〜研究作文其の三六〜

最後の勝利〜独立混成第八八旅団(沖天)戦記〜


1.昭和20年の南支戦線と旅団の編成

1945年春、太平洋戦線では日本軍が全面的に崩壊している状態でした。既に硫黄島が落ち、ルソン島に上陸した連合軍によって第十四方面軍は山岳地帯に追いやられ、沖縄も上陸を許して第三二軍は本島南部で持久戦を開始し、ビルマではひたすら壊走していました。
この状態は8月15日まで続き、昭和20年の日本軍はほとんどまともな攻勢作戦を実施できなかった結果に終わりました。幾つかの会戦や作戦が実施されていますが、ニューギニアで実施されたアイタペ会戦や、沖縄の5月攻勢等、ほとんどが無残な結果に終わっています。
そんな中、ある軍が万丈の気を吐くが如く、次々と作戦を成功させていました。中国戦線南部の最前線兵団である第十一軍です。

第十一軍は、1936年の武漢作戦のために準備された兵団です。武漢地区攻略後は、揚子江沿いの各種作戦に従事していた、日本陸軍内でもベテランの兵団でした。
1944年になり、南方との交通路が遮断されるとともに、大陸から西日本への戦略爆撃が懸念される状況となったため、大陸を横断して南方との連絡線を構築するとともに中国南方の航空基地を覆滅する、大陸打通作戦(一号作戦)が実施され、十一軍は湘桂作戦の主攻勢兵団として作戦を遂行しました。湘桂とは、湖南省と広西省の意味で、桂林地区と柳州地区の航空基地を攻略するとともに、南部仏印まで連絡線を確保するというものでした。
この作戦で第十一軍に参加した兵団は10個師団にも及び、青息吐息の日本陸軍の中で、唯一の積極作戦が遂行できた兵団でした。

湘桂作戦終了後、湖南省に残した部隊は、新たに第二十軍を編成し、ひたすら南方を進撃していた師団の幾つかは、南方軍の傘下に入りました。その結果として、第十一軍の手元に残った主要部隊は、第三師団(幸)、第十三師団(鏡)、第三四師団(椿)、第五八師団(廣)、独立混成第二二旅団(節)の4個師、1個旅となりました。

重慶軍の表玄関である貴州省と、南方軍への数少ない連絡路である仏印との接点となる、広西省を守備していた第十一軍ですが、沖縄戦も佳境を向かえ、いよいよ本土決戦の色が濃くなってきた1945年4月14日、十一軍の上部組織である支那派遣軍は、大本営より「第三、十三、二七、三四師団の中北支転用」を命じられました。
これらの師団は、南京付近に集結して派遣軍司令の直属となり(三四師団は湖南省で第六方面軍直属となる)、本土決戦と前後して中国大陸に上陸してくるであろう米軍を迎撃するために、引っこ抜かれることになったのです。
そこで師団を見てもらえると分かるかと思いますが、抽出4個師団のうち、3個師団は十一軍所属の兵団です。つまり、第十一軍に残るのは1個師団と1個旅団だけで、この程度の戦力では敵味方の勢力が入り乱れている広西省は守りきれません。そこで、第十一軍は武漢地区への撤収が命じられることになります。

それでも一気に3個師団も引き抜かれては、軍の作戦能力は守備作戦でさえ、心もとない状況になります。そこで、1945年2月から在地の各兵団より戦力を抽出して、独立混成第八八旅団を編成することにしました(編成命令は、軍令陸甲第十八号、編成完結は4月30日)。
編成は、第六方面軍司令官の管理の元で、第十一軍が担任し、実際の編成業務の中心となったのは、全県(湖南省と広西省の州境側の街)に駐屯していた第三四師団です。
旅団長として、第三七師団歩兵第227連隊の連隊長をしていた皆籐喜代志少将が任命され、十一軍傘下の各部隊より人員を抽出して、緊急に編成されました。所属部隊は以下の通りです。


独立歩兵第519大隊 (大隊長谷口成男少佐
会津若松編成の歩兵第65連隊(第十三師団)より、人員を抽出して編成されました。大隊長は歩兵216連隊(第三四師団)の中隊長よりの転任です。
歩兵4個中隊、機関銃、歩兵砲の各中隊に通信小隊で編成されました。

独立歩兵第520大隊 (大隊長藤田武大尉
仙台編成の歩兵第104連隊(第十三師団)より、人員を抽出して編成されました。大隊長は歩兵6連隊(第三師団)の中隊長よりの転任です。
歩兵4個中隊、機関銃、歩兵砲の各中隊に通信小隊で編成されました。

