〜書きなぐり文其の四〜 水爆「瑞雲」空戦記




タイトルの「水爆」っていうのは、核兵器じゃなくて、「水上爆撃機」の略です。「瑞雲」は日本で2機種しかない、水爆だったのです(もう一つは「晴嵐」)。

日本海軍の正式化・量産した各種航空機の中で、もっとも印象の薄い機種を一つ挙げなさい、と言われると私は「瑞雲」を選びます。そのくらい知られていない航空機です。実際、「瑞雲」という水上機がいた、ということしか知らない人も多いのではないでしょうか?それ以前に「瑞雲」を知らないという人も多そうです。無理もない・・・ほとんどの海軍空戦記には出てきませんから。
さすがにそれでは、「瑞雲」が報われない・・・戦争末期奮戦しているのに・・・という思いから、乏しい資料を探して、「瑞雲」の略史なんかをまとめてみました。本当になかなか資料が見つからないため、かなり不正確は調査不足な点も多いかと思いますが、御勘弁ください。



日本海軍は、昭和15年に零式の名前を冠した水上機ファミリーとして、三座水上偵察機、二座の水上観測機、潜水艦にも搭載できる小型水上偵察機を相次いで正式化させました。
これらの水上機はいずれも世界でもトップクラスの性能を誇っており、戦艦や巡洋艦の搭載機はもとより、水上機母艦や潜水艦、さらには水上機基地を拠点として陸上航空隊と同様の任務につくなど、太平洋戦争全期に渡って大活躍しました。
しかしながら、基地設営能力の低い日本海軍としては、さらに多目的に水上機を利用すべく、さらなる開発を進めます。そこで誕生したのは、水上戦闘機という機種で、二式水戦、さらには「強風」として、開発されていきました。
さらには、戦闘機のほかに、攻撃任務に使用できる水上機、高速偵察機としての水上機を進化させるべく開発を進め、「瑞雲」「晴嵐」「紫雲」という機種が生まれていったのです。

で、今回のお題の「瑞雲」ですが、十六試水上偵察機(E16A1)として開発が開始され、1942年5月には初飛行しました。
が、ここで問題が続発します。原因はあまりにも高性能を狙ったため。開発時の性能要求として、「250キロ爆弾を抱えての急降下爆撃性能、最高速度250ノット(時速455キロ)、艦爆並の機動性、航続距離1400海里(偵察重量)、武装は7.7ミリ機銃×3」等の厳しい内容でした。
どれだけ厳しいかというと、フロート付の機体なのに、九九艦爆を越える性能を要求されていると言えば、少しは理解できるかと思います。特にフロートは、空中時には単なる重量物で空力特性を妨げる邪魔者にしかならないと思えば、なおさらです。

もともとハンデキャップを背負っている上に、発動機は「金星40型改」で、がんばっても1400馬力くらいしか出ません。最高速度は結局240ノット(時速430キロ)で、上昇能力も期待通りにはいかないのは仕方ありませんでした。
そして、急降下爆撃機として採用されるために、機体強度がかなり高くないといけませんでした。水上機のネックは抵抗の高い水上に滑り込むように着水して、また離陸しなければなりません。開発当時の「瑞雲」はフロートの強度と安定感が足りないため、浸水したり、機尾を振る癖があったようです。これは支柱とフロートの強化によって解決しています。

しかし、もっとも問題となったのは、急降下用のダイブブレーキです。「瑞雲」のダイブブレーキは前部フロート支柱を展開してダイブブレーキとする斬新なものでした。しかし、このダイブブレーキを展開すると、たちまちのうちに安定感がなくなり、激しいバフェッティング(振動)を引き起こしました。
血の滲むような苦労の末、ダイブブレーキをまるで「ヘルダイバー」のように穴空きブレーキとすることで、必要外の空気を逃がし、適度な抵抗を生むように改善することができました。

そんなこんなを直して、ようやく正式化にこぎつけたのは、1943年8月「瑞雲11型」として誕生しました。この間、固定武装は大幅に強化され、20ミリ機関砲が前方固定として2門、旋回機銃として12.7ミリを装備して、爆撃機どころか、零戦並の武装に進化していました。これは後の対地攻撃任務等に大変活躍する要因となります。
開発、及び生産は愛知航空、後に愛知が彗星の量産に専従すると、日本飛行機が生産を行なうこととなります。本機が愛知に開発を依頼されたのは、やはり「艦爆の愛知」と異名を取るくらい、艦爆にたいして造詣が深かったからでしょう。
量産1号機のロールアウトは1944年2月、そこから急ピッチでの、量産と部隊編成が進みますが、「瑞雲」の実戦化への試練はまだ終わっていませんでした。

