〜研究作文其の三八〜

シンガポール篭城兵団〜独立混成第二六旅団(嶽)戦記〜


1.第一段侵攻作戦後の南西方面防衛部隊

1942年3月7日、第十六軍司令官今村均中将は、ジャワ島のオランダ陸軍長官と降伏調印式を実施し、これ以後、マレー・インドネシア方面は、残敵掃討と軍政へと移行していきます。
軍政移行後のインドネシアは、第十六軍司令部を首都ジャカルタ(バタビア)におき、ジャワ島を真っ二つに割って、東を第四八師団、西を第二師団が守備することになりました。また、チモール島には東方支隊が編成されて駐留することになります。

1942年6月29日に決定された南方防衛所管は、
  • 第十四軍 フィリピン守備
  • 第十五軍 ビルマ南部(テナセリウム地方)守備と、ビルマ侵攻
  • 第十六軍 インドネシア(ジャワ島以東)守備
  • 第二五軍 マレー半島、スマトラ島守備
  • ボルネオ守備軍 ボルネオ島守備
うち、第十四軍は、フィリピンの軍政・独立問題にも対処するために大本営直属軍となり、南方軍は、残りの各軍を率いることになります。
また、南方地帯防衛のために、第三航空軍が創設され(1942年7月10日 大陸命第555号発令)、南方軍の指揮下に置かれました。

この頃、第十四軍も含めた、南方諸地域で作戦中の兵団は合計12個師団で、南方が一段落し、長期戦の体制をとることを当時検討していた大本営は、「6個師団と独立守備隊とで、南方地域を守備し、残りの師団は内地帰還、他方面への転用」ということを考えていました。
その結果として、マレー・インドネシア方面には、第十二独立守備隊(マレー)、第十三独立守備隊(ジャワ)、第十四独立守備隊(ジャワ)、第十五独立守備隊(スマトラ)、第十六独立守備隊(スマトラ)が創設されました。
このうち、今回の主役となる兵団は、第十六独立守備隊です。

各独立守備隊は、独立守備隊司令部と4個独立守備歩兵大隊から構成されており、編成完結後、守備していた師団と守備地域を移管していきました。手空きになった師団は、他方面(主に南東方面)に転用されて、連合軍の反撃の最初の矢面に立つことになります。

このうち、マレー・スマトラを守備していた第二五軍は、当初は攻略部隊である第五、第三八、近衛師団を持って守備していましたが、第五、第三八師団が他方面に転用されることになり、前記の独立守備隊が代わりに守りを固めることになりました。
第十二独立守備隊がマレー全域を、第十五独立守備隊が中北部スマトラを、第十六独立守備隊が南部スマトラ島に展開し、以後、駐屯と軍政協力を行なうことになります。

主戦場が南東方面に移った後の南西方面はあまり動きがなく、豪北方面を担当する第十九軍が創設されて、第五、第四八師団が指揮下に入って、オーストラリアの西正面の守りを固める準備をしていた程度です。


ところが、1943年の後半に入り、南東方面の戦況はいよいよ芳しくない状態に陥って、大本営は「絶対国防圏構想」を打ちたてました。哨線防御というシステムが成功した例は、ほとんど歴史上ないのですが、大本営は太平洋の地図にぐるっと円を書き、「ここからここまでは絶対に敵を入れさせない」という防衛準備を始めることになります。
この圏内には、南方軍が統括していた各軍の守備地域は、ほとんど全部組み込まれており、どちらかというと、益々、内線部隊的なイメージが付加されることになりました。この際、豪北地域(西部ニューギニア、セレベス・ハルマヘラ・東部インドネシア地域)は、満州より抽出した第二方面軍司令部が担当することになり、西部ニューギニア用に第二軍も動員されてきました。この結果、南方軍が直接指揮するのは、ボルネオ・ジャワ以西の南方諸地域ということになります。

1943年後半の時期で、南方軍守備隊関係での最大の動きは、スマトラ島防空のために、第九飛行師団が編成されたことでしょう(12月中旬頃編成完結)。
この飛行師団は他の野戦飛行師団と異なり、油田地帯の防空専任部隊で、その装備も特色あるものでした。第八飛行団は洋上哨戒や長距離作戦任務に付く、通常の戦闘機と重爆の兵団でしたが、パレンバン防衛隊、パンカランブランダン防衛隊は、複戦や重戦を中心に装備し、防空連隊(のちの高射連隊)や、防空気球隊、機関砲隊等を装備した、純然たる地域防空部隊でした。


