン作戦に投入された機動輸送中隊は合計で12個中隊、そのうち日本本土に再び帰還できたのは、たった4艇でした。残りの中隊は全て艇を撃沈されていますが、2中隊14中隊は生存した人員のみ何とか日本に帰還し、再び乗艇を与えられて戦線に復帰しています。また2つの機動輸送中隊本部も本隊は内地に帰還し、本土周辺の輸送作戦に再び従事することになりました。




台湾に帰ることが出来た機動輸送中隊は、再びルソン島に向かう予定でした。しかし熾烈な戦闘の中に長い期間いたせいもあり、各艇ともあちこちに痛みが生じ、入渠修理が必要な状態になっていました。また、機動輸送第16中隊(SS14号艇)は機動艇の増援としてフィリピンに向かう予定となっていましたが、12月中旬に台湾を出航した段階で、米機動部隊接近の報を受け、已む無く台湾に帰還、フィリピンに進出することは出来ませんでした。同中隊はこの後、しばらく台湾での輸送作戦を実施することになります。

フィリピンから帰ってきた機動艇たちは、台湾や膨鼓島への輸送作戦に参加したりしながら、1945年1月〜3月の間に日本本土に帰還しました。この時点で、9艇を失った機動輸送中隊は、戦力を半減させていることになりますが、それらの補充を兼ねた新設の第三次編成部隊が続々と戦場に投入されていくことになります。


第三次編成中隊は、1944年9月28日に軍令陸甲第90号により編成されました。それまで編成された機動輸送中隊が想像以上に活躍しており、近距離輸送作戦に用いるには便利この上ない部隊として、さらなる編成が望まれたのです。
三次編成で編成完結した中隊は16〜30の計15個中隊で、機動艇もSS艇とSB艇に分かれて編成されました。前述したように機動艇の建造がSB艇へと切り替わり、SS艇は22号を持って打ち止めとなったためです。三次編成中隊のうち、16〜20中隊がSS艇装備で、のこりの10個中隊がSB艇を装備しています。
以下に三次編成の各中隊を挙げます。

機動輸送第16中隊 中隊長 渡辺中尉(2代目 永井寛次中尉) SS12号艇
機動輸送第17中隊 中隊長 海老沢令治中尉 SS11号艇
機動輸送第18中隊 中隊長 伊藤重治大尉 SS21号艇
機動輸送第19中隊 中隊長 西山定大尉 SS19号艇
機動輸送第20中隊 中隊長 津久井紀晴中尉 SS20号艇
機動輸送第21中隊 中隊長 城山正三大尉 SB105号艇
機動輸送第22中隊 中隊長 岩城彪二中尉 SB108号艇
機動輸送第23中隊 中隊長 川田四郎中尉 SB109号艇
機動輸送第24中隊 中隊長 飯塚勝中尉 SB110号艇
機動輸送第25中隊 中隊長 小林多四郎大尉 SB111号艇
機動輸送第26中隊 中隊長 石川与吉大尉 SB113号艇
機動輸送第27中隊 中隊長 中山勝太郎中尉 SB114号艇
機動輸送第28中隊 中隊長 佐藤矢中尉 SB119号艇
機動輸送第29中隊 中隊長 山田貞次郎中尉 SB116号艇
機動輸送第30中隊 中隊長 今野三朗大尉 SB117号艇


これらの中隊は、機動輸送補充隊のある櫛ヶ浜で編成されて、日本本土や台湾、一部の艇はフィリピンにまで、あちこちに派遣されていきます。この時期にフィリピンに投入された機動輸送中隊は、苛烈な戦場で次々と消耗しており、緊急に後続部隊を派遣する必要があったのです。しかし、三次編成部隊でフィリピン戦に投入されたのは第17中隊のみでした。他の中隊は派遣準備をしているもののありましたが、ルソン島に連合軍が上陸し、とても機動艇が進出できる状態ではなくなってしまったためです。
結局これらの三次編成中隊は、台湾や沖縄、日本本土を中心に活動することになります。



