〜研究作文其の三一〜

ソロモンの防波堤部隊〜独立混成第三八旅団(力)戦記〜



ガダルカナル島の攻防戦は、太平洋戦争の本を読めば必ず出てきますが、撤退作戦が成功したという記述の後、通常はニューギニアやマーシャルの戦いに移ってしまいます。しかし、考えてみてください。ガダルカナル島の撤退作戦は1943年2月、それから終戦まで2年半もの期間が存在しています。この間、ソロモン諸島はどうなっていたのでしょう?
海軍好きの方なら、1943年の暮れくらいまでは、水雷戦隊の海戦が頻繁に起こっていたので、どういった作戦が行われていたか、ご存知かもしれません。しかし、その後はどうでしょうか。ほとんどご存知ないかと思います。

ガダルカナル島を確保した連合軍は、続いて、レンドバ島、コロンバンガラ島、ブーゲンビル島と、ソロモン諸島を北上するように次々と上陸をかけていきました。本レポートはそのうち、最後のブーゲンビル島について、まとめています。
ブーゲンビル島と言えば、ブインの零戦基地、ショートランドに集結するガダルカナル島行きの水雷戦隊が思い浮かびますが、1945年頃のブーゲンビル島では、どのような作戦が行われていたか、どんな部隊がいたかは、あまり知られていません。

陸軍の戦記等読まれている方は、「第六師団がいて、タロキナ作戦があったんだよね」と、仰るかもしれませんが、ブーゲンビル島の南を守っていた第六師団に対して、ブーゲンビル島の北を守っていた独立混成旅団については知らないと思います。
ブーゲンビル島の真ん中の山岳遅滞で50キロにも及ぶ遅滞戦闘を繰り広げた、独立混成第三八旅団について、簡単に語って見ましょう。




1.ソロモン諸島方面の状況と、第十七軍

1943年2月に日本陸軍の第十七軍ガダルカナル島より撤退し、中北部ソロモン諸島に新たな防衛線を構築しました。その際に主力となったのは南東支隊で、ガ島でボロボロになった歩兵229連隊(第三八師団所属)と、熊本の最精鋭部隊である歩兵13連隊(第六師団所属)の2個連隊で編成されていました。
ガダルカナル島を守り抜いた連合軍は、続いてその矛先をガ島の先にあるレンドバ島に向けます。ここには零戦の不時着場としてようやく整備されようとしていたムンダ飛行場をはじめ、ソロモン諸島を制するために重要なポイントでした。
レンドバ島の攻防戦は、陸軍は歩兵229連隊を基幹とした部隊で防衛し、コロンバンガラ島にいた歩兵13連隊が援軍として向かう形を取りましたが、圧倒的な連合軍の前に陸海軍とも激しい戦闘で消耗してしまいました。
消耗した支隊はコロンバンガラ島に撤退しましたが、連合軍はさらに北にあるベララベラ島に上陸し、已む無く、支隊はさらにブーゲンビル島に撤退しました。これが1943年9月頃の状況です。ソロモン諸島はいよいよ最北端の最大の島、ブーゲンビル島に焦点が集まってきたのです。

この頃、ブーゲンビル島を守っていた部隊は第六師団です。九州編成の国軍最強師団の一つとうたわれており、西南戦争を端緒として、日本の行ったほとんど全ての戦争に参加している優秀な部隊でした。他に海軍も第八艦隊司令部をはじめとして、陸戦隊多数を編成に抱えており、相当数の戦力がブーゲンビル島に展開していました。


ほとんどソロモン諸島を失いながらも、何故、第八方面軍と海軍がブーゲンビル島に固執したか。それはブーゲンビル島の戦略的位置を見ればよく分かります。
中部太平洋の防備が整うまで、なんとか南東方面で持久を図るとすれば、その最大の拠点は当然、ニューブリテン島ラバウルということになります。大型艦艇が入港可能な良港と、大型機発着可能な飛行場が複数ある大規模基地群、ソロモンとニューギニア双方への補給拠点として重要なラバウルが機能しなければ、南東方面の持久作戦は不可能でした。
そのラバウルの南東に向かい、最初にある飛行場拠点がブーゲンビル島です。そのすぐ北にへばり付くようにあるブカ島とあわせ、整備状態の良い飛行場がありました。ガダルカナル島攻防戦でも、たびたび名前の出てくるブイン飛行場です。