また、1943年8月に「大本営政府連絡会議」が東京で行なわれ、南方占領地帯の地元住民の政治参与が決定されました。その後、9月には住民の軍事組織を編成することも決まります。
完全に後方となった南方占領地帯に新しい戦力が配備されることも少なく、広大な占領地帯を既存兵力(1943年後半で陸兵約30万)だけで守備するのは厳しいことでした。この結果、治安維持・防衛補助のために現地軍隊を創設することが決められたのです。
うち、スマトラ島では、1944年3月頃までに、「スマトラ義勇軍」30個中団(中団は200名弱の中隊規模の編成)を整備し、各地の警備に当たらせました。兵器については、正規の陸軍も不足しているような状態だったため、占領時に鹵獲した歩兵装備を中心に支給されています(ジャワ島などでは、義勇高射砲隊まで編成されていました)。




2.戦況の緊迫化と南方兵団の組織改編

1944年に入り、戦況は急に流動的になりました。2月にはクェゼリン環礁が失陥してトラック諸島が米機動部隊の大空襲に遭い、3月にはパラオ諸島・ホーランジアが空襲されて、ソロモン・東部ニューギニアに限定されていた戦場は西へと進捗し始めました。

全力を南東方面に投入していた日本軍は、西部ニューギニアに対する防備はほとんど調っていませんでした。第二方面軍ビアク島や西部ニューギニアのソロン地区の守備固めを急いで行いましたが、体勢が固まる前にビアク島ホーランジアに連合軍が上陸し、以後、この方面は受身の戦闘しか出来なくなります。

こうした中、1944年3月に、大本営は「南方軍戦闘序列」を更改します。それまで各戦域の軍がほとんど独立して動いていた、南方占領地帯の防衛組織の一元化を図るためです。
大本営の出した案は、
1.それまで大本営直属だった豪北地区の第二方面軍、フィリピン地区の第十四軍南方軍直属にする。
2.フィリピン方面を担当する方面軍と軍を一つずつ創設する。
3.南西方面を担当する方面軍を一つ創設する。
4.南方軍総司令部マニラに移動する。
というものでした。

ところが南方軍は司令部のマニラ移転に大反対します。曰く、「シンガポールから移動すると英軍の士気に悪い影響を与える」「インパール作戦中で移動している暇がない」「マニラでは南方全域の中心にならない」「シンガポールに比べてマニラは指揮通信設備が貧弱」等々の理由を挙げたのですが、大本営からの強い指導で、結局南方軍はマニラに移動します(5月中旬)。

3月27日に、上記「南方軍戦闘序列」が下令されました。そして、南西地域の防衛組織として、第七方面軍が創設されます。指揮下の兵団は第十六軍、第二五軍、第二九軍、ボルネオ守備軍の4つで、シンガポールを中心とした南西要域の守りを固めることになりました。
編成を完結したのは4月15日で、基本的にはそれまで駐留していた南方軍総司令部より人員を供給したのですが、南方地域の軍政全般を見る必要がある為、軍政能力が強化されているのが特徴です。方面軍司令官には土肥原賢二大将が就任しました。

方面軍指揮下の4個軍には、主力兵団として2個師団、7個旅団、2個独立守備隊が配備されていました。この7個旅団というのは、独立守備隊や南西守備隊を改編して新編成した旅団です。
独立混成第二五〜二八、三五〜三七旅団の7個旅団で、1943年11月16日に改編が行なわれ、それぞれ新しい旅団になって守備を継続しました。



うち、スマトラ島の守備についていた第十六独立守備隊は、独立混成第二六旅団に改編されました。
本部・歩兵4個大隊基幹の戦力だった第十六独立守備隊は、この改編で旅団司令部・独立歩兵4個大隊・砲兵隊・工兵隊・通信隊の編成となり、戦力の増加が図られました。
初代旅団長は河田槌太郎少将で、独立歩兵第146、147、148、149大隊は独立守備歩兵大隊を改編し、旅団砲兵隊東寧に駐屯していた迫撃第11大隊第3中隊を基幹に、迫撃砲2個中隊編成に拡大改編して移動してきたものです。