1945年に入るとフィリピンへの輸送作戦が終了し、機動輸送中隊は主力を台湾に集めて台湾と沖縄の防備強化に躍起になっていました。1月に台湾方面で輸送作戦をしていた中隊は、機動輸送第5中隊(SS7号艇)機動輸送第6中隊(SS14号艇)機動輸送第11中隊(SB103号艇)機動輸送第13中隊(SB102号艇)機動輸送第16中隊(SS12号艇)機動輸送第21中隊(SB105号艇)機動輸送第22中隊(SB108号艇)機動輸送第25中隊(SB111号艇)等が展開していました。
また、この他にも機動輸送第12中隊(SB101号艇)は、宇品を拠点として台湾・南西諸島へのピストン輸送を実施しており、稼動中隊の大半がかき集められた状況でした。
前述した第三次編成中隊の半分以上は、中隊編成こそ完結しているものの乗艇が与えられていないものが多く、その他の中隊はフィリピン戦で戦没した部隊がほとんどだったためです。

これらの機動輸送中隊を率いる機動輸送隊本部は、第二がフィリピンで隊長を失う(正確にはセブ島に孤立)等の損害を受けて内地に帰っており、第一も宇品に帰還して時期作戦のための新規中隊整備等の任務に当たっていました。そこで、在台湾の中隊は第七船舶輸送隊司令部等の在台湾船舶司令部の指揮下に入って活動することになります。
各中隊は基隆を中心に台湾各港湾に展開して、近距離輸送や大陸との連絡業務に当たっていましたが、次の攻略目標を沖縄に定めた連合軍機動部隊の空襲は、台湾へ次々と襲いかかってきました。

1945年1月21日の台湾空襲では、機動輸送第16中隊(SS12号艇)ガランピン沖でグラマンの編隊に補足されて擱座、28名の戦死者と多数の重軽傷者を出し、艇そのものも放棄されました。
2月に入ると、大陸から飛来してくるB24の空襲にも晒されるようになり、第6中隊(SS14号艇)が2月20日に対空戦を展開、また第22中隊(SB108号艇)は2月18日、3月1日、3月7日と次々と空襲を受けています(2月18日の空襲は損害も出ましたが、帰港後に感状を拝受するほどの奮戦でした)。

3月に入り、硫黄島が陥落して沖縄近海に攻略船団が向かい始めた頃、台湾を拠点にした機動輸送中隊の活動は終焉を迎えます。基本的に単艦行動で防御力も速力もそれほど高くない機動艇では、もはやこの危険水域では活動できなくなったのです。指揮を受けていた第一船舶輸送司令部第七船舶輸送隊の命令を受けた各中隊は、船倉に火薬の原料となる台湾産の砂糖を満載して、連合軍の機動部隊の目を掠めて内地へと帰還していきました。
3月5日から台湾に残留していた機動艇が、対岸の温州で船団を組んで本土に帰還しています。これが機動艇の艇団としては一番大きなものでした。第5中隊(SS7号艇)第11中隊(SB103号艇)第22中隊(SB108号艇)の3艇は、他の輸送船を護衛しつつ大陸沿岸航路を宇品に向けて進んでいましたが、大陸に展開しているB24の空襲に連日のように晒されました。
結局、呉淞からは船団に集中攻撃を受けるのを阻止するために、各艇単独で帰還することになり、沖縄に連合軍が迫る3月末〜4月上旬にかけて、内地に到着しています。



一方の日本本土での機動輸送中隊の動きですが、12月末に機動輸送中隊が新たに誕生し、1月頃にはフィリピン戦で乗艇を失った中隊がポツポツと辿り付いていました。SS艇の製造は既に中止されていましたが、SB艇の量産は続々と進んでおり、3月頃に各中隊に乗艇が支給されます。それまでSS艇に乗っていた中隊の幾つかは、まだ中隊の決まっていなかった製造済の最後のSS艇を支給されました。

1945年に入ってから、新たに乗艇を支給された中隊は以下の通りです。
機動輸送第2中隊・・・1944年9月24日にセブ島沖でSS2号艇を空襲により喪失、4月17日にSB126号艇を受領。
機動輸送第7中隊・・・1944年10月12日に台湾でSS4号艇を空襲により喪失、3月25日にSS22号艇を受領。
機動輸送第12中隊・・・1945年3月19日の呉大空襲でSB101号艇に軽微な損害が出る。3月19日にSB104号艇に乗り換える。
機動輸送第14中隊・・・1944年11月19日にフィリピンでSS8号艇を空襲により喪失、4月30日にSS18号艇を受領。
機動輸送第16中隊・・・1945年1月21日に台湾でSS12号艇を空襲により喪失、5月1日にSB127号艇を受領。
機動輸送第18中隊・・・1945年1月にSS21号艇に乗艇、終戦後の9月13日にSS13号艇を乗り換える。
機動輸送第22中隊・・・乗艇SB108号艇、終戦後の9月15日にSB106号艇を乗り換える。


