〜研究作文其の十七〜

ミンダナオ島防衛戦〜独立混成第五四旅団戦記〜



太平洋戦争最大の激戦地となったフィリピン戦線、ところがこの戦線、著名な戦場はレイテ島とルソン島くらいで、まあ知られているのに、セブ島とかが加わります。
ですがフィリピンで死闘を繰り広げている頃、フィリピン南のミンダナオ島に日本陸軍の部隊が2個師団と1個旅団も入っていたことを御存知でしょうか?

これらの部隊は、圧倒的に多数のゲリラと死闘を繰り広げ、さらには上陸してきた米軍を迎え撃ち、散々な状態となってしまいます。今回はこの方面の部隊のうち、「独立混成第五四旅団」について、簡単にまとめてみたいと思います。



1.フィリピンの防衛体勢

フィリピン攻略作戦の後、攻略に参加した日本軍は次々と各方面に移動し、残ったのは第十六師団(垣兵団)と、第六五旅団程度でした。これらの部隊は十六師団が中南部フィリピンを、六五旅団が北部フィリピンを鎮圧し、守備体勢を固めつつありました。

ですが、各地でゲリラが次々と蜂起し、アメリカからは支援物資がこっそりと補給されます。大本営としても、とっとと守備体勢を固めて、フィリピンを安定させたいとのことから、フィリピンに独立守備隊を展開させることになりました。この結果、第十一独立守備隊が編成され、4個大隊を指揮下において、中・南部フィリピンに展開させました。しかし、錬度・兵力とも充分ではないこの守備隊は、たちまちのうちにゲリラの跳梁に脅かされることになります。
さて、南部フィリピンにはその後も独立守備隊が幾つか編成されて守備についていましたが、その程度の戦力ではどうすることもできず、戦況は少しずつ下り坂になっていた1943年12月、在フィリピンの守備隊を改編して、独立混成旅団を編成することになりました。それについては以下の通りに編成されています。

第十独立守備隊独立混成第三〇旅団(ミンダナオ島)
第十一独立守備隊独立混成第三一旅団(セブ島)
第十七独立守備隊独立混成第三二旅団(ルソン島バギオ)
第一四二連隊(第六五旅団揮下)独立混成第三三旅団(ルソン島レガスピー)


4つの旅団の大隊数は編成表上では24個大隊もいますが、実際は現地にいた部隊の名前を変えただけとか、内地で編成中とか、現地の復員兵の再編成とか、あまりよく出来た部隊ではありませんでした。ちなみに一四二連隊はここで連隊を解隊し、独立歩兵大隊に分割されています。

これに十六師団を加えて、とりあえず1個師団4個旅団体制となり、形の上ではフィリピンの防備は少しはマシになりました。
ただ、これでも圧倒的に兵力が足りず、ゲリラ討伐に四苦八苦していくことになります。


1944年に入り、中部太平洋が押されきって随分と不安定になりはじめた頃、フィリピンにはようやくまともな守備部隊が編入され始めました。
もともとあった旅団については師団への改編が実施されていきます。これは歩兵旅団2個(1個旅団あたり、独立歩兵大隊4個)と付属部隊で編成を持ち、砲兵隊と工兵隊、通信隊や輜重隊、野戦病院等を付加したものです。
独混三〇旅団が第一〇〇師団、独混三一旅団が第一〇二師団、独混三二旅団が第一〇三師団、独混三三旅団が第一〇五師団にそれぞれ改編されましたが、当然内地で正規に編成された師団に比べると、警備師団程度の戦力となり、特に火力は貧弱な状態でした。
さらに大陸や内地の師団をかき集めてきて次々とフィリピンに投入していきましたが、フィリピン全域は広大で、とてもではありませんが兵力は不足していました。
そこで、米軍がサイパンに上陸した6月15日、大本営は新たに4個旅団の新設とフィリピン・南西方面派遣を発令します(上記、現地旅団の師団への改編も、このとき発令されました)。この中に本レポートの主役となる独立混成第五四旅団がいたのです。



