〜研究作文其の二十六〜

不遇の残留部隊戦記〜独立混成第五三旅団戦記〜


1.中南部太平洋方面戦線の緊迫

太平洋戦争で、日本陸軍は多数の独立混成旅団を編成しました。その中には内地や満州で編成された装備優秀な機動兵団もありましたが、中には現地部隊をかき集めて編成した泥縄的な旅団もたくさんあります。
例えば、ビルマのラングーンにいた部隊をかき集めて編成した独立混成第七二旅団、やはりベトナムのサイゴンにいた部隊をかき集めた独立混成第七〇旅団、ハルマヘラ島の野戦築城隊や陸上勤務部隊を無理やり歩兵化して旅団編成にした独立混成第一二八旅団等なんかでしょうか。

今回、紹介する独立混成第五三旅団もそうした旅団の一つに上げられますが、この部隊の場合、慌てて編成された場所が、よりによって主戦場の一つでした。以下、この臨編旅団の概略を説明していきたいと思います。



1944年に入り、太平洋の戦線は、いよいよ激しい戦いが繰り広げられることになりました。それまで、太平洋上での連合軍の大規模な戦闘は、ソロモン諸島のある南東方面と、ニューギニアに限定されていましたが、1943年秋よりマーシャル・ギルバート諸島方面に連合軍の攻撃が始まり、あちこちの島嶼守備隊が玉砕するという状況になりつつありました。

当時、この方面の日本軍拠点は、南東・ニューギニアに対してはニューブリテン島のラバウルが、中部太平洋方面とラバウルに対する後詰としてトラック諸島がありましたが、圧倒的な連合軍の戦力と、潜水艦による補給線の寸断により、思うような補給が出来ない状況でした。
こうした中、中部太平洋戦域の守備固めを本気でやらないとまずい状況になりつつあり、本土や満州で編成された島嶼守備隊が、内南洋やマーシャル諸島に散っていくことになります。また、ソロモン・ニューギニア方面についても、師団級の戦略兵団を送り、てこ入れを図る必要が出てきました。

こうした中、これらの方面に対して中継拠点として重要な位置にあったのが、パラオ諸島です。今はスキューバダイビングでひじょうに人気のあるパラオ諸島ですが、東南アジアと太平洋地域の丁度中間にあたり、兵站拠点として開戦以来多くの部隊が立ち寄りました。
航空隊や、輸送船団はこの諸島で一旦体勢を立て直して、ラバウルやニューギニアに向かったものです。

パラオ諸島は、本島と呼ばれる「バベルダオブ島」、そのすぐ南にある「コロール島」、その南に「マカラカル島」「ペリリュー島」、諸島の一番南の「アンガウル島」等の大小様々な島で構成されています。また、北東に向かうとマリアナ諸島のグアム島があり、その中間には「ヤップ島」と「ウルシー環礁」がありました。
西に進むとフィリピンのダバオ島、東に進むとトラック諸島、南はニューギニア島と、部隊移動の中継拠点としては、まさに格好な位置にあったわけです。


開戦後、パラオ諸島には、海軍の第三〇根拠地隊が置かれ、およそ2000名強の人員でパラオとヤップを固めていました。この部隊は、開戦前に第三根拠地隊として編成され、その後、逐次増強されて、三〇根拠地隊となっています。
パラオ近海の航路確保も任務として持っていたため、第二一号、二二号掃海艇(第一九号掃海艇型。基準排水量648トン。12センチ砲一門、爆雷・機雷掃海具装備)や、敷設艇「測天」(基準排水量720トン。敷設用機雷120個搭載)、第三一駆潜艇隊等が配属されており、また、哨戒部隊として、水上機で編成された西カロリン航空隊も展開していました。

しかし、じりじりと連合軍に押され始めた頃、こんな戦力では心もとない状況です。特に連合軍は「カエル飛び」を多用していたので、一気にパラオ諸島に攻めてくる可能性も否定できませんでした。そこで、松山で編成された南洋第六支隊をパラオに展開させて守備を固めることにしました。
南洋第六支隊は、松尾勇太郎大佐以下、歩兵2個大隊と戦車中隊で編成されていましたが、歩兵部隊は基幹要員だけで、兵員はパラオ諸島でかき集めることになっていました。

