〜研究作文其の二十八〜

日本陸軍高射師団について


日本陸軍が編成した師団級部隊は、まず通常の歩兵編成の師団、それに機甲部隊である戦車師団、航空機を集めた飛行師団の3つが有名です。しかし、この他に高射砲を集めた 防空部隊の基幹師団として「高射師団」という名の師団がありました。
高射師団は、本土防空戦力の要として、飛行師団と共同して防空任務にあたっています。今回はこのあまり知られていない「高射師団」について、簡単に解説してみようと思います。



1.高射部隊の創設

日本海軍は戦後、「海上護衛を軽視して、日本船団を壊滅に追いやった」という批判が散々でることになりました。それとほぼ同じレベルで陸軍が批判されている点として、「本土をはじめとする 防空の軽視により、連合軍の空襲で壊滅的な打撃を受けることになった」というものがあります。
事実その通りですし、日本陸軍の本土防空軽視思想については、当時のヨーロッパと比較して随分極端なものがありました。
ヨーロッパではほとんどの国が陸続きとなっており、戦争が始まったらすぐに、敵の空襲が国土に対して実施されるという不可避的な状況にありました。防空戦闘機部隊については各国ともまちまちな思想があったため、編成や整備は色々なパターンがありましたが、ヨーロッパ参戦主要国では、対空砲部隊と監視・指揮体制は何処の国もだいたいしっかりと整備して、生かしきっています。

ところが日本は四方を海に囲まれています。そしてこれは明治からの伝統的な軍思想となるのですが、戦争が始まったら日本国土からできるだけ遠くで戦闘を行い、本土を安全に保つという「外征思想」が中心となっていました。そのため、直接本土を守ろうという「防空思想」はなかなか芽生えなかったのです。

しかし、航空機の発達は、軍上層部が考えていたよりもはるかに早いものでした。第一次世界大戦でドイツがイギリス本土に戦略爆撃を実施したあとの戦間期に、爆撃機はどんどん大型化、高速化、長航続距離化していくことになります。
ですが、第一次世界大戦に本格的に参戦した訳ではない日本は、この戦略爆撃というものの重要性がいま一つ分からなかったようです。どんなことにも言えますが、『百聞は一見に如かず』。実際に空襲を体験したことのない日本陸軍に、他の軍備よりも防空戦力を充実させろといっても、まず無理な話でした(このことは戦車戦力の増強についても言えますが)。



第一次世界大戦の青島で野砲を利用した臨時高射砲が投入されて数年。大正11年(1922年)に「十一年式野戦高射砲」が制定されました。口径7.5センチで全周方向射撃が出来、初めて高射算定具を取り入れ、毎分20発の射撃が可能な、日本陸軍初めての高射砲です。

ここで、ちょっと高射砲の各装備について解説しておきましょう。
高射砲というのは、砲だけあっても何の役にも立ちません。まあ通常の野砲でもそうですが、ゼロ距離射撃や目視照準射撃を実施するのでもない限り、どうやって弾を命中させるのかという照準をちゃんとするための道具が必要です。日本陸軍では以下のような装備を使って、高射砲を射撃していました。

高射砲・・・実際に射撃する砲。これがないと始まりませんね。

高射算定具・・・目標となる航空機の未来位置を予測するための計算機。「照準具」等と呼んだりもしまして、どう違うかというと、砲に直接くっ付いているのが「照準具」、砲とは独立した機器として作られているのが「算定具」です。
航空機を撃墜するためには、「高射砲の現在位置」「航空機の高さ」「航空機の速度」を測定して、目標の未来位置を予測し、そこにタイミングよく砲弾を送り込んで、しかも丁度、航空機と砲弾の位置が同一になった瞬間に炸裂させる必要があります。つまり野砲と比較して、「高度予測」「信管調整」という命中を困難にする2つの要素が加わっているわけです。
これらの諸元を入力して機械的に計算するのが算定具です。日本の算定具は、ヨーロッパ各国が電位差利用のアナログ式を採用していたのに大して、歯車を利用した機械式で計算を行っていました。出てきた諸元は、電位差を利用して「算定具標示盤」のメーターの針として表されます。照準する際は、このメーターの針がゼロになるように、連動した砲を動かしていけばよいわけです。

聴音機・・・高射砲が如何に優秀でも、敵機を見つけられなければ何の役にも立ちません。高射砲にどの方向から目標が飛んでくるのかを探し出して指示するのが、聴音機です。
上空を飛んでいる飛行機の爆音を拾って、どの方向からどのくらい遠くに飛んでいるかを判断します。日本の聴音機は「ラッパ型」と呼ばれる拡声器を逆にしたような形がほとんどでした。このラッパで音を拾い、音を電気的に増幅させて、遠くの微かな音でも聞き取ることができます。
聞き取った爆音は方向と距離を伝えて、「余切線図」と呼ばれる盤上に5秒おきの連続点描として標示されます。最初の頃は肉声で描手に伝えていたのですが、のちに電気式に自動で表示できるようになりました。
聴音距離はだいたい6000メートルくらいと言われています。

照空灯・・・日中だと高射砲からでも目標は目視で見れますが、夜だと何処を飛んでいるか分かりません。そのため、聴音機と連動して、サーチライトで空を照らしてやる必要が出てきます。日本の探照灯の場合は射光機、離隔操縦機、発電車より構成され、極大の炭素棒を燃焼させて、発生する大光量を指向的に夜空に照射するわけです。
スペリー式やジーメンス式より発展しましたが、昭和期になって日本独自の発展と遂げていくことになります。性能としては、90センチ級が約4000メートル、110センチ級が約6000メートル、150センチ級が約8000メートルの照射能力がありました。

電波警戒機・・・聴音機は雑音や測定距離の問題がありますし、探照灯は雲が厚いとギブアップするしかありません。そこで考えられたのが電波を利用しての捜索活動です。
だいたい昭和2年くらいに発想はあったらしいのですが、何故か研究はストップしてしまい、ほそぼそながら研究材料に再登場したのが昭和11年、陸軍が本気で研究を開始したのが昭和14年で、イギリスやドイツと比べて如何にも遅いスタートです。結局この遅れは終戦まで取り戻すことは出来ませんでした。
日本陸軍の電波警戒機は2種類あります。「電波警戒機甲」はドップラー効果を利用した警戒機で、遠く離れて送信所と受信所を設置し、その間を通過する飛行機がいれば、ドップラーシフトの変調が発生するため、それで何か通過したというのを測定するものです。だいたい試作品は昭和15年くらいに完成し、開戦後日本本土を中心にあちこちに設置されました。
もう一つの「電波警戒機乙」は、線警戒しか出来ない「甲」の欠点を取り除くべく、対象目標にパルスを発射し、反射を受信機に受けて、目標の方角と距離を測定するものです。現在のレーダーと考え方は同じものになります。だいたい昭和18年後半より本格量産に入ったのですが、甲も含めてひじょうに故障が多く、兵隊泣かせの機材でした。
「甲」は100w級のタイプで約200キロの警戒が可能、「乙」は野戦用の100メガサイクル50kwのタイプで約300キロの警戒が可能だといわれています。

電波標定機・・・電波的に目標への射撃諸元を測定するための電波兵器。さきほどの警戒機が「捜索レーダー」と呼ばれるものであるのに対して、こちらは「射撃レーダー」と呼ぶことができます。
昭和14年頃から開発は開始されていますが、精度を要求される射撃レーダー、なかなか満足いく試作品は登場しませんでした。そうこうしているうちに、シンガポールやコレヒドールから鹵獲品のレーダーや電気回路図が研究材料として提供されます。そして、昭和18年のドイツとの連絡船で、ドイツ防空レーダーの主力である「ウルツブルグレーダー」の技術者が日本にやってきます。その技術提供を元に、日本製ウルツブルグレーダーの開発を開始しますが、試作品の完成は昭和20年の7月、ついに実戦には間に合いませんでした。
実戦には、3型が故障続きで苦労する中、約170台が整備され、実戦投入されています。


