〜書きなぐり文其の二〜
ルソン島の日本機甲部隊
書き殴りの其の二は日本の機甲部隊についてです。ここまでメジャーなテーマは初めてですね。つまり、
調べていないことがバレバレになってしまいますので、予めお断りしておきます。「書き殴り!」です(笑)
ルソン島防衛戦は投入兵力的に陸軍最大の作戦となりました。大陸と内地にある兵力を根こそぎ
集めて投入しています。師団の名前を上げても、第8、10、19、23、103、戦車2の6個師団、
それにレイテに持っていった第1、16、26、102とか第30、105師団もルソン島の第14方面軍の指揮下
に入ってました。10個師団を超える兵力を一戦場に投入したのは、他には大陸での数度の会戦と、
ビルマ戦線のみです。
これだけの兵力が投入された戦区なので、日本の機甲部隊も随分投入されました。島嶼戦と違い、
平原地帯があるので、機甲戦の展開できる余地があると考えられたのでしょう。実際は制空権のない
戦場での機動戦が成立するかというと・・・ということになりますが。
とにかく、ルソン島には日本陸軍始まって以来の機甲兵力が終結して実戦参加しました。その戦記は
ひじょうに悲しいものですが、簡単にまとめてみましょう。
昭和19年の夏、マリアナでの決戦が敗北となり、いよいよ次はフィリピンという状態で戦車第二師団(撃兵団)がフィリピンに配備されることとなりました。戦車第二は戦車連隊4個を基幹とした機甲打撃兵団ですが、うち戦車第十一連隊は千島に配備されてしまったため、3個連隊で出撃することとなりました。
戦車第二の転出が決まる前、そのほかにもこの方面には幾つかの機甲部隊が配備されていました。
まとまった機甲部隊というのはいませんでしたが、各師団の捜索連隊と中心として、数個部隊が配備されています。
捜索第一連隊・・・第一師団(玉兵団)の捜索連隊。当初はルソン島に配備されていましたが、レイテ決戦時にリモン・カリガラ平原の決戦に投入されています。連隊長は
今田義雄少佐です(捜索連隊は規模が小さいので、少佐が連隊長になることも多かったようです)。
編成としては、大陸よりルソン島に進出する際に縮小編成に改編され、機動歩兵1中隊と機関銃1小隊、装甲車1中隊
になりました。戦力としてはあまりにも小規模となってしまったため、山砲等がレイテでは付属しています。装甲車は九四式軽装甲車を10両弱と推測されます。
レイテ島のオルモック上陸後、先遣隊としてレイテ島を北上しましたが、途中で有力な米軍と遭遇(11月3日、米第24師団)、粉砕されてそのまま付近の山頂に陣地をとり、12月17日頃までリモン峠地区を固守していましたが、連隊長が戦死して連隊戦力はほぼ崩壊しました。
捜索第八連隊・・・第八師団(杉兵団)の捜索連隊。騎兵第八連隊を改編して誕生しました。第八師団は関東軍の最精鋭として位置付けられていた関係で、高定員師団として編成され、捜索第八連隊も充実した戦力を誇っていました。関特演の段階で、乗馬中隊1、機動歩兵中隊2、装甲車中隊1、自動車中隊1というミニ機甲部隊並の戦力を有していました。
ですが、フィリピン進出の際に縮小編成となり、歩兵二個中隊だけの部隊となりました。連隊長は箕田治六少佐です。
第八師団の守備地であるルソン東方のワワに展開していましたが、この段階で振武集団の直轄部隊に指定されています。
振武集団はのちに横山第八師団長が兵団長兼師団長として、第四一軍に改編されますが、6月ごろにワワダムを喪失した段階で、ほぼ兵力を失い、集団としての戦闘力を喪失しています。