独立歩兵第521大隊 (大隊長望月四郎大尉
新発田編成の歩兵第116連隊(第十三師団)より、人員を抽出して編成されました。大隊長は歩兵68連隊(第三師団)の中隊長よりの転任です。
歩兵4個中隊、機関銃、歩兵砲の各中隊に通信小隊で編成されました。

独立歩兵第522大隊 (大隊長前田正夫大尉
和歌山編成の歩兵第218連隊(第三四師団)と十三師団より、人員を抽出して編成されました。大隊長も歩兵218連隊の中隊長よりの転任です。
歩兵4個中隊、機関銃、歩兵砲の各中隊に通信小隊で編成されました。

独立歩兵第523大隊 (大隊長前田彦作大尉
大阪編成の歩兵第217連隊(第三四師団)と十三師団より、人員を抽出して編成されました。大隊長は歩兵34連隊の中隊長よりの転任です。
歩兵4個中隊、機関銃、歩兵砲の各中隊に通信小隊で編成されました。

旅団砲兵隊 (隊長佐藤泰治大尉
独立山砲兵第51大隊より人員・資材を抽出して編成されました。佐藤大尉も大隊付からの転属です。山砲2個中隊より編成されていました。

旅団工兵隊 (隊長大森清治大尉
工兵第13連隊より人員・資材を抽出して編成されました。大森大尉も連隊副官からの転属です。

旅団通信隊 (隊長簗山栄次大尉
第十三師団通信隊より人員・資材を抽出して編成されました。大森大尉も通信隊からの転属です。

さて、ここで母隊となった第十三師団第三四師団の気持ちになってみますと、これから長躯転進して、いよいよ米軍と最後の決戦の準備に入ります。その前に最精鋭の兵員・資材を新設部隊に提供できるでしょうか?
こうして、とりあえず頭数を揃えることが出来た八八旅団でしたが、その錬度・装備については、お寒い状況でした。装具・兵器・弾薬については、ほとんど全てくたびれた鹵獲品で、士官学校を出て一線に配備されていた下級将校などほとんどおらず、召集されてきた幹部と兵員ばかりで構成されていました。
当然、機械化装備など存在せず、挽馬編成で、馬についても駄馬ばかりという、旅団長のぼやきが聞こえてきそうな旅団です。ちなみに編成の完結した第三四師団は、八八旅団に守備地域(全県周辺の湘桂公路を中心とした50キロ圏)を明渡し、そそくさと他に転進していきました。



2.第十一軍の広西撤退準備と諸作戦

1944年末に湘桂作戦終了後、貴州省方面に指向して守備体制を展開していた第十三師団(師団司令部、宜山)のうち、歩兵第65連隊(連隊長 伊藤義彦大佐)だけは、宜山より西方100キロの河池方面に突出するような配置になっていました。
第十三師団の守備陣地のうち、最も重要なポイントを守備しており、文字通りの最前線で、重慶軍と中隊単位での迎撃戦を繰り広げていましたが、3月になって連隊長が服部卓四郎大佐に変わります。服部大佐はそれまで大本営陸軍部第二課長(作戦課)の要職についており、日本軍全戦線の作戦を立案する立場から、中国最前線の連隊長に転補したのです。

4月中旬に隣接兵団の第二十軍止江作戦(正確な字は止の上に草冠)が発令されます。これは元々、四川侵攻作戦の前段階として計画されていたもので、まずはその前進基地となり、有力な航空基地でもあった、湖南省の止江を攻略しようという作戦です。
第二十軍のうち、2個師団(第四七師団、第百十六師団)、1個旅団(第六四師団の歩兵第六九旅団)を中心に実施される作戦ですが、第十一軍からは、第三四師団歩兵第217連隊を増援に差し出すことになりました。さらに後追いで、第三四師団が戦略予備として方面軍に取り上げられることになります。

この段階で、第十一軍は前述の第十三師団を含めて、湘桂作戦の事後処理に終われており、急ぎ、体制を立て直す必要に迫られました。さらに第六方面軍からは内々に、「将来の広西撤退」を告げられて、独立混成第八八旅団の編成完結を急ぐとともに、3個師団を取り上げられてしまう前に、敵に一撃与えて出鼻をくじく必要が発生しました。
この結果、実施されたのが、都安作戦です。

第十三師団の守る宜山・河池地区と、第三師団の守る南寧地区の間に、都安という町があります。両師団がハサミのそれぞれの刃のように守備位置を固めているその中間にあたるところです。この町には重慶軍の第46軍が展開しており、新編第19師、第170師、第175師が所属していました。