編成なった独立混成第二六旅団は、従来通り第二五軍の指揮下で、スマトラ島の防衛に当たりました。
スマトラ島は全長が1500キロ以上ある広大な島で、10州に分かれています。北から「アチエ州」「東海岸州」「タパヌリ州」「リオ州」「西海岸州」「ジャンビー州」「ベンクレン州」「パレンバン州」「バンカビリトン州」「ランポン州」です。
うち、アチエ州・東海岸州近衛第二師団が(司令部所在地メダン)、タパヌリ州独立混成第二五旅団が(司令部所在地シボルガ)、リオ州を軍直轄部隊が、西海岸州第四師団が(司令部所在地パダン)、ジャンビー州・ベンクレン州・パレンバン州・バンカビリトン州・ランポン州独立混成第二六旅団が(司令部所在地パレンバン州ラハト)が守っていました。
また産油地であるパレンバンには、パレンバン防衛隊(防空部隊)と第九飛行師団が展開して守りを固めていました。
軍司令部は西海岸州ブキチンギに置かれ、西海岸州にいる第四師団は師団があちこちに展開しており、師団全力の1/3程度(歩兵3個大隊・砲兵1個大隊基幹)程度の戦力しかもっていませんでした。またスマトラ島の北端にあるサバン島には、海軍第一遣南艦隊第9根拠地隊が守りについており、同地に建設された飛行場の守備に当たっていました。

それまで近衛第二師団と独立守備隊2個しか持っていなかった第二五軍は、1943年末に第四師団が増援されるとともに独立守備隊が独立混成旅団に改編されて、2個師団・2個旅団という相当の戦力を持つ軍になりました。そのため、それまでのスマトラ島持久防衛から、水際撃滅のための積極防衛に任務が切り替えられることになりました。

1944年に入り、第七方面軍が編成されて、第二五軍はその指揮下に入ります。その直前に前述の第九飛行師団が新設され、スマトラ島防空任務は同飛行師団が実施することになりました。残りの2個師団・2個旅団は純然たる陸上戦闘だけに気をかけていれば良くなったのです。
第七方面軍は、スマトラ島を資源地域として最重要防衛地域に指定しました。特に北と南にある油田地帯(パンカランブランタンとパレンバン)については、防空部隊を充実させるとともに防空設備に急速整備が命じられ、油田の防火壁や迷彩等が積極的に進められることになりました。

しかし、1942年初頭に攻略されたスマトラ島は、後方地域という感覚が強く、防衛部隊の防御準備はなかなか進みませんでした。独立混成第二六旅団についても、スマトラ島南部海岸の防衛任務が与えられていましたが、海岸には点々と監視哨が築かれている程度で、戦力を充実させた英軍に対抗できるかは疑問視されていました。


1944年8月11日にパレンバンがB−29の初空襲を受けるとともに、連合軍機動部隊のアンダマン諸島・スマトラ島に対する活動が活発化し始めました。しかし、日本軍としては、フィリピン方面での決戦(捷号作戦)に全ての力を投入しており、後方地区の南西方面に戦力を割く余裕はありませんでした。
捷号作戦時の第七方面軍の任務は、守備位置を固守してフィリピン決戦の後方を安定するという従来の任務と同様のものでしたが、海軍戦力のほとんど全てがフィリピン作戦に投入されてしまい、各戦域の連絡が厳しいものとなりました。そのため、第七方面軍に所属する各軍は、孤立した軍単位での防衛戦を余儀なくされたのです。




3.フィリピンの失陥・南方連絡線途絶とシンガポール防衛

1945年に入ると、いよいよ戦局は左曲がりになりました。レイテでの決戦は敗北し、ルソン島に連合軍が上陸し、南シナ海は連合軍の制空権下に置かれます。原油資源を始めとする南方資源の本土廻送も途絶することとなり、南方軍(フィリピン戦開始前にサイゴンに後退)は、本土と切り離され孤立した状態での南西方面防衛をせざる得なくなりました。
さらに南方軍戦域でも、ビルマ方面の戦況はいよいよ悪化し、1945年に入るとアキャブ方面メイクテーラ方面でも日本軍の後退・壊走が始まります。ビルマの失陥は既に避けられない状況となっており、首都ラングーンを放棄してテナセリウム地区で戦線を立て直す他、手が打てない状況でした。