高射砲射撃関係だけで、だいたいこのくらいの機材が出てきます。もちろん移動用の各種車両や、補給部隊等も含めると、ひじょうに多数の機材人員が必要です。これから考えると、高射砲部隊は日本陸軍にとって、ひじょうな金食い虫だったということがいえます。防空部隊の整備が遅れた理由の一つがこんなところにあるのかもしれません。


そんなこんなで、十一年式野戦高射砲が誕生しましたが、射高は7000メートルに満たず、より高空を狙える大型砲が求められました。その結果誕生したのが、「十四年式十糎高射砲」です。射撃装置等は十一年式のまま、口径を10センチにスケールアップしたものですが、十一年式野戦高射砲が2トンだったのに対し、十四年式は5トンにも達し、移動は大変なので固定陣地砲として要塞等に設置されました。ただし、10センチ砲弾はひじょうに重く、そのため高射砲の命の一つともいえる発射速度が遅くなってしまったので、装備部隊からは不評な砲でした。

この十四年式が制定された年に、防空部隊関係では大きな動きがあります。
大正14年(1925年)、宇垣一成内閣の第二次軍縮が実施されますが、歩兵師団が4つも削減される中、静岡県浜松に高射砲第一連隊が編成されました。日本で初めての常設高射砲連隊です。編成は十四年式十糎高射砲を2門装備した中隊を2つ集めて1個大隊を編成、この大隊を2つと照空中隊をあわせたものでした。連隊全部で陣地高射砲が8門ということになります。

こうして、ようやく防空に対する体制作りがスタートしたかに見えましたが、日本陸軍の防空部隊の歴史は、ここから随分長い間、停滞することになります。





2.大陸戦線の拡大と防空組織の編成

浜松に出来た高射砲第一連隊。この部隊が弟分の高射連隊を迎えることが出来たのは、なんと創設から10年後の1935年(昭和10年)となってしまします。この年は3個連隊と1個大隊、翌年も3個連隊追加されて、平時編成は高射7個連隊の部隊編成となりましたが、柏の高射砲第二連隊が取りあえず部隊の形を成したのが1937年(昭和12年)、その他の連隊はさらに時間がかかることとなりました。
その間、あっという間に旧式化した十一年式野戦高射砲に代わる新作、「八八式七糎野戦高射砲」が制定されました。最大射高約9000メートル(実際の有効射高は4000メートル程度だったようですが)で、限定的ながら平射能力も与えて、陣地/要塞防御火砲としても機能できる優秀な高射砲でした。2000門以上量産され、日本陸軍の行くところ、何処にでも持っていって戦闘をしたいました。
また八八式は、日本で初めて車両機動を前提とした火砲です。エアタイヤではないですが、パンクレスのソリッドタイヤをつけ、ゴロゴロと移動していました。故障が多くて、兵士泣かせの兵器だったようですが。

さて、高射砲も新しいのが生まれ、満州地方での武力衝突は益々激しくなり、ソ連が革命以来の混乱からようやく落ち着いて、いよいよ極東方面の航空戦力を増強していきました。
このため、日本陸軍の防空対象は極東ソ連空軍。満州の野戦防空と本土防空のどちらも、ソ連爆撃機からの防御作戦となっていました。

戦争が激しくなった昭和12年(1937年)、ようやく陸軍は防空任務に本腰を入れ始めます。上記7個高射砲連隊の編成と、中国大陸に出撃していく野戦高射砲隊も多数編成されました。野戦高射砲隊は、軍直属のものや、師団に所属しているもの等がありますが、通常4門編成(中隊級)で一部隊を編成しています。
次に高射部隊としての大きな動きは、防衛司令部(東部、中部、西部)が動員されたことです。日本本土の防空はそれまで師団管区単位で実施していましたが、防空作戦は師団管区のような軍政単位の区分では管制しきれるものではなく、師団管区を越えた防衛司令部がようやく設置されたのです。この防衛司令部は実際には以前からあったのもですが、ようやく軍隊区分に入り、指揮権を行使できるようになり、実働部隊として動員されました。

こうして整備が進んだ高射部隊、重要度を陸軍上層部も感じたのか、下志津に防空学校(のちに高射学校と改名)が設立されました。高射砲兵がようやく専門の術科学校をもつことが出来たのです。

この時期の高射砲兵の部隊はだいたい以下の通りです。

高射砲第一連隊・・・浜松。高射2個大隊(計4個中隊)、照空2個大隊(4個中隊)、機関砲1個中隊、材料廠
高射砲第二連隊・・・柏。高射2個大隊(計4個中隊)、照空2個大隊(4個中隊)、機関砲1個中隊、材料廠
高射砲第三連隊・・・加古川。高射2個大隊(計4個中隊)、照空2個大隊(4個中隊)、機関砲1個中隊、材料廠
高射砲第四連隊・・・甘木。高射2個大隊(計4個中隊)、照空2個大隊(4個中隊)、機関砲1個中隊、材料廠
高射砲第五連隊・・・会寧。高射1個大隊(計2個中隊)、照空1個中隊、機関砲1個中隊、材料廠
高射砲第六連隊・・・平壌。高射1個大隊(計3個中隊)、照空1個大隊(3個中隊)、機関砲1個中隊、材料廠
高射砲第七連隊・・・立川。高射1個大隊(計2個中隊)、照空1個中隊、機関砲1個中隊、材料廠
高射砲第八連隊・・・屏東。高射1個中隊、照空1個中隊

合計8つも連隊がありますが、1つは満州、1つは朝鮮半島、1つは台湾にあるため、本土四島にある高射連隊はたったの5つ。この時期はまだ1個中隊4門編成なので、日本本土に配備された連隊装備門数はわずか64門です。
大陸戦線には各野戦高射砲隊が配備されていましたが、昭和13年に高射砲第第十六連隊が編成され、上海に配備されています。



昭和15年(1940年)、いよいよ風雲急を告げている中、防衛司令部は上位組織であるへの昇格を果たしました。東部軍(関東・東北南部・北陸)、中部軍(中部・関西)、西部軍(中国・四国・九州)です。新たに北部軍(東北北部・北海道)も編成され、朝鮮軍、台湾軍の組織の再編成も実施されました。

これまで防衛司令部が直接指揮していた高射部隊は、要地防空隊と名前を変え、さらには東部、中部、西部に防空旅団を編成して、防空組織の強化を図りました(昭和16年11月)。この時期は高射部隊の大増強が開始された時期でもあり、1個高射中隊は4門編成から6門編成に拡大され、独立高射大隊、中隊も多数編成されました。
ただし、中隊が6門になったといえ、あくまで建前上の話で、実際に6門ちゃんと各部隊が装備できるようになったのは、1943〜44年ごろです。
また、高射連隊は防空連隊と改称されて、部隊の拡張も進みました。以下に開戦直前の主要防空部隊の配備をあげます。

東部軍(東部防空旅団、東京)
防空第一、第二、第三、第四、第五連隊・・・甲編成連隊(6個中隊編成の2個大隊。定数48門装備)
独立防空第一大隊・・・4個中隊、16門編成(定数)
独立高射砲第一、第二、第三中隊
第一防空気球隊・・・皇居周辺に展開、防空阻塞気球約30個を装備。
第一防空通信隊
第一防空監視隊
この他に皇居守備のための独立部隊として、高射機関砲8門が配備されていた。

中部軍(中部防空旅団、大阪)
防空第十一、十二、十五連隊
独立防空第十一、十二、十三大隊
第十一防空通信隊
第十一防空監視隊
うち高射戦力の2割程度を名古屋地区に派遣。

西部軍(西部防空旅団、小倉)
防空第二一、第二二、第二三、第二五連隊・・・二五連隊は広島に展開
独立高射砲第二一、第二二、第二三中隊・・・二一中隊は鹿児島に展開
第二一防空気球隊・・・若松地区に展開。任務は八幡製鉄所防衛
第二一防空監視隊

