〜研究作文其の三二〜

ラングーンの落日〜独立混成第百五旅団(敢威)戦記〜



1944年の後半に入り、いよいよ戦局は日本にとって最悪の状況となっていきました。ほとんどの戦線で連合軍に押しまくられ、玉砕した部隊や、戦線の後ろに取り残されて遊兵化した部隊も多数あり、戦線を支えている兵団もほとんどが消耗して、戦力は微々たるものとなっていました。
南方戦線に兵力を送り込んだ、日本本土や満州、中国戦線も戦力的に空洞化し、あらゆる戦線で戦力が不足しているのが現状でした。

そんな中、各方面では、根こそぎ動員や現地再編成により、新規部隊を編成して、戦線を支えようとする動きが出ます。本土・満州・中国では、後方部隊や訓練部隊等を基幹として、多数の部隊が編成されていきましたが、南方戦線も例にたがわず、現地の部隊を組み合わせて新たな戦力を編成しようとしました。

そうして幾つかの独立混成旅団が誕生しますが、そんな中、1945年に一つの独立混成旅団が誕生しました。場所はビルマ戦線。
10個師団もの戦力を投入したビルマ戦線ですが、数度の大作戦や防衛戦闘でほとんどの戦力がすり潰され、英軍機甲部隊は無人の野を行くが如く、突進を続けていました。
その目標はビルマの首都、ラングーン。ところが日本側には、ラングーンにまともな作戦兵団を置けるような余裕すらなくなっていたのです。
そんな状況の中、在ラングーンの部隊をかき集め、首都防衛のために新たな旅団が誕生しました。その短く過酷な運命を辿った独立混成第百五旅団(敢威兵団)が、本レポートの主役です。




1.1945年のビルマ戦線の状況

1944年3月に始まったインパール作戦は、作戦参加した3個師団(第十五、三一、三三師団)が、ほとんど作戦戦力として成り立たなくなるほどの損害を出した後、1944年7月に中止されました。同じ頃、インパール方面の作戦を支援するために、フーコン渓谷で過酷な持久戦を続けていた第十八師団も、とうとう力尽きて、カマインからモーガンに撤退しました。
1944年8月には、北ビルマの要衝ミートキーナが陥落し、9月には、雲南方面の要衝を死守していた拉孟、騰越の守備隊(ともに第五六師団所属)が第三三軍の救援作戦も間に合わず玉砕し、北ビルマ方面はいよいよ火急を迎えます。
一方、南ビルマのアキャブ方面では、第二八軍に所属していた第五五師団第五四師団が、戦力をすり潰しながら、各拠点を何とか死守している状況でした。

そんな状況の中、日本側も必死の立て直しを図ります。あまりにも無残な結果に終わったインパール作戦の直接指揮を取った第十五軍ビルマ方面軍の司令部は根こそぎ人事替えを実施し、北部ビルマを放棄して第三三軍第十五軍ラシオ・マンダレーといった中部ビルマまで後退させ、再編成と防御弾力を高める策を取りました。

インパールの戦場を離脱し、辛うじてチンドウィン河の右岸に集結できた第十五軍の3個師団の残存戦力は、
第十五師団 約3000〜4000名
第三一師団 約5000名
第三三師団 約2000〜3000名
となります。1個師団、約16000名を誇ってアラカン山脈を越えようとした各師団は、補充兵員を含めても、1個連隊程度の戦力にまで、磨り減ってしまいました。この他に、装備火砲の大半(持ちきれずに後方に残置した火砲以外)を喪失し、重装備の過半も失っています。

ビルマ方面軍としては、十五軍の戦力を早急に回復させ、中部〜南部ビルマ戦線での防衛作戦に参加させる必要がありましたが、丁度その頃、フィリピンでも激しい戦いがはじまり、補充戦力の大半がフィリピンに投入されたこと、南方までの輸送船団が維持できなくなった等の理由で、戦力回復は遅々として進みませんでした。
ビルマ方面軍では、ビルマにいる部隊の再編を行い、なんとか兵団としての組織のみでも回復させようとしました。十五軍に所属していた各師団の連隊を2個大隊編成とし、後方部隊の一部を復員させて補充要員とすることで、第一線の兵員の充足を図りました。
また、ビルマにいた歩兵第61連隊(第四師団所属)を基幹として、独立混成第七二旅団を編成し、在ビルマの独立速射砲大隊や野戦重砲兵連隊を解隊し、独立中隊や大隊を再編成して、機動力のある戦力編成を実施しています。


