〜書きなぐり文其の三〜 ルソン島の日本陸軍空挺部隊




書き殴りの其の二で機甲部隊について少し書きましたが、機甲部隊を書いたら空挺部隊も書かないといけないなーと、ちょっと 筆を取りました。まあ、こちらのテーマもいまいち資料が不足している点が多いので、やはり書き殴り扱いです(笑)
空挺部隊は好きな方が多いため、迂闊な文章は書けませんが、私の知っている範囲でちょっとまとめてみようかと思います。



さて、本題のフィリピンの空挺部隊について書く前に、ちょっと日本の空挺部隊についてまとめてみましょう。御存知の方も多いとは思いますが、日本の空挺部隊は二系列に分かれます。陸軍と海軍です。
海軍が空挺部隊を持っている例は他にあるのかなと、ちょっと調べてみましたが、あまりないようです。空軍のある国は空挺部隊は空軍に所属している例が多いですし、陸海しか持っていない国はだいたい陸軍の管轄となっています。
まあ、同じ性質の部隊ですし、ヨーロッパではあまり海軍が空挺部隊を持っても意味がないですし。

陸海ともに空挺部隊の創設はほとんど同じ時期、昭和15年の秋頃のようです。
浜松に「日本陸軍飛行学校練習部」が創設され、以後の陸軍空挺部隊の基幹組織となりました。初代練習部長は河島慶吾中佐です。
のちに、満州の白城子に、さらには新田原と唐瀬原に移転し、この2箇所が日本陸軍空挺隊の拠点となっていきます。

創設後の空挺部隊の動きは本題ではないので、詳しい話は省きますが、パレンバン降下で勇名を轟かせた後は、空挺部隊はなかなか活躍する機会がありませんでした。制空権が必要で、輸送機や滑空機が必要な空挺部隊は使いどころが難しいのです。ガダルカナルやビルマ等で使用する話がありましたが、結局使われませんでした。
そうこうしているうちに、マリアナが失陥し、いよいよフィリピン決戦、さらには本土決戦という話になります。そんなときに精鋭で固めた空挺部隊をあそばせておく訳にはいきません。そうして、フィリピン決戦に空挺隊は次々と投入されることになります。



レイテに投入された陸軍空挺部隊は、「第二挺身団」で、団長は徳永賢治大佐。編成部隊として、挺身第三連隊(白井恒春少佐)挺身第四連隊(斉田治作少佐)挺身飛行第一戦隊(新原季人中佐)挺身飛行第二戦隊第一中隊(三浦浩大尉)で編成されていました。挺身団司令部は挺身練習部で編成され、挺身飛行戦隊は編成変えの際に、第二戦隊の戦力が低下していたので、第一戦隊を投入しています。

第二挺身団は秘匿名称として、「高千穂」という名称をもっていました。また、第三連隊は「鹿島」、第四連隊は「香取」、飛行第一戦隊は「霧島」、二戦隊第一中隊は「阿蘇」という秘匿名称をもっていました。
「高千穂空挺隊」といえば、知っている人も多いかと思います。レイテ島のブラウエン飛行場に空挺降下した「高千穂空挺隊」です。第三連隊を中心に、第四連隊の一部を加えた編成で、レイテ島の各飛行場に降下し、一時的に飛行場を占領した部隊です。同時に実施されるはずだった地上部隊の「和号作戦」がうまくいかず、結局密林に後退、以後消耗していった部隊でした。
レイテに第三連隊主力を送り出し、さらに第二挺身団は、ネグロス島のバゴロドに第四連隊を中心として、第二次部隊を空輸します。この段階で、挺身団の主力2個連隊は出払ってしまい、団司令部と一部の残留部隊のみとなってしまいました。この残存部隊がルソンの地上戦闘に巻き込まれることになります。

徳永団長以下の第二挺身団は第四航空軍に編入され、第四航空軍司令部守備部隊としてマニラに展開することになりました。もっとも、第四航空軍司令官のルソン脱出の際に、第二挺身団もこの騒ぎに巻き込まれます。この大騒ぎのため、それまで守備していたマニラから、バギオ方面に移動中にリンガエン湾の連合軍上陸を迎えてしまいました。
第二挺身団は、レイテやネグロス島に部隊を送ったあと、残留部隊を再編しています。
第三連隊重火器中隊(久富薫大尉)・・・ルソン残留部隊
第三連隊第三中隊(大城隆大尉)・・・ルソン残留部隊
西田隊・・・第三連隊作業中隊西田中尉を長として、第三連隊1中隊・2中隊・作業中隊残留員を再編成した中隊
牟田隊・・・第四連隊残留先任の牟田中尉が指揮した第四連隊残留員再編中隊
ほかにも、増田中隊、鈴木中隊、野口中隊等の名前が確認でき、最終的には8個中隊に再編されています。恐らく、エチアゲ地区に集結していた第四飛行師団の地上部隊の要員も吸収して、再編されたものと推定されます。