ラバウルとガダルカナルの中間に位置するブインが落ちれば、ラバウルは完全に連合軍の空襲圏に入ります。辛うじて潜水艦や護送船団の拠点として維持されている、ラバウルの基地機能を喪失することになり、南東方面はケリが付くことになります。それどころか、航続力のある米軍重爆が無理すれば、トラックまで届く位置にあったのです。南東方面どころか、日本が躍起になって構築している、中部太平洋方面の防備すら破綻する恐れがありました。


そういった理由から、ブーゲンビル島には国軍最精鋭の第六師団が入りました。もっとも、ブーゲンビル島は四国の2/3もあるような大きな島です。1個師団程度の兵力では、守りきれるような広さではありませんでした。そのため、ブーゲンビル島にこだわった海軍は、佐世保第六特別陸戦隊をはじめとする、陸戦隊の精鋭を大規模に送り込み、陸軍の作戦を支援します。


ここでちょっとブーゲンビル島について説明しましょう。ボーゲンビル島とも発音されるこの島は、太平洋戦争史に何度か登場します。
やはり最大の理由は、ここにブイン飛行場があったことでしょう。ガダルカナル島を攻撃する零戦隊の中継基地として、また山本五十六連合艦隊司令長官が最後を迎えたのも、このブイン飛行場です。
また、ブーゲンビル島のもう一つの拠点として、ショートランドが上げられます。ブーゲンビル島の南のあまり大きくない島ですが、水面が静かな水道があり、ガダルカナルに出撃する「鼠輸送」の駆逐艦群の前線基地となりました。また、ここにはR方面航空隊も配備され、南東方面の水上機部隊の総本山となっています。
ですが、南東方面が連合軍に圧倒され、主戦場が中部太平洋に移るにつれ、この島をはじめとする南東方面は忘れられていきます。理由は既に戦場に取り残されて、戦局に寄与できる状況ではなくなってしまったためです。しかし、この島には陸海軍の数万の大軍が守備につき、終戦まで戦い続けました。その消耗の激しさから、ボーゲンビル島をもじって、「餓島」ならぬ、「墓島」と呼ばれるようになりました。

ブーゲンビル島は南緯6度、赤道のちょっと南となります。南北180キロ、東西60キロの北西から南東にかける細長い島で、島の南20キロに「ショートランド島」と「ハウロ島」という小さめの島がありました。戦前はオーストラリアの委任統治領(ハウロ島のみイギリスの委任統治領)で、ブーゲンビル島の戦いも、主役はオーストラリア軍となります。
島の真ん中には、標高2000〜3000メートル級の山脈が3つ連なり、山岳と海岸まで迫ったジャングルの島でした。島の南西が辛うじて開けており、ブイン飛行場もこの辺に作られています。
島の首都は東海岸の島の真ん中くらいにあるキエタで、ここから島北にかけて、東海岸沿いに唯一の自動車道が走っていました。もっとも日本軍占領後はロクに整備されず、ブーゲンビル島攻防戦が始まる頃には、整備道としての機能を喪失していました。
つまり、道路が整備されておらず、島の中央は山岳地帯で突破が困難なわけです。これが原因でブーゲンビル島の作戦は、海岸線沿いの往復戦闘や、逆上陸作戦が中心となっていきます。


ブーゲンビル島に日本軍が上陸したのは、1942年3月です。ラバウルを占領した第八特別根拠地隊の1個中隊が上陸し、キエタと南海岸の要所を確保しました。その後、設営隊が入り、ブイン飛行場の造成にかかりはじめ、ガダルカナル攻防戦では中継拠点として、レンドバ・コロンバンガラ攻防戦では、前線拠点として活発な活動を続けます。

中継拠点としては重要視されていたブーゲンビル島ですが、島そのものの防御は貧弱な状態でした。じりじりと北上してくる連合軍を迎え撃つため、陸軍はここに守備隊の投入を決定します。


投入が決定した部隊は、中部太平洋方面を固める予定だった南海第四守備隊です。1943年6月に編成された部隊ですが(軍令陸甲第五五号)、その編成はそれまでの陸軍にないものでした。以下にその編成を上げてみます。