この中間の敵を撃破する作戦準備をしている最中、4月9日に軍司令官が交代します。新たな軍司令官となったのは、笠原幸雄中将で、前任の上月中将の後を受けて、そのまま都安作戦の指導を行なうことになります。

都安作戦は、第三師団が南から、第十三師団が北から、それぞれ都安を挟み撃ちにする作戦でした。両師団は補給地区の武漢から大きく離れたところに展開しており、補給状況は最悪でしたが、第十三師団は、先の作戦で鹵獲した兵器弾薬を装備の中心に当てていたため、自動小銃などで装備が強化されており、正式装備の第三師団が弾薬不足で汲々していたのと、対照的な状況でした。

両師団は4月21日に攻勢発進をしましたが、その直前に都安の46軍は整備休養のために後方に下がっており、僅かな留守部隊が駐屯しているだけでした。
小規模な激戦はあちこちで展開されましたが、第三師団歩兵第34連隊と、第十三師団歩兵65連隊が一気に突進し、都安と近くの隆山を攻略、5月2日までに原駐屯地に撤収して、作戦を終了しました。



5月2日に終了した都安作戦でしたが、第十一軍は息つく間もなく次の作戦が待っていました。
支那派遣軍は、今後の本土決戦と、米軍の大陸上陸を想定して、中国西部地域に指向していた各兵団を撤収して、反撃弾力を上げ、上陸してきた米軍を迎え撃つ計画を立てました。その結果、四川、貴州方面での作戦を実施していた第六方面軍を中支方面に順次撤収させることになったのです。
うち、第十一軍は広西省から撤収して、武漢地区に集結し、事後の防衛作戦に当たることとなり、その作戦は「広西省反転作戦」と呼称して、5月3日から実施されることになりました。つまり都安作戦から1日しか余裕がなかったことになります(両作戦をあわせて、「湘桂反転作戦」と呼称します)。

ここで第十一軍は苦しい立場にたちました。そろそろ手放さなければならない第三師団は、仏印国境の南寧を守っており、ここから同師団を引き抜くと、南方軍との陸路連絡が完全に絶たれます。当時、大陸打通作戦に参加し、その後、南方軍の指揮下に入った数個師団の追求兵力や南方軍補充員が広西省に滞留しており、もう少しだけ南寧地区は維持したいのが正直なところでした。
その結果として、「第三師団と第十三師団は後方に転進、ただし、第十三師団の第65連隊は第十三師団の守備位置の後衛として、最後まで駐留、都安作戦後の第三師団はそのまま遷江方面に転進し、事後、南寧の守備は第五八師団の独立歩兵第94大隊が受け持つ」ということになりました。


撤退作戦は、最初、4月下旬の第三四師団の転出から始まりました。三四師団の後は、既述の通り、独立混成第八八旅団が守備を継承したのですが、戦力は半分以下に落ちていました。

続いて、第十三師団が機動を開始します。65連隊は後衛に残し、第116連隊が先発し、続いて第104連隊が続行します。その間、第65連隊「服部支隊」となり、河池地区の重慶軍に限定攻撃を発起、周辺の敵兵力を掃討した後に、河池を破壊して宜山に後退しました。

一方、第三師団のほうですが、南寧−遷江間の守備に第6連隊第二大隊を守備させて、残りは遷江を中心とした地区に展開していました。
この間、小椋大隊(6連隊第二大隊)小林大隊(五八師団独歩94大隊)は、最後の南方補充員を送り出し、各地に展開した残留部隊を収容しつつ、遷江に向けての遅滞戦闘を開始しましたが、日本軍の撤退に気付いた重慶軍が攻勢をかけてきて、機関銃や迫撃砲を打ち合う激しい戦闘となりました。
両大隊は敵中に孤立した状況にしばしば陥り、追い越した重慶軍を各地の守備隊と連携して各個撃破しながら北上を続け、5月31日にようやく三師団の守備地域内に収容されました。


5月24日に第三四師団が湖南省へ進出し、5月31日に第十三師団が桂林を通過していきました。一番南方にいた第三師団は、6月中旬頃、桂林に到着予定でした。
宜山と南寧の連絡点となる柳州に、軍司令部は位置していましたが、服部支隊の後退と、遷江付近で後衛戦闘を始めた歩兵第6連隊が後退してくるまで、現位置に留まることになります。

服部支隊は宜山より柳城に向けて、さらに遅滞戦闘を続けることになりました。5月27日に師団より宜山の守備を継承し、その直後から日本軍主力の撤退を知った重慶軍の攻撃が始まり、6月13日まで大隊単位で宜山渡河地点の守備戦を継続します。
追いすがる重慶軍を蹴散らしながら、柳城に後退した服部支隊ですが、ここで軍司令部より守備を受け継いで(6月18日)、軍司令部は後退し、服部支隊は28日まで柳城を守備します。柳城周辺には大隊規模の重慶軍が幾つかありましたが、服部支隊は奇襲攻撃をかけて、一気に掃討を完了し、撤収まで柳城を安定して保つことに成功しました。

