〜研究作文其の十六〜

無攻不落の孤島戦記〜独立混成第五二旅団(備)戦記〜



1.甲支隊の展開

太平洋の戦闘が熾烈になった1943年頃、ソロモン・ニューギニアの戦闘はますます利あらず、いざという時に備えて後方 地帯である、南洋諸島の守備を固める必要が出てきました。もっとも、海軍はソロモンに全力を投入しており、陸軍も南方に これ以上の戦力を投入するのは億劫な状態でした。
のんびりしている間に、米軍は戦力を整え、1943年9月にはとうとう南鳥島に対して機動部隊が来襲し、大被害を受けました。ショックを受けた日本は、南洋諸島の守備固めを急いで実施することになります。

それまで南洋諸島はマーシャル諸島を中心に、「南海守備隊」が守りを固めていました。しかし、その戦力は貧弱で、連合軍が押し寄せてきた場合、まるで相手にならないものでした。
1943年9月1日の南鳥島空襲のあと、第五二師団を南方防衛に投入することになり、所属連隊のうち、歩兵第107連隊を南方諸島防衛用に海上機動部隊に改編し、「甲支隊」と名付けました。

107連隊は8月頃から長期演習中でしたが、動員令下令後、急いで出征準備を整えます。9月2日に動員が下令され、9月11日には出陣という慌しい状況で、まず兵のみで出発し、乗船地の宇品で個人装備を受領するというような状態でした。
緊急性が高く重要な部隊であった「甲支隊」は、連合艦隊が直率して輸送を行なうこととなり、宇品を出航した時点で連合艦隊の指揮下に入りました。この輸送作戦は「丁輸送作戦」と呼ばれ、戦闘艦艇を用いての輸送でした。意気込みの結果あって、無事に輸送は成功しています。

南方に投入されることは決定しましたが、「甲支隊」は何処を守備するかは決まっていませんでした。一応、マーシャル方面への機動防御ということになっていたため、まずはマーシャルへの進出に便利で、トラックや南東方面にも機動できるポナペ島に進出することになりました。

軍艦を使った輸送作戦の結果、当時としては異例の早さでポナペ島への進出を果たしました。輸送作戦は以下のとおりです。

「丁一号輸送作戦」
軽巡洋艦「木曾」「多摩」特設巡洋艦「栗田丸」、駆逐艦「大波」「谷風」、空母「隼鷹」・・・連隊本部、第一大隊、連隊砲中隊、山砲兵第16連隊第三大隊、工兵第52連隊第二中隊
9月22〜27日に到着。

「丁三号輸送作戦」
一号作戦で輸送されなかった連隊の残部、海軍第一通信隊
10月27日に到着。

第一次輸送部隊はポナペ到着後、すぐにマーシャルに転用されそうになりましたが、直前で中止され、ポナペ島の守備に協力することになりました。



2.ポナペ守備隊

ポナペ島は、太平洋のど真ん中、カロリン諸島の日本海軍最大の根拠地、トラック島の東に位置します。
1940年に第五根拠地隊がサイパンに編成され、同根拠地隊第四防備隊ポナペ派遣隊が編成され、初めてポナペ島の守備につきました。
1941年に第四根拠地隊がトラック島に新設されるのに伴い、同隊の指揮下に入ります。さらには、ポナペ派遣隊を母体として、1942年4月10日に第42警備隊が新設され、ポナペに独立した守備隊が置かれるようになりました。兵力は以下のとおりです。

ポナペ陸上部隊・・・第42警備隊、特設砲台4、特設防空砲台2、見張所2、特設監視艇等。
ポナペ海上部隊・・・第57駆潜艇隊、國光丸、第十五昭南丸、第二拓南丸

1943年9月の段階で、海軍ポナペ島守備隊は、第42警備隊の兵力は約600〜900人、トラックの第四通信隊第三分遣隊を始めとする第四根拠地隊に所属する各分遣隊が、総数約350名、15センチ平射砲8門、8センチ平射砲8門、8センチ高角砲2門、12.7センチ高角砲2門等を装備しており、兵数と守備規模に比べて、旧式ながら多数の砲を装備した重部隊でした。