このような各兵団が消耗しきった状態で、1945年は明けました。
既に北部ビルマを喪失したことで、インド−中国の連絡線は確立され、援蒋ルートの遮断というビルマ作戦最大の目的は喪失していました。ビルマの戦略価値はシンガポールに繋がる、マレーシア・タイの防衛前哨線としての意味程度に低下していたのです。
そんな中、ビルマ方面軍はビルマでの作戦を3つに分割します。北部の援蒋ルート遮断の作戦を「断作戦」、中部のイラワジ河での防衛作戦を「盤作戦」、南部ビルマ海岸線の防衛作戦を「完作戦」と呼称し、それぞれ三三軍、十五軍、二八軍を当てて作戦準備をさせました。「断作戦」については、1944年秋に実施していた雲南作戦の名称を、そのまま引き継いでいます。
当時の各軍の基幹戦力は、
第三三軍 第十八師団 第五六師団
第十五軍 第十五師団 第三一師団 第三三師団 第五三師団
第二八軍 第五四師団 第五五師団 独立混成第七二旅団
方面軍直轄 第二師団 第四九師団 独立混成第二四旅団

この3作戦の中で、最も重要視されていたのが、「盤作戦」です。この作戦の戦域は中部ビルマのイラワジ河地域で、北部のフーコン方面と、西部のインパール方面から進撃してくる英軍が合流する地域でした。

一方の英印軍は、インパールで日本第十五軍を撃破したイギリス第14軍(第4軍団、第33軍団。5個歩兵師団、2個機甲旅団、2個歩兵旅団基幹)がチンドウィン河を渡河して、中部ビルマに雪崩れ込もうとしており、北部では中国新編第1軍(2個師団基幹)バーモを占領し、中国新編第6軍(3個師団基幹)カーサ、シュエボの2ヶ所からイラワジ河を渡河し、ミンモット、マンダレーに向けて南下しようとしていました。
ですが、ここで中国大陸で実施された大陸打通作戦への対抗のため、2個師団が中国本土に帰還することとなり、ビルマの攻略は、第14軍が中心となって実施することとなりました。1944年末のイギリス第14軍の戦力は以下の通りです。

イギリス第14軍 (司令官、スリム中将
第4軍団
 第7インド師団、第17インド師団、第255インド戦車旅団、ルシャイ旅団、第28東アフリカ旅団
第33軍団
 第2師団、第19インド師団、第20インド師団、第254インド戦車旅団、第268旅団
軍直轄
 第5インド師団


増強されて、6個師団、2個戦車旅団、3個歩兵旅団となった第14軍は、経験錬度とも高いレベルに保った機械化率の高い兵団でした。
連合軍の戦略としては、第4軍団でイラワジ河の左岸に日本軍を追い込みつつ、第33軍団を長躯南下迂回させてイラワジ河を渡河させ、マンダレーを攻略、一気に日本軍主力を包囲殲滅しようという作戦です。

期せずして、日英両軍ともイラワジ河畔で決戦を行なうことを意図して、作戦準備を進めました。こうして、ビルマ戦線の最後の決戦ともいうべき、イラワジ会戦の幕はあけることとなります。





2.イラワジ会戦と独立混成第百五旅団の編成

日本軍は、1945年初頭、追撃してくる連合軍の攻撃で損害を重ねながら、何とかイラワジ河畔にたどり着き、決戦のための防御陣地を構築し始めます。
イラワジでの戦いの主力となるのは、インパールでぼろぼろとなった第十五軍で、マンダレーの北に第十五師団を、マンダレー前面のイラワジ河左岸となるサゲインを中心としたイラワジ河屈曲部に第三一師団を、その左側のイラワジ河右岸を第三三師団で固め、マンダレー南のキャウゼに軍予備戦力の第五三師団を配置して、会戦時の決戦予備としました。