2.独立混成第五四旅団の比島派遣と編成

フィリピンを守る為に編成された独立混成旅団は2個、そのうち、独立混成第五四旅団は仙台師団管区(一部兵員は宇都宮師団管区)で兵員を集めつつ、仮編成でマニラへと向かいます。マニラには他の3個旅団と一緒に集まって編成を開始したのですが、ここで問題が生じます。

マニラで編成中の4個旅団のうち、独混五五旅団はフィリピンの十四軍配備で、南フィリピンへの展開が決まっているので、まあよいとして、残りの2個旅団、独混五六旅団独混五七旅団は編成後にボルネオ・メナド方面の守備に着くことが決まっていました。
となると、編成が完結したらすぐにフィリピンから出て行ってしまいます。兵力の不足が深刻で猫の手も借りたいような十四軍としては、この2個旅団は手許に置いておきたい・・・じゃあ、編成を完結させなければ良いじゃないか! という逆転の発想で、じりじりと時間を引き延ばしていました。
そのあおりを食ったのが独混五四と独混五五で、残り2個旅団が編成できないなら、この2個旅団も編成できないはずとなり、編成完結に時間がかかってしまいました。ちなみに五六と五七は編成後、すぐにフィリピンより出て行っています。(代わりにサイパンに投入予定だった独立混成第五八旅団がルソン島に派遣されました。)

さて、そんなこんなで編成の遅れた独混五四旅団ですが、編成完結後もまだ上層部の判断が決まらず、ふらふらとした立場を続けます。第十四方面軍(第十四軍を改編)は、五四旅団は大本営や南方軍の指示にあったミンダナオ島配備ではなく、ルソン島に手勢として置いておきたかったのです。独混五四旅団は第三五軍の編成の際に同軍に編入されましたが、三五軍は南部フィリピン防衛のために編成された軍(レイテ決戦ばかり有名ですが、セブ島やミンダナオ島も守備範囲でした)で、南フィリピンに投入することになっていたため、十四方面軍はなかなか移動命令を出そうとしませんでした。
なかなか動けなかった独混五四旅団ですが、三五軍に編入された関係で、セブ島で訓練等を行なっている中、ようやくミンダナオ島進出が発令されます。第35軍ではミンダナオ島に2個師団(第三〇師団第一〇〇師団)と1個旅団(独混五四旅団)で守備を固めることにしました。ミンダナオ北部(東部ミサラス州、スリガオ州等)は三〇師団が、ミンダナオ南部(ダバオ州、コタバト州)に一〇〇師団が、ミンダナオ西部(西部ミサラス州、サンボアンガ州)に独混五四旅団が展開しました。

当初、旅団は西部ミサラス州に2個大隊、サンボアンガに1個大隊を配備していましたが、8月27日に旅団全力をザンボアンガに集中するよう指令を受けました(もっとも配船がなく、しばらく動けませんでしたが)。
ダバオ上陸誤報事件の後、ようやくザンボアンガに移動することが出来た独混五四旅団でしたが、その後は激しい戦闘に巻き込まれていくことになります。



3.ザンボアンガ守備と米軍の上陸

さて、この辺で独立混成第五四旅団について解説します。
内地で仮編成し、ルソンでのろのろと編成した同旅団は、通称号が「萩」、4個中隊編成の3個大隊(独立歩兵第三六〇、第三六一、第三六二大隊)と砲兵隊、工兵隊、通信隊で編成されています。旅団長は北条藤吉少将が拝命しています。
ここで判る通り、旅団といいつつたったの3個大隊で、連隊程度の戦力でした。しかも広大なミンダナオ島西部に分散して配備されていたため、申し訳程度の守備兵力となってしまいました。
各部隊の編成詳細は以下の通りです。

独立混成第五四旅団「萩」
旅団長:北条藤吉少将

独立歩兵第三六〇大隊・・・(小泉透少佐)、4個中隊(各中隊軽機6、擲弾筒6)と銃砲隊(鹵獲重機4、大隊砲1)
独立歩兵第三六一大隊・・・(田中豐秋大尉)、三六〇大隊と同編成
独立歩兵第三六二大隊・・・(森清大尉)、三六〇大隊と同編成
旅団砲兵隊・・・(中村重彦大尉)、2個中隊編成、各中隊は鹵獲野砲2門で編成
旅団工兵隊・・・(澤田源助大尉)
旅団通信隊・・・(眞田隆治中尉)
人員5194名