そんな守備体勢の中、ほぼ完全装備な上に、砲兵大隊や工兵中隊を増強した「甲支隊」がポナペに上陸したのです。海上機動兵団に指定されていた「甲支隊」は装備優秀、防御の甘い南洋諸島でしたが、ポナペだけは例外的に高い防御力を持つことになりました。

もっとも、戦況は南洋各島の防御を固めるまで待ってくれませんでした。1943年11月にギルバート諸島に米軍が来襲し、タラワ島とマキン島に米軍が上陸しました。
「甲支隊」は当初の予定通り、海上機動兵団としてギルバートへの逆上陸を敢行することになり、支隊長山中大佐以下、連隊本部、第三大隊、連隊砲中隊、通信中隊、山砲兵第16連隊第三大隊、工兵第52連隊第二中隊、海軍第一通信隊が逆上陸部隊として、マーシャル諸島のクェゼリン環礁に進出しました。

しかし、その段階でタラワ島とマキン島は玉砕し、甲支隊は内南洋各島の守備に分散することになりました。連隊本部と直轄部隊、第一大隊をクサイ島に、第三大隊と山砲兵大隊、工兵中隊をミレ島に展開することになりました。
この結果、ポナペ島に残るのは、第二大隊と他の大隊や連隊本部の残部のみということになりました。



3.南洋第三支隊の進出

「甲支隊」は、あちこちの島を守るために連隊がばらばらにされ、海上機動兵団としての戦力はなくなりました。ポナペ島の戦力はガクンと落ちたため、新たに満州は鉄嶺で編成された「南洋第三支隊」を同島の守備に回すことになりました。
11月15日に動員が発令された同支隊は、関東軍の独立守備歩兵3個大隊を中心に、戦車中隊(九五式軽戦車9両装備)と工兵中隊を編成に入れた、なかなか強力な部隊でした。
1944年1月10日にポナペ島に着くと、107連隊第二大隊と海軍第42警備隊を指揮下に入れ、ポナペ全島の統一指揮をとる事になりました。
支隊長は渡邊雅夫少将で、総兵員数は1901名でした。


さらにポナペ島には、思わぬ増援が送り込まれます。「甲支隊」が編成された際に、各大隊の火力を増強するために、各大隊に1個中隊づつ「迫撃砲中隊」が付属することになっていました。さらに支隊の戦闘力自体を高めるために「機関銃中隊」と「戦車中隊」さらには「衛生隊」が追加されることになっていました。

これらの部隊は本隊に遅れて内地で編成され、南方方面に勇躍出陣してまずはポナペ島に到着しました。これから、クサイ島やミレー島に送り込まれる予定でしたが、既に船舶輸送は途絶状態になっており、やむなくポナペ島にいた第二大隊の指揮下に入ります。この時点の在ポナペ島107連隊戦力は以下の通りでした。

歩兵第107連隊(在ポナペ守備隊)

第二大隊
・・・大隊長、伊藤皓少佐(大隊要員1205名、他の連隊残員248名、主に患者)
迫撃砲第1、2、3中隊・・・(母隊は迫撃第1連隊。1中隊148名、2中隊153名、3中隊149名。各中隊、九七式(二式)中迫撃砲12門装備)
機関銃中隊・・・(母隊は機関銃第1大隊。71名。九八式高射機関砲6門装備)
戦車中隊・・・(母隊は戦車第2連隊。63名。九五式軽戦車9両装備)
衛生隊・・・(186名)
総員 2223名。

思わぬこととはいえ、たかが1個歩兵1個大隊に、迫撃砲中隊3、戦車大隊1、機関銃中隊1が付属したのです。もともと歩兵1個大隊は、4個歩兵中隊と1個機関銃中隊(機関銃8)、1個大隊砲小隊(歩兵砲2)で編成されているので、 日本陸軍各大隊の中でも、1、2を誇る重部隊となってしまいました。


増援はこれだけでは留まりません。やはり南洋諸島の守備固めとしてウェーキ島に向かう予定だった独立混成第5連隊の半分が、1944年2月1日にトラック島に到着しました。
しかし、同日、マーシャル諸島のクェゼリン環礁に連合軍が上陸し、ウェーキ島に向かうことは不可能となってしまいました。この部隊は、マーシャル方面に向かうことが出来ないため、トラック島の東側に位置するポナペ島の守備にあたることになったのです。
同部隊の編成は以下のとおりです。