イラワジ河屈曲部の奥まったサゲインとその北方に連なる高地に、強力な防御陣地を構築して持久力を高め、イラワジ河屈曲部を包囲するように配備した3個師団で、一気に包囲殲滅するという作戦は、理論的にはそれなりの作戦と言えました。
ただ、制空権も重火力も喪失した状態で、河幅数百メートルに達するイラワジ河を渡河攻撃することは、現実的に不可能で、イラワジ河右岸に渡河を試みる連合軍に痛撃を与えるという方向に、方針が変わりました。兵法でいう、『敵の半渡を持って攻める』という作戦です。
部隊の防御力がもっとも低下するのは上陸時ですから、理に適った作戦です。第十五軍の4個師団が、まともな戦力を維持しているのであればですが。

イラワジ会戦が始まろうとするときの第十五軍の戦力は、インパールで比較的戦力を維持して撤退することのできた第三一師団が6000名強で、後の3個師団は4000〜5000名程度の戦力しか持っていませんでした。
ちなみに十五軍の東で苦戦していた第三三軍は約15000名、南ビルマの第二八軍は約40000名といった戦力でした。

連合軍の進撃は早く、1945年1月中旬にはイラワジ河左岸に到達し(最初についたのは、第十五師団地域。もっとも北方の戦線です)、2月中旬にはイラワジ左岸の日本側防御陣地が次々と蹂躙され、日本側は右岸に撤退していきます。3月頭には、戦力的に貧弱な第三一師団と第三三師団防御境界線付近を、イギリス第4軍団の2個師団が強襲渡河してきました。
一方、英33軍団は、2月20日頃に第十五軍と第二八軍の境目辺りにあるニャングで渡河に成功(戦力が足りず、ほとんど防御戦力がいなかったためです)、はるか東のメイクテーラに向けて突進を開始、機甲部隊の怒涛の進撃が始まりました。
第三三師団は司令部ごと蹂躙状態に陥り、慌てて転進してきた第五三師団は、英軍の進撃の後方に取り残されます。メイクテーラに突入した英軍は、方面軍の最後の予備兵力であった第四九師団が迎撃することとなり、3月頭、イラワジ会戦を縮小して、方面軍は英機甲部隊の突進をメイクテーラで食い止めるべく、メイクテーラ会戦へと作戦を切り替えます。
そして、シャン州方面より機動してきた第三三軍を中心とする周辺各部隊が、メイクテーラで死闘を繰り広げることとなりました。
イラワジ会戦が発動した1月9日から2ヶ月間、イラワジ周辺の攻防戦は英軍の機動作戦に翻弄され、十五軍左翼でイラワジ河を突破されたあとは、会戦というより英軍の突進を食い止めるための防御戦となってしまいました。
第十五軍の各兵団はますます戦力を消耗し、もはや満足な作戦の実施が不可能な状態にまで追い詰められてしまいました。

一方、イラワジ会戦を展開していた第十五軍を支える、他の2個軍も苦闘を繰り広げていました。
第三三軍は元々3個師団基幹の戦力で、北部ビルマで作戦を続けていたのですが、南方軍第二師団を取り上げられ、イラワジ会戦が始まると第十八師団をはじめとする軍主力を、さらに十五軍方面に取り上げられました。
現地住民も日本軍の将来を見据えて協力を拒むようになり、やせ細った三三軍は、ジリジリとマンダレーに向けて、追い詰められることとなりました。マンダレー東方、メイクテーラを指向できる地域に三三軍は集結し、イラワジ会戦の支援と、イラワジ河が突破された後の防御戦闘を実施することとなりました。

もう一つの第二八軍も苦戦を続けていました。イラワジ会戦を支援するため、第五五師団の歩兵第112連隊を基幹とする干城兵団を編成して、第十五軍方面に増援として送り込むとともに、アキャブ方面より撤退した第五五師団所属の部隊を~威部隊として再編成して、後方拠点の防御に当てて防御体勢を固めました。
軍主力は南部ビルマデルタ地帯(アキャブ地区)を放棄して、エナンジョンを中心とするイラワジ河畔地域に集結し、イラワジ会戦を支援する形を取りました。沿岸地区を疾駆するイギリス第15軍団は、2年にわたって日本軍に阻止され続けたアキャブを攻略するとともに、ビルマ沿岸を着々と攻略していきました。同地の日本軍守備隊は次々と後退・突破され、2年に及ぶ防御戦は、いよいよ破綻の危機を迎えていました。