南海第四守備隊 道下義行大佐
守備隊本部 71名
第一大隊 本部51名
歩兵4中隊(中隊長以下186名、軽機6、重機2、擲弾筒12、速射砲2)
速射砲1中隊(中隊長以下97名、速射砲4(47mm)、牽引車・弾薬車各4)
戦車1中隊(中隊長以下約100名、八九式中戦車10)
砲兵1中隊(中隊長以下82名、三八式野砲4、百式観測車1)
第二大隊 編成は第一大隊に同じ
第三大隊 編成は第一大隊に同じ
通信中隊 中隊長以下117名

歩兵12個中隊は通常歩兵連隊と同規模ですが、通常の歩兵連隊が機関銃中隊を各大隊に編入しているのに対し、南海第四守備隊では速射砲・戦車・野砲の各中隊を編成に入れています。自動貨車の数が足りず機動化はされていませんが、当時としては破格の重装備部隊でした。島嶼守備ではそれほど機動化は重視されていませんし。

この南海第四守備隊は、1943年7月22日に海軍の輸送部隊(水上機母艦「日進」、駆逐艦「涼月」「荻風」「磯風」「初月」)によりブーゲンビル島に到着しますが、ここで空襲に遭って「日進」が沈没、重装備の過半と500名の兵員を海没させてしまいました。
なんとか上陸した守備隊は、その後ショートランドを中心としたブーゲンビル島南部の守備につくことになります。


一方、ブーゲンビル島に後退してきた南東支隊は、司令部のラバウルへの後退と、その解散が命じられます(1943年10月12日)。臨時編成で圧倒的劣勢ながら、半年にわたって中部ソロモン諸島に持久した南東支隊のお陰で、第十七軍は不十分ながらもブーゲンビル島の防備を調えることが出来たと言えます。
無事にブーゲンビル島に後退してきた兵員は、約7500名。中部ソロモンで4000名以上の兵員と装備の大半を喪失しましたが、再編成すればまだまだ1兵団として充分戦闘力がありました(229連隊はほぼ壊滅状態でしたが、13連隊をはじめとする各部隊は主力の温存に成功しています)。


海軍側としては、ガダルカナル島に投入するつもりで編成した第八連合特別陸戦隊がブーゲンビル島の守りについていました。もともと重火力の不足しているガダルカナル島攻略を支援するつもりで、戦艦「伊勢」「日向」の副砲を陸揚し、横須賀第七特別陸戦隊呉第六特別陸戦隊を基幹に編成した部隊ですが、ガ島作戦に間に合わず、ムンダ・コロンバンガラ防衛戦に投入されていた部隊です。


そして、ブーゲンビル島防衛の主力部隊として第六師団が上げられます。東北の第二、北海道の第七と並び、国軍最精鋭を自負する師団で、熊本歩兵第13、都城歩兵第23、鹿児島歩兵第45の3個歩兵連隊を中心に、甲編成を保った師団でした。レンドバ・コロンバンガラ・ニュージョージア等で戦力を消耗してはいましたが、主力はブーゲンビル島に展開し、中南部ブーゲンビルの守りを固めつつありました。




2.第十七歩兵団の投入と、ブーゲンビル攻防戦の開始


上記のように、中部ソロモンを喪失した後に、ブーゲンビル島に立て篭もったのは、第六師団と1個連隊規模の南海第四守備隊、それに旧南東支隊の大隊級各部隊と海軍陸戦隊(連隊規模)でした。
これだけでは、とてもブーゲンビル島を守備するのに足りないと、第十七軍は強硬に大本営に部隊の増派を要求します。ソロモンを重視する海軍との兼ね合いもあり、陸軍は持久作戦地域となっていた南東方面に、しぶしぶ1個師団を派遣することになりました。第十七師団です。
山陽・山陰の連隊で編成された同師団は、それまで華中戦線で機動戦を続けていましたが、急遽南東方面に派遣されることとなりました。当初は師団主力ごとブーゲンビル島に派遣される予定だったようですが、師団主力はニューブリテン島(ラバウルのある島)に展開することとなり、ブーゲンビル島に派遣されたのは、1個連隊を中心とした支隊でした。

