〜研究作文其の三七〜 孤島の遊兵部隊〜独立混成第六一旅団(鎧)戦記〜 |
1.フィリピンの防衛力強化策 1944年4月、トラック島が米機動部隊の大空襲で無力化され、マリアナ方面に米軍の反抗がひしひしと迫る頃、フィリピンを守る第十四軍の指揮下には、僅かに1個師団と未充足の4個旅団しかありませんでした。 第十四軍は最低でも7個師団がないと守れないと、大本営にねじ込みに行きましたが、当時は絶対国防圏を必死の勢いで構築している最中、含めて、ちょっと前に乾坤一擲のインパール作戦がビルマで始まっています。絶対国防圏の内側のフィリピンなんかに第一線兵力を回す余裕は、大本営にはありませんでした。 ですが、6月になり、ニューギニアは次々と攻勢を受けて、西へ西へと追いやられ、連合艦隊が全力を挙げた「あ号作戦」も惨敗に終わり、サイパン島をはじめとしたマリアナ諸島が陥落して、一気に侵攻の矢面に立つことになりました。 この頃、南フィリピンの防衛兵力として第三十師団が発令され(元は第三二師団が発令される予定だった)、ようやく2個師団の兵力を第十四軍は手に入れましたが、レイテとミンダナオ島という南のほうに位置しており、手元にはほとんど手勢のいない有様となっていました。 しかも僅かな指揮兵力はフィリピン全土で飛行場を作っているため、防衛準備なんてまるで出来ておらず、もしこの状況で連合軍の進撃を喰らったら、ほとんど抵抗できない状況です。この頃の第十四軍は、第四航空軍の地上基地造成部隊程度にしか認識されていませんでした。 情勢が刻々と悪化する中、大本営と南方軍は遅まきながら、ようやく慌て始めます。一方の第十四軍は当初7個師団と言っていたのですが、何時の間にか、ちゃっかりと10個師団が必要だと所要兵力を増やしており、次の決戦がフィリピンだと口端に乗るようになる頃には、あちこちでフィリピンの防衛兵力を何とか増やす活動が、活発に行なわれ始めました。 とりあえず、まずは師団の数を増やそうと、フィリピンに展開していた4個旅団を師団に改編する作業が始まります。その結果、誕生したのが、第百、百二、百三、百五師団ですが、元々警備旅団に急ぎ部隊を上乗せしたもので、戦力としては正規師団に及ぶものではありませんでした。 続いて、南方全域の手薄な地区を守らすために、現地で4個旅団を編成することになります。内地より基幹部隊が続々と送りだされるとともに、現地編成の4個旅団が誕生しました。そのうち、フィリピンに配属されたのは、独立混成第五四、五五旅団で、さらに内地から1個旅団の増援をフィリピンに送り込みました(独立混成第五八旅団)。 これで、フィリピンに展開する兵力は6個師団と3個旅団となり、実戦力という点はともかく、初期の7個師団の兵力配備は達成されたことになります。 7月に入り、状況は急変していきます。フィリピン決戦は避けられないと誰もが思うようになり、とりあえず勝てる兵力を送り込まなければと、第二六師団のフィリピン派遣を筆頭に、次々と部隊が動員され始めました。 その第二陣として、混成第26連隊とともに動員されたのが、独立混成第六一旅団(鎧)です。 2.独立混成第六一旅団の編成と比島派遣 独立混成第六一旅団。この旅団がフィリピンに派遣されるまで、色々と動きがありました。 京都第十六師団の師団管区で編成が行なわれた独立混成第六一旅団は、補充担任地も京都のままで、1944年7月10日に編成を完結しました。旅団長は田島彦太郎少将で、終戦まで同旅団を率いることになります。 元々この旅団が編成されたのは、大陸南部沿岸の防衛のため、浙東派遣兵力として準備されたものです。中国南部沿岸に、ひょっとしたら連合軍が奇襲上陸作戦を仕掛けてくるかも知れないので、一応防衛戦力くらい派遣しておかないと、という考え方の元に編成されました。 逆に言うと、危急の用事のある旅団ではなかったことになります。当時、フィリピン派遣部隊を大陸と本土からかき集めていた大本営としては、真っ先に目をつけた旅団だった訳です。 編成が完結した直後、7月24日に旅団は大陸行きからフィリピン派遣に切り替えの命を受けます。所属は26日に方面軍に改編された第十四方面軍で、急げ急げと駆け足で派遣の準備をすることになりました。 ちなみにこの時点での旅団の兵力は、司令部と歩兵5個大隊(独立歩兵第405、406、407、408、409大隊)で、純然たる治安維持部隊と称してもおかしくない旅団編成でした。兵站も通信隊すら持っていない状況だったのです。 大慌てで出征準備をして、門司からマニラに向けて出発した独立混成第六一旅団でしたが(門司出航は8月4日頃と推定)、台湾についた後、しばらくそこに滞留することになります。 先発した第二六師団の船団「ヒ71船団」がバシー海峡で無茶苦茶な潜水艦攻撃を受け、船団が完全に崩壊して(空母大鷹すら沈んでいます)、さらに後続の第八師団も、門司を出た直後から次々と損害を出し、とてもではないが、フィリピンに船団を出せるような状況ではなくなってしまったためです。 しばらく台湾で様子を見ていましたが、ようやく海も落ち着いたと判断した旅団は、9月12日に順次、小船を使って、台湾の高雄を出航、目的地のバタン、バブヤンに到着しました。 このバタン、バブヤンというのは、台湾とルソン島の間にある2つの諸島のことです。