各戦線が崩壊する中、いよいよ戦場が迫ってきたビルマの首都ラングーンの防衛をどうするか、という点が問題となりました。ラングーンは南ビルマを防衛する第二八軍の防衛管轄に入っていましたが、軍の主力2個師団は西部沿岸地域に、1個旅団はエナンジョン油田地帯の防御に回さなければならず、まともな部隊を置く余裕はありませんでした。それに、二八軍は作戦時のみにラングーン地区に対して指揮権限があるだけで、まともな防御準備に携わることが出来なかったのです。
ラングーンの防衛は、首都ということで比較的充実していた防空部隊と、3個軍に補給を行なっている兵站部隊が中心でした。まともな陸上部隊がいない以上、マンダレーからメイクテーラ・トングーと英機甲部隊が一気に突進をかけてくれば、大変なことになります。そのため、在ラングーンの部隊をかき集めて、独立混成旅団が1つ編成されました。独立混成第百五旅団、通称号は「敢威兵団」です。

1945年3月10日にとりあえず編成が完結した第百五旅団は、以下のような編成でした。

独立混成第百五旅団 旅団長 松井秀治少将

旅団司令部 241名
独立歩兵第451大隊
 戸倉C次中佐 (本部、2個中隊、作業小隊編成。軽機18、重機4、擲弾筒18、歩兵砲1、鹵獲速射砲2 総勢582名)
独立歩兵第452大隊 堀重太郎少佐 (本部、2個中隊、作業小隊編成。重機6、迫撃砲12、歩兵砲2、鹵獲機関銃2、鹵獲野砲2 総勢510名)
独立歩兵第453大隊 渡邊正博少佐 (人員未充足により、編成未完結。ラングーンで召集した人員を充当。 総勢450名)
旅団砲兵隊 葭葉平四郎少佐 (鹵獲野砲6、牽引車2 総勢275名)

3個大隊編成ですが、うち1個大隊は未編成に近く、総数も2000名に全然足りません。重火力はビルマ侵攻時に鹵獲した18ポンド砲や25ポンド砲で、まともな通信隊すら編成にない微弱な部隊でした。
もっとも、この旅団は陸上戦闘時の歩兵部隊として編成されており、この旅団には多数の付属部隊が所属していました。以下にその部隊を挙げていきます。

付属部隊

蘭貢高射砲隊 (蘭貢=ラングーン)
司令部 金子陽介中佐以下、200名
野戦高射砲第33大隊 八八式7糎高射砲6、九九式8糎高射砲6 450名
独立野戦高射砲第59、60、61中隊 八八式7糎高射砲4、九九式8糎高射砲6、鹵獲高射砲4 400名
高射砲第103連隊第7中隊 九三式照空灯6、九〇式聴音機6 150名
ビルマ軍高射砲隊 鹵獲高射砲4
工兵第55連隊の1個小隊 30名
海軍第12警備隊の1個陸戦中隊 70名

蘭1部隊 第73平坦地区隊本部を再編成 70名
蘭2部隊 緬甸方面軍野戦自動車廠より人員抽出 180名
蘭3部隊 第30野戦勤務隊を再編成 180名
蘭5部隊(工兵) 各部隊より人員を抽出した独立工兵中隊 200名
蘭6部隊(通信) 方面軍通信隊より人員抽出 40名
蘭7部隊(衛生) 第106兵站病院の再編成 40名
蘭67部隊 緬甸方面軍兵站監部、方面軍司令部より人員抽出 400名
蘭68部隊 第2鉄道監部より人員抽出 450名
蘭69部隊 海上機動第3大隊を再編成 512名
蘭70部隊 在ビルマ邦人を現地召集 370名 のちにインセン刑務所で服役中の囚人を組み込む

さらに後のラングーン出撃時に追加された部隊は以下の通りです。

蘭60部隊 在ビルマ邦人を現地招集 300名
蘭501部隊 方面軍下士官教育隊を再編成 300名
海軍連合陸戦隊 ビルマ・ラングーン方面にいた第12警備隊、第13警備隊を再編成 400名
第82飛行場大隊 ラングーン・トングー周辺の飛行場管理部隊を歩兵化 400名
沖元憲兵隊 在ラングーン憲兵部隊の陸戦化 50名


防空部隊・兵站部隊から方面軍司令部の後方部隊、飛行場関係までかき集め、現地に居住する邦人や、ラングーンの刑務所で服役していた者、さらには付近にいた海軍部隊まで回収して、次々と旅団に組み込みました。
旅団のこの時点(3月上旬)の人員数は資料がありませんが、だいたい5000名弱というところでしょうか?
ですが、まともな歩兵と呼べる戦力はほとんどなく、装備も鹵獲品や旧式品ばかりで、極めて弱弱しいものでした。