1月末に大本営は南方軍に新任務を命じましたが、既に南方軍の作戦は、要域確保と本土決戦のための支作戦という位置に重要度が下げられていました。
戦線の後方になってしまった南西方面は、太平洋戦線全域に影響を与えられる戦場ではなくなってしまったのです。
さらに本土への物資輸送や、ビルマ地区への軍需物資輸送も困難となり、軍政を担当している第七方面軍の戦局全般における任務の重要性も益々低下していました。
しかし、植民地の奪回という目的の為に、連合軍は必ず方面軍の守備地に押し寄せてきます。そこで、本土や他戦域に送れなくなった軍需物資を利用して、第七方面軍自体の戦闘力を向上させ、少しでも南西戦域に連合軍を拘束するという戦略目標に切り替えられました。
これに伴い、第七方面軍は指揮下の各軍の守備位置の変更を開始します。


第二五軍もこの動きと無縁ではいられませんでした。連合軍が攻めてくるとして、真っ先に危険と考えられるのは、戦線が崩壊したビルマからタイへの攻撃です。ビルマ・タイ国境地帯は、第三九軍があちこちから兵団を集めて守りを固めていましたが、この軍に第四師団も加わることになりました。
第二五軍としては、主力の2個師団のうち、1個師団を抽出され、スマトラ島に連合軍が上陸してきた際の機動予備兵力が確保できなくなりました。そのため、独立混成第二五旅団の守備範囲を旧第四師団地区も含めるように拡大するとともに、近衛第二師団から1個連隊・1個砲兵大隊を機動予備として準備することになりました。


しかし、1945年5月に第二五軍はさらに指揮下の部隊の他方面への転属を命じられます。独立混成第二六旅団のシンガポールへの移動です。


1942年2月15日に攻略されたシンガポールは、「昭南」と日本名に改められて軍政下に置かれました。当初は南方軍が置かれ、南方軍がマニラに転出した後も第七方面軍が司令部を展開しており、南方軍や方面軍の策源地として、各種の後方部隊が置かれていました。港湾地区にも大型ドックや工廠設備があり、海軍としても南西方面の拠点として利用していました。

しかし、戦線が遥か遠方に遠ざかったこともあり、シンガポール自体の防御準備はほとんど出来ていませんでした。マレー半島防衛の第二九軍が創設された後、一時的にシンガポールは第二九軍の守備所管に入っていましたが、マレー半島全域の防衛に任ずる二九軍では、シンガポールまで防衛するのは地理的にも難しく(軍司令部はマレー半島中部のタイピンに置かれていました)、南方軍や方面軍の組織がたくさんあるシンガポールは、組織構成上からも指揮するのが難しかったのです。

そこで第七方面軍は、シンガポールの守備を第二九軍から切り離して、別に1軍を設ける方法を取ることにしました。その結果、編成されたのが「昭南防衛司令部」です(1944年4月25日組織、軍令による編成完結は10月14日)。
防衛隊は、マレー半島で治安維持に当たっていた独立守備歩兵第47大隊を基幹とし、防空部隊としてシンガポールに展開していた野戦高射砲第48大隊も指揮下に入りました。他に治安維持の憲兵隊や、臨時編成の特設部隊等が編入されています。

しばらくは直接の脅威もなく、シンガポール防衛はこの程度の戦力で済んでいましたが、1945年5月にビルマではラングーンが陥落し、ボルネオ島では要衝タラカンにオーストラリア軍が上陸しました。印度洋方面からイギリス軍が、ボルネオ方面からオーストラリア軍が、シンガポールを目指して進撃してくることが確実となり、急速に戦備を整える必要が出てきたのです。
第七方面軍はあちこちからシンガポール防衛の戦力を引き抜き始めましたが、その中で最初に目をつけられたのが独立混成第二六旅団(旅団長は尾子熊一郎少将に交代)でした。それまでの守備位置であるスマトラ島はシンガポールの対岸にあり、兵力移動が容易であったということもあります。
旅団以外にも方面軍はなりふり構わず、守備兵力をかき集めました。1945年5月から実施された昭南防衛隊の兵力増強の主なものは以下の通りです。