北部軍
防空第三一連隊
独立防空第三二大隊
独立高射砲第一大体
独立高射砲第三一、第三二、第三三、第三四中隊
第三一防空通信隊
第三一、三二、三三防空監視隊

朝鮮軍
防空第四一、第四二連隊・・・四一連隊は平壌、四二連隊は京城
独立高射砲第四一大隊
独立高射砲第四一、第四二、第四三、第四四、第四五中隊
第四一防空通信隊
第四一〜四七防空監視隊

台湾軍
防空第五一連隊・・・台北配備
独立防空第五一大隊
独立高射砲第五一中隊
第五一防空通信隊
第五一〜五四防空監視隊


一方これとは別に大陸戦線でも高射部隊が編成されていました。日中戦争開始と同時に、各師団管区で高射隊を編成し戦場に投入していましたが、地域防空について統一指揮が取れないこと、補給や補充が不便な点もあり、幾つかの部隊を統合して連隊編成としたものがあります。

高射砲第十五連隊
昭和13年(1938年)に北京・天津付近の高射部隊を統合して編成されました。北支方面軍直轄部隊として、会戦時の防空や要地守備に当たりました。

高射砲第十六連隊
高射十五連隊と同じく昭和13年(1938年)に南京付近の高射部隊を統合して編成されました。母体となったのは、上海の防空指揮機関として編成された第二野戦高射砲司令部に5個中隊を集中して編成しています。主に南京と上海地区の防空を担当していましたが、武漢地区に派遣されたりとなかなか忙しく大陸中を動き回っています。

高射砲第二一連隊
昭和14年の暮に、南京地区で編成された連隊です。南京には十六連隊がいましたが、前線に出撃していってしまったので、もう1個連隊編成したという感じです。

高射砲第二二連隊
高十五、十六の2個連隊では、大陸中の防空はとても無理です。各師団が中隊編成の高射隊や照空隊を数隊ずつ有していましたが、それは個々に動き回ったり、軍直轄部隊として運用されることが多く、要地防空任務には使いづらいものでした。
そのため、昭和14年11月、漢口地区の防空部隊を集中させて、高射砲第二二連隊が編成されました。編成に充当された部隊は、第一野戦高射砲司令部を基幹とし、周辺3個師団の高射隊と照空隊を集めています。この連隊はそのまま漢口中心とした武漢三鎮の防空任務につきました。

高射砲第二三連隊
二二連隊と同じく、作戦中心地区の南支地区防空のために編成された部隊です。中国大陸の南のほうに配備されたいたため、太平洋戦争開戦時には南方に派遣される高射連隊となりました。


太平洋戦争開戦前の主要連隊についてを取りあえず記述してみましたが、高射砲は連隊編成の部隊がひじょうに少なく、特に南方前線に出撃していった部隊は、独立野戦高射砲大隊が中心となっています。
昭和16年に野戦機関砲中隊等とともに大量編成された独野高大隊は、部隊規模が使いやすいため、軍直轄部隊として、次々と南方に出陣していきます。
一方、本土に残った部隊は、高射部隊創設とともに誕生した、教育や陣地高射砲を中心とした部隊が多く展開していました。また、平時には編成されていなかった要塞防空隊も、この時期次々と動員がかかっています。

なお、この時期に内地に展開していた高射砲はだいたい以下の数と言われています。
昭和16年に高射砲中隊が4門編成から6門編成に切り替えられていますが、まだ定数を満たしてる部隊はほとんどなく、以前の4門編成での定数だと、
東部軍30個中隊 約120門
中部軍23個中隊 約100門
西部軍22個中隊 約 90門
北部軍10個中隊 約 40門
朝鮮軍20個中隊 約 80門
台湾軍 9個中隊 約 40門
他に各要塞防空隊・独立防空部隊等 約100門

内地合計      約520門(ただし定数のため、実際は350〜400門程度)





3.内地防空体制の改編と本土空襲対応準備

太平洋戦争開戦とともに、南方各地区はどんどんと攻略され、前線は日本本土からどんどん遠くなっていきました。しかし、そののんびりモードの本土防空体制に劇的な衝撃を与える事件が起こります。1942年4月18日のドーリットル空襲です。
空母ホーネットから発進したB−25は、たった16機でありながら、日本に凄まじい影響を与えました。海軍的には発進した機動部隊と拠点を撃破する必要を感じ、これがミッドウェー海戦に繋がっていくのですが、陸軍的には2つの影響を与えています。
1.基地となる中国内陸部の航空基地の撃滅・占領
2.内地防空体制の戦力的強化、同時に防空兵器の開発促進


1については、大陸での攻勢作戦が活発化し、様々な会戦の契機となりますが、本題から離れるので割愛します。
2についてですが、まずは内地防空航空隊の統合化を実施するために、第一航空軍が編成されました。内地の航空隊を統合し、指揮・補給の面での円滑化を図るために設置されましたが、防空指揮は各軍司令官が取るという従来の指揮系統のままでした。

陸上部隊の防空能力の向上としては、まずは大陸戦線にいる幾つかの高射砲部隊を呼び戻すとともに、もっとも空襲の危険性の高い、北方戦線の防空戦力を強化することとなりました。つまり、当時本土の一部として戦域編成されていた「北千島」への高射戦力の強化です。
北部軍指揮下より北千島高射砲大隊(4中24門)を編成して派遣するとともに、東部軍揮下の独立高射砲第二大隊も派遣されました。そして、これらの部隊を元に、千島防空隊が編成され、最果ての防空を担うこととなります。(1943年5月)
また、北海道地区には、高射砲第二四連隊を中心とした戦力が増強され、室蘭製鉄所の防空体制を早急に固める体制を作り始めました。

北方を固めるとともに、内地各地の防空体制の強化も急務でした。そのため、東部・中部・西部の各防空旅団を組織改編し、「防空集団」へと昇格させました。それまで在地の各防空部隊を取りあえず集めただけだった防空旅団から、軍集団組織としての支援組織が強化されています。
また、各地の高射砲連隊補充隊を解隊し、新設の高射砲部隊として再編して、各防空集団に編入しました。補充隊は、高射砲兵の養成が任務ですが、急速に拡大する高射砲部隊の編成に追いつかず、已む無く補充隊を正規部隊に格上げしたのです。もっとも、部隊編成が変わっても、高射砲兵の養成は内地任務ということで、平行して実施していました。



さて、ここで太平洋戦争に突入した段階での、高射砲兵の装備等について解説します。
前述したように、太平洋戦争開戦当初、高射砲兵の装備のほとんどは「八八式七糎半野戦高射砲」でした。しかし、威力・射高不足が目立つようになってきたので、新しい砲が整備されることになります。

「九九式八糎高射砲」は、1937年に南京郊外で鹵獲したドイツクルップ社製の固定式88ミリ高射砲(Flak35)をデッドコピーしたものです。下手な改良を加えずに名砲と呼ばれた88ミリをそのまま生産した本砲は、ひじょうな高性能を発揮しました。もっとも電気式だった照準機構を日本的な装備にかえたり、防楯は操作上邪魔だと外したりはしています。陣地固定砲のために移動の際は大変だったようですが(一応運搬車はあるので、牽引移動は出来ます)、本砲の登場は高射砲兵達に大歓迎されました。

「三式十二糎高射砲」は、ようやく完成した二式照準具という新型電気式算定具を装備した新型砲です。さらに大重量の砲弾を矢継ぎ早に射撃するため、自動装填機構も備え、海軍式に油圧機構を装備しました。そのため、迅速な照準と追尾、そして早い発射速度を達成することが出来、旧式化した高射砲兵の切り札として期待されました。