この旅団を率いることになったのは、松井秀治少将です。百五旅団長をする前には、第五六師団歩兵113連隊の連隊長を務めており、長期間ビルマ戦線で戦い続けた、実戦派の旅団長でした。
1944年5月より開始された雲南地区の戦いでは、中国軍の第一次攻撃を撃破し(第一次怒江作戦)、龍陵周辺での機動反撃戦、各地の守備隊救出等、弱体化した1個連隊で雲南地区を駆け回っていました。
この間、元々連隊が駐屯守備していた、拉孟の守備隊が救援間に合わず玉砕し、真鍋大尉以下の連隊の各中隊の留守小隊と連隊旗が玉砕しました。連隊は断作戦に参加して、なんとか拉孟を救出しようとしたのですが、間に合わなかったのです。
その後、三三軍の消耗とイラワジ会戦支援のために、師団は中部ビルマに後退し、その時に旅団長への異動が命じられました。

ラングーンにいたほとんど全ての日本人を文字通り根こそぎ動員して、編成を完結した独立混成第百五旅団でしたが、その任務は当初から過酷なものとなっていきました。




3.ビルマ戦線の崩壊と、第百五旅団の出撃

1945年2月に編成が開始され、3月にとりあえず完結(未編成大隊等もいますが)した独立混成第百五旅団ですが、当初の任務は、連日ラングーンを襲ってくる空襲の被害調査と復旧でした。元々戦闘部隊ではないし、ラングーン守備の任もあるため、イラワジ河で続いている激戦には関与していなかったのです。

しかし、刻々と悪化するビルマ情勢は、ラングーンに展開していた第百五旅団を意外な形で巻き込みます。前年暮より不穏な動きを見せていたビルマ国軍が、3月27日に各所で一斉に反乱を起こしたのです。
そもそもビルマ国軍は、南機関が海南島で訓練をしたビルマ志士達が、機関の協力を受けつつ作り上げたものでした。日本軍はビルマ侵攻作戦時に、これらの志士達に「即事独立」を約束していたのですが、その約束は果たされませんでした。ビルマ国軍の指導部は日本軍の背反に憤慨しながらも、国軍を充実するためにビルマ方面軍の指導により活動を続けました。
ですが、ビルマ情勢は日本側圧倒的不利となり、ビルマ国軍はイギリスと独立か自治を条件に交渉を始めます。そして日本軍と心中するつもりのないビルマ国軍は、この日一斉に叛火を挙げたのです。

この反乱に対して、日本側はイラワジ河での戦闘が総崩れとなり、メイクテーラで何とか防御線を再構築しようと躍起になっているところでした。当然のことながら、前線の部隊を鎮圧に割くような余裕はありません。唯一動けた部隊は、ラングーンを守っていた第百五旅団だけだったのです。

約1万のビルマ国軍は、一部の部隊がイラワジ会戦に参加させられていましたが、主力はラングーンとマンダレーの間にいました。この地域で一斉に反乱を起こすと、ラングーンと前線の補給線が完全に途絶します。そのため、反乱鎮圧のために出動を命じられた第百五旅団は、編成したばかりの独立歩兵451大隊、452大隊、蘭68部隊を用いて反乱鎮圧にあたります。
ラングーンとその近郊のトワンテ・チラワの反乱軍の武装を解除させつつ、ペグーにも進駐してここでも武装解除を実施しました。ただし、反乱軍の主力はビルマ山中や森林地帯に後退して、鎮圧活動はあまり効果をあげませんでした。反乱軍はこの後、ラングーンより前線へ向かう補給部隊を襲撃したりして、日本軍を悩ませることとなります。


1945年4月に入り、メイクテーラ会戦は日本軍の戦力の枯渇により作戦中止、各部隊はラングーンの北にあるトングーで最後の防衛線を張るべく、英機甲部隊に蹂躙されつつ後退を続けていました。
トングーを固めることになったのは第十五軍ですが、戦力消耗でまともに戦える状態ではなく、トングー北方のピンナマを固めるはずの第三三軍は、軍司令部まで英機甲部隊の攻撃にあって壊滅し、まともな兵団の形を保っていない状況でした(後に再集結に成功)。トングーでの会戦は、準備の段階から、既に不可能な状況だったのです。