近衛第二師団海上輸送隊第4中隊
第四八師団 台湾歩兵第1連隊から2個中隊、第2連隊から1個中隊
第四六師団
船舶工兵第10、15連隊から1個中隊
パンカランブランダン防衛隊
野戦高射砲第72大隊

等が、独立混成第二六旅団以外にシンガポールに集められています。他にも占領時の鹵獲砲や鹵獲兵器を用いて、滞留人員で臨時混成大隊を編成し、守備隊に配備していきました。

集められた守備隊のうち、第四六師団はシンガポール島の対岸のジョホール州の防衛につきました。シンガポール島に立て篭もるだけでは、対岸のジョホールバルに重砲陣地を構築されて、ジョホール水道を制圧されて上陸戦を実施されてしまいます。日本軍がシンガポールを攻略した際の方法を、英軍も取るだろうと予想して、1個師団をこの対岸防衛に割り当てたのです。

肝心のシンガポール島防衛は、シンガポール島を3つの戦区に分割してそれぞれ守備隊を置くことになりました。シンガポール市(この時期は昭南市)を含む西地区昭南防衛隊の守備位置で、防衛隊司令部が直接防衛指揮を取ることになりました。
セレター軍港を含む、北岸地区海軍防衛隊が守ることになりました。これは第十方面艦隊司令部(司令長官、福留繁中将)が守ることになり、指揮下の陸上兵力である第十特別根拠地隊を中心に、在シンガポール海軍部隊を再編して兵力を整えつつありました。
残りのシンガポール島は、東地区と呼称し、東防衛隊と別名が付けられた独立混成第二六旅団が守備につく事になりました。
また、東地区には、シンガポールに司令部を置いていた第三航空軍司令部で陸戦の際には臨時編成の部隊を編成することになりました。指示された兵力は歩兵6大隊、砲兵1大隊で、守備の際には独立混成第二六旅団の指揮下に入ることになっていました。
ただし、概してシンガポールに駐留している陸戦兵力以外の各部隊の陸上兵力化は遅れており、南方各地からかき集めた砲兵戦力の集結も遅れ気味でした。


シンガポールの防衛方針としては、それまで太平洋島嶼各地で行なわれていた水際防御に重点をおくのではなく、複郭陣地と各守備隊に配備された砲兵戦力(シンガポール全域で7個大隊程度)を用いた持久作戦を実施することになっていました。
シンガポールまで攻め込まれた状況で、上陸軍を撃退して戦勢を盛り返すことは用意ではなく、できる限り上陸軍に出血を強要し、戦局全般に寄与しようという発想です。
そのためには陣地構築が重要となり、南方軍築城部を中心としてシンガポールの要塞化が推進されていきました。予定された陣地概成は9月下旬目処となっていたようです。

1945年8月頃には、独立歩兵第148大隊を除く3個歩兵大隊と、迫撃砲を中心とした旅団砲兵隊、それに海軍から配属された12センチ平射砲2門が、独立混成第二六旅団(東防衛隊)の中心戦力となっていました。
東防衛隊を含む、シンガポール全体の防衛体制は、実際問題として遅々として進まず、臨時編成の部隊を作っても装備させる兵器がないため、南方軍野戦造兵廠を中心として兵器管理部門をかき集め、現地作成の自活兵器を量産して、辛うじて装備させているような状況でした。

そうした中、1945年8月15日に終戦となり、9月5日には英連邦軍がシンガポールに進駐、9月12日に南方軍降伏式が実施されました。その後、マレー駐留の第二九軍とともに、リオ諸島レンバン島へ移駐させられ、21年7月まで厳しい現地自活作業を強いられることになります。



後書き
ずぼらな管理人のお陰で、随分と更新が止まっておりました。以前からちょっとまとめていた、独立混成第二六旅団を掲載します。
以前の第百一旅団同様、特に大規模な戦闘を経験した旅団ではないため、記載自体は淡白なものとなっておりますが、南西方面には同様の兄弟旅団だけで後6つあります。
今後どのようにまとめていくか、なかなか難しいところではありますね。
次の更新は早めにお届けいたします(反省)。



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