捜索第八連隊は当初は後方にいましたが、必勝山地区の守備を4月中旬頃より実施し、後退後に光輝山の守備にまわり、降盛山地区に転進後、終戦を迎えたようです。この部隊は食料不足で相当の損害を出していますが、資料不足のため、詳しい戦況が不明です。
捜索第十連隊・・・第十師団(鉄兵団)の捜索連隊。騎兵第十連隊を改編しています。もともと満州にいた部隊なので装備は優秀でしたが、ルソン島派遣時に縮小編成となり、兵員わずか221名の部隊です。連隊長は鈴木重忠少佐で、あまりにも兵力が不足している為、歩兵第三九連隊の4中隊や歩兵第六三連隊の第6中隊、野砲十連隊の8中隊等を配属してもらっています。守備位置はサラクサク峠の手前のカバリシアンで、師団の右翼隊として2月頃からサラクサク峠正面に進出してきた米第32師団と戦闘を開始しました。
2月中旬にはしのぎきれなくなり、サラクサク峠に後退しました。この時点で戦闘開始当初約600名の兵員は80名にまで激減しています。サラクサク峠では戦車第十連隊から補充を受けて戦いつづけますが、4月19日にサラクサク峠で維持していたフユ陣地を撤退、このとき総兵員は50名に減少しています。5月頃にはサラクサク峠の戦闘は混沌として維持できなくなり、5月下旬にはサリナス地区に再終結し、この付近の高地陣地を維持、尚武兵団から孤立した師団がパピナガンに移動する作戦に従事中に終戦を迎えます。
捜索第十六連隊・・・やはり騎兵連隊の改編部隊で、騎兵第二十連隊が元の部隊です。第十六師団に所属しており、師団主力はレイテで玉砕しましたが、捜索連隊はルソン島に残置され、尚武集団に配属されました。方面軍直轄部隊として、米軍の上陸当初、バギオの防衛隊として守備につきました。連隊長は日比知大佐です。
当初はバギオ北方のゲリラ討伐を行っていた連隊ですが、第二三師団(旭兵団)正面の戦闘が危急となり、2月3日に二三師に配属されています。3月10日にバギオ南方に進出してきた米軍に対抗するために急遽南下して、テボ付近でアグノ河を渡河、攻勢をかけていた米126連隊に攻撃を実施して、この付近の部隊の撤退を支援しています。
バギオ南東20キロの地点で戦闘中だった連隊は、バギオの西方のナギリアン道が突破されかけていることから、急遽バギオの手前のイリサンに転進して守備に加わることとなり、とりあえず1個中隊を先行させてイリサンの守備につけ、連隊主力も全力で転進を開始しました(3月18日)。
3月22日には連隊主力もイリサンに到着し、北側から支援攻撃を開始しましたが、既に戦況は最悪の状態に陥っており、配属された独立混成第五八旅団(盟兵団、二三師の指揮下にあった)の撤退に伴い、バギオ北方のトリニダートよりさらに北に後退しました。この際、2個大隊(編成上、実際にはほぼ戦闘力を喪失)を配属されています。
バギオ北方21キロ地点付近のアトクに陣を張った連隊ですが、5月20日頃から五八旅団正面に米33師団が進出して攻撃開始、連隊も6月25日に戦車を伴う米軍の攻撃隊に反撃し、撃退しています。しかし7月5日に旅団が守備していた国道が突破され、やむなくアギ山の復廓陣地へ後退しますが、この際に連隊は指揮系統がばらばらとなり、連隊長以下十数人が後退に成功しただけでした。
連隊の兵員は戦闘中の補充員も含めて790名。うち601名が戦没しています。
捜索第十九連隊第三中隊・・・第十九師団(虎兵団)に所属していた捜索連隊ですが、連隊主力は朝鮮に残留し、第三中隊のみルソン島に進出したようです。元の部隊は騎兵第二七連隊です。