独立歩兵第5連隊(在ポナペ守備隊)

第二大隊
・・・大隊長、才津彌三郎大尉(3個歩兵中隊、機関銃中隊、歩兵砲中隊(37ミリ速射砲2、九二式歩兵砲2))
砲兵大隊・・・大隊長、田口多徳少佐(野砲2個中隊編成、各中隊3門装備)
工兵中隊
衛生隊
総員 1757名。

さらに遡ること少し前、1943年10月にモートロック環礁で飛行場の設営を終了した海軍第221設営隊ブラウン環礁に転進中に海没し、残員はポナペ島に上陸して、第42警備隊に編入されました。ですが、1944年2月に第222設営隊の残存員と合わせて、第221設営隊を再編しました。人員は約400名強で、第42警備隊を始めとした海軍部隊全部で、総員約2000名となりました(警備隊司令、内藤淳大佐



4.ポナペ島と空襲

このようにして、ポナペ島には、南洋の孤島に行くことのできない兵力が滞留して、少しづつ強力な守備隊となっていきました。 では、このポナペ島とはどのような島だったのでしょう。

日本海軍最大の拠点であるカロリン諸島トラック島は、丁度太平洋の真ん中といって良い位置に位置しています。北には、太平洋の中継点となるマリアナ諸島、南には激戦地であるラバウル・ソロモン・ニューギニアがあり、西には南方の資源地帯に繋がるパラオ環礁があります。そして、東は最前線となるであろうマーシャル・ギルバート諸島がありました。

このような重要な位置にあったトラック島ですので、当然のことながら守備にも気を使わなければなりません。特に日本海軍が開戦当初に仕掛けた空母機動部隊による空襲なんか喰らったら大変です(結局、受けてしまいましたが)。そこで、トラック諸島の外郭となる各島嶼に守備隊をおき、外堀のように固めることにしました。西のメレヨン島、南のモートロック諸島、北のエンダービー諸島、そして東のポナペ島です。

ポナペ島は、トラック諸島とマーシャル諸島のちょうど中間にあり、マーシャル諸島への輸送作戦になくてはならないものでした。そのため、マーシャル諸島が戦場になった際には、ポナペ島を基地として航空隊や艦隊が出撃していきました。

そんなポナペ島は、連合軍にとっても目障りな存在でした。そこで1944年のトラック大空襲に先立って、1944年2月15日より大型機による爆撃を開始、4月までの連日の爆撃によりポナペ島の市街の大部分を喪失し、さらに3月に襲った米軍艦載機の空襲の際に、迎撃した第22航空戦隊はその戦力のほとんどを喪失しました。
さらに5月にはホーランジアを攻略した米機動部隊がポナペ島を空襲し、さらには艦砲射撃まで受けました。これが、米戦艦群の初めての編隊艦砲射撃だそうです。
この一連の攻撃で、特設監視艇を始めとする所属艦艇の大半と、地上施設、さらには弾薬等を多数喪失し、設営隊を始めとして兵員にも甚大な被害を受けてしまいました。




5.独立混成第52旅団の編成

空襲に晒される中、マーシャルは陥落し、トラックは無力化され、ポナペ島は孤立化の道を辿ることとなりました。1944年5月には、「次はいよいよマリアナだ!」ということになり、第31軍が編成されて、内南洋の守備隊を指揮することとなります。ポナペ島もこの指揮下に入り、守備の体勢を固め直すことになりました。

この頃のポナペ島の守備隊ですが、雑多な部隊が集まっていましたが、その戦力は侮れないものがありました。
歩兵5個大隊を中心として、砲兵大隊が加わり、戦車中隊2個、迫撃砲中隊3個、機関銃中隊2個、工兵中隊2個を持ち、さらには平射砲や高角砲を装備した海軍部隊もあります。これだけの守備隊を持った島嶼部隊は、師団規模の配備を受けた幾つかの島のほかは存在しません。マーシャルですら、ほとんどの島はこの数分の一の戦力でした。

もっとも、これらは雑多な部隊の寄せ集めで、便宜上、南洋第3支隊長の指揮下に入っていましたが、指揮系統がわずらわしいのは否めません。で、これらの部隊を集めて、新編成の旅団を作ることになりました。これが「独立混成第52旅団」です。