派遣部隊は第十七歩兵団司令部(師団内の歩兵団です。3単位編成となった後も、師団によっては歩兵部隊を統括するために、歩兵旅団司令部を歩兵団司令部に改編したものがありました)が指揮し、師団の1/3を率いてブーゲンビル島に上陸しました。
歩兵団主力のブーゲンビル島上陸は、1943年11月27日で、既にタロキナに連合軍が上陸して第六師団の守備隊と戦闘を開始した後のことでした。 ちなみに連合軍のタロキナ上陸は11月1日です。

第十七歩兵団に率いられてブーゲンビル島の守備につくことになったのは、以下の部隊です。
 
第十七歩兵団 木島袈娑雄大佐
歩兵第81連隊 (姫路編成 連隊長 金子篤大佐
歩兵第53連隊第三大隊 (鳥取編成)
野砲兵第23連隊第一大隊
工兵第17連隊第三中隊
師団通信隊1小隊
師団衛生隊1/3

このうち、歩兵第81連隊第一大隊が輸送中に宮古島沖合いで海没しています。
また、ブーゲンビル島に投入される予定の部隊の一部(81連隊2個中隊、野砲兵23連隊1個中隊)の乗船していた輸送船が、カビエンに停泊中に空襲によって航行不能となり、これらの部隊は舟艇機動によってブーゲンビル島に入っています。作戦地域に到達するだけで、相当の苦労をした部隊です。


ようやく戦場に到着した第十七歩兵団ですが、既にブーゲンビル島での死闘は始まっていました。第六師団が実施した、第一次タロキナ作戦です。
タロキナといっても、ピンとこないと思いますが、ブーゲンビル島西海岸のちょうど真ん中にある小さな岬です。沼地が多いブーゲンビル島ですが、この地域は上陸に適した砂浜があり、連合軍(主力は米第3海兵師団)が11月1日に上陸しました。
タロキナを上陸地点として選んだのは、1.ブーゲンビル島守備隊主力第六師団の守備最北地点であり、師団主力の機動がすぐにできないこと。 2.タロキナ海岸は開けているが、周辺はジャングルで孤立しており、すぐには援軍が到着しないであろうこと。 3.守備隊が少ない(歩兵23連隊第二中隊、連隊砲1門、通信1小隊しかいなかった)。等の理由によるものです。
守備隊は相当奮戦し、多数の上陸用舟艇を撃破していますが(上陸用舟艇4隻を撃沈、10隻に損害を与えています)、まもなく守備隊との連絡は途絶、一部の生き残りを除いて玉砕しました。

この結果、南東方面の作戦は、ブーゲンビル島に集中することとなります。海軍は虎の子の第一航空戦隊の搭載機をラバウルに陸揚げして、ブーゲンビル島沖海戦(第一次〜第六次、海軍名称「ろ号作戦」)に全力を投入し、第八方面軍はラバウルにあった第十七師団の1個大隊(歩兵第54連隊第二大隊基幹)を逆上陸部隊としてタロキナに突入させ(第二機動決戦隊(第二剣部隊))、第十七軍歩兵第23連隊 を投入して、タロキナから連合軍を追い落とそうとしました。この戦いを通称、「第一次タロキナ作戦」と呼びます(11月1日〜11日)。
各部隊とも死闘を繰り広げたのですが、11日に至って第23連隊が後退し、連合軍は橋頭堡を確保することに成功しました。この結果、ブーゲンビル島に続々と連合軍が上陸してくることとなります。

制空権・制海権ともとられ、ブーゲンビル島に孤立した第17軍は、揮下の主力部隊である第六師団のうち、第六歩兵団(歩兵団長、岩佐俊少将)を中心とした岩佐支隊を編成し、師団の1/3をもってタロキナ周辺の西海岸の防備にあてました。
この時期、戦場の焦点は、タロキナにある飛行場を使用させない、タロキナから海岸沿いに連合軍の南下を阻止する、前線部隊への補給(自動車道がないため、舟艇輸送中心でした)の維持、を日本側は作戦の中心においています。