師団の歩兵七三連隊の指揮下に入って作戦していたようですが、詳しい詳細は不明です。
捜索第二三連隊・・・第二三師団(旭兵団)の捜索連隊で、元部隊は騎兵第十二連隊、連隊長は久保田尚平中佐です。
連隊は4個中隊から編成されており、第1・2中隊が機動歩兵、第3・4中隊が軽装甲車中隊でした。
しかし、輸送途上に輸送船が海没し、無事に上陸できたのは第1・3中隊だけでした(約500名)。
この連隊は師団主力から分離し、歩兵第七二連隊第1大隊(約900名)とともに、特攻艇部隊の海上挺身第十二戦隊と海上挺身基地第十二大隊の基地を守るとともに、クラーク・マニラ地区と尚武集団の連絡を維持するという任務のためにリンガエン湾南側のスアル港に展開しました。
この海上挺身戦隊は米軍のリンガエン湾上陸時に全力出撃し、上陸船団にかなりの損害を与えています。連隊を中心とした支隊主力は、マニラ方面との連絡を急ぐ米軍の猛攻を受け、装甲車隊は米軍上陸直後の10日に米戦車隊と戦闘になり消耗し、1月下旬には米軍の攻撃を押さえきれなくなり陣地を撤収、クラーク地区の健武集団に合流すべく移動を開始しますが、これ以後消息を絶ちます。
原隊をはぐれた少数の兵員が復員していますが、捜索連隊を中心とした支隊は部隊ごと行方不明となり、現在も詳細は判明していません。
ルソン島戦前後にルソン島で活動していた捜索連隊は上記の各隊です。個々の当時の装備はあまり資料がありませんが、通常の捜索連隊の編成だと、第1・2が機動歩兵(乗車歩兵)中隊、第3・4が装甲車中隊という編成を取っていることが多いようです。軽装甲車は九四式ないし九七式軽装甲車を定数8両装備しており、機動歩兵は3個小隊と速射砲・重機関銃を装備した重火器小隊で編成されています。
ただし、戦車師団に編成された捜索隊は軽戦車中隊2、中戦車中隊1、機動歩兵中隊2という他の捜索連隊に比較して強力な編成をしていました。ただ、フィリピンに進出した戦車第二師団は師団捜索隊はつれてきていません。
捜索連隊は編成の中に機甲戦力と歩兵を自前で持った簡易諸兵科連合の部隊で、単独での戦闘能力を持っています。そのため、各捜索連隊とも師団と切り離しての独自の支隊としての行動が多かったようです。もっとも、この時期のルソン島戦に軽装甲車がどれほど戦力として使用できたかは疑問が残りますが・・・。
各師団の捜索連隊のほかに、独立戦車中隊・独立自走砲中隊が幾つかルソン島に展開しています。昭和19年10月に独立戦車中隊が3個編成され、十四方面軍の直轄部隊として指揮下に入りました。
独立戦車第八中隊・・・クラーク地区のアンゲレス地区(マニラとクラーク基地群を結ぶ地点にある街)を守備していた柳本支隊(機動歩兵第二連隊第3大隊基幹)に配備されて同支隊の戦車戦力を担っていました。クラーク地区に米軍の第37・40師団が攻撃したきた20日頃に、クラーク基地群そのものを守っている江口支隊に配備され、29日に集団命令を受け、全面の敵を攻撃するべく出撃します。
中隊長岩下市平大尉直率の全力8両の九七式中戦車で突進しましたが、戦車砲の集中射を浴びで5両が破壊され、岩下大尉も戦死しました。もっともこの時点で米軍戦車数両を擱座させたようです。その後は後退戦に巻き込まれて、稼動戦車を全数失い復郭陣地に歩兵隊として後退して終戦を迎えたようです。