編成上の関係から、107連隊に所属している部隊はそのままになりましたが、南洋第3支隊と独立歩兵第5連隊系の部隊を合同して編成されました。
南洋第3支隊の第一大隊が独立歩兵第342大隊に、第二大隊が独立歩兵第343大隊に、第三大隊が独立歩兵第344大隊に、独歩5連隊第二大隊が独立歩兵第345大隊に改編され、各隊に所属していた砲兵大隊、戦車中隊、工兵中隊、通信隊は旅団直属部隊となりました。総兵員数は3322名です。

107連隊の所属部隊は旅団には編成されませんでしたが、指揮下に入り、海軍部隊も旅団長の指揮下に入り、ここに統一指揮系統が確立します。この編成で、ポナペ島守備隊はさらなる防御強化に勤しみました。


具体的な守備体勢は、島を北、東北、東南、西の4地区と、直轄反撃部隊に編成し、各地区に1個大隊づつを配備する体勢となりました。特に飛行場のある西地区は戦略的価値が高いため、ここには2個大隊をおき、守りを固めていきます。
海軍砲台は上陸地点射撃を中心に水際に展開し、各大隊はその優秀な砲兵と戦車の直協を受けて、水際撃滅戦術を図ることとなりました。1944年末までには、中掩蓋陣地が完成し、1945年4月頃までには重掩蓋と水際障害物がほぼ設置を終わっています。

しかし、既に途絶した南海の孤島となっており、補給を受けることはほとんど不可能で、わずかな食料や衛生品をこっそり貰うことが出来ただけでした。しかし、他の島嶼と異なり、ポナペ島は東西南北各20キロのまん丸な島で、ジャングルのなかには椰子の群生地帯があったりして、自給自足の体勢はなんとか整えることができました。
1945年にはそれなりの食料が配給されるようになり、甘藷等の栽培も軌道に乗っていたようです。産業として年産700トンももともと甘藷は栽培されていましたし、獣肉や魚を産業としていたこともあり、南洋各島嶼のなかでは、もっとも食料に恵まれた島といえます。

なんとはなしに揃ってしまった、重火力と、豊富(とまではいえませんが)な食料のため、戦力は他の島に比べてはるかに充実し、防御も固そうな島になってしまいました。既に戦場はマリアナからフィリピンに移っており、トラックは青息吐息、ウルシーやメジュロといった泊地も持っていた連合軍は、特にポナペを攻略する必要性を認めていませんでした。

結局、終戦までたまに爆撃機が空襲に来る程度で、ポナペ島の守備隊はほとんど戦闘をせずに終戦を迎えることとなります。
1945年8月22日をもって、ポナペ各部隊は停戦し、25日に作戦任務を解除、1946年までに内地に復員を完了しています。結局、南方の船舶輸送が途絶した結果として、中継地点のポナペ島の守備隊が充実し、その結果玉砕を免れたともいえるのではないでしょうか。




後書き
なんとはなしにまとめてみた「旅団戦記」第一弾です。とりあえず、今回は独立混成五二旅団を書きました。寄せ集めの割に装備の優秀な旅団ですが、その戦力を発揮する機会は一度もなかった、有る意味、無名の旅団といえます。
ちなみに同じような経緯で編成された旅団として「独混五〇旅団」「独混五一旅団」があり、それぞれ南方島嶼の守備についています。
この2個旅団についてもまとめる機会があれば、と思いますが、特に五〇旅団はかなり悲惨な状況になっていて、なかなかこんなちゃらんぽらんな文章にまとめてよいのか?という踏ん切りがついていません。
旅団戦記というのは、あまりまとまっていないので、今後、知られていない旅団についてまとめていけたらな、と考えています。

主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
  • 「丸別冊」玉砕の島々(太平洋戦争証言シリーズ6)/潮書房/1987
  • 「丸」80年12月号/潮書房
  • 「丸別冊」「玉砕」日本軍激闘の記録(戦争と人物17)/潮書房/1995
  • 「日本陸軍連隊総覧」/新人物往来社/1990
  • 「戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦2」/朝雲新聞社/1968


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