「四式七糎半高射砲」は、野戦高射砲の主力である八八式が旧式化したのを更新するために開発されました。機械化率の低い日本陸軍では、八八ミリ以上の重高射砲は、移動や展開が大変です。そのため軽くて高く撃てる新型高射砲を開発しようというわけです。
開発を開始したのは、1935年頃からとされていますが、なかなか思うような高射砲が開発できないまま、太平洋戦争の開戦を迎えてしまいました。新型高射砲の正式化が急務だったため、仕方なく九九式と同様に鹵獲砲をベースに開発することとしました。元となった高射砲はスウェーデンのボフォース社のM29。ドイツの八八ミリの原型となった優秀な火砲です。
もたもたとした開発が終了し、ようやく量産がスタートしたのは1944年の暮れ。十二高と同じく新型二式照準具を装備し、機動性に優れた高射砲でしたが、ほとんど量産されませんでした。

また、高射砲とは別に近接防御用に、「九八式高射機関砲」も正式化されました。ちょっと前に開発された試製九四式機関砲を元に完成したもので、口径は20ミリ、初速は950ミリで、毎分300発の発射速度でした。弾倉は20発入りの箱型弾倉です。
また、本機関砲用に九八式高射照準具が制定され、その丸い照準装置が本機関砲の特徴となりました。
そこそこの性能だった九八式は、多連装化されたり(二式多連装機関砲。通称ケキ砲)、2連装化されたり(二式双連機関砲。ソキ砲)、それを基筒の上に載せて操作性をあげたり(四式基筒双連機関砲)したものが開発され、あちこちの戦線に投入されています。連合軍は海軍の九六式25ミリ機関砲のほうが怖かったようですが。



戦況がどんどん悪化していった1944年。外地に出撃していった高射砲部隊が、あちこちで玉砕したという知らせが届き始めた頃、内地の高射部隊に大きな動きがありました。アメリカ軍の超重爆「B−29」が完成し、いよいよ日本本土空襲に投入されることが確実になったためです。
1943年に「防空集団」として強化された東部・中部・西部の防空部隊は、1944年6月に「高射砲集団」という名前にさらに変わりました。編成表を見る限り、あまり中身が変わったようにみえませんが、部隊の増強は続いており、それにあわせた改名だったのでしょう。この際、「防空連隊」も「高射砲連隊」という、元の名称に戻っています。

当時、もっとも九州の危険性が高かったのは、中国大陸に近い北九州地区。B−29なら奥地の基地から楽々と飛んできます。そのため、北九州地区の防空は、1944年前半の段階で、最も重要視されていました。
北九州の最重要施設、それは「八幡製鉄所」です。新たに名前の変わった西部高射砲集団は、第九飛行師団と協力し、戦力のほとんど全部を使って、八幡製鉄所を固めました。

西部高射砲集団・・・集団長 井原茂次郎少将

高射砲第131連隊・・・若松 七高6個中隊、八高6個中隊、機関銃1個中隊、照空6個中隊編成。
高射砲第132連隊・・・小倉 七高6個中隊、八高6個中隊、照空6個中隊編成。
高射砲第133連隊・・・(旧防空23連隊)下関 七高3個中隊、十高2個中隊、照空3個中隊編成。
高射砲第134連隊・・・長崎 七高3個中隊、十高1個中隊、照空2個中隊編成。
高射砲第135連隊・・・広島 七高4個中隊、照空2個中隊編成。
独立高射砲23大隊・・・八幡製鉄所直接防空。七高3個中隊編成。
機関砲第21大隊・・・八幡製鉄所直接防空。機関砲3個中隊編成。多連機関砲等特殊装備有。
独立高射砲第21、22、23中隊・・・博多に22、23中隊、大牟田に21中隊。
第21要地気球隊・・・八幡製鉄所直接防空。
(1944年9月頃の状況)

上記のように、戦力のほとんどを製鉄所を守るためにかき集めています。その数は、七高×120、八高×92、十高×12(定数)にも達し、如何に八幡製鉄所の防空に陸軍が傾注していたかが分かります。
また、編成当初は八八式七高が主力だったのですが、九九式八高が完成すると、東京と並んで優先的に配備されたため、質的には大分向上していたようです。

B−29による北九州への初空襲は6月15日です。成都を発進し、九州へ進撃したB−29は62機で、爆撃機側も初めての日本本土空襲で大分あがっていたようですが、それは防空陣も同様でした。
北九州に空襲警報を発令すると、八幡製鉄所は炉の火を落とさなければなりません。一度落とした炉は再び活動するのに時間がかかるため、大きく生産能力が減退することになります。そのため、西部高射砲集団長はなかなか「空襲警報」が発令するのが難しかったようです。
しかし、間違いなく八幡製鉄所を狙った空襲だというのが確実視された段階で警報が発令され、高射砲部隊は上空に進入してきた重爆に対して射撃を実施しました。が、B−29が大きすぎて高度を見誤ったこと、そして、混乱の中で乱射状態に陥り、9000発を撃ちまくりましたが、撃墜機はなし。空襲後、生産の追いついていない高射砲弾の浪費を防ぐため、弾薬の節約が強く言い渡されました。

その後、7月7日、8月5日、8月6日、8月20日、10月25日、11月11日、11月21日と、北空襲地区にB−29の空襲がありました。八幡製鉄所はじりじりとダメージを受けていきますが、比較的防空体制の整った地区であったため、なかなか有効な防空戦がこの時期は展開できたようです(主力は夜戦でしたが)。



続いて強化の必要のあった地区は、名古屋地区です。ここは中部高射砲集団の管轄でしたが、この集団の主力は京阪神地区に展開しており、どうしても名古屋の防空は継子扱いになります。
マリアナ方面が大分危なくなっていた1944年6月、名古屋高射砲隊が独立編成され、留守第三師団の指揮下に入りました。この際、防空部隊も強化され、以下のような編成になります。

名古屋高射砲隊・・・司令官 入江莞爾少将

高射砲第123連隊第九中隊・・・名古屋南地区 照空中隊。
高射砲第124連隊・・・名古屋南地区 七高5中隊、八高6中隊、十二高1中隊 照空6個中隊編成。
高射砲第125連隊・・・(旧野戦高射砲第87大隊)名古屋北地区 七高6個中隊、八高6個中隊、照空隊6個中隊編成。
独立高射砲第47大隊・・・名古屋北地区 七高2個中隊、八高2個中隊編成。
機関砲第12大隊・・・名古屋周辺要地防空 多連機関砲(ケキ砲)4中隊、双連機関砲(ソキ砲)2中隊編成。
機関砲第106大隊・・・名古屋周辺要地防空 双連機関砲6中隊編成。
独立照空第11大隊・・・照空3個中隊編成。
(1944年10月末の状況)

単純に名古屋地区と書きましたが、東海全般が名古屋高射砲隊の守備範囲でした。守備範囲は横に長く、なかなか防御体制を取るのが難しかったようですが、元々浜松第一高射砲連隊のお膝元で、高射砲に対する下地のあった地区です。乏しい兵力ながら、効果的な防御体制を引こうと努力していました。
名古屋が空襲を受けるのは、1944年12月から。この時期はまだ、本当に来るかどうかと半信半疑ながら、防空体制を固めていたといえます。



一方、名古屋高射砲隊を編成し、ようやく、京阪神地区の防空に集中できるようになった中部高射砲集団は、重工業地帯となっている大阪湾に沿って、戦力を展開していました。ただし、それでも戦力の不足は否めませんでした。
名古屋高射砲隊に部隊を割いたあとの中部高射砲集団の基幹戦力は、高射砲3個連隊ですが、あちこちに分散して配備されていた点と、東部・西部高射砲集団への補充が優先されていたため、なかなか兵器の定数を満たすことが出来ず、装備砲のない中隊があちこちにありました。また、装備も旧式の七高ばかりで、高高度からの空襲に対応できるような状況ではなく、十二高の補充が待たれる状態でした。