日本本土に集結した機動輸送中隊は、主力を瀬戸内海に置いて軍需物資輸送の任務につくことになりました。フィリピンに置き去りになった幾つかの中隊以外は内地に帰ってきたため、23個中隊が集結したことになり、これまでの第1機動輸送隊第2機動輸送隊の2個の本部だけでは指揮部隊が足りなくなってしまいました。そのため、臨時に機動輸送隊本部を設置することになります。
1945年5月20日に特設第3機動輸送隊、特設第4機動輸送隊が編成されて、機動輸送隊本部は4個体制を取ることになりました。従来の第1、第2機動輸送隊本部門司七尾に拠点をおいて、それぞれ瀬戸内海と日本海の輸送作戦の指揮を取っていましたが、4個に増えた本部のうち、第2起動輸送隊本部には別の任務も与えられていました。沖縄への特攻輸送作戦です。

1945年の2月頃には、機動艇の乗員達の間でも噂になっていたようですが、連合軍が上陸した沖縄への片道輸送任務が検討されていました。実際、2月の段階では第25中隊(SB111号艇)徳之島への特攻輸送に従事し、無事に生還しています。
陸軍としては、本土決戦の前に沖縄で少しでも時間を稼ぎたいということ、そして本土決戦となれば機動艇の本来の目的である、逆上陸作戦についての実施は恐らく困難であろうと言う点から、機動艇らしく作戦できる沖縄逆上陸と検討したものと考えられます。実際、第25、27、28中隊等は、日本海の宮津で沖縄輸送作戦待機を命じられており、具体的な計画まで考えられていたようです。成功を期し難しということで中止されてしまいましたが。



また、機動艇の成果を見て、さらに機動艇を有効に運用するための改良も検討されていました。1000トン前後の機動艇では搭載力や外洋航海能力も限定されたものとなります。そこでSS艇とSB艇の長所を集めた、大型艇を計画していました。3000トン程度の大きさで、凌波性を上げるためにSS艇と同じ艦首観音開きの扉、SB型の繰り出し型歩板を合わせた設計となっています。
海軍の二等輸送艦同様に輪転羅針儀や電探を装備し、防空能力も極力高めた揚陸用艦艇となる予定でした。1945年の造船能力ではとても新規に建造することなど出来ず、この計画は放棄されています。

また、南方との輸送が絶たれ今後重油燃料が枯渇することを予想して、SB艇を石炭焚にすることも検討され、これは実際に実施されました。1945年7月に数隻に対して実施したようですが、機関室内温度が上がりすぎて5分程度しか滞在できなくなり、速力も8ノット程度にまで低下し、機動艇としての運用は出来ない欠陥艇となってしまいました。改装された艇はそのまま使用されなかったようです。



内地での本土決戦準備の軍需物資輸送に従事していた各中隊ですが、既に日本本土すら安全な海域ではなくなっていました。本土近海まで接近して艦載機を放ってくる機動部隊と、B29より投下された封鎖機雷が新たな敵として立ちはだかったためです。
この時期の各中隊の記録では、ほぼ数日置きに艦載機との対空戦闘を報告した中隊が沢山あります。また、艇の乗員で臨時機関砲隊を編成して陸揚げし、陸上の防空戦闘を支援する中隊もありました。近距離輸送自体も安全ではないため機動艇もあまり活発には動けず、瀬戸内海に展開している中隊では、乗員を陸揚げして開墾の手伝いをさせている部隊も幾つかあります。
そんな中でも、特設第4機動輸送隊は、釜山−浜田間の軍需物資輸送を実施したり(6月〜7月末に実施、参加中隊は第5中隊等)、 特設第3機動輸送隊が宇品−広島間の軍需物資輸送を実施したり(第21中隊が参加)しています。ですが、以前のように機動艇を集めての輸送作戦は、既に不可能な状態となっていました。