そして、ラングーンにも戦線の気配が感じられるようになった4月23日、ビルマの日本軍に止めとも言うべき、事件が発生します。ビルマ方面軍司令部のラングーン撤退です。
メイクテーラを抜いた英軍を阻止するような戦力はなく、マンダレー街道に沿ってトングー・ペグーと抜かれると、ラングーンは孤立します。まだ、トングーが陥ちる前に、というのが真相のようですが、撤退というよりはラングーンからの脱出に近いものでした。
戦後、方面軍関係者がいろいろと語っているので、ラングーン撤退については、ここでは多く語りませんが、前線で戦っている各軍司令部をはじめ、前線部隊に事前に何の連絡もしなかったこと。撤退が決まってすぐの行動で、ラングーン在留邦人をはじめ、ほとんど方面軍司令部は残余の措置を取らなかったこと。トングーが突破されそうになって急に撤退したことにより、如何にも逃げ出したようにしか見えないこと。ということを考えれば、批判を受けても仕方ないかと思います。
この方面軍司令部のラングーン放棄により、ビルマ戦線はいよいよ終焉へと突き進みます。堂々とラングーン入城をしてから3年、ビルマはいよいよ斜陽の刻を向かえたのです。


方面軍があたふたとラングーンを去る際、同地の防衛の任務についていた第百五旅団は何をしていたのでしょう。
なんとかラングーンを防衛するために、部隊の再編成と各所への配置に必死でした。しかも、ラングーン防衛司令官でもあった松井旅団長に何の連絡もなく方面軍司令部は撤退していったのです。旅団の兵が方面軍司令部跡を警備するべく派遣されましたが、そこは書類等が散乱したひどい有様だったとのことです。
旅団は已む無く、ラングーンの後始末を始めます。ラングーンの収容所に多数いた捕虜は、一部をモールメンに向かわせましたが、現地でほとんどを解放し、港湾地区の重要設備の破壊を実施(爆薬がほとんどなく、一部の桟橋くらいしか破壊できませんでしたが)、在留邦人、特に婦女子のモールメンへの脱出の指示(幸い小さな船舶があり、幸運なことに空襲に遭わず、無事にモールメンに着くことが出来ました)等々。

一方、モールメンに後退した方面軍司令部は、4月27日に旅団に対して「ペグー=パヤジーで英軍を阻止せよ」との命令を出します。
英軍の突進は早く、速やかにペグーにたどり着かないと、ペグーも取られて第二八軍を始めとする南部ビルマの日本軍は孤立します。先遣隊を鉄道で送り出し(これがビルマの鉄道で最後に日本列車が走った編成だったそうです)、残りの主力は自動車で移動しようとしましたが、方面軍が撤退するときにほとんど持ち去ってしまい、已む無く各隊は徒歩行軍で移動しました。
放火と暴動であちこちから煙の上がっているラングーンを後に、一路ペグーに向かいます。ここはラングーンの南で海にそそいでいるペグー河の渡し場の町で、南部ビルマの要衝とも言えました。

パヤジーがあっという間に蹂躙突破されましたが、ペグーの守備は辛うじて間に合いました。旅団は各歩兵大隊を基幹に、旅団砲兵隊の鹵獲25ポンド野砲 を茂みの中に配置し、29日から壮絶な機甲戦闘を開始します。
鹵獲野砲や配属高射砲隊のゼロ距離射撃戦闘で、英軍のM3戦車を次々と撃破していきましたが、翌30日には英軍は機甲部隊を旅団の両翼から迂回させ後方に進出、各所で混戦ともいうべき機甲戦が展開されます。
それでも、あちこちにあったクリークと破甲地雷を用いた地雷原により、英機甲部隊のペグー突入は数日遅れたと、英軍側が認める効果的な防衛戦でした。

パヤジー派遣部隊や増援部隊、ペグー防衛部隊の指揮官が次々と戦死し、数少ない砲が対戦車戦闘で刺し違えていく中、30日に方面軍から再び命令が届きました。「旅団はラングーン方面に撤退し、ラングーンを死守せよ」
戦闘中ではありましたが、已む無く旅団は矛を収めて急遽転進することとなりました。