中部高射砲集団・・・司令官 伊藤範治少将

高射砲第121連隊・・・大阪地区 一部兵力を神戸方面に派遣 七高12個中隊、照空6個中隊 (一部装備未受領)。
高射砲第122連隊・・・大阪地区 一部兵力を敦賀・滋賀方面に派遣 七高12中隊、照空6個中隊編成 (一部装備未受領)。
高射砲第123連隊・・・神戸地区 九中隊を名古屋へ 七高6個中隊、照空2個中隊 (一部装備未受領)。
独立高射砲第11大隊・・・尼崎地区 4個中隊編成。
独立高射砲第12大隊・・・京都地区 4個中隊編成。
独立高射砲第13大隊・・・大阪南部地区 4個中隊編成。
独立機関砲第11大隊・・・大阪要地直接防空 6中隊編成(多連×3、双連×2、単装×1)。
(1944年11月頃の状況)

中部高射砲集団は日本の中央部にあり、移動が便利なため、特に名古屋高射砲隊等へ、部隊を派遣することが多くありました。防御するべき施設は、高射砲を製造している大阪砲兵廠をはじめとして多数に上りましたが、その大半は旧式な七高を少数ずつ配置して、なんとか形を整えるといった状況でした。
この状況は1945年に入ってからも続き、東京や九州に比べて、防空戦力が不足しがちな中での苦戦を繰り広げることになります。



日本の主要地区4つの中で、最も防空戦力が充実していたのが、東部高射砲集団です。東京を中心とする京浜工業地帯を固めるこの集団には、東京がB−29による初空襲を受ける前に、高射砲8個連隊を基幹とした部隊が守備していました。また第十飛行師団も首都防空の任務の部隊であったため、この両部隊が共同して東京上空を守っていました。
この部隊の編成は次の章で述べますが、大規模な部隊を指揮統括するのに、高射砲集団では不足しがちなことが多々ありました。8個連隊といえば、1個歩兵師団が指揮下に入れている連隊数より多い数です。また東京には雑多な部隊が展開していたため、それらの防空指揮もなかなか大変でした。

東部高射砲集団の守備範囲にはじめて重爆が飛んできたのは、11月1日。B−29の偵察機型であるF-13が単機で超高度来襲をかけてきました。第十飛行師団はスクランブルをかけましたが、東部高射砲集団は高高度すぎて捕捉できず、一部の部隊が誤射しただけで戦闘を終了しました。
その後11月5日、7日とF-13の進入は続きましたが、高度がありすぎて射撃できず、迎撃機部隊の動きを眺めるだけで終始しています。
そして11月24日、八丈島警戒機が不明機の大編隊を捕捉し、空襲警報が発令されます。
サイパン島を出撃した第73爆撃航空団のB-29は111機で、うち17機が引き返しましたが、合計94機が東京北部にある中島飛行機の武蔵野製作所を目指します。
十数機ずつの7個梯団に分かれたB−29は、次々と関東地方に進入してきましたが、進入高度は10000メートル以上で、この高度を射撃できるのは三式十二高のみです。十二高はようやく生産が始まったばかりで、東部高射砲集団の保有数はやっと20門といったところ、この数では有効な射撃は望むべくもありませんでした。

その後、11月27日にもう一度高高度の雲上空襲がありますが、ほとんど被害はなし。11月30日には初の夜間空襲があり、機数は少なかったですがかなりの被害がでました。しかし、夜間高高度の空襲は防空部隊にはまったく手が出ず、電波兵器の緊急の性能向上が急がれることになります。

こうして、1944年の11月は終わりましたが、防空体制の不備が痛感され、高射砲部隊は組織改革を実施することになりました。それが次章で紹介する高射師団です。





4.高射師団の編成と本土空襲の激化


本土空襲が確実視され、内地防空兵力は組織的にどんどんと拡大していきました。約30の高射砲連隊と、さらに多数の大隊以下の防空部隊を管轄するのには、現状の組織では能力的な不足が目立ってきました。そこで1944年12月26日、大陸命第1211号により、高射第一師団が編成されることになりました。母体は東部高射砲集団で、集団長であった金岡喬中将がそのまま師団長となりました。
また、1945年にかけて、首都圏の防空をさらに強化するために、幾つかの防空部隊が指揮下に入り、戦力的にも大分向上しています。編成は以下の通りです。

高射第一師団・・・師団長 金岡喬中将

高射砲第111連隊・・・東京北部地区(安行) 七高7中隊、八高4中隊、十二高1中隊、照空6中隊。
高射砲第112連隊・・・東京西部地区(成城) 七高5中隊、八高4中隊、十二高3中隊、照空6中隊。
高射砲第113連隊・・・京浜沿岸地区(川崎) 七高6中隊、八高4中隊、十二高2中隊、照空4中隊。
高射砲第114連隊・・・東京沿岸地区(月島) 七高3中隊、八高6中隊、十二高3中隊、照空3中隊。
高射砲第115連隊・・・東京東部地区(市川) 七高4中隊、八高8中隊、十二高1中隊、照空6中隊。
高射砲第116連隊・・・東京西部地区(成増) 七高5中隊、八高6中隊、十二高1中隊、照空6中隊。
高射砲第117連隊・・・横浜地区 (野毛山)  七高5中隊、八高5中隊、十二高2中隊、照空3中隊。
高射砲第118連隊・・・山手区域 (後楽園)  七高6中隊、八高1中隊、照空2中隊。
高射砲第24連隊・・・連隊本部と第二大隊は北部軍所属 第一大隊、第三大隊(七高6中)は皇居。
野戦高射砲第95大隊・・・大宮 七高3中隊。
野戦高射砲第96大隊・・・宇都宮 七高3中隊。
独立高射砲第1大隊・・・新潟(派遣部隊) 七高2中隊、八高3中隊。
独立高射砲第2大隊・・・砂川(立川) 八高4中隊。
独立高射砲第3大隊・・・国分(市川) 七高1中隊、八高2中隊、照空1中隊。
独立高射砲第4大隊・・・太田 八高3中隊、十二高1中隊。
独立高射砲第44大隊・・・大宮 七高1中隊、八高3中隊。
独立高射砲第49大隊・・・福生 七高3中隊。
独立高射砲第48中隊・・・日立 七高中隊。
独立高射砲第49中隊・・・日光 七高中隊。
独立高射砲第50中隊・・・三崎 七高中隊。
独立高射砲第51中隊・・・大井 七高中隊。
機関砲第1大隊・・・皇居周辺直接防御 多連機関砲(ケキ砲)4中隊 双連機関砲(ソキ砲)2中隊。
機関砲第4大隊・・・川崎 多連機関砲(ケキ砲)1中隊 双連機関砲(ソキ砲)3中隊。
独立機関砲第1大隊・・・市谷(歩兵118連隊に配属) 双連機関砲(ソキ砲)4中隊。
近衛機関砲第1大隊・・・皇居 多連機関砲(ケキ砲)7中隊 双連機関砲(ソキ砲)2中隊。
独立機関砲第1中隊・・・三崎。
独立機関砲第2中隊・・・酒匂川鉄橋。
独立機関砲第12中隊・・・新潟港。
独立機関砲第13中隊・・・鬼怒川鉄橋。
独立機関砲第14中隊・・・二本木(長野)。
独立機関砲第16中隊・・・千手発電所(長野)。
独立機関砲第34中隊・・・柏崎。
照空第1連隊・・・久保山 照空9中隊。
独立照空第1大隊・・・大宮 照空2中隊。
第一要地気球隊・・・皇居 気球約30。
(1945年6月頃の状況)

上記のように多数ある防空部隊の総数は、七高64個中隊、八高52個中隊、十二高14個中隊、機関砲30個中隊、照空48個中隊となります。派遣部隊も多数いるとはいえ、日本陸軍はかなり力を注いで首都を守ろうとしたのが、よくわかります。
この時期に首都圏に集まっていた高射砲の数は約600〜700門、照空灯は約250基で、また当時の日本軍としては充実した電波標定機を装備していました。標定機の数は、
標定機た号二型  ×15
標定機た号三型  ×22
標定機た号改三型×4
標定機た号四型  ×20
標定機た号改四型×4
標定機へ号    ×7
となりました。もっとも、資料にあるものを数え上げたのですが、こんなにあったのかちょっと疑問です。70基を越える電探が、首都圏防空部隊に配備されていたとは思えませんが、高射教導隊の各中隊が固有装備として持っていたくらいなので、意外と普及していたのかもしれません。