この間、1945年4月以降に損害を出した中隊は、

5月21日・・・機動輸送第20中隊(SS20号艇)が小豆島にて座礁、桐生播磨ドックにて修理に入り、そのまま終戦を迎える。
5月22日・・・機動輸送第6中隊(SS14号艇)が門司かた釜山に向かう途中、六連島沖で触雷擱座し、艇を放棄。その後は竹の子島で乗員による防空任務に就く。
8月10日・・・青函連絡輸送任務についていた機動輸送第7中隊(SS22号艇)が、浅虫北方湯の島で艦載機の攻撃を受け、大破沈没。7中隊は台湾に続いて、2度目の乗艇喪失となりました。

等が挙げられます。実際には防空戦闘で大小の損害を出した中隊は、他にもありました。



艦載機の空襲や機雷等の対応に追われ、本土決戦の気配がひしひしと迫る中、各機動輸送中隊は8月15日を迎えました。日本本土に稼動状態で集結していた機動輸送中隊は、そのまま内地の復員輸送や朝鮮半島からの復員輸送に当てられました。
8月15日の終戦の知らせが届くと、門司や博多に展開していた機動艇は、すぐに朝鮮半島に向かっています。8月17日になると、日本船籍の艦艇は勝手に動かせなくなるため、その前に少しでも引き揚げを実施するためです。
機動輸送第10中隊のように翌年3月まで朝鮮半島との復員輸送に従事していた艇もありましたが、だいたいは10月くらいまでに2〜3度の往復任務についた後に、中隊を復員しています。
復員任務の中で注目すべき話は、機動輸送第14中隊関東軍防疫給水部の引き揚げ任務についていることです。これは8月16日に実施されたもので、連合軍の船舶運用停止命令の直前ギリギリに実施されました。この部隊は有名な名前だと「731部隊」と呼ばれた部隊です。ちなみに引き揚げを行なった14中隊の乗員は、乗船部隊については一切知らされていませんでした。

復員任務についている機動艇も、もはや必要のない船砲要員を先に復員させ、船舶運営会に機動艇を引き渡した後に、残りの乗員も順次復員していきました。1000トン弱の手頃な大きさのSS艇のうち何隻かは、戦後民間に払い下げられて改装され、日本海等の近海貨客船として第二の道を辿ったものもあります(SS7号艇は戦後、鏑木汽船が取得して「長崎丸」として運用、その後、昭和27年に琉球海運が取得して「三島丸」となる。1964年解体)。
こうして、約2年死闘を繰り広げた機動輸送中隊は、激しい戦いの後にひっそりと消えていったのです。



最後に各機動艇の乗艇中隊一覧を挙げます。
SS艇の乗り込んだ中隊のうち、SS12号艇に乗り込んだ中隊がはっきりしません。10、16中隊のどちらかが乗艇しており、乗艇していなかった中隊は、SS15、17号艇に乗艇した可能性が高いようです。
また、SB艇については、海軍に移管した艇もかなりの数になり、正確なところが現在判明していないため、中隊が乗艇したもののみを挙げています。
また、櫛ヶ浜機動輸送補充隊が所有していた機動艇が数隻あるようですが、数・艇名がはっきりしないため、この表からは割愛しました。

SS1号艇(蛟龍)・・・機動輸送第1中隊
SS2号艇(蟠龍)・・・機動輸送第2中隊
SS3号艇(海龍)・・・機動輸送第3中隊
SS4号艇・・・機動輸送第7中隊
SS5号艇・・・機動輸送第4中隊
SS6号艇・・・機動輸送第8中隊
SS7号艇・・・機動輸送第5中隊
SS8号艇・・・機動輸送第14中隊
SS9号艇・・・機動輸送第15中隊
SS10号艇・・・機動輸送第9中隊
SS11号艇・・・機動輸送第17中隊
SS12号艇・・・機動輸送第10中隊(16中隊の可能性有り。資料が錯綜しておりどちらが装備したか不明)
SS13号艇・・・機動輸送第18中隊
SS14号艇・・・機動輸送第6中隊
SS15号艇・・・不明
SS16号艇・・・機動輸送第6中隊
SS17号艇・・・不明
SS18号艇・・・機動輸送第14中隊
SS19号艇・・・機動輸送第19中隊
SS20号艇・・・機動輸送第20中隊
SS21号艇・・・機動輸送第18中隊
SS22号艇・・・機動輸送第7中隊
SB101号艇・・・機動輸送第12中隊(11中隊が乗船との資料有り。海軍に移管されたとの資料も。前述参照)
SB102号艇・・・機動輸送第13中隊
SB103号艇・・・機動輸送第11中隊
SB104号艇・・・機動輸送第12中隊
SB105号艇・・・機動輸送第21中隊
SB106号艇・・・機動輸送第22中隊
SB108号艇・・・機動輸送第22中隊
SB109号艇・・・機動輸送第23中隊
SB110号艇・・・機動輸送第24中隊
SB111号艇・・・機動輸送第25中隊
SB113号艇・・・機動輸送第26中隊
SB114号艇・・・機動輸送第27中隊
SB116号艇・・・機動輸送第29中隊
SB117号艇・・・機動輸送第30中隊
SB119号艇・・・機動輸送第28中隊
SB124号艇・・・機動輸送第3中隊
SB126号艇・・・機動輸送第2中隊
SB127号艇・・・機動輸送第16中隊