ここでちょっと説明する必要がありますが、日本陸海軍の部隊移動には、一つの悪い癖があります。中継拠点として利用した根拠地に残留部隊を残していくというものです。
日本陸軍の編成は連隊単位で、各戦域に到着すると貼り付け部隊として作戦させることが多く、消耗した兵員は、連隊管区より補充要員を送り込んで、兵力を維持するというものでした。そのため、後方拠点に補充員や補給物資を集積、前送するために、残留部隊をちょこちょこと残していきます。
こういった残留部隊の規模はまちまちですが、ソロモンやニューギニアに展開した連隊規模の部隊の場合、ラバウルに1個小隊〜中隊規模の兵員を残したりしていました。この要員が補充兵を受け入れ、訓練して前線に大発で送り込んでいたのです。

こういった残留部隊の多い根拠地として、ラバウル・トラック・サイパン・シンガポール・バンコクなんかが上げられますが、パラオ諸島にも多数の残留部隊(特にニューギニア方面に進出した陸軍部隊)が存在していました。
これらの残留部隊は兵員がいるのに戦闘部隊としては戦力に数えられず、前線への補給が困難になると遊兵化してしまったため、集めて、集成歩兵大隊にしようとしたのです。

ですが、南洋第六支隊の歩兵補充策はあまりうまくいかなかったようです。結局1個大隊は基幹要員200名程度で編成されたままとなり、1944年初頭に、ニューギニアの戦局が厳しくなってきたため、ホーランディアに送り込まれることになりました。その輸送途中で潜水艦に襲われ、ただでさえ少ない部隊要員の多数を海没(支隊長もこのとき戦死しています)、到着したホーランディアではいきなり連合軍の上陸に巻き込まれ、悪戦苦闘することになります。



2.パラオ諸島の守備戦力増強

南洋第六支隊はニューギニアに向かってしまいましたが、パラオ諸島は大事な拠点のため、ここには充分な守備隊を置く必要があります。特にパラオ本島、ペリリュー島、アンガウル島には飛行場適地があり、もしここを連合軍に取られると、西部太平洋の制空権はあっという間に連合軍のものとなります。
もっともパラオ以外にも守りを固める必要のある場所は多数あり、取りあえず1944年1月に、大本営は南方派遣守備隊として2個師団の南方進出を下令しました。第十四師団第二九師団の二つです。
このうち、二九師団はマリアナ方面の守備に就くことになり、十四師団は東南アジアの守備に就くことになっていました。南方に進出するため、十四師団は馬の装備を減らして機械化をはかり、また迫撃砲中隊や機関砲中隊、戦車中隊を編成に入れて戦力の充実を図りましたが、この中で異色の編成があります。第十四師団海上輸送隊です。

南方方面の移動の基本は海上機動です。島に配属になったら、何処に行くにしろ、まずは船がないと移動できません。そのため、船舶工兵部隊であった独立工兵第二二連隊を改編し、師団の海上機動力の根幹をなすことになりました。
ただし、この部隊は十四師団ではなく、西部ニューギニアに展開した第三五師団とともに行動し、のちに師団の編成から外れて第二軍の直属部隊となりました。


そうこうして外征準備の整った第十四師団ですが、南方資源地帯へ展開する前に、あまりにも太平洋の戦局が厳しくなってきたので、急遽、マリアナ・パラオ諸島方面への展開に切り替えられます。
しかし、そんな悠長なことをしている暇はないかも知れません。すぐにでも連合軍は中部太平洋へ突進してくるかもしれないのです。実際、ニューギニアではどんどん西に押されていましたし。
そこで、3月に第二方面軍兼第三五師団付だった山口武雄少将に、パラオで在留部隊を再編成して守備隊を組織せよ、という命令が下りました。

当時、パラオには、やはり南方派遣の命が下った第三五師団が進出してくることとなっており、その先遣部隊として山口少将がパラオに入った形となります。
パラオについた山口少将は大変な作業と直面することになりました。当時パラオは、南東方面の第八方面軍と西部ニューギニアの第二方面軍の大後方根拠地で、あちこちの部隊が残留部隊を残していました。パラオに配備されている後方部隊も含めて、約180部隊、人員1万人強・・・これらの人員が、補給拠点であったコロール島を中心にパラオ全域をうろうろしていたわけです。

簡単にこの当時パラオにいた部隊を上げてみましょう。第五七兵站地区隊、第三船舶司令部パラオ支部、第八方面軍、第四航空軍、第二方面軍、第十七軍、第十八軍、第六師団、第十七師団、第三八師団、第四一師団、第五一師団の後方残留部隊、海上機動第一旅団海上輸送隊、第三〇根拠地隊