また変り種の装備としては、東京の海沿いに展開していた高射砲第113、114連隊が、「照空船」という装備を持っています。守備位置が海なので、東側の警戒態勢がなかなか取れません。そのため、照空灯を船に搭載し、海上から空を照らしたのです。113連隊は2隻、114連隊は4隻を保有していたようです。

こうして、防御体制は一通り固まりましたが、問題となるのは装備火砲です。高射砲の生産は大阪第二造兵廠第一製造所が行っていましたが、この製造所は重砲をはじめとして、日本軍のほとんど全ての火砲を製造している大工場です。火砲を生産するためには、砲身素材を製造し、そこから削り込んで製造するわけですが、これがまともに作れるのは、それなりの設備を持った工廠でないといけませんでした。小火器や砲弾はそこら辺の工場でも何とかなりますが(質は別です)、中口径砲と呼ばれる高射砲の製造には大変手間がかかったわけです。

実際の高射砲製造門数は正確な資料がありませんが、八八式七糎半高射砲が約2000門強、十一年式と十四年式が合わせて200〜300門程度、九九式、三式、四式は部隊配備数と製造能力を考えて、全部あわせて1000〜1500門程度(最大値で見積もった場合)かと考えられます。

軍隊の規模に比較して、ひじょうに少ないように感じますが、防空任務の半分は海軍が引き受けて、要地防空や島嶼地区には、海軍の優秀な高角砲が多数入っています。そのため、見た目ほどは数の不足が顕著ではなかったようです(それでも少ないのは確かですが)。



こうして編成された高射第一師団ですが、編成直後からいきなり戦闘に突入します。マリアナには続々とB−29が終結し、爆弾の貯蔵をまって次々と日本本土に飛来するようになっていたのです。

11月30日 師団編成直後に、マリアナの第21爆撃兵団は、前述したように初の夜間空襲を実施(出撃機数約30)。

12月 3日 東京西部の中島工場を狙った空襲が実施されました。この日は約80機が来襲し、第十飛行師団は初めての組織的な空対空特攻部隊を出撃させています。高射砲部隊は十二高中隊を中心に活躍し、2機の撃墜を報じました。

12月27日 しばらく間を置いて(その間、B−29は名古屋や阪神地区を爆撃していました)、中島武蔵野製作所を空襲、これが3度目となります。この日も空対空特攻「震天隊」が活躍し、2機を体当たりで撃墜しています。高射砲部隊は撃墜1、撃破7を報じ(米軍記録では撃墜は合計3機)、少しずつ自信をつけていきました。

1月9日 年が明けて、最初に名古屋に焼夷弾攻撃をしかけたB−29は、この日、再び武蔵野工場に精密爆撃を実施しました。しかし、偏西風がこの日は強力で、出撃したB−29のうち、目標上空に到達できた機数は、20機足らず(出撃は70機)。防空部隊はこの日も奮戦し、撃墜6機の戦果をあげています。

1月22日 この日の空襲から、米軍の指揮官が変わっています。爆撃兵団の司令官が更迭され、新しく司令官となったのは、日本全土を焼き尽くしたことで名前を知られるようになったカーチス・ルメイ少将。前任者の精密爆撃から自論である、無差別焼夷弾爆撃へと戦術を転換しました。もっともこの日はまだ精密爆撃を実施していますが。
約70機のB−29はまたしても目標に到達できず、有楽町あたりに爆弾をばら撒いて引き上げています。この日は防空戦闘機隊が活躍し、撃墜は各部隊合計で22機を報じました(米軍記録では9機未帰還)。

2月10日 B−29はちょっと目標を変えて、群馬県にある中島飛行機、太田工場を目標とします。この日もまだ精密爆撃でしたが、この時は上空がよく晴れていて、目標が分かりやすかったようで、太田工場は工場全体の1/3が被爆し、大損害を受けました。この工場を守っていたのは、独立高射砲第4大隊。1個大隊ですが、八高と十二高を装備した優秀な高射砲隊です。大隊は全力射撃で迎え撃ち、撃墜3、撃破11を報じました。米軍記録では未帰還12機です。

2月16,17日 この日来襲したのはB−29ではなく、硫黄島攻略を支援するために空襲を仕掛けてきた第58任務部隊です。16日は7波のべ940機に及ぶ艦載機が来襲し、日本側も第十飛行師団と、第三航空艦隊の戦闘機戦力全力で迎え撃ちました。
高射第一師団も、飛行場周辺に展開している高射機関砲中隊を中心に、来襲地域に展開した全部隊が防空戦を展開し、撃墜19機、撃破17機の戦果を報じました。ちなみに第十飛行師団は撃墜62、第三航空艦隊は撃墜55機を報告しています。
翌日も艦載機は来襲し(のべ500機強)、陸軍の防空戦闘機隊が出撃を止められてしまったため、海軍戦闘機隊と高射砲部隊が中心となって迎撃しました。それでも十飛師は36機を撃墜、三航艦も22機、高射第一師団は撃墜14機、撃破6機を上げています。
米軍の報告では損害は2日間で49機の未帰還でした。


少しずつ激しくなっていく空襲の中、日本防空兵力は必死の奮闘を続けます。しかし、戦力不足、特に中京・阪神地区の防空能力の不足は否めず、あちこちの都市や工場が少しずつ焼かれ始めました。
そうした中、本土の防衛組織がまたもや、大きく変わります。しかし、今回のはこれまでのものと大きく異なる点がありました。これまでは本土に来襲する敵機や敵艦隊を撃破するための防衛組織だったのが、「本土決戦」に備えた実戦組織へと改編されたのです。

1945年1月20日に出された「帝國陸海軍作戦要綱」に基づき、1945年2月6日に「大陸命第1244号」が発令され、内地の各防衛軍が編成されました。
東北軍管区が第十一方面軍に、東部軍管区が第十二方面軍に、東海軍管区が第十三方面軍に、中部軍管区が第十五方面軍に、西部軍管区が第十六方面軍に編成変えされ、防空部隊も担当の各方面軍の指揮下に入りました。
また日本を東西に分割して、東側(第十一、十二、十三方面軍)に第一総軍が、西側(第十五、十六方面軍)に第二総軍が編成され、各方面軍は総軍の隷下に入りました。同時に航空総軍も編成され、内地の全航空部隊の統一指揮を行うことになりました。


この頃、問題となっていたのが、東北地方の防空です。北海道については、室蘭製鉄所を始めとして、第五方面軍(旧北部軍)の高射砲隊が、少ないながらもまとまって配備されているので、それほど問題とはなりません。
しかし、仙台や釜石製鉄所を守るための東北地方の防空隊は、1945年に入った段階で、独立高射砲第34中隊だけでした。たったの1個中隊ではどうにもなりません。
そのため、1945年5月頃から、第十二方面軍(=高射第一師団)の部隊を、少しずつ配属してもらうことになります。
高射砲第111連隊第6中隊、第8中隊 猪苗代湖周辺の工場地域
高射砲第115連隊第1、第3、第10、第12中隊 仙台市周辺の防御(第1、第3中隊は新潟港防御)
独立高射砲第1大隊 新潟地区
独立高射砲第34中隊 釜石製鉄所
独立機関砲第15中隊 新潟港湾地区
独立機関砲第34中隊 猪苗代湖周辺の工場地域
集成高射砲隊 猪苗代地区の発電所