一方、南の第6連隊(連隊長松山良成大佐)に苦境に立っていました。日本軍の撤退を知った重慶軍が戦区単位での大攻勢を開始し、疲れた連隊が迎え撃つ重慶軍は、1万5千もの数になっていたのです。
第6連隊が撤収収容に利用した遷江とは、揚子江の支流である武江にある渡し場の街で、大軍の渡河作戦に適した地区となっています。
遷江から北岸に渡河を完了した第6連隊は、5月31日に遷江の閉塞を実施し、遷江には独立歩兵第94大隊(小林大隊)を残して、連隊は柳州への後退を開始しました。
ところがその動きを知った重慶軍は小林大隊に大挙して襲い掛かり、たちまちのうちに危機が訪れます。丁度、遷江と柳州の中間に位置していた第6連隊は、そこで戦闘部隊のみを反転させ、遷江の激戦に再度参戦しました。
遷江に引き返したのは、第6連隊第一大隊、第二大隊、で、第一大隊は遷江北岸に渡河し、背水の陣を引いていた重慶軍に突撃を開始し、第二大隊はその右翼に展開して、龍虚付近より渡河してくる重慶軍を阻止しました。また、野砲兵第3連隊第一大隊と連隊の各砲兵中隊は前線阻止弾幕を張るとともに、対岸への射撃を実施して増援部隊の渡河を阻止し、配属されていた戦車第三連隊の1個小隊も、上陸地点への突撃を実施して蹂躙戦闘により、重慶軍の大軍を撃破しています。
この作戦で、第一大隊長が負傷しましたが、全体として、迅速に遷江地区の重慶軍撃破に成功し、第6連隊はすぐさま、柳城に向けて再反転を開始しました。


第六連隊は6月18日に柳州南西で重慶軍に待ち伏せ攻撃を受けて大激戦となりましたが、なんとか切り抜けて柳州に到着し、広西省の南東地区を守備していた独立混成第二二旅団(節)も柳州を6月28日に撤収して、なんとか全県方面への軍主力の集結が見えてきました。




3.独立混成第八八旅団の退路確保戦闘

第三、十三師団独立混成第二二旅団や軍直属部隊は、柳州から全県に向けて撤収を行なったのですが、その間に興安という土地があります。この地域を守っていたのは全県を守備していた独立混成第八八旅団でしたが、この公路上の要衝にたいして、重慶軍は第十一軍の退路を遮断しようと大攻勢をかけてきました。
これは止江作戦が挫折し、後退を開始した第二十軍を追撃していた重慶軍の一部で、7月上旬に一時、公路を完全に遮断してしまいました。
桂林を守備していた第五八師団は、もう何ヶ月も守備を続けており、準備万端で、何度攻撃を受けても簡単に撃退していたのですが、寄せ集めの独立混成第八八旅団で1個軍もの攻撃を支えるのはさすがに荷が重く、旅団は第十三師団の指揮下に入り、両部隊があわせて、同地を防衛することになりました。

興安付近に五旗嶺という山岳地帯があり、独立混成大八八旅団は公路の西側にあたるこの山地の高地を占領して、「沖天陣地」と名付け、西方より圧迫してくる重慶軍第54軍の猛攻を支えていました。
重慶軍は、迫撃砲と野砲を集結させて、山腹に対して猛撃を行い、旅団は連絡をずたずたに絶たれ、旅団本部すら連絡不通となってしまったため、各部隊が個々に戦っているような状況でした。
そんな中、第十三師団第104連隊第一大隊が増援として戦場に到着し、山頂付近に陣取った重慶軍に突撃をかけましたが、猛射を受けて死傷者が続出し、一旦、戦線を整理し(7月18日)、この際にようやく旅団司令部の命令を掌握しました。
一方、第十三師団の後衛として、柳城撤退後も殿を続けていた服部支隊も、丁度この頃に興安を通過しようとしており、師団命令によりただちに支援として、戦域に突入し、山岳内での小規模戦闘を続けて、一気に撃破してしまいました。
この結果、桂林−全県公路は一応安全となり、軍直轄部隊を始めとした残軍の後退は、予定通り行なわれることとなりました。