これらの部隊が展開していたわけですが、山口少将がパラオに到着した直後、いきなりパラオ空襲があります。この時、古賀連合艦隊司令長官が空襲を避けるために、ダバオに飛行艇で向かったまま行方不明となってしまったのは、あまりにも有名な話です。

この攻撃で衝撃を受けた日本は、太平洋全域の守備固めに入ります。すなわち第四三師団をサイパン島に、第二九師団をグアム島に、第十四師団をパラオ島に、第三五師団を西部ニューギニアに、第一〇九師団を硫黄島へ守備隊として送り込み、何処に上陸を受けても、対応を取れるようにしようとしました。
そうして、パラオ諸島には第十四師団が入ってくることとなります。


第十四師団は、宇都宮師団管区で編成された現役兵主体、大隊長もほとんど現役という精鋭師団です。
師団のうち、重装備部隊のいくつかが輸送中に海没して、グアム島に待機となり(のち玉砕)、師団に所属していた前述の師団海上輸送隊こそ、第二軍に取り上げられましたが、代わりにパラオで待機していた海上機動第一旅団海上輸送隊が配属されました。
師団はパラオ諸島に展開後、アンガウル島に歩兵第五九連隊の主力を、ペリリュー島に歩兵第二連隊歩兵第十五連隊の1個大隊を展開させ、守備体勢を固めました。後にこの2島は米軍の上陸を受け、玉砕することになります。

肝心のパラオ本島には、師団の残りが機動防御部隊として、また山口少将が必死になって再編成している防衛部隊が守りに付くことになりました。



3.独立混成第五三旅団の編成

パラオに展開した部隊は、第十四師団を基幹としてパラオ地区集団を編成していましたが、守備戦力がいまいち手薄なのは否めません。そこで手っ取り早く部隊数を増やすためと、建制上の面倒を省くために、山口少将が編成していた山口部隊を旅団に改編することになりました。

この時期、50番台の旅団が守備隊の数を増やすために太平洋上のあちこちで編成されていましたが、山口少将の部隊もこの一環として、「独立混成第五三旅団」と名付けられました。
まずは、山口少将の部隊本部を旅団司令部とし、あちこちの残留部隊をかき集めて旅団の部隊をどんどん作っていきました。主なものは以下の通りとなります。

第五七兵站警備隊・・・独立歩兵第三四六大隊
五一師団の残留部隊・・・独立歩兵第三四七、三四八大隊
四一師団の残留部隊・・・独立歩兵第三四九大隊
第十八軍・第八方面軍直轄部隊の残留部隊・・・独立歩兵第三五〇、三五一大隊、旅団工兵隊
山砲兵第四一連隊、野砲兵第六連帯の残留部隊・・・旅団砲兵隊

こうして、取りあえず部隊は編成できました。編成完結は1944年6月12日で、砲兵隊や工兵隊の重資材については、パラオに送られた後、前線に輸送できず溜まっていたものが活用されています。砲兵隊は四一式山砲を中心とし、一部は九四式山砲を装備した1個中隊6門編成の3個中隊編成で、パラオの資材を掌握した14師団経理隊より、速射砲や高射砲等を追加配備されたりもしています。


ところで、パラオ諸島を守ったパラオ地区集団の特色として、他の戦域に見られないほど充分な装備が与えられたということが上げられます。
これは第八・第二方面軍への補給拠点として機能していたため、パラオ島には、両方面軍に送り込めなかった軍需資材が山を成していた事、十四師団のパラオ輸送が、当時としては異例なほどうまくいったことです。

軍需資材については、400台を超える自動貨車、さらには戦車や牽引車等の戦闘部隊用の車両が多数残されていたのをはじめ、重砲が10数門、高射砲・高射機関砲も多数、建築資材もセメント800トンをはじめ、相当数が残されていました。建築資材はこんな量でも少ないのですが、ほとんどゼロの師団も沢山ある中、これだけの補給物資があらかじめ与えられた部隊は極めて稀です。
燃料はもともと補給用のものがあった上、パラオの航空隊が壊滅して、残された爆弾とともにその燃料も使用できるようになり、糧秣被服も他の前線とは異なり、年単位の持久が可能なほど保有できました。