そのまま、命令どおりにラングーンに向かうと、あっという間に英機甲部隊に追いつかれ壊滅してしまいます。そのため、一旦、ラングーン北方のペグー山中タウンジーに集結し、ここから南下してラングーンに向かうこととしました。

旅団主力が山中に入り、ラングーンへの帰還を図っていた5月3日、第26インド師団ラングーンに入城しました。空挺部隊の先遣隊が入った後、北方より突進してきた部隊も次々とラングーンに入城し、ここにラングーンとビルマは完全に連合軍に奪還されたのです。
旅団は、ラングーン周辺で英機甲部隊相手に阻止戦闘を繰り広げていた配属部隊を、掌握しつつ南下し、ラングーン入城部隊に攻撃をかけようとしていた矢先、「ラングーン北方に持久して、ラングーンに切り込み戦を行なうべし」という命令を方面軍から受けて、タウンジーの北東のタンタウジに転進します。

そして、5月上〜下旬の間、ここを拠点にラングーン=ペグー間のマンダレー街道に切り込み部隊を多数送り込みました。そして、第二八軍と方面軍主力との連絡線を確保するために、ペグー山系の防衛線を構築していきます。英軍も1個師団基幹で何度か攻撃をかけてきましたが、防御陣地に寄った防衛線と、切り込み隊の活躍により、何とか同地を守り続けることができました。






4.第二八軍のシッタン河突破と終戦

独立混成第百五旅団は、6月10日に方面軍直轄から第二八軍に復帰します。
方面軍の第二八軍への命令は、ラングーンに対する攻撃をかけて英軍の妨害を実施するとともに、同じく孤立した第三三軍への補給作戦でした。しかし、この時期、ビルマは本格的雨季に入っており、渡河材料も制空権もない状況で、そのような作戦を実施することは不可能で、第二八軍は当初の目的通り、シッタン河を突破して、方面軍主力との連絡を図ることとしました。

6月下旬に第百五旅団が確保していたペグー山系に、軍主力は何とか集結を完了します。ボロボロとなった各兵団は、兵の体力をはじめとして完全に消耗しきっており、新たな作戦を実施するのは、困難としかいえませんでした。
しかし、ここで第二八軍は、軍を遊兵化させないために、新たな活動を開始します。ビルマ最後の作戦であり、最後の悲劇ともいえる「シッタン作戦」です。

完全に英軍の占領下となった地域を突破して、シッタン河を突撃渡河し、方面軍主力に合流する作戦ですが、資材もろくになく、しかも雨季で増水したシッタン河を渡河するのは、どう考えても無理な作戦でした。しかし、それ以外には方法がなかったのです。
第三三軍が残る全力を振り絞り、シッタン河左岸で攻勢をかけ(シッタン会戦)、それに呼応して第二八軍がシッタン河を強襲渡河します。
7月20日を期して、第二八軍の各部隊はペグー山系を駆け下りて、シッタン河を渡河することとなりました。うち、第百五旅団は最も南のニュアンレビン北方を渡河することとなりました。筏を組むための竹と縄を将校以下全員で準備し、渡河の邪魔になる重火器以上の携行兵器は一切破棄、各軍にそれまでの感状を授与して、これまでの功績をたたえたあと、心機一転、シッタン河に突撃をかけました。


ペグー山系に集結しているとはいえ、糧食は欠乏し、傷病者は次々と衰弱して戦死していきます。数万もの大規模な兵力が山中に入っているため、糧食が圧倒的に不足していたためです。各部隊はフラフラになりながらも、所定の作戦に基づいてシッタン河河畔に進出していきました。

第百五旅団は、ニュアンレビン西方のバインダナアークに集結し、突破部隊の編成と渡河準備を実施しました。だいたい以下のような編成です。

右縦隊
~保部隊(独立歩兵第451、452大隊)
中央縦隊
旅団司令部、旅団砲兵隊、配属蘭部隊主力 海軍深見部隊(第12、13警備隊主力)
左縦隊
金子部隊(旧蘭貢高射砲隊基幹)