独立自走砲中隊・・・フィリピンの機甲戦力拡張のために急遽編成された部隊。もとの名前は第一自走砲中隊といいましたが、20年の元旦に北サンフェルナンドで揚陸中に空爆にあい、装備の過半を失いました。装備したいたのはどうも四式15cm自走砲(ホロ車)を装備していたようです。ただし、空襲の結果2両にまで減少してしまい、「第十四方面軍独立自走砲中隊」という名前に変ってクラーク地区の守備につくことになりました。
上記の独立戦車第八中隊とコンビを組んで対戦車戦闘を実施しましたが、至近距離からのアンブッシュ戦闘は刺し違えに近い戦闘で、鷲見文男中尉以下死傷が多発しますが、二門の自走砲は頑張って3月頭まで機動砲撃戦をクラーク地区で実施しています。砲を失ったあとは歩兵部隊としてピナツボ地区に展開しました。
独立自走砲大隊・・・上記、独立自走砲中隊とは別の部隊です。戦車第四師団の中隊を幾つかと野砲兵学校の人員装備を基幹兵力として編成されました。
装備は一式7cm半自走砲(一式砲戦車、ホニ1)の2個中隊6両と、一式10cm自走砲(ホニ2)の2個中隊6両で編成されていたようです。この部隊はフィリピンに上陸する際に空襲に遭い、装備の全てと人員の過半を失い、部隊は解体されてしまいました。
蛇足ですが、ここでフィリピン戦に投入された各自走砲について、ちょっと解説します。戦車第二師団の機動砲兵第二連隊が1個中隊だけもっていたのが一式砲戦車(7.5cm自走砲、ホニ1)です。通常、機動砲兵連隊は10cm級の自走砲(ホニ2)を装備することになっていましたが、量産の進まない10cm自走砲は数がなく、やむなく7.5cmを装備して対戦車戦闘に投入されています。
上記独立自走砲大隊は一式と呼ぶ自走砲を2種持っていました。機動砲兵連隊も持っていた7.5cm(ホニ1)と10cmの(ホニ2)二つです。ただ、海没してしまった為、実戦参加はしていないようです。
第一自走砲中隊は四式15cm自走砲装備です。これは口径からわかるように軍単位に配備される自走砲として考えられていました。そのため、この中隊も方面軍直轄扱いを受けています。
さて、ちょっとわき道に逸れましたが、他の独立部隊も紹介していきましょう。
独立戦車第九中隊・・・戦車第八中隊と同じく急遽編成された戦車隊でバギオ地区に展開していました。これはこの地区に入った後、燃料が乏しくて機動が思うようにならなかったためのようです。
方面軍直轄としてツゲガラオに展開していましたが、20年の6月下旬に侵攻してきた米戦車隊と交戦し、中隊長中嶋保男中尉以下11両の九七式は全滅してしまいました。
独立戦車第七中隊・・・戦車第八・九と同様に編成されています。中隊長は河野勲大尉で、19年10月に第十四方面軍の戦闘序列に入ったことは確認できました。恐らくルソン島戦に参加したようですが、資料がなく、詳細は不明です。
比較的小規模な部隊を紹介してきましたが、ここらへんでルソン戦の機甲部隊の主力、戦車第二師団(撃兵団)について解説しましょう。ルソン島の陸戦記を読めば、この部隊は大なり小なり記述があるので、部隊については御存知の方も多いと思います。
まずは師団編成から。
- 戦車第第二師団(撃兵団)
- 師団長:岩仲義治中将、参謀長:森巌大佐、作戦参謀:河合重雄中佐、後方参謀:薮内烈夫少佐、情報参謀:内田保之少佐、井谷菊雄少佐(クラーク地区担当)、水迫幸平少佐(部付)
-
- 戦車第三旅団
- 旅団長:重見伊三雄少将
- 戦車第六連隊連隊長:井田君平大佐
- 兵員約700名。
第1中隊(九五式軽戦車)、第2〜4中隊(九七式中戦車改)、第5中隊(九七式中戦車)で合計約50両。
- 戦車第七連隊連隊長:前田孝夫中佐
- 兵員約700名。
