〜研究作文其の十五〜
ヤルート環礁防衛戦
マーシャル諸島の南の端にあるヤルート環礁、この環礁はマーシャル諸島に連合軍が押し寄せた際に、
攻撃の目標となり、激しい戦闘が繰り広げられました。今回はこの環礁の戦闘についてレポートします。
ヤルート環礁はマーシャル諸島の一番南の端にあります。環礁は大型艦の停泊に適した泊地となっており、
昭和15年頃から日本海軍が航空基地や方位測定所、倉庫設備などを建設して、来るべき対米戦に備えて
いました。
環礁の主な島としては、環礁の行政(ちゃんと住人が2000人強ほどいました。のちに住人の扱いが問題に
なりますが、これについては後述します)の中心だったジャボール島。この島は環礁の南東水道の南に面して
おり、南洋庁の東部支庁ヤルート出張所がありました。ついで、環礁の東にあったイミエジ島。ここはヤルート環礁
の基地設備の中心で、開戦前から海軍第十九航空隊が展開しており、
防衛部隊としては第五一警備隊が守備隊として配備されていました。
さらには環礁の名前の由来となったヤルート島が環礁南に伸びています。この島には見張所がちょこんと建設
されているだけでした。環礁西にはピングラブ島があり、環礁内の大きな島はだいたいこの4つとなります。
日本軍は環礁東の泊地中心地に展開していました。
開戦後のこの環礁の主な任務は、展開している第十九航空隊(後に第九五二空
と改称)の水上偵察機でマーシャル海域の哨戒任務を行うことでした。マーシャルは開戦後、主戦場
からは外れていたため、昭和17年〜18年暮れくらいまでは平和な後方基地といった感を呈していましたが、
連合軍がソロモンで押し切り、いよいよ中部太平洋に侵攻を開始してくる段階で、この島は最前線の一つと
して激しい戦闘の渦中に放り込まれることになります。
ヤルートがいよいよ戦闘に巻き込まれるのは、昭和18年の春頃です。この頃、ギルバート諸島に対しての米軍
の反攻の気配が感じられ、日本軍はマーシャル・ギルバートの守備増強を計画しました。このため、幾つかの独立支隊
が編成され、各島嶼の守備に任ずることとなりましたが、ギルバートに派遣予定の
南海第一守備隊が中継地点のヤルートに到着する直前に米潜水艦の攻撃に遭い海没し、500名以上を
喪失しました。生き残った300名はなんとかヤルートに上陸、以後ヤルート防衛の一端を担うこととなります。
ギルバート失陥後の18年11月には、ヤルートは完全に最前線のひとつとなります。前年の昭和17年4月に既述の
第五一警備隊が第六二警備隊に改編され、司令
として升田仁助大佐が着任し、以後終戦まで同島の指揮を取る事となります。
この時期に、陸軍部隊の増強もありました。マーシャル各島の守備戦力増強のために南洋第一
支隊が編成され、そのうちの第六中隊と砲兵中隊、それに通信中隊の2個小隊がヤルートに増強されました。
この段階で、ヤルートの戦力は将兵およそ2300名となっています(のちに南洋第一支隊の第二大隊主力も増援しています)。
昭和19年1月に最後の補給船がヤルートに来た段階での、守備隊は以下の通りです。
海軍
第六二警備隊・・・升田仁助大佐(人員1580名)
12.7センチ連装高角砲4基、25ミリ機銃連装機銃3基、13ミリ機銃4基、戦車小隊
第四施設部、設営隊、横須賀航空廠派遣隊、第四軍需部派遣隊等
陸軍
南洋第一支隊第二大隊・・・古木秀策少佐(人員1727名)
本部、第5中隊指揮班と1個分隊、第6中隊、第2機関銃中隊の一部、第2歩兵砲中隊、支隊通信隊の2個小隊(旧南海第一守備隊は南洋第一士隊に吸収されています)
ヤルート防衛の主目的は、上記952空の水偵と802空の飛行艇基地の防衛でした。ですが、昭和19年諸島の攻撃で航空隊は壊滅し、残存人員は最後の連絡船で内地へ引き上げました。その後、マーシャル諸島も攻略されて、ヤルート守備隊は完全に孤立した状態で防御戦闘を行うこととなります。
昭和19年を通じて、ヤルート島は空襲を浴び続けます。これはマーシャル各島に展開した米軍が頻繁に空襲を仕掛けたからです(各島の航空隊が日本本土やフィリピン方面に前進した昭和20年には空襲は下火になっています)。