第六師団はその間に部隊の集結と訓練に全力を挙げ、1944年3月を目処にタロキナ地区に対する大反撃戦を実施することとなりました。これが「第二次タロキナ作戦」と呼ばれます。
3月8日から(師団主力の作戦開始は11日)実施された第二次タロキナ作戦の経緯を述べるのは、本レポートの趣旨ではないので、詳しくは割愛しますが、3月25日までの激戦で、師団は戦力、特に重火力のほとんどを喪失し、以後の積極作戦が不可能となるほどに消耗しました。
第二次タロキナ作戦での日本側の損害は、戦死約5400名、負傷約7000名で、それに対して米軍の損害は戦死約230名です。この時点で、ブーゲンビル島の勝敗は決まったといえました。

この後、1944年前半はブーゲンビル島の両軍接触地域で小競り合いが続く程度です。大兵力を双方とも有していながら、比較的静かに時は流れていきました。




3.独立混成第三八旅団の編成と、ブーゲンビル島の終焉

ブーゲンビル島の守備範囲は、島を真っ二つに割って、二分化されていました。つまり、西海岸のタロキナから、東海岸の長沼(ヌマヌマ南方)を境界線に、南は第六師団、北は第十七歩兵団の守備範囲とされていました。
第二次タロキナ作戦以後、戦場は小競り合い程度の小康状態を迎えます。ただし、第六師団を始めとするブーゲンビル島各部隊の補給はいよいよ途絶して、特に大作戦で戦力が大きくダウンした第六師団は、補給途絶より多くの戦病死者を出すこととなりました。もっとも酷かったのは1944年の10月頃で、その後は不十分ながら、若干の自活体勢が整い、辛うじて終戦まで持ちこたえることが出来たようです。


こうした中、1944年6月1日に、ブーゲンビル島に展開していた以下の部隊が解隊されました。これらの部隊は、兵員を第一線の戦闘部隊に編入されています。

第15野戦防空隊司令部、野戦高射砲第41、45大隊、野戦機関砲第23、31中隊、野戦照空第6大隊、独立山砲兵第10連隊、独立速射砲第2大隊、迫撃第3大隊、第39道路隊、建築勤務第55中隊、陸上勤務第96中隊、患者輸送第54、64小隊、第6歩兵団司令部、第2揚陸隊。

解隊されたのは、1942〜43年の頃に前線に出撃するための支援に当たっていた部隊と、飛行場防空部隊。既に補給も途絶した状態で、高射砲弾もほとんど底を尽き、本来の任務を果たせなくなっていたためです。

続いて、7月には、新たな部隊編成の指示がありました。当時、南東方面は雑多な部隊が各地に展開し、指揮系統がひじょうに複雑な状態となっていました。それを整理するために、ダンピール海峡以東の独立部隊を旅団化することになりました。そうして、ブーゲンビル島に展開していた部隊は、独立混成第三八旅団に再編成されることとなったのです。
旅団に編成されることとなった部隊は、第十七歩兵団司令部、歩兵第81連隊、野砲兵第23連隊第一大隊、山砲兵第10連隊、迫撃砲第三大隊等が基幹となりました。

独立混成第三八旅団 旅団長 木島袈娑雄少将 (1944年7月25日編成)
歩兵第81連隊 連隊長 金子篤大佐
独立混成第三八旅団砲兵隊 長 小坂隆士少佐 (山砲3個中隊、野砲1個中隊)
独立混成第三八旅団工兵隊 長 野々口源太郎大尉
独立混成第三八旅団通信隊 長 山本正治大尉
独立混成第三八旅団衛生隊 長 粗信雄大尉

旅団定員は3202名ですが、最前線での編成変えのため、正確な人員数は不明です。旅団の作戦は「主力を持って、ブーゲンビル島東部(ヌマヌマ周辺)を守備し、一部を持ってキエタ(ブーゲンビル島最北端、小規模ながら飛行場がある。海峡を挟んで対岸はブカ島)を守備する」というものでした。
当時の旅団及び、旅団所属部隊の配置は以下の通りです。

タロキナ峠・バカナ山系・ヌマヌマ道(タロキナよりヌマヌマに抜ける山岳横断道路と、その周辺山岳地区) 歩兵第81連隊主力
ヌマヌマ地区(キエタより北上する東海岸の要衝) 旅団司令部、通信隊、工兵隊、衛生隊
テンプツ地区(ヌマヌマと島の最北端タリナ地区を結ぶ中間点) 歩兵第81連隊第一大隊
タリナ地区(ブ島最北端) 歩兵第81連隊第十中隊、旅団砲兵隊第二中隊、野戦重砲兵第4連隊第四中隊、野戦高射砲第38大隊、船舶工兵第二連隊の一部