第1中隊(九五式軽戦車)、第2〜4中隊(九七式中戦車改)、第5中隊(九七式中戦車)で合計約50両。
- 戦車第十連隊連隊長:原田一夫中佐
- 兵員約700名。
第1中隊(九五式軽戦車)、第2〜4中隊(九七式中戦車改)、第5中隊(九七式中戦車)で合計約50両。
-
- 機動歩兵第二連隊連隊長:高山好信中佐
- 兵員約1700名。
第1大隊:板特竹芳少佐、第2大隊:上井藤雄少佐、第3大隊:柳本貴教少佐の3個大隊と、連隊砲中隊(連隊砲4門)、整備中隊(車両整備隊)の編成。
各大隊は車両乗車の機動歩兵編成で、3個中隊、各3個小隊の編成。小隊は一式機動砲を1門づつ装備。また機関銃中隊は重機6門を装備している。
-
- 機動砲兵第二連隊連隊長:松永忠兒中佐
- 兵員約1200名。火砲36門装備。
第1大隊:寺尾久松少佐、機動九〇式野砲2個中隊と一式7.5cm自走砲1個中隊。
第2大隊:大室金城少佐、機動九一式榴弾砲3個中隊編成。
第3大隊:長尾泰三少佐、機動九一式榴弾砲3個中隊編成。
これに牽引車を整備する整備中隊が付随する。
-
- 師団速射砲隊
- 板垣宗夫少佐、一式機動砲3個中隊編成(推定装備数20門前後)。
-
- 師団工兵隊
- 固武辰平少佐、6個中隊と整備中隊で編成。九六式装甲作業機を多数装備。
-
- 師団整備隊
- 米田玄章少佐、4個中隊で編成。
-
- 師団輜重隊
- 鎌田精一郎大佐、4個中隊と整備中隊で編成。
-
- 師団通信隊
- 菅野六郎少佐
-
- 師団患者収容隊
- 千葉忠二郎少佐
師団の編成では、師団防空隊や師団捜索隊もありますが、大陸に残置したようです。師団防空隊に関しては、戦車第三師団の指揮下にはいり、各種作戦を行っています。
こうして、派遣された部隊は、人員8000名、戦車220両、火砲36門、速射砲は機動歩兵連隊の持っているものを含めると約45門、自走車両は1500両という相当な数にのぼり、文句なしにルソン島守備の中心になる部隊でした。
もっとも、ルソン島に移動中にかなりの数の兵器が海没し、また上陸後も部隊転属や空襲等で少しづつ消耗しており、人員8000名、戦車200両、自動車約1000両という状態で米軍上陸を迎えました。師団は戦車の燃料はそこそこありましたが、自動車用の燃料(日本戦車はディーゼルで動くため、車両部隊とは燃料系が異なる)は欠乏気味でなかなか思うように機動できなかったのが実情でした。
戦車は九五式と九七式、九七式改、一式砲戦車(ホニ1)を装備していました。一式中戦車を装備していたと書かれている文献もありましたが、確認できた写真や部隊資料からは一式は見つからなかったため、実際は配備されていなかったのではないかと考えています。
戦車第二師団の戦記は幾つも出ていますし、まともに書くと、こんな簡単なレポートではとても収まりません。重見旅団の全滅からサラクサク峠に展開しての防御戦、サリナスへの転進と師団は苦闘を続けますが、基本的には幾つかの戦闘に分けられますので簡単に記述していきます。
重見旅団の機動戦・・・重見支隊は戦車第七連隊を中心として、機動砲兵・機動歩兵・工兵・整備の各1個中隊と輜重1個小隊よりなっていました。
リンガエン湾正面のビナロナン地区で1月17日に米軍のM4戦車隊と激戦になり、多くの戦車を撃破されます。後方のサンマニエル地区に下がった支隊ですが、ここも1月26日から戦車戦が展開し、27日夜半に重見少将が戦闘中に戦死、前田連隊長も戦死し、28日までにはサンマニエルで重見支隊は壊滅しています。