空襲が始まったのは昭和18年の11月からで、終戦まで延べ8000機を越える来襲機に晒されました。特に昭和19年3〜11月ころまで連日空襲が続き、延べ機数で1000機を越える機数が空襲を仕掛けてきた月もあります。
また、駆逐艦クラスの艦砲射撃も数度浴びており、昭和20年6月には「アリゾナ」級と思われる戦艦からの艦砲射撃も浴びています。この艦砲射撃の際は、コンクリートで堅牢に構築した各種施設に大被害が生じてしまいました。
ヤルートでの戦闘は基本的にマーシャル諸島より飛来してくる米軍爆撃機に対する防空戦です。また、空母艦載機をはじめとする小型機も多数が押し寄せてきています。終戦まで通過機を含め、ヤルート環礁に飛来した米軍機は、およそ8000機。落とされた爆弾はおよそ5000トン。この大物量がこの小さな環礁に叩き込まれました。
防空戦闘は4基の高角砲と、3基の連装25ミリ、4基の13ミリで奮闘することになりますが、昭和19年以後、補給は完全に途絶え、特に高角砲弾の不足は深刻で、20年頃には弾数節約のためにほとんどまともな射撃が出来なくなっていました。
13ミリでは堅牢な米軍機にはあまり効果が上がらず、必然的に主力は20ミリ機銃群ということになりました。
当時、ヤルート本島(イミエジ島)には2群に分かれた高角砲台と、水上機基地の南北にそれぞれ、25ミリ、13ミリの機銃を備えた機銃座がありました。空襲の第一目標は水上機基地ですので、この配置は爆撃進路に載った空襲機を迎え撃つには最適な位置で、相当の空襲機を落としています。
水上機基地が壊滅し残存航空隊員が撤収した後は、これらの防空陣地も空襲の第一目標となりました。基本的に空襲を実施する際は、まず防空陣地を破壊することが重要なポイントとなります。
当然、防空陣地や対空要員も消耗を続け、終戦時に残っていた対空兵器は25ミリ機銃が2基と13ミリ機銃が2基、それに既に射撃をほとんどしなくなっていた高角砲が1基のみでした。
また、環礁の小島に対する特殊工作も、ヤルート環礁の戦いの一つでした。全島におよそ2000人の住人がおり、漁業等の作業の補助等で日本軍に協力していましたが、昭和19年の後半から米軍の特殊部隊がこれらの離島に潜入し、島住人の拉致や日本兵に対する奇襲、破壊工作等を拡大していきました。
守備隊側も警戒を強化する等の対策を立てていましたが、あまり効果があがらず、離島での防御戦は空襲ではなく、これらの潜入部隊を防ぐことが中心となっていきます。
太平洋の離島戦記で忘れてはならないことは、飢餓戦がひじょうに多かったということです。孤立した各島の戦没者を見ていくと、戦死より戦病死者のほうが圧倒的に多いことに気が付きます。これは栄養失調死やそれに伴う他の病気の併用で戦没された方が多数にのぼったからです。
ですが、ヤルートは環礁に比較的食料源(椰子やその他の植物と漁業)が多く、また面積に対する守備隊員が少なかったことにより、餓死者は出ませんでした。この点は他の島嶼防御と比べて幸運だったといえます。
ただし、決して充分な食料があったわけではなく、終戦時には大半の将兵が栄養失調状態に陥っていました。
ヤルートは太平洋各地で起こった米軍の上陸してこなかった島嶼戦の典型的な例といえます。連日の空襲と、たまの艦砲射撃に耐えつつ、終戦を迎えるというものでした。
トラック空襲後のこれらの島嶼防御戦の意味はともかく、各島とも終戦まで軍規を崩壊させず、秩序だった戦闘を継続していた点については覚えておくべきことかと思います。
2001/5/30
主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
- 「丸別冊」玉砕の島々(太平洋戦争証言シリーズ6)/潮書房/1987
- 戦史叢書・中部太平洋陸軍作戦(2)/朝雲新聞社/1968
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