後書き
こんなに長文のレポートになる予定はなかったのですが、仕上げてみると研究室最大のものとなってしまいました。書き始めてから次々と資料が出てきたこと、他の文献ではほとんど紹介されていなかった点から、できる限り詳細にまとめてみようと考え直したことが原因のようです。
調べ始めたのが昨年11月ですから、足掛け5ヶ月かかっていることになります。その間、更新が全て止まっていますね。ちょっと不甲斐ない(^^;

今回のレポートについては、色々な人に助言やアドバイスを頂きました。謹んで御礼申し上げます。
また、やはり調べ切れていないところが多数あります。資料の幾つかは書名も判明しているのですが、調査時間が取れず、泣く泣く諦めたものもあります。
特に第三次編成の中隊については、あまり分かっていない中隊も多いです。今後、事実が判明したら、順次修正を加えていきたいと思います。なんだか、大岡昌平氏の「レイテ戦記」のようです。

さて、今回の機動艇調査の際には、この部隊も調べてみたいというものが沢山出てきました。「海上輸送大隊」、「海上駆逐大隊」、「高速輸送大隊」、装甲艇の戦歴etc・・・。船舶工兵について、少しは詳しくなったと思いますので、これらのテーマについては今後じっくりと調べていきたいと思います。

さぁ、これから溜まった他の更新を始めます。やることは沢山ありますね・・・とほほ(笑)


主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
  • 「丸」1997年2月〜4月号/潮書房
  • 「丸別冊」日米戦の天王山(太平洋戦争証言シリーズ4)/潮書房/1981
  • 「丸別冊」大いなる戦場(太平洋戦争証言シリーズ11)/潮書房/1988
  • 「丸エクストラ」NO84 大空の勝利と敗北/潮書房/1982
  • 「丸スペシャル」NO50 掃海艇・輸送艦/潮書房/1981
  • 「戦史叢書 海軍捷号作戦(1)」/朝雲新聞社/1970
  • 「戦史叢書 海軍捷号作戦(2)」/朝雲新聞社/1972
  • 「戦史叢書 陸軍捷号作戦(1)」/朝雲新聞社/1970
  • 「戦史叢書 陸軍捷号作戦(2)」/朝雲新聞社/1972
  • 「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」/朝雲新聞社/1973
  • 「陸軍機動輸送艇SS七号 比島作戦記」/川井輝臣/茨城新聞出版部/1985
  • 「機動輸送第八中隊 暁第16732部隊 比島突入記」/林田軍曹/1965
  • 「陸軍機動艇の歌」/香山裕三郎/1987
  • 「旧陸軍船舶部隊戦史資料 機動艇について」/馬渕正之/京浜港湾処理隊編/1955
  • 「大東亜戦争における陸軍船舶戦史」/松原茂夫/陸上自衛隊幹部学校/1970
  • 「陸軍船舶部隊行動一覧表」/松原茂夫/1969
  • 「暁会会報」9、21、30、32、34、35、46、52号/暁会編(暁第16711部隊会抜粋)
  • 「検証・レイテ輸送作戦」/伊藤由己/近代文藝社/1995
  • 「船舶砲兵 血で綴られた戦時輸送船史]/駒宮真七郎/共同出版社/1977
  • 「船舶太平洋戦争 一日ハ四時間ナリ」/三岡健次郎/原書房/1983
  • 「陸軍公主嶺学校と星兵団」/星兵団戦友会/1980
  • 「陸軍船舶戦争」/松原茂夫・遠藤昭/戦誌刊行会/1996
  • 「厚生省復員資料 船舶部隊一覧」/厚生省/1957


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