この地区の戦闘は太平洋戦争中最大の戦車戦と言われていますが、米軍のM4に対して、九七改や九五ではまったく歯が立たなかったのです。
クラーク地区の機動歩兵第二連隊・・・機動歩兵第二連隊は師団の指揮下から離れてクラーク飛行場群の守備につきました。ここの部隊(健武集団)は各飛行部隊の寄せ集めで、まともな戦力を持った部隊は他に滑空歩兵第二連隊がいる程度でした。
しかも後方の山岳地帯に寄らず、飛行場前面に防御線を引いてしまったため、1月20日頃から始まったクラーク地区の戦闘は米軍が一方的に押し捲る結果となり、3月20日頃には組織的戦闘力をほぼ喪失しています。
機動歩兵連隊は装備優秀な部隊でしたが、圧倒的な米軍の戦力に太刀打ちできるはずもなく、終戦までにほとんどの兵員が戦没しています。
サラクサク峠の戦闘・・・それまでリンガエン湾を中心とした包囲線で奮闘していた撃兵団の各部隊は2月5日よりバギオ方面に撤退することとなりました。師団の各部隊は戦車を半分地中に埋没して、トーチカ代わりにして戦闘していましたが、移動中の遭遇戦や陣地を突破された際に次々と戦車を失い、撤退作戦も待ち伏せや遭遇戦で大被害を受け、サンタフェ−ドバックス地区に再終結を終了したときは、2000名の人員と戦車のほとんど(180両)、自動貨車の半数(500両)、火砲の大半を喪失していました。
機動歩兵の主力がクラーク地区に配備されていたため、既にこの時点で人員は5000名を切っています。
バギオに抜ける幾つかの峠のうち、サラクサク峠に圧力が高まり、防御戦が怪しくなっていたため、師団は歩兵部隊に改編ののち、サラクサク峠で殴りあいの戦闘を実施します。後方部隊も戦車兵も関係ないような消耗戦で、ここで戦車第二師団は残存兵器の大半と兵員主力を失いますが、ナギリアン道からバギオが失陥するまでサラクサク峠を越えてバギオに突破させませんでした。
ここでは生き残った自走砲隊による支援射撃や、師団整備隊の作った簡易迫撃砲(付近の電柱に使われていた鉄パイプより作製)による砲撃戦、戦車から下ろした九七式車載重機の火線攻撃が語られています。
細かな戦車戦まで上げていくと、戦車第二師団は1月より5月までの間、頻繁に米中戦車と戦闘を行っています。日本の九七式ではM4には歯が立たず、体当たりや刺し違えの肉薄攻撃によってしか、撃破できませんでした。
ただ、戦車第二師団がリンガエン湾の正面でふんばったおかげで第十師団の体勢と、バギオへの兵站物資搬入の時間かせぎになったのも事実です。
さて、機甲部隊の主力である戦車部隊は簡単に解説しましたが、ルソン島にはそれ以外にも多数の車両部隊が展開しています。それは方面軍等に所属していた自動車部隊です。後方兵站部隊としての自動車隊ですが、12月15日の段階で、以下の部隊が展開していました。
独立第62、63自動車大隊
独立第210、260、326、327、328自動車中隊・・・方面軍に所属。
独立第316、317、322、323、324、329自動車大隊・・・第三五軍に所属。
独立第319、320、321、325、330、297自動車中隊・・・第四航空軍に所属。
特設第22自動車中隊・・・方面軍に所属。
特設第23、24、25自動車中隊・・・第三五軍に所属。
自動車大隊は自動車中隊3〜4個で編成され、1個自動車中隊は平均で20〜30両程度の稼動車両を持っていたようです。これらの部隊のうち、方面軍直轄部隊は方面軍兵站監部や第六野戦輸送司令部に所属して、マニラから北部拠点への物資の輸送に当たっていました。自動車隊の支援部隊としては、方面軍野戦自動車廠や方面軍野戦貨物廠が支援にあたっています。