また、この時期、太平洋の制海権は完全に連合軍のものと化しており、部隊の輸送船団は1/3の海没を覚悟しなければいけないほどでした。十四師団とニューギニアにむかった三五師団の輸送船団は「東松五号船団」と命名されていましたが、悪天候にも助けられ、パラオまで1隻の損害も出さなかったのです。そのため、満州で準備した軍需資材は全てパラオに揚陸され、師団は主力をほとんど喪失することなく、守備体勢を取ることになりました。
ただし、後発の重装備中隊(迫撃砲中隊や戦車中隊等)は、海没してグアムに取り残されることになりましたが。

この装備の余裕は、例えばペリリュー島に配属された第二連隊の各中隊が速射砲を臨時配備されていたり、多数のトーチカ陣地によって上陸部隊を苦しめた辺りにも現れています。
新編成の五三旅団も充分に恩恵をこうむり、この時期の現地編成の部隊としては、異例なほど、装備に恵まれていました。定数装備が出来た現地編成の旅団は、この五三旅団くらいではないでしょうか。




4.独立混成第五三旅団の配備と戦闘

五三旅団は、編成後、パラオ地区隊となり、パラオ本島の守備を担当することになりました。第十四師団はペリリューとアンガウルに部隊を分派しており、パラオの師団司令部が掌握している部隊は、実質4個大隊のみだった点よりも、この配備はパラオの守備固めとしてひじょうに意義があるものでした。


五三旅団の主力となる独立歩兵大隊は、合計6個大隊。このうち、独立歩兵第三四七大隊が、守備隊が海没してしまったヤップ島の増援として、まずパラオ本島の外に出されました。この三四七大隊は、のちに第五三旅団より外され、ヤップ島守備の独立混成第四九旅団に配属されることとなります。


ついで、パラオ諸島の中で最も重要な島、大型機が発着可能な航空基地のあるペリリュー島に、その頃コロール島にいた独立歩兵第三四六大隊を派遣することになります。もともと、第五七兵站地区隊の所属部隊だった三四六大隊は、兵站拠点のあったコロール島にずっといたのですが、もっともペリリューに近いという理由でペリリューに送られることになりました。
ペリリュー島に到着した三四六大隊は、当初予備大隊として、複郭陣地の構築に当たっていましたが、のちに北地区隊となり、ペリリュー北端の守備につくことになりました。
ペリリュー島北端の水戸山周辺に陣地を展開した三四六大隊は、第一中隊を第二連隊直轄部隊として中央地区に派遣し、代わりに北にある小島(ガドブス島)に配備されていた、第二連隊第三中隊を指揮下に入れていました。
その他、砲兵中隊より数門の配備を受け、増加装備として速射砲や高射機関砲を多数配備していました。


1944年9月15日、ペリリュー島に米第1海兵師団を主力とする部隊が上陸を開始しました。ペリリュー守備隊はありったけの火力を集中し、上陸第一波を撃退します。
が、守備隊の兵力には限りがあり、部隊配置の間隙を縫って、米海兵隊は橋頭堡を確保、戦車を先頭にペリリュー島中央の飛行場へ進撃を開始します。
当初、上陸正面はペリリュー島西地区・南地区隊の海岸線より南部の飛行場地帯であったため、縦に細長いペリリュー島の北部に展開していた三四六大隊は、ほとんど戦闘に参加していませんでした。ですが、9月23日頃より北進してきた米歩兵第81師団の1個連隊規模の部隊と、ペリリュー島中部のガリキヨク南方で戦闘に入りました。第81師団は、ペリリューの水際戦で大損害を受けた第1海兵師団の増援として、アンガウル島の攻略が終わったあとに駆けつけた部隊です。
迎え撃つ三四六大隊は、大隊長引野道弘少佐以下556名と、その他配属部隊を含め約1000名で守備を固めます。
三四六大隊は現地編成の部隊のため、装備は定数でしたが武器の質が悪く、また兵員も予備役を中心として、現役兵で編成された第二連隊に比べると、どうしても見劣りしました。
ですが、水戸山の山麓に作られた大地下陣地を中心に、あちこちの洞窟陣地を有機的に結合して、増加配備された火砲を縦深配備し、善戦敢闘を戦史に刻むことになります。