再編成なり、エチアゲ・カガヤン地区で対ゲリラ戦や、糧秣輸送を行なっていた第二空挺団ですが、3月中旬に第十師団(鉄兵団)の前面、バレテ峠正面が米軍に突破されそうになり、増援部隊として第一線に進出することになりました。バレテ峠の左翼、旧スペイン道の要衝である鈴鹿峠を守るためです。
すでに現地の守備についていた津田部隊(歩兵第十一連隊)を掌握し、高千穂支隊と通称されるようになった第二空挺団は、鈴鹿峠の右にそびえる1200メートル級の高千穂山に陣取り、以後激しい防御戦を行なうことになります。

3月20日頃より、高千穂山に展開を開始、3月31日に最初の攻勢を南方の三ノ峰、禿山一帯に仕掛けました。これには6個中隊が参加し、三ノ峰一帯より駆逐しました。
引き続き、鉄兵団の意図した第一期攻勢作戦(4月6日)を実施、冑山、妙高山付近の砲兵陣地に夜襲を仕掛けこれを撤退に追い込みました。続いて、4月14日に第二期攻勢作戦を実施、3人1組の切り込み隊を50隊編成して、禿山からミヌリに向けて浸透攻撃を仕掛けました。これもかなりの戦果をあげましたが、既にバレテ峠前面の各防御陣地は崩壊状態で、いよいよ危急となっていたのです。
支隊は一旦、バレテ正面に転用されそうになりましたが、徳永支隊長の反対(移動の手間や。通信系の再編成、士気の問題等で反対したそうです)によって、鈴鹿峠を守備を継続することになります。

この正面の連合軍はアメリカ第25歩兵師団、主力をバレテ峠から金剛山に投入し、鈴鹿峠方面には少数の警戒兵しか展開させなかったため、このように高千穂支隊の活躍が目立つようになったのでしょう。
第二次攻撃のあと、高千穂支隊はそのまま、森脇、増田、佐々木の3個中隊を金剛山防御に派遣しました(平林師団参謀の指揮下)。また直後に、西田中隊も派遣し、バレテ峠左翼の高地争奪戦に投入されています。

バレテ峠は5月9日には陥落、周辺要地も5月27日までには落ち、バレテ峠は突破されました。バンバンからカガヤン渓谷にかけても次々と占領され、ルソン島の防衛戦は6月上旬には勝負がついた状況でした。
高千穂支隊は鈴鹿峠周辺に取り残され、鉄兵団とも連絡のつかない状況になりました。既に食料も尽き、このまま、バレテ峠付近にいるのも自滅を待つだけと、カガヤン渓谷方面に転進することになり、6月26日に移動を開始、7月上旬になんとか鉄兵団と連絡を取れ、カガヤンのピナバガンに転進の命令を受けました。その後、移動先のピナバガンで終戦を知ることとなります。残存人員は約80名。

一方、挺身飛行戦隊の残存部隊は、その航空能力より、別行動を取りました。徳永団長以下の主力がマニラに移動したあとも、アンフェラス基地を拠点に南方各地と輸送業務を実施し、 連合軍上陸後は、台湾に撤退して、台湾−アパリ・ツゲガラオ間の搭乗員救出作戦を2月下旬まで実施しました。この時点での残存兵力は輸送機5機、搭乗員40名、地上員100名程度です。また、ルソンに残置した地上員が120名程度いましたが、これは航空機の機銃等をもって陸戦要員に編入され、高千穂支隊とともに死闘を繰り広げることになりました。



第二挺身団がレイテに空挺作戦を行なっている頃、内地では第一挺身集団の編成が完結していました。第二挺身団のみ戦わせるわけにはいかないとの、挺身団長塚田利喜智少将のルソン決戦参加の意見具申が通り、12月に第一挺身集団もルソンの戦場に投入されることになりました。その編成は以下のとおりです。

第一挺身集団
集団長・・・塚田利喜智少将
滑空歩兵第一連隊
連隊長・・・多田仁三少佐
滑空歩兵第二連隊
連隊長・・・高屋三郎少佐
第一挺身通信隊
隊長・・・坂上久義大尉
第一挺身工兵隊
隊長・・・福本留一少佐
第一挺身機関砲隊
隊長・・・田村和雄大尉
ただし、参謀本部も無謀な作戦参加と考えたのか、挺身集団全てに出撃が命じられた訳ではありませんでした。第一挺身団の2個挺身連隊をはじめとして、第一挺身戦車隊、第一挺身整備隊、航空機動力たる挺身飛行第二戦隊、滑空飛行第一戦隊には出撃が命じられず、内地で待機ということになりました。確かにこれらの部隊まで出撃すると、内地のほとんど全ての空挺部隊がルソンに投入されることになり、今後の空挺部隊育成に支障が出ることになります。
これらの残留部隊はその後、沖縄空挺戦等の基幹部隊として奮戦することになります。