旅団に改編されての最初の戦闘は、バカナ山系を越えるタロキナ峠で開始されました。1944年9月に米第14軍団から豪第2軍団にブーゲンビル島攻略担当部隊が交代し、これまで米軍の作戦が「日本にブーゲンビル島を基地として使わせない」から、「ブーゲンビル島の日本軍を完全に撃破する」という豪軍の方針に転換されました。そして、ブイン方面に主力を向けたオーストラリア第3師団の一部が、三八旅団の守備範囲に攻勢をかけてきたのです。
タロキナ峠地区を守備していたのは、歩兵第81連隊第二大隊ですが、同大隊は第二次タロキナ作戦に援軍として投入され、作戦終了時の確認人員が40名というところまで消耗していました(その後多少の回復はしているようですが)。
1944年11月24日に、タロキナ峠の前哨点となるシオミパイヤで始まり、11月30日にはタロキナ峠がオーストラリア軍の手に落ちました。38旅団は防衛戦を展開していた81連隊第二大隊を、ヌマヌマ道沿いに後退させてヌマヌマ南東の稜線に防衛線を張らせ、その北方の山道に81連隊第三大隊に固めさせ、ヌマヌマ北方の海岸線を81連隊第一大隊に、南方の海岸線を旅団砲兵隊に守らせました。また、第二大隊の後方の阻止線には連隊本部、連隊砲小隊、通信隊等を配備して、ヌマヌマに対して二重の防衛線を引きました。旅団司令部はヌマヌマに位置しています。

その後、オーストラリア軍がブーゲンビル島南部のブイン地区に対する攻撃を重視していたこともあり、タロキナ峠北側では斥候が衝突する程度の小競り合いが続きます。オーストラリア軍の本格的攻撃が開始されたのは1945年3月以降で、81連隊第二大隊正面の前進陣地を一つずつ落としていく戦い方でした。
第三大隊が守備する北方道でも同様な戦闘が続き、両大隊はあちこちの守備隊を玉砕させながらも遅滞戦闘を続けることとなります。

第三八旅団の個々の部隊の資料は乏しく、各守備隊がどのような戦闘をしたのかは、現時点で私が掴んでいないのですが、山道の各要衝に中隊単位(50名もいれば良いほうだったようです)の防御陣地を構築し、密林を利用した奇襲戦で抵抗していたようです。一方のオーストラリア軍は山砲と航空機の支援の元、戦車と火炎放射器を多用した戦い方でした。白兵戦もあちこちで展開していたようです。

オーストラリア軍もこの正面には1個大隊程度しか配備しておらず、81連隊第二大隊が守備していた陣地を完全に攻略したのは1945年7月中旬です。この方面の戦闘は分隊・小隊単位の陣地戦・遭遇戦が中心で、大攻勢というものをオーストラリア軍はかけてきませんでした(20名程度同士の激突が多かったのですが、消耗していた日本軍は、この数が中隊全力ということも多々ありました)。

ヌマヌマに向かう山岳地帯は、ほぼオーストラリア軍に突破され、ヌマヌマ南方の稜線に防衛線を張りなおして、旅団はヌマヌマでの決戦に備えます。海岸線を守備していた部隊から、中隊単位で戦力を抽出して、防衛線に配置すると共に、ヌマヌマにいた各部隊に戦闘態勢への移行を命じます。
しかし、1945年8月以降、オーストラリア軍は攻撃をかけてくることはなく、そのまま旅団主力は終戦を迎えました。タロキナからヌマヌマへの50キロにも及ぶ山岳遅滞作戦で、旅団は多数の損害を出しましたが、辛うじてヌマヌマを守り抜きました。