また、この他に各師団の輜重兵連隊や師団輜重隊があります。師団単位の輜重隊は、南方派遣の減数編成時にもっとも槍玉に挙げられる可哀相な部隊で、例えば、第十師団の輜重隊だった第二三輜重兵連隊は6個中隊完全自動車化部隊であったのが、ルソン島転進時に自動車2個中隊、輓馬1個中隊に縮小編成され、さらに海没してルソン島に辿り着いたのは輓馬1個小隊、自動車3個小隊という連隊と呼べないような部隊にまで衰弱していました。
輜重兵連隊はどの師団も大なり小なり海没の被害を受けているところが多く、師団単独の兵站作戦も厳しかった部隊が多かったようです。唯一の例外は戦車第二師団で、この師団は基本的に車両で部隊が全て動くため、兵站輸送は比較的楽でした。しかし、機械化部隊のため、輸送物件が多かったこと、自動車燃料の欠乏のため、5月頃には自動貨車の大半は行動不能に陥っています。
ルソン島の補給物資の大半はその最大の港湾であったマニラに集中していました。これはマニラが最も整った港湾設備と工廠設備を持ち、各種機関の司令部や拠点が集中していたためです。
ルソンとレイテでの陸戦が起こると考えられるようになった昭和19年の夏頃から、マニラに集まっていた軍需物資の各兵団拠点への分散輸送が始まります。しかし、糧秣は1か月分、弾薬は0.8会戦分を集積させるのがやっとでした。それに内地や大陸から増援で遣ってくる部隊の補給物資は準備されていない状態でした。
方面軍はマニラが守りきれないのはわかっていたので、ルソン戦の拠点となるバギオへの軍需品の輸送を開始します。これには方面軍所属の各自動車隊と鉄道連隊等で往復運動を行いましたが、ゲリラの跳梁により思うように任せず、結局ほとんど物資の集積が出来ない状態でリンガエンへの米軍上陸を迎えます。
米軍上陸後、正面各部隊はバギオへの侵攻を阻止するのはもちろんですが、中部ルソンへの遅滞戦闘を実施して、可能な限りバギオへの物資搬入の時間を稼いだのです。ただ、バギオ失陥時にはそれらの物資のほとんどは運ぶことができず、バギオからツゲガラオ・プログ山にいたる時期に日本軍は補給がまったくなくほとんど戦力として成り立たなくなっています。この時期に既存の自動車隊は、臨時歩兵大隊や各歩兵部隊への補充員として解体されていき、ルソンの輜重は崩壊することとなりました。
さて、簡単にまとめてみましたルソン島の日本陸軍の機甲部隊ですが・・・端折ってるところが多いですね。戦車第二師団はちゃんと書こうかな?とは思ったんですが、ちょっと力尽きてしまいました。資料は揃えてあるので、要望あれば撃兵団史はすぐ書けるんですけど。読みたい方はメールなり掲示板なりで書けーっと言って下さい(笑)
他にも端折った部隊はたくさんあります。例えばルソン戦で参加した戦車で語っていないのに八九式があります。マニラの倉庫で眠っていたやつを引っ張り出したようなんですけど・・・。
九七式軽装甲車も実戦投入されているらしいんですけど、確認できませんでした。捜索連隊のどれかが持っているんでしょうね。
今回はあまり見たことのない捜索連隊について、ちょっとまとめられたのが良かったです。この資料収集は戦車第二師団よりはるかに大変だったので(^^;しかし、課題も発生・・・自動車連隊と自動車大隊・・・次のテーマかな?資料探すの相当大変そうですけど。そんなこんなで今回はこの当たりで筆を収めたいと思います。
2001/4/2
研究室へ戻ります