さて、第一挺身集団は11月27日に第四航空軍の序列に入り、空母「雲竜」に載ってフィリピンに向かいました。第二挺身団もやはり空母「隼鷹」で戦場に向かっているのですが、この時点で既に空母に載せる艦載機戦力は枯渇して、輸送船の代わりに使われていたのです。
で、最新鋭空母「雲竜」には他に、特攻艇部隊なんかも載っていたのですが、12月19日に台湾西方で潜水艦に撃沈されてしまいました。乗艦していたのは滑空歩兵第一連隊と挺身通信隊・工兵隊の一個中隊が海没してしまいました。
滑空歩兵第二連隊以下の集団主力は、第十九師団主力と共に、タマ38船団に乗り込みました。吉備津丸、せりあ丸、青葉山丸、日向丸、神州丸の5隻の船団です。いづれも10000トン前後の高速重武装の陸軍残存輸送船団の主力で、海防艦6隻に護衛されて、決死の輸送作戦に出撃しました。この当時、フィリピン全域は完全に連合軍の制空権下に入っていたのです。
第一挺身集団は「青葉山丸」と「日向丸」に分乗し、12月21日門司を出航、29日に北サンフェルナンドに到着しました。しかし、必死の夜間揚陸もむなしく、翌朝、連合軍の空襲につかまり、あっという間に青葉山丸を撃沈されました。
各員の必死の揚陸作業により、兵員にはほとんど損害が出ませんでしたが、19師団の山砲2万発等を喪失していまいました。ここで、陣容を整えた第一挺身集団は、クラーク方面に進出します。
尚、揚陸を終えたタマ38船団は帰りも空襲を受け、吉備津丸中破、神州丸沈没の損害を出しています。



集団司令部は1月8日に空路クラークフィールドに到着し、北サンフェルナンドに上陸した第一挺身集団もクラークフィールドに陸路急ぎました。しかし、1月6日には連合軍がリンガエン湾に上陸し、いよいよルソン島での戦闘が始まりました。
クラークフィールドに到着した集団長塚田少将は、そのまま、クラークフィールドを守備する「建武集団」の集団長となります。しかし、建武集団は周辺の航空部隊や兵站部隊をかき集めて編成した雑多な集団で、辛うじて陸戦兵力として期待できるのは、機動歩兵第二連隊(戦車第二師団)のみでした。集団全体で約3万、そのうち陸戦兵科は前述の機動歩兵第二連隊と、幾つかの戦車、自走砲中隊のみ。この他に塚田少将の手勢である、第一挺身集団が加わります。しかし、滑歩1は海難し、到着したのは二連隊と通信隊、機関砲隊、工兵隊(一部)のみ。一部の部隊はリンガエン湾に連合軍が上陸した影響で、集団本隊と合流できず、バギオ方面で独自戦闘を行なうことになっています。

ここで、滑空歩兵連隊の編成をちょっと解説しておきます。
「連隊」と名前がついていますが、実際は増強大隊程度の戦力です。歩兵中隊3個と、降下・滑空作業を行う半工兵のような作業中隊が1個、速射砲中隊・山砲中隊がそれぞれ1個です。ちなみに挺身連隊もやはり同様の編成で、降下方法が異なるために冠している名前が違います(実際は挺身連隊も滑空降下していますが)。

クラークフィールドでは、航空部隊(主に地上要員)が右往左往し、まったく防御体勢ができていませんでした。結局航空兵科の多い陸軍は飛行場を捨てきれず、飛行場前面で防御戦を実施することになり、陸戦に慣れていない海軍部隊は後方の山岳地帯に複廓陣地を設け、そこに篭ることになります。
3万も人員がありながら、まともな戦力として期待できるのは、滑空歩兵連隊(実際は大隊規模)と、機動歩兵第二連隊(一個大隊欠、連隊長高山好信中佐)の3個歩兵大隊のみ。守るクラーク地区は広大な平地で、大規模な航空基地が幾つもあります。
結局機動歩兵大隊を1個づつ南北に配置し、それらに戦車中隊や独立速射砲大隊を配置して対戦車能力を 高めて第一線とし、その真ん中後方に航空関係部隊をかき集めた部隊を展開、滑空歩兵第二連隊は第一線の後方に決戦兵力として配置されていました。もっともこの部隊はクラーク基地に到着したばかりの上、対戦車機材の大部分を海没して失っていたと言うこともあります。