ガリキヨクの正面に配備されたのは、重機と速射砲を配備されて強化された第二中隊で、正面に展開してきた米第321連隊と激しい陣地戦を展開、23日の攻撃は大きな損害を与えて撃破します。翌24日に戦車を先頭とした再攻撃を受け、陣地の失陥・再奪取の激しい激戦を繰り広げましたが、損害が拡大、大隊はガリキヨク周辺を放棄して、北部の水戸山、電信山周辺に戦力を終結させました。

26日に三四六大隊は北地区南方の中の台を喪失、ペリリュー守備隊本隊との連絡を絶たれました。
北地区隊は水戸山地下陣地(水戸山全域に渡って連結した地下陣地で1000名を超える収容能力がありました)に立て篭もり、擲弾筒や軽機の狙撃戦闘で米軍に出血を強います。
この間、米軍は投稿ビラを撒いたり、支援艦隊の艦砲を水戸山・電信山に集中させて、大掛かりな艦砲射撃をかけたりして、あの手この手で守備隊を粉砕しようとしましたが、なおも地下陣地を利用した狙撃戦で守備隊は抵抗を続けました。
大隊長の引野少佐は、28日に行われた大規模な白兵戦闘を指揮中、砲弾により重傷を負い、その夜自決。守備隊は、洞窟陣地の開口部が爆破され、組織的抵抗能力を30日頃に喪失、10月2日頃に玉砕しています。


この他に、旅団砲兵隊のうち1個中隊が、パラオ本島南部のアイライ地区守備隊(歩兵第十五連隊基幹)に配属になり、旅団の指揮系統から外れています。
旅団主力はパラオ本島の北半分を守備し、またペリリュー島を落とした米軍に対する挺身切込隊を幾つも編成し、海上機動により戦線投入しています。この切込隊は、米軍の各拠点を奇襲して消耗を強いるとともに、パラオ本島への侵攻意図をくじこうというものでした。もっとも、ペリリュー・アンガウル両島を手に入れた米軍は、守備の強力なパラオ本島の攻略意図は持っていなかったのですが。
旅団主力は守備位置となったパラオ北部で、要塞陣地の建設を開始、セメント・鉄筋等が少しずつ乏しくなる中で、強固な守備陣地を建設しました。

しかし、1945年になり、集積糧秣の空襲による喪失、漁船の燃料不足により漁獲量の減少等の理由で、食料事情が急激に悪化します。
当時パラオ本島を中心とした、パラオ地区隊の人員は、民間人も含めて約4万人。パラオ本島もそれほど大きな島ではないので、自給体勢はギリギリのラインが精一杯でした。
もともと補給物資は大量にもっていたのですが、衛生材料、特に薬品が急速に不足し、野戦病院・野戦防疫給水部等が中心となり、パラチフスワクチンやビタミン剤の生産に成功し、衛生状態は改善されました。しかし、脚気やアメーバ赤痢等は防止することが出来ず、終戦までにパラオ本島全体で2300人の戦病死者を出すことになります(戦死は約650人)。

1945年8月15日の終戦のあと、9月2日に占領部隊と停戦降伏の調印。パラオ全島の障害物の除去、清掃等を行ったあと、1946年2月までに本土に復員しました。



後書き
五二・五四と旅団戦記をまとめたので、間の五三旅団もまとめてみようか、と思った一文です。予想以上に資料が乏しくかなり苦労しました。
五三旅団は、沢山人員がいるので編成してみよう的に作られた旅団なのですが、1個大隊がペリリューで玉砕し、残りの旅団主力も現地自活で相当苦労しています。ただ、ペリリュー島戦記以外は、直接戦闘活動をしていないため、あまり部隊単独の動きを追った資料は存在しないのが実情です。現地編成で、郷土部隊じゃないですし。
さて、五三旅団には姉妹旅団として独立混成第四九旅団がいまして、ヤップ島の守備についていました。五三旅団も1個大隊を差し上げたりしています。この旅団もとなりにウルシー環礁があったり、グアムの近所ということで、かなり苦労した旅団なので、そのうちまとめてみようかと思います。
中部太平洋ばかりやってるような気がするので、ビルマやソロモンの旅団についてもまとめたいんですけどね。

主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
  • 「丸別冊」玉砕の島々(太平洋戦争証言シリーズ6)/潮書房/1987
  • 「ペリリュー島玉砕戦」/光人社/2000
  • 「丸別冊」「玉砕」日本軍激闘の記録(戦争と人物17)/潮書房/1995
  • 「日本陸軍部隊総覧」/新人物往来社/1998
  • 「戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦2」/朝雲新聞社/1968


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