だいたいこの編成で、終戦まで戦い続けることになります。また、津軽海峡の船舶数増大に伴い、津軽海峡要塞の防空陣も強化されました。もっとも要塞防空隊というのは中隊編成がせいぜいですから、十四年式十糎高射砲が4〜8門配備された程度でしょう。日本のどの要塞にも言えますが、要塞の防空能力は極めて低く、本土防空作戦時には大して活躍できなかったというのが実情です。





5.高射師団の増加と終戦までの活動


東京とともに、中京地区、京阪神地区の空襲も激烈になりはじめた1945年、この2つの地区の高射砲集団と、西部高射砲集団が高射師団に改編されました。

まず、名古屋高射砲隊ですが、この中京地区は空襲を受ける前に大被害を生じています。1944年12月7日の東南海大地震と、1945年1月13日の三河大地震です。戦中の地震ということもあり、これまでほとんど注目されたことのない2つの地震ですが、規模としては関東大震災級で、名古屋の軍需工場、特に航空機工場は、地震による倒壊被害とその後発生した火災による被害で、壊滅的損害を受けました。

その最中の12月13日に、名古屋は初めてのB−29による本格空襲を受けます。まだ、復旧作業が終わっておらず、目標となった三菱重工名古屋工場はさらに被害を受けて、生産はほとんどストップしてしまいました。
この日の高射砲部隊は来襲高度が高かったことと、迎撃に慣れていない点もあり、2個連隊が全力射撃をしましたが戦果なし。ようやく戦果をあげるのは、12月18日に再び名古屋の三菱工場に空襲を受けた際に、撃墜1、撃破5を挙げたのが最初となります。

名古屋は三菱を始めとした航空機工場が集まっています。地震で大被害が出たあとの矢継ぎ早の空襲に、市周辺の航空機工場の生産力はどんどん低下していきました。地震後の工場の復旧の問題等もあり、生産設備の疎開が始まったことも、生産能力の低下に繋がっています。
そんな中、12月22日にも再び市内の航空機工場に対する空襲があり、この時の高射砲部隊は3機撃破。年明け後の1月3日の空襲では、高射砲は撃墜機なし(第十一飛行師団は12機撃墜を報じています)。1月14日は、6機を撃破。1月23日の空襲は雲天のため、高射砲は射撃なし。2月15日にも空襲があり、またもや三菱の工場が大被害を受けます。
すでに空襲は恒常的なものとなり、名古屋の防空部隊は青息吐息の状態でした。

3月に入り、名古屋は3度の空襲(12日、19日、25日)を受けます。そしてその3度の空襲の結果、市内はほぼ焦土を化す事になりました。
理由はそれまでの精密爆撃戦術から、無差別焼夷弾爆撃に切り替わったこと。B−29の来襲高度が下がり、命中率が上がったこと、軽い焼夷弾の搭載により爆装弾数が増加したこと、そして何より100機前後だった来襲機数が一気に300機オーバーになり、防空陣が対応できなくなったこと等があげられます。

焼け野原となってしまった名古屋ですが、まだ軍需工場は生き残っていますし、市民も生活しています。5月6月にも大空襲があり、益々被害が拡大した名古屋ですが、そういった被害を少しでも減少させようと、防空部隊の高射師団化が実施されました。
1945年5月6日に名古屋高射砲隊を改編して編成された師団は、高射第二師団で、所属部隊は基本的には旧高射砲隊と同じですが、幾つかの部隊が増加しています。
増加された部隊は、

野戦高射砲第97大隊 静岡 七高3中隊。
独立高射砲第5大隊 宇治山田 八高3中隊 照空1中隊。
独立高射砲第12大隊 清水 七高2中隊 八高3中隊。
野戦高射砲第52中隊 一宮 七高中隊。
野戦高射砲第53中隊 大垣 七高中隊。
野戦高射砲第54中隊 天竜川 七高中隊。
独立機関砲第23中隊 天竜川 双連機関砲装備。
独立機関砲第24中隊 長良川 双連機関砲装備。
独立機関砲第25中隊 揖斐川 双連機関砲装備。
独立機関砲第42中隊 木曽川 双連機関砲装備。
独立機関砲第43中隊 矢作川 双連機関砲装備。
独立機関砲第44中隊 名古屋船見 双連機関砲装備。

上記のうち、川の名前がついているものは、川にかかった東海道線の橋梁の直接守備についた部隊です。B−29ならあまり精密爆撃は怖くありませんでしたが、艦載機が来襲するようになると、交通網の寸断のため、橋梁攻撃を受けるようになりました。それらから橋を直接守るために配属された部隊です。機関砲中隊が多いのは、高射砲では機動性の高い艦載機を負いきれないため。こういった中隊は日本中の川やダムを守るようになっていきました。




同じく、阪神地方を守っていた中部高射砲集団ですが、京阪神には東京・名古屋と比べて、大きな飛行機工場が少なく、空襲は比較的後回しになっていました。

初めての本格空襲は、1月19日の明石にある川崎飛行機への爆撃です。約80機が来襲したこの空襲は、明石工場の生産力をほとんどストップさせた挙句、明石の市内全域を焼き払うという大変な被害をもたらしました。高射砲の戦果は撃破1機のみです。
2月に入り、4日に神戸に焼夷弾攻撃を受けて大きな被害が出、11日にも再び神戸に来襲、港湾施設を中心に大きな被害を再度受けました。

そして、3月に入り、13日に大阪・堺地区へ大規模な焼夷弾攻撃が仕掛けられます。市街区の1/4を焼き払ったこの空襲は、274機のB−29によって実施され、それまでほとんど空襲のなかった大阪の街を焦土へと変えてしまいました。
続いて、16日夜間には、神戸に焼夷弾攻撃が実施され、数度の空襲で傷ついていた神戸の町も燃え上がることとなります。

4月に入ると倉敷を始めとした瀬戸内工業地帯への空襲が始まり、京阪神地区の被害はますます拡大します。都市部が燃え上がる中、5月6日に名古屋同様に師団編成が命じられ、中部地区高射砲集団は、高射第三師団になりました。また、被害を少しでも食い止めようと、5月に若干の部隊の増強が図られています。

独立高射砲第22大隊 宇品港 七高3中隊、八高2中隊。
独立高射砲第45大隊 新居浜 七高2中隊 八高2中隊。
独立機関砲第47中隊 大阪市街。
独立機関砲第48中隊 守口。
独立機関砲第49中隊 神戸市街。
独立機関砲第50中隊 終戦までに編成完結せず。
独立機関砲第51中隊 終戦までに編成完結せず。

上記のような部隊が配属されましたが、代わりに独高12大隊が清水港を守るために、高射第二師団に配属換えとなっています。

高射第三師団の苦戦の理由は、大都市部が大阪と神戸の2ヶ所であること(広島も入れると3つになります)、瀬戸内海に沿って重工業地帯が延びており、防空部隊の配備が薄くなりがちであったこと、防空戦闘機部隊(第十一飛行師団)が大阪と神戸の2つを守っており、戦力が分散されていたことです。
京阪神は焼け野原となりましたが、僅か8個大隊程度の戦力で、完全に守れというのがそもそも無理な話でした。終戦前には高射砲を作っている大阪造兵廠も空襲で破壊され、高射砲兵の終焉にも立ち会うこととなります。



さて、1、2、3と高射師団を見てきましたが、最後に第四高射師団についても言及しておきます。
北九州八幡製鉄所を守っていた西部高射砲集団は、東部に次いで戦力の充実した部隊でした。
しかし、この集団は他の3つとは少し異なる動きを見せます。それは集団の主力の野戦高射砲部隊化です。九州を守っていたこの部隊、本土決戦となると最初に上陸してくるのは南九州だろうとの判断から、上陸地点の防空任務を科せられることとなりました。そのため、南九州戦域への防空部隊の抽出が始まります。