10月頃、ザンボアンガに主力が移動し(森大隊の3個中隊はミサラス地区に展開、のちに1個中隊が復帰)し、ザンボアンガを中心に守りを固めます。
ザンボアンガはミンダナオ島の西の端、突き出た半島のそのまた先端近くにあります。南フィリピンに広がるセレベス海を管制するのになくてはならない港湾都市で、海軍が作った飛行場が新旧2個、市の西にありました。

旅団はザンボアンガ市北西8キロのボアランに三六〇大隊を(東地区隊)、市のすぐ西にある新飛行場北方に海軍部隊(第三三警備隊と南比航空隊の派遣隊を中心とした約4600名)、その西にある旧飛行場の北の山地(カピ山)に三六一大隊を(中地区隊)、さらに西にある(ザンボアンガ市より12キロ)レコドに三六二大隊(2個中隊、西地区)を展開させ、旅団司令部は中地区に置かれました。

レイテ島で激しい激戦が始まり、さらにはルソン島にも米軍の上陸した1945年1月、旅団は三五軍より、「2個中隊をミサラス州のデポログに派遣し、守備させる」ように命令を受けました。三六一大隊より2個中隊を派遣し、これで旅団はたった8個中隊の編成となってしまいました。また、同地には旅団のほかに、海上機動第二旅団がこの地に寄った時の残置隊や、三五軍関係の後方部隊も駐屯していましたが、兵力は微々たるもので、旅団がほとんど単独でザンボアンガを守ることになっていました。

米軍がザンボアンガに上陸するのは1945年3月10日ですが、それまで独混五四旅団は安穏と陣地構築をしていた訳ではありませんでした。南方各戦域でフィリピンがもっとも活発だった反日抵抗、ゲリラとの戦いが続いていたのです。
1943年2月、オーストラリアに脱出していたマッカーサー将軍が、ミンダナオ島にいたファーチグ大佐第10軍管区の司令官に任命しました。米軍が降伏する前までフィリピンは10個軍管区に分かれていたのですが、その地域割りそのままにゲリラを軍管区編成することにしたのです。ちなみにミンダナオ島はサンボアンガを中心として第10軍管区が割り振られていました。
ミンダナオはゲリラ戦力の整備がもっとも最初に実施されたこともあり、ひじょうに強力な戦力を誇っていました。1945年初頭にミンダナオのゲリラ兵は約33000人、ザンボアンガはその中心で独混五四は装備優秀なゲリラ相手に苦闘を重ねることになります。

さて、1944年10月にレイテ島に連合軍が上陸し、第十四方面軍はレイテ決戦に邁進します。独混五四旅団に配属されていた1個大隊(独混五五旅団の独立歩兵三六四大隊)はレイテ決戦に投入されるために取り上げられ、旅団は揮下の3個大隊と海軍警備隊を中心に、ザンボアンガ市周辺20キロの海岸線を守備していました。
ところが、1945年に入り、既にレイテ戦線は崩壊、ルソンでも決戦が行なわれていた頃、南フィリピンは「現地自活・永久抗戦」という方針に切り替わります。長期持久の観点からそれまでの水際撃滅主義の陣地より、内陸に一歩入った山岳地域を中心に陣地を移しますが、陣地転換後にほとんど時間がなく、陣地の準備も備蓄物資の集積も進まないまま、米軍との戦闘に突入することになりました。


3月10日、2日間に及ぶ激しい艦砲射撃の後、米軍の第6軍の第41師団がザンボアンガに上陸します。目的はザンボアンガと周辺の飛行場を征圧で、朝方の艦砲射撃後、旧飛行場地域上陸し、付近を守備していた小隊を全滅させ、夕方までに橋頭堡を完成させました。

3月11日、米軍はザンボアンガ市に突入、また中地区隊(独歩三六一大隊基幹)とも接触して、戦闘が開始されました。この時点で東・西地区隊は遊兵化しており、旅団長は東地区隊をザンボアンガ市北方1キロのテトアンに移動を命じます。