一方、北方のタリナ地区に派遣された部隊は、同地を守っていた海軍部隊(第81警備隊基幹)とともに、この地区を守備しました。この方面は海軍の残留部隊の集結地点であったこともあり、食料事情は劣悪で、守備部隊もまちまちな状況でした。
この地区の陸軍守備隊長は独立野戦高射砲第38大隊の中村泰三中佐で、歩兵81連隊第10中隊を歩兵部隊の基幹とし、38旅団砲兵第二中隊、野重第4連隊第四中隊、高射砲第38大隊を集めてタリナ地区砲兵隊を編成していました。寄せ集めですが、高射砲を中心に20門弱の砲が集まっていたようです。また、南海第四守備隊戦車中隊の生き残り5両も、この地区に待機していました。

1944年12月31日、タリナ南方にあるソラケン港、スン高地に対するオーストラリア軍の攻撃が始まりました。
舟艇機動による強襲上陸作戦と、日本軍の電話盗聴による奇襲、それに守備陣地を迂回して後方にまわる孤立作戦を取ったオーストラリア軍に対し、日本軍は頑強な交通壕と援蓋銃座を高地に構築しており、スン高地を包囲されても全周射界を確保して、効果的に反撃していました。また、辛うじて重砲を維持していた砲兵隊の援護射撃も、相当な効果をあげています。
ソン高地の死闘は翌年2月7日の日本軍撤退まで続きます。1個中隊基幹でよく守った戦いですが、日本側の死傷率も70%を超えていました。

ソラケン地区・ソン高地の放棄により、タリナ地区はいよいよ危急の状況となりました。こんなときに第三八旅団司令部より、在タリナ地区陸軍部隊に、ヌマヌマへの転進が命じられます。
この転進により、タリナ地区は海軍部隊のみで守備することとなり、海軍部隊はタリナ半島地区に後退して、立て篭もることとなりました。一方、陸軍部隊はヌマヌマに転進しましたが(5月4日)、のちに野戦高射砲第38大隊のみ、タリナ地区に引き返して、守備隊に合流しています。
これは海軍側と第十七軍司令部の強い要望があったためとされていますが、旅団司令部としては、配下部隊の全てを集結させてヌマヌマ地区の戦闘に投入したいため、38大隊の撤退と再派遣という、不可思議な事態が発生したようです。
第十七軍と独立混成第三八旅団は、所在地もブーゲンビル島内で大きく離れており、作戦方針にも齟齬があったようです。タリナ地区で健在化したこの問題は、単に作戦ミス以上の意味を持っているようです。


1945年8月24日にブーゲンビル島の第十七軍は降伏に調印しました。独立混成第三八旅団は、相当な消耗を出しつつも、守備位置であるヌマヌマを辛うじて守備しきることに成功しました。しかし、それは、オーストラリア軍の主力がブイン方面の第六師団に指向しており、旅団の守備位置が主戦場とならなかったためとも言えます。
もっとも、山岳地帯で、奇襲や擬装陣地で粘り強く戦いぬいた各部隊が、オーストラリア軍に積極的な侵攻を実施させなかったためでもあります。旅団の本隊である第十七師団もラバウル周辺で終戦を向かえ、生き残った部隊ははるか日本に向けて、復員していくこととなりました。




後書き
中部太平洋とフィリピンの旅団しか書いていなかったので、たまには他の戦域の部隊もと、ソロモンの独立混成旅団を簡単に調べてみました。
・・・資料はあるんですが、微妙なところが分からない旅団でした。戦史叢書でも随分、簡単に扱われている部隊だし。
雑多な資料を取りとめもなくまとめましたので、ちょっとまとまりがない文章ですね。反省しています。
ブーゲンビルは第6師団やら、エレベンタ地区やら、今回は簡単にしか書かなかったタリナ地区やら、色々とポイントの多い戦場ですが、今回はこの程度でご勘弁ください。

主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
  • 「丸別冊」空白の戦記(太平洋戦争証言シリーズ1)/潮書房/1985
  • 「戦史叢書 南太平洋陸軍作戦(3)」/朝雲新聞社/1970
  • 「戦史叢書 南太平洋陸軍作戦(4)」/朝雲新聞社/1972
  • 「戦史叢書 南太平洋陸軍作戦(5)」/朝雲新聞社/1975
  • 「日本陸軍連隊総覧」/新人物往来社/1990
  • 「日本陸軍部隊総覧」/新人物往来社/1998
  • 「ソロモン最前線」/奥村明光著/叢文社/1982


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