任務が北九州の工業地帯の防空と、南九州の野戦防空に分かれてしまい、西部防空集団という組織では2つの作戦を指揮しきれなくなりました。
5月6日に、他の2つの高射砲集団と同じく、師団改編を実施しますが、その後も野戦防空師団化の準備を促進し、南九州への展開を急いでいました。そして、5月8日に師団は空襲の激化する南九州への転進を開始し、北九州の防空は、高射砲132連隊長が兼任する北九州高射砲隊が行うこととなりました。以下に高射第四師団と、北九州高射砲隊の主要部隊をあげます。

高射第四師団・・・師団長 伊藤範治中将
(第五七軍高射砲隊として配属される)

高射砲第136連隊・・・都城 七高8中隊(うち3中隊は陣地用の特七高中隊)、八高4中隊。
高射砲第131連隊第2大隊・・・鹿児島 七高2中隊(うち1中隊は特七高中隊)、八高2中隊。
独立高射砲第43大隊・・・夜越 特七高1中隊、八高1中隊、照空1中隊。
野戦高射砲第98大隊・・・知覧 特七高3中隊。
機関砲第21大隊・・・都城 2個中隊。
独立高射砲第55中隊・・・都城。
独立高射砲第56中隊・・・都城。
独立機関砲第12中隊・・・新田原。
独立機関砲第26中隊・・・都城。
独立機関砲第27中隊・・・都城。
独立機関砲第31中隊・・・都城。
独立機関砲第32中隊・・・都城。
独立機関砲第33中隊・・・都城。


北九州高射砲隊・・・隊長 飯塚国松大佐(高132連隊長)
(第十六方面軍直轄部隊となる)

高射砲第131連隊・・・七高4中隊(うち2個中隊は特七高)、八高6中隊、十二高1中隊、機関銃1中隊、照空5中隊。
高射砲第132連隊・・・特七高2中隊、八高3中隊、十二高1中隊、照空12中隊。
高射砲第133連隊集成大隊・・・特七高2中隊、八高1中隊、十高2中隊、照空3中隊。
独立高射砲第23大隊・・・七高3中隊。
独立高射砲第24大隊・・・八高3中隊。
機関砲第21大隊第1中隊
独立機関砲第28中隊
第21要地気球隊


博多高射砲隊・・・隊長 池辺栄弘大佐(高133連隊長)
(第五六軍高射砲隊として配属される)

高射砲第133連隊・・・特七高2中隊、八高1中隊、十高1中隊。
独立高射砲第24大隊第4中隊
独立機関砲第11中隊
独立照空第21大隊


長崎高射砲隊・・・隊長 岡村高政大佐(高134連隊長)
(第五六軍高射砲隊として配属される)

高射砲第134連隊・・・特七高3中隊、八高1中隊、十高1中隊。


久留米師管区高射砲隊・・・隊長 伊都荘二少佐(独立高射砲第21大隊長)
(久留米師管区に配属される)

独立高射砲第21大隊・・・特七高1中隊、八高3中隊。
高射砲第131連隊第3中隊
高射砲第134連隊第6中隊


熊本師管区高射砲隊・・・隊長 小川武雄大尉(高射砲第132連隊第2大隊長)
(熊本師管区に配属される)

高射砲第132連隊第2大隊・・・特七高2中隊、八高5中隊。
機関砲第21大隊第6中隊


西部高射砲集団は刻みに刻んで、このような部隊編成となりました。北九州には約270門の高射砲が空襲に備えていましたが、九州中に分散してしまったため、北九州に残った高射砲は僅かに120門。本格化する空襲の前に寒々しい状態となってしまいました。

この中で一番の動きは高射第四師団の野戦化です。都城に展開した師団は、洞窟陣地の構築と、擬装陣地の構築、それに南九州各地に来襲する米軍の航空部隊の迎撃にあたりました。他の3つの師団と異なり、第四師団の守備範囲は沖縄に展開する攻撃機や、空母艦載機が来襲できる距離になります。そのため、防空活動は本土決戦のために制限されていたとはいえ、激しい戦闘があちこちで起こりました。

また、あちこちに防空部隊を派遣したのは、九州全域の野戦軍化に伴い、単独での防空戦闘能力を付与するためです。各軍単位で作戦できるように、防空部隊を分割して各軍に分け与えた形になります。

残された北九州高射砲隊(のちに第四高射砲隊司令部が編成され、ここに配属されました)は、残された高射砲を使って激しい戦闘を繰り広げることになります。
B−29の行動半径の関係と、大陸にB−29がいなくなったことにより、八幡製鉄所への空襲の頻度は少なくなりましたが(もっともこの段階で八幡製鉄所の生産力は大きく落ちていましたが)、代わりにB−29は別の攻撃を仕掛けてきました。関門海峡への機雷敷設です。

瀬戸内海への入り口にあたる関門海峡を機雷で閉鎖されてしまうと、日本の軍需産業や交通機関に大打撃を与えることが出来ます。そのため、B−29は焼夷弾の代わりに投下機雷を積んで、せっせと海峡に機雷を撒きに飛んできました。
もちろん日本側も黙ってみているわけではなく、海軍は関門海峡の機雷を掃海するためだけに第七艦隊を新設し、防空用の海防艦と、掃海艦艇を集中配備しました。関門海峡に撒かれた機雷の数は7000弱、戦後10年間機雷の危険があったといいます。
北九州に残った高射砲は、海峡に向かって砲門を並べ、機雷を敷設しにやってくるB−29を狙い撃ちにしたのです。なかなか落ちなかったようですが。




4個師団に編成された主要高射砲部隊と、北海道や裏日本に展開した各戦域の高射砲部隊は、終戦まで次々と新規部隊の補充を受けながら、防空戦を続けました。各師団の編成表は師団編成当時のものを挙げていますが、その後も次々と独立高射砲大隊や、独立機関砲中隊が編成・編入されています。
そして、8月になると広島と長崎に原爆が投下され、単機行動のB−29でも重大な損害が出ることとなって、防空戦はもはや絶望的となりました。その頃は全国の主要都市はなんらかの形で、空襲の洗礼を受けています。

本土決戦が叫ばれ、高射砲部隊は第四師団に続いて、野戦師団化の準備が始まり、高射砲兵の微かな希望として、新型の五式十五糎高射砲が東京郊外に2門設置された頃、8月15日を迎えることとなりました。

創設以来、20年余り・・・あまりに報われない戦闘を繰り返し、日本高射砲兵の歴史は閉じられたのです。





後書き
勢いでまとめた、日本高射師団についての略記です。高射師団と銘打ったのは、取りあえず日本本土の高射部隊についてまとめるためで、「高射砲兵」というタイトルをつけてしまうと、ニューギニアからビルマまで展開した、大量の「独立野戦高射砲大隊」について言及する必要が出てきます。
それはそれでまとめてみたいテーマですが、そこまでの資料がまだ揃っていないため、また別の機会があれば、ということにします。

約1週間で書き上げましたが、恐らく研究室に掲載したテーマでは、もっとも長文になっているのではないでしょうか?自分で読み直すのも結構苦労するくらいなので(^^;

海上機動旅団、挺身団、高射師団とまとめてきた陸軍戦記ですが、あと大物として、いよいよ船舶工兵に手を出すべきなのでしょう。まともに調べると、今回の高射砲兵の量ではとても終わらないような気がします。その前に最近書いていない海軍ものも書きたいです。テーマは幾つか決まっていて、それなりの資料収集も開始していますし。

今回は戦記でもほとんど目にすることのない、高射砲について書けたのが満足ですね。もう少し、資料が欲しい部分もあるので、手に入り次第、改訂をかけたいと思います。


主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
  • 「高射戦史」/下志津(高射学校)修親会/1978
  • 「終戦への道程」(丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ15)/潮書房/1990
  • 「本土防空戦」/渡辺洋二/朝日ソノラマ/1992
  • 「大砲入門」/佐山二郎/光人社/1999
  • 「軍用自動車入門」/高橋昇/光人社/2000
  • 「陸軍兵器発達史」/木俣滋郎/光人社/1999


2002/3/21
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