クラーク基地に連合軍の米第14軍団(第37師団、40師団基幹)が進撃してきたのは、1945年の1月23日。圧倒的な砲爆撃のあと、戦車を先頭に攻撃を仕掛けてきました。この地区には独立戦車中隊や独立速射砲大隊、独立自走砲大隊等の対戦車戦力もありましたが、衆寡敵せず、あっという間に第一線陣地は突破壊滅します(1月27日〜30日。30日にクラーク地区の最大の市街地、ストチェンバーグでクルーガー第6軍司令官が国旗掲揚式を行ない、占領を宣言しました)。
この頃、滑空歩兵第二連隊は、第二線で陣地構築中でしたが、「まだまだ敵の来るのは先」と戦闘準備は全く整っていませんでした。前衛陣地をあっという間に喪失した、滑歩2は後方陣地に撤退し、残存山砲と白兵戦で複廓陣地への突破を阻止を図りました。米軍の1個中隊を敗走させる等、奮戦を続けましたが、2月10日前後には爆撃と砲撃の上、弾薬・食料が第一線陣地では枯渇し、後方の複廓陣地に撤収せざるを得ませんでした。

3月中旬には後方複廓陣地も相次いで崩壊、いよいよ建武集団は山中に篭ることになりましたが、北部部隊とか異なり、山篭りの準備を全くしていなかったため、たちまちのうちに食料不足に陥りました。建武集団では食料不足のためにほとんど全滅に近い損害を終戦までに出すことになります。
滑空歩兵第二連隊は当初、山に入る方針でしたが、食料の準備がないため、再度、初期陣地へ進出し、その周辺に展開して戦力の温存を図りました。そのため、他隊に比べて損害は比較的少なく済んでいます(クラーク戦開始時600名、終戦時約400名残存)。



第一挺身集団主力はクラークフィールドで死闘を繰り広げたのですが、一部の部隊は集団本隊に合流できず、独自の戦闘を余儀なくされました。それらの小部隊を簡単にまとめてみます。

第一挺身集団工兵隊・・・第一中隊を海没で失い、機材小隊はクラークフィールドに向かったため、残部の隊本部(隊長、福本留一少佐)と第二中隊、第一中隊の1個小隊で編成されていました。また、海没した滑空歩兵第一連隊の作業中隊と大隊砲小隊は第二陣の船団に乗り込んだため海没を免れ、工兵隊と共に行動しました。
この部隊が実施したのは、バギオからカガヤン渓谷のアリタオ間100キロの道路整備でした。北部ルソンはバギオに道が集まっているような道路配置ですが、東西に結ぶ連絡路はなく、バギオに兵力を展開するためにはこの道の整備が必要でした。
この頃はゲリラも日本軍よりはるかに優秀な装備になっており、また常に空襲に晒されるような状況での工事となったため、次々と損害を出し、3月下旬までの工事とゲリラ討伐で、約400名にまで兵力が減少しています。

必死の作業の末、自動車は無理でしたが、ある程度まとまった道路が整いつつあった4月上旬、ナギリアン−バギオ(バギオ西部の主要道)が突破されそうになり、ここを守備する独立混成第五八旅団(盟兵団)の支援に急遽出撃することになりました。
隊長の福留少佐が負傷のため後送されており、中井大尉が指揮を取り、山間の険しい一本道を肉弾戦で防御することになります。かかっている橋を落としながら戦車に対して爆雷攻撃を仕掛けますが、4月14〜20日の戦闘で中井大尉以下、ほとんどの将兵が死傷し、戦闘可能な人員は20名内外にまで減少しました。
21日に守備陣地を突破され、24日にはバギオが陥落、工兵隊は生き残った安田大尉の指揮を受けて、バギオを脱出します。その後、復帰した福本少佐が再び指揮を取り、工兵隊は五八旅団工兵隊として再編成され、五八旅団に所属、終戦を迎えることになりました。


滑空歩兵第一連隊第二中隊・・・舘大尉率いるこの中隊は、雲竜に乗艦していなかったため、滑歩一の中で、唯一戦力としてルソンに上陸することの出来た中隊でした。第一挺身集団主力と共に、北サンフェルナンドに上陸することは出来たのですが、主力と切り離されてリンガエン湾に取り残されてしまい、第二三師団(旭兵団)に所属して、米軍の上陸を迎え撃つことになりました。
実際、どの位置で戦闘してどうなったのか、色々調べてみたのですが、資料がなく、これ以上の詳細は不明でした。



薫空挺団についても調べるところなのですが、組織が挺身集団と違うこと、時間と気力がつきました(^^;
いや、やっぱり有名な部隊の調査は大変です。調べても調べても切りがないですし。
今回は「戦史叢書」と「大空の華−空挺部隊全史」を中心に構成していますが、他にも細かい資料が結構あります。空挺部隊の本も結構出ているものですね。

次のルソンのレポートはいよいよバテレ・サラクサク戦でしょうか。中部や北部戦線についても、何かまとめてみたいところではあります。

2001/9/7



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