7月10日頃に旅団長が掌握した兵力数は、約3400名。それらの部隊を隠密裏にバインダナアークに進出させていきました。しかし、海軍深見部隊のみ集結地点に到達せず、已む無くこの部隊を残していくことになります。
後落した海軍部隊(約850名)は、陸軍から遅れてシッタン河に向かいますが、陸軍部隊の大規模な渡河作戦が演じられた後だったので、英軍の警戒も厳重で、次々と英軍の警戒線に捕捉されていくことになります。
8月1日のマンダレー街道突破で大損害を受け、8月8日に部隊主力が英軍に包囲されて壊滅し、三々五々生き残りがシッタン河を渡河して、終戦後に陸軍部隊に収容されました。この時に収容された海軍部隊は僅か8名とのことです。

一方旅団そのものは、比較的うまく渡河作戦を実施しました。旅団主力の中央縦隊は予定通り7月20日にマンダレー街道を突破、24日にシッタン河を渡河しました。本隊は幸いなことに、シッタンの支流であるシュジエン河の渡河の際には、第三三軍の連絡将校と合流することが出来、三三軍が用意した渡河資材を利用することが出来たのが、成功の大きな要因といえます。

右縦隊は敵に追撃を受けて捕捉され、451大隊長戸倉中佐が戦死するなどの大損害を受けながら、7月26日に辛うじて渡河を終了しました。

左縦隊は突撃時に道に迷って敵と遭遇し、大損害を受けましたが、7月30日ごろまで渡河を終了しました。

第二八軍がペグー山系に入った際には、34000名もの兵力を抱えていましたが、シッタン河を突破して無事に軍司令部が掌握できた数は、約15000名。英軍が確認したシッタン河突破時の戦死者は6000名で、他に1000人弱が捕虜となりました。この他に人知れず水没したり山に消えた兵も相当数に上がるはずです。

旅団はシッタン渡河の際に、携行火器のほとんど全部、特に重火器の全部を失い、旅団長が掌握できた兵数も約2200名に激減していました。それでも第二八軍の他隊よりは比較的うまく渡河できたかと思います。


旅団を含む第二八軍はシッタン河に沿って、モールメン方面に転進中に終戦を迎えました。戦後、シッタン渡河をしなければ数万の将兵が生き残れたのにということを語られることがありますが、その当時第二八軍では終戦情報などまったく押さえておらず、そのままペグー山系の留まっていれば、餓死を待つだけだったのです。やむにやまれぬとはいえ、数万の将兵を濁流に飲み込んだシッタン作戦は、終戦前の大きな悲劇といえます。

第百五旅団の基幹要因1959名(厚生省復員局調べ)中、復員できた将兵は1313名です。650名近い戦死者を出し、さらに配属部隊を含めると、3000名以上の損害を出しました。3月に編成されたから5ヶ月間、機甲戦闘や山中の切り込み戦、シッタン渡河等の過酷な戦いに借り出された臨時編成旅団は、ほとんど名前を知られることなく、その部隊史を閉じることになります。




後書き
太平洋正面の旅団ばかり書いてきたので、ここで視点を変えてビルマの旅団を書こうと思いました。ビルマには3個旅団がありまして、どれも悲惨な戦闘をしたのですが、今回はその中でも恐らく一番知名度の低いであろう第百五旅団です。モール陣地のウィンゲート空挺隊を迎え撃った独立混成第二四旅団や、エナンジョンで機甲部隊と白兵戦を演じた独立混成第七二旅団についても、そのうち書きたいな、と思っています。
固有の旅団戦記があるようなのですが、それについては今回発見できませんでした。そのため、個々の戦闘についてはちょっと描写が散漫になっていますね。資料が見つかったら、改訂したいと思います。
しかし、1945年のビルマ戦線はあちこちで戦線崩壊を起こしていて、書いていて非常に切なくなることが多いです。インパールしか知られていないビルマ戦線ですが、その後のほうが、はるかに戦死者数は多いというのに。

主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
  • 「丸別冊」悲劇の戦場(太平洋戦争証言シリーズ10)/潮書房/1988
  • 「戦史叢書 イラワジ会戦」/朝雲新聞社/1969
  • 「戦史叢書 シッタン・明号作戦」/朝雲新聞社/1969
  • 「日本陸軍連隊総覧」/新人物往来社/1990
  • 「日本陸軍部隊総覧」/新人物往来社/1998
  • 「陸戦史集16 雲南正面の作戦」/原書房/1970
  • 「回想 ビルマ作戦」/野口省己/1995
  • 「イラワジ河畔会戦」/河田槌太郎/朝文社/1995
  • 「最悪の戦場 独立小隊奮戦す」/緩詰修二/光人社/1999


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