4.全県反撃戦

その後、7月25日に、軍は桂林を撤収し、全軍が全県に集結しました。方面軍の指令だと、この全県を軍は一ヶ月確保する必要がありますが、既に第三、第十三、第三四師団は他の方面に転進してしまいました。
残った兵力というと、 第五八師団、独立混成第二二旅団、独立混成第八八旅団と、僅かな軍直轄部隊のみで、全県はともかく、その後の広大な平地が続く華南省での後退作戦は寒い限りでした。

この後の後退作戦を行なう前に、軍の前面に進出してきた敵に一撃を与え、重慶軍の動きを封殺するような作戦が必要と考えられ、その作戦地域として、全県南西の隘路で軍主力を持って包囲戦を実施することになりました。

当時、全県を守備していたのは、独立混成第八八旅団で、随時後退してくる他の2兵団の収容を行なっていました。そこで、五八師と二二旅をそのまま、全県北方の鬱蒼と茂った森林の中に隠し、八八旅団は全県南西正面に薄い防衛線を張って、重慶軍を誘引し、残りの2個兵団で一気に包囲殲滅を図る作戦を実施することになりました。


1945年(昭和20年)8月12日。
独立混成第八八旅団は全県の北東に主力を出撃準備のまま展開させ、一部の部隊を持って、全県南方に囮部隊として守備陣地を構築させました。
一方、第五八師団独立混成第二二旅団は、全県北西の森林地帯に息を潜め、重慶軍の突入を待ち構えていました。
12日早朝、八八旅団の出した囮部隊を重慶軍が攻撃をはじめ、所定の方針に伴い、囮部隊は全県に向けて後退します。一方、全県の街には火が放たれ、遠めには早くも陥落の業火が包んでいるようなシーンを演出しました。

全県の街に先鋒が突入し、火を放ったと錯覚した重慶軍本隊は急遽、全県に向けて突撃を開始しました。その時、青吊星弾が宙に放たれ、満を持した3兵団が全火器による一斉射撃を開始したのです。
また、配属されていた戦車第三連隊も湘桂作戦以来の全力出撃を実施し、兵力的には圧倒的な重慶軍に突っ込んでいきました。配属されていた独立野砲、山砲、迫撃砲の各大隊も一斉に射撃を開始し、たちまちのうちに辺りは阿鼻叫喚の状況となりました。

たちまちのうちに重慶軍は算を乱して、重慶軍第20、26軍は霧散し、昼頃には全県周辺で重慶軍は完全に姿を見なくなりました。後には、山のような遺棄物資が積まれていただけです。
一応、追撃を少しだけ続け、戦場の整理を終わったあと、第十一軍は全県からの撤退を開始しました。その開始日は1945年8月15日。全県付近での勝利は、文字通り日本陸軍の最後の会戦での勝利となったのです。




後書き
今回は旅団戦記なんですが、あまり主役の旅団が活躍しません。独立行動をほとんど取ったことがないことと、常に上位兵団や組織の指揮下にあったためで、そういう意味では厳密な旅団戦記になっていないかもしれませんね。

本旅団を取り上げたのは、「佐藤さんの旅団戦記って勝ち戦が一つもありませんね」という、知人の一言がきっかけでした。よし、じゃあ書いてやろうじゃないか、どうせなら開戦当初の進撃期ではなく、中期以降の日本軍が苦戦していた時期のヤツを。
・・・その後、この沖天旅団を探し出すまでに、結構時間がかかりました。本当に真っ当に作戦上の勝利をあげた旅団というのは少ないです。

本来は、節兵団(独立混成第二二旅団)にしようかな?とも思ったのですが、こちらはこちらで大陸打通作戦でも結構書くことが多くて、今後他のネタにしようと取っておきました。そのうち、書くかもしれません。

あと、今回の記事ではかけませんでしたが、大陸戦線というのは悲惨な戦場です。日本軍の補給がないため、略奪は軍の作戦行動に組み込まれているという、とんでもない有様でした。日本軍の進路上にあたった街や村はたちまちのうちに荒廃してしまったというのは、本当のことです。
この辺については、日中戦争史を専門にまとめている方がたくさんいるので、私はあくまでも旅団戦記として書いていく予定です。

次はヤップ島の四九旅団か、シンガポールの二六旅団あたりかな?と思っていますが、気分屋なので、まったく別方面かもしれません。まあ、まじめに更新し続けることが何より大事ですけど(笑)

主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
  • 「丸別冊」不敗の戦場(太平洋戦争証言シリーズ12)/潮書房/1988
  • 「日本陸軍連隊総覧」/新人物往来社/1990
  • 「戦史叢書 昭和20年の支那派遣軍(1)」/朝雲新聞社/1971
  • 「戦史叢書 昭和20年の支那派遣軍(2)」/朝雲新聞社/1973


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