「瑞雲」は、1944年の夏に2度にわたる空中分解事故を起こしています。原因はフラップ取り付け部分の強度不足、また、ダイブブレーキ展開時に気流が乱れ、それが主翼にたいして、分散振動をなって、空中分解につながったようです。機体強度は慌てて改良されましたが、終戦まで「瑞雲」の強度不足は搭乗員の心の不安となって、のしかかりました。
また、この改良のために部隊編成と量産化が遅れ、結局、「瑞雲」が日の当たらない飛行機となる原因となってしまいました。 当初、搭載予定だった「伊勢」「日向」には代わりに「彗星」と零式水偵が乗り、しかも台湾沖航空戦で搭載機を消耗して、「伊勢」「日向」は裸でエンガノ沖に出撃することとなります。



ようやくのことで「瑞雲」が実戦に投入されたのは、1944年10月のレイテ決戦時です。初の、そしてほとんど唯一の「瑞雲」航空隊、第634航空隊が、ルソン島のキャビテにある水上機基地に展開したのです。以後、「瑞雲」の短い歴史は634空とともに進んでいきます。
レイテ戦での634空は夜間の船団攻撃を徹底して実施します。1944年10月から、アメリカ軍がリンガエン湾に上陸してきた1945年1月6日まで、ほとんど全機を消耗するまで激しい空襲を仕掛けました。
その間、レイテ決戦の支援攻撃、レイテ輸送作戦である「多号」作戦の上空直援、「礼号」作戦の支援攻撃等、対潜哨戒や小艦艇・輸送艦艇攻撃を実施し、また対地支援攻撃等も行なっています。
1945年1月に連合軍がルソンに上陸した際に、残存していた「瑞雲」はたったの2機、この2機を部隊再建の基幹とするべく、台湾に脱出させるとともに、地上要員は空路台湾に脱出すべく、バギオに撤退しました。
ルソン島からの航空要員脱出は悲惨な結果となった部隊が多いのですが、634空は比較的損害も少なく、台湾の東港に再集結しました。また、残留要員が東港で部隊を再建すべく、機体、人員を集積していたため、部隊としての戦闘能力も急速に回復していきます。

634空がその真価を発揮したのは、次の沖縄航空戦です。台湾がフィリピンや中国の米空軍の空襲圏に入り、地上での損害が馬鹿にならなくなってきたため、部隊主力は台湾北部の淡水にこっそり作った基地に移動しました。また新人搭乗員の練成基地として、九州の玄海にも基地を設け、そこでじっくりと練成を開始する予定でした。その前に沖縄に連合軍が上陸してしまったのですが。

フィリピンからの634空の主力は偵察301飛行隊です。3月頃ようやく戦力を揃えることが出来た偵301は、歴戦の水上機乗りの生き残りが多い、錬度の高い部隊でした。そのため、他隊が特攻作戦を実施するなか、夜間通常攻撃という正統派の攻撃戦法を最後まで実施することとなります。
作戦方法は、夜になって、淡水基地の作戦機は沖縄に爆弾を抱いて出撃、空襲ののちに奄美大島の古仁屋に着水して燃料・弾薬を補充、また沖縄を空襲して淡水に帰るという厳しい攻撃を行ないました。一方玄海基地の機体は、夜に古仁屋に進出し、沖縄に反復攻撃を加えています。

古仁屋は佐世保航空隊が管理していた水上機基地で、山をくりぬいて作った秘密基地です。もっともアメリカ軍も古仁屋に水上機基地があるのを早々に気づいて、昼間は航空機で制圧し、激しい爆撃を行ないました。地上施設はあっという間に喪失し、梅雨の辛い時期に兵舎もない、つらい洞窟生活を余儀なくされ、また補給の飛行艇や水上機が襲われることもしばしばありました。

この時期の「瑞雲」の装備は20ミリと12.7ミリは完全装備、250キロ爆弾と、28号ロケット弾を装備しています。過重によたよたと離水して、沖縄に出撃、特に沖縄近海を単艦で活動しているレーダーピケット艦狩りを熱心に行い、レーダー網に穴をあけて特攻隊の攻撃を間接的に支援しています。

こんな反復攻撃を仕掛けていれば、当然と言えば当然ですが、消耗も激しいものでした。島伝いの作戦が多く、不時着搭乗員の回収も水上機の特性を活かして楽だったため、ベテランパイロットは他隊に比べて、恵まれていましたが、それでも消耗は消耗です。
5月に入り、横浜で練成していた「瑞雲」の偵察302飛行隊も634空の指揮下に入り、古仁屋から作戦するようになります。もっとも偵301とは錬度がまるで違うため、未帰還機は一気に増えたそうです。
天号作戦中、及びそのあともひたすら沖縄夜襲を実施した634空は、沖縄戦後に奄美と台湾から撤退、鹿児島の牛久基地を一時利用したあと、玄海基地に全部隊が集結して終戦を迎えました。最後は特攻作戦の準備中でした。



「瑞雲」は戦闘機並の速度、急降下まで出来る頑丈さと機動性、重武装の水上機として、ひじょうに成功した機体でしたが、惜しむらくはその開発に手間取ってしまったことです。やっと実戦投入された頃は、「水上機にしては性能がよい」ただの飛行機となってしまい、多くの損害を出すことになりました。
生産数は愛知が194機、日本飛行機が59機の総数253機、試作機を入れて256機が誕生したのみでした。

2001/8/17



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