3月13日、中地区では激しい戦闘が続き、東地区の独歩三六〇大隊より第四中隊を、西地区の独歩三六二大隊より第三中隊を、中地区に転属させて強化します。この日に西地区隊の守るレコドの町に米軍が侵入し、戦闘が始まりました。また、この日、旅団砲兵隊は保有していた全弾を射耗し、装備砲を破壊しています。

3月15日、中地区隊はいよいよ苦戦に陥り、東地区隊の独歩三六〇大隊は、中地区横に展開していた海軍部隊に隣接して守備につきました。海軍兵力(歩兵5個中隊)もこの時点までに大分消耗しており、旅団の戦力もいよいよ低下していきました。この夜、中地区隊は主力を持って夜襲を仕掛けましたが、田中大隊長が戦死し、中地区隊主力も壊滅状態に陥ります。

3月23日、中地区は田中大隊長の代わりに旅団副官の梅原保大尉が指揮することとなり、激しい陣地戦を展開します。この日、中地区隊の陣地の中心となっていたカピ山が陥落し、中地区隊は混戦の中、カピ山北方の密林地帯に再集結を図ります。この頃から、各中隊とも指揮官クラスの戦死が増えていきました。

3月31日、中地区隊と西地区隊は北方山地へと後退を行い、東地区隊の死守していた385高地も圧倒的な米軍に包囲されて苦境に陥ります。彼我混戦の白兵戦が続きましたが、圧倒的な砲爆撃の支援を受けられ、戦力的にも数倍の兵力を誇る米軍が押し切る形で、385高地を陥落させました。

4月 1日、旅団はザンボアンガ北方のシブコに向けて撤退を開始します。この時までに旅団は650名近い戦死者を出し、装備弾薬等もほとんど喪失していました。



4.旅団の壊滅と終戦

ザンボアンガを持久できず、やむなく北方のシブコに撤退した旅団ですが、既にシブコには米軍が上陸しており、やむなくさらに北方のシオコンに向かいます。
旅団は大隊単位で移動を続けますが、途中で兵団主力(独歩三六〇大隊基幹)は米軍に捕捉され(5月26日)、圧倒的な兵力で攻撃を受けます。旅団長はここで自決し、主力はばらばらになって崩壊常態に陥りました。
ゲリラや飢餓で兵力を消耗しつつ、東のサニト地区に集まり始め、9月頃にはミンダナオ西部に展開していた各部隊がここに集結しました。指揮官は旅団参謀の花田少佐で、当時生き残っていた中では最上級となっていました。

終戦が確かだと知ったのは9月下旬で、サニト地区で米軍に降伏します。兵団はこの時までに4000名を失っており、約8割の消耗率でした(海軍部隊やその他の部隊も同様)。最後は辛うじて大隊単位の部隊編成を維持しつつゲリラ戦に転換していましたが、既に無力化されており、幸少なく旅団の歴史を閉じることとなります。

なお、ミンダナオを守備していた他の2個師団も有力な米軍の攻撃を受け、大損害を出し、山地に篭って終戦を迎えました。ミンダナオ島守備隊は終戦時、ほとんど戦力も価値も喪失していたことになります。




後書き
第二段は、フィリピン南部に展開した五四旅団です。姉妹部隊に五五旅団があって、こちらもホロ島でさらに悲惨な戦いを繰り広げることとなりますが、こちらは別の機会に紹介したいと思います。
今回、初めて、ミンダナオ島戦記を調べてみたんですが、まともに編成すれば、充分な1個軍となる戦力が入っていながら、ミンダナオ各地に分散し、たいした戦力を発揮することなく、各部隊とも壊滅に近い状態になって終戦を迎えています。
日本軍の「全てを守る」的な守備の考え方が、個々の戦区で兵力不足をとなり苦戦していくのは、太平洋全域で見られる現象ですが、その縮図ともいえる戦場かもしれません。
中部太平洋・フィリピンと書いてみたので、次はどこの旅団にするか・・・100個を越える旅団がありますが、資料が少ない部隊が多く、難しいのが現実です。

主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
  • 「丸別冊」日米戦の天王山(太平洋戦争証言シリーズ4)/潮書房/1986
  • 戦史叢書「捷号陸軍作戦(1)(2)」/朝雲新聞社/1977
  • 日本陸軍部隊総覧/新人物往来社/1998


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