台湾とバタン諸島の間がバシー海峡で、バタン諸島とバブヤン諸島の間をバリンタン海峡といいます。バブヤン諸島を南に航海していくと、ルソン島のアパリにつくわけです。 現地に到着した旅団は、元々守備していた台湾軍所属の独立歩兵第302大隊も旅団に編入し、これで6個大隊となりました。 このうち、もっとも戦略的な要所といえるのが、バタン諸島の中心のバタン島です。2諸島の中では、唯一飛行場を持ち(開戦時の台湾からの長距離空襲の際には不時着場に指定されていました。そのため、フィリピン侵攻作戦で真っ先に攻略されたのが、この島です)、それなりに部隊も展開できるバタン島に、旅団の主力は展開することになりました。 その次は太平洋に面している島々で、その次に東支那海に面している島々です。だいたい10月2日頃までには、各部隊とも展開を終了し、後追いで追従してきた、砲兵隊、工兵隊、通信隊も順次指揮下に入れていきました。 ここまで書くと分かると思いますが、旅団に与えられた任務は、「台湾とフィリピンの連絡線であるとともに、戦略上の要衝であるバシー海峡を眼下に収めるバタン、タブヤン諸島の防衛」でした。ようやく部隊の展開を終えた独立混成第六一旅団の兵力と展開は以下の通りです。 独立混成第六一旅団 (旅団長 田島彦太郎少将)
3.独立混成第六一旅団の終戦 10月上旬にようやく守備位置に展開した独立混成第六一旅団ですが、落ち着く間もなく、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦、レイテ島反攻作戦と、フィリピンを取り巻く情勢は活性化していきます。 12月19日の段階で、方面軍から旅団への命令は、「従来通り、海峡諸島を守る」ことでした。そのまま、ルソン島には1945年1月6日に連合軍が上陸し、地上決戦が開始されます。 リンガエンからバギオ方面で激戦が続き、対岸のアパリを守っていた第百三師団ももバギオ危急の情報を受け、僅かな守備隊を残して、ルソン島を南下していきますが、圧倒的な連合軍の攻撃を受けて一撃で壊滅し(6月15日頃)、アパリにも米軍の空挺隊が降下して、占領されてしまいました(6月23日)。その結果、独立混成第六一旅団は、ルソン島の第十四方面軍から完全に切り離されてしまい、孤立してしまいました。ルソン島に向かおうにも、海上機動力も制空権も制海権もなく、どうしようもなかったというのが実情ですが。 バギオが失陥し、アンチポロープログ山の最終複郭戦に第十四方面軍が移ろうとしていた7月20日、独立混成第六一旅団は、南方軍(第十四方面軍)の指揮下から、第十方面軍の所属に移ります。既に第十四方面軍も南方軍も、旅団を指揮する能力がなく、一番近い、台湾の第十方面軍にお任せしてしまったという感じです。 既にバシー海峡を通って、内地に向かったり、南方に向かったりする日本船舶があるわけでなく、ルソン島の決戦は、山岳地帯に立て篭もって最後の一戦を挑もうとする状況で、独立混成第六一旅団が、バタン・バブヤンを守っている意義はほとんど喪失していまいました。 台湾の第十方面軍としては、そんな離れ小島を守っているより、秋にも予想される台湾への連合軍上陸に備えて、正規兵力が少しでも必要なところでした。1944年に根こそぎ動員ではない編成をされている1個旅団が近くにあるのに、活かさない手はありません。 台湾のあちこちから小船をかき集めて、独立混成第六一旅団の台湾への転進を推進していきました。 旅団の台湾への転進は8月11日に発令され、守備位置は台湾北部を予定していました。が、その4日後に終戦を向かえ、結局、ほとんど戦うことなく部隊の終わりを遂げたのです。 ルソン決戦時に、この旅団が行なった活動は、台湾とルソンを結ぶ小舟艇の機動輸送の援助や、海峡空域で撃墜されたパイロットの救出保護でした。あとは、ルソン島より潜入してきたゲリラの暴動を鎮圧することでしたが、この当時のゲリラは既に日本軍より装備がよく、サブタン島に分派されていた分隊がゲリラに全滅させられる事件が起こったりしました。 この時にゲリラの鎮圧後、首謀者を虐殺した事件が起こり、また、付近に漂着した米軍パイロットの虐殺事件も発生しており、旅団長の田島少将は、マニラ軍事法廷で起訴され、21年4月に絞首刑に処されています。 部隊もほとんど損害なく終戦を迎えていますが、この付近の海域では、陸兵だけでも7000名が海没戦死しています。 後書き そうとう色々な資料を引っ掻き回しましたが、結局ほとんど資料のない旅団でした。戦闘と呼べるほどの作戦もなく(兄弟旅団の六二旅団はそのまま大陸に派遣され、沿岸地帯で色々な作戦を展開していますが)、戦史叢書も数冊当たりましたが、合計で1ページくらいの記事にしかなりませんでした。 もっとも、第十四方面軍の所属兵団の中では、唯一戦闘を経験していないため、ほとんどの将兵が戦後生還できたという点では、運の良かった旅団なのかもしれません。 ある程度、名前の知られていない旅団だと、こういう戦歴のものが多いのですが、今後どうやってまとめていくか、頭の痛いところでもあります。 主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
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