〜研究作文其の十〜 駆逐艦「島風」について




日本海軍の建造した駆逐艦は太平洋戦争に参戦した艦だけでも、多種多様に上ります。日本駆逐艦は、 比較的小降りの艦型に対して重武装を施し、舵の効き等の運動性に優れていました。また、秘密兵器、 酸素魚雷の威力はソロモンを始めとした、水雷戦に威力を発揮しました。
日本駆逐艦の長所と言えば、以上のことがすぐ思い付くのですか、では、短所はどのようなものかという と、
これらの欠点に関しては、日本海軍もよくわかっていたらしく、防御力ではシフト配置を採用した『松級』が、 対空能力では新型の長10センチ砲を装備した『秋月級』が建造されています。そして、速度性能を強化した 新世代の艦隊型駆逐艦として、本稿の主役、『島風』が建造されたのです。



「島風」は。昭和14年度計画のC計画の1艦として建造されました。本計画で は18隻の甲型駆逐艦が計画されていましたが、その中の1艦であった仮称艦名125号、「島風」が、高 速力駆逐艦の試作型として建造ました。
本艦の名称に「風」の字が付いているのは、甲型の計画艦だった名残ですが、そのため、艦名が予定と狂い、 陽炎型駆逐艦の最終艦に「秋雲」の名前がついて、「果たして陽炎級か、それとも夕雲級か?」というミステリ ーに発展したのは、その所為だと言えます。
もっとも「風」の字は、これまた高速力を発揮した先代「島風」(峯風級4番艦)のあとを継いだとも言えます。 いずれにせよ、丙型と言われて、一隻だけ建造された「島風」は、高速力を出すことがその最大の使命だった のです。
「島風」を建造する際には、軍令部より、「最大速力40ノット以上で、18ノットの速力で6000海里、 兵装として魚雷発射管14門を装備すること(ただし、魚雷の次発装填装置は不要)」との要求が出されまし た。当時の米駆逐艦の速度性能と、米海軍が建造していた新世代の高速戦艦に対して、雷撃を実施するには、 40ノットの速力が必要との認識からです。
当然それまでの駆逐艦より5ノットもの速力向上を実施しなければならなくなった艦政本部側としては、それ までの駆逐艦とは異なる設計を行ないました。甲型と異なる点として、 排水量は甲型と比べて2割増の基準排水量2567トン、公試排水量3018トンで、全長は126メートルで竣工 しました。公試時に日本海軍艦艇最速(魚雷艇除く)の40.9ノットを発揮しています。ただし、これには少々 カラクリがあり、公試排水量の設定を戦備搭載重量の2分の1にしていました。これまでの公試では3分の2だった ために、100トン以上の差を生じています。実際、上記の最大速力を発揮した時も、重量は2921トンでした。 もっとも、これでも他の駆逐艦と比較してはるかな高速性能であることは間違いなく、用兵側も満足しています。

丙型駆逐艦は「島風」の成功を受けて、次のD計画では16隻の建造が予定されていました。しかし、戦争が始まり、 航空機の脅威の増大と、艦隊決戦や水雷戦の意義の低下から、のちに改訂された、改D計画では16隻とも削られてし ましました。このため、「島風」は姉妹艦のいない単艦の試作艦となってしましました。
戦況は艦隊型駆逐艦よりも護衛重視型の大量量産艦を求めていたのです。



「島風」建造時の特色としては、建造中に最優先で電探が装備されたことです。22号電探と呼ばれたこの捜索電探 を竣工時より付けてもらった艦は、「武蔵」を除くと、「島風」が最初です。他の艦は修理や 整備時のために、内地に帰還した順から、21号電探を付けてもらっていた為、たいへんな優遇を受けていたとも言え、 乗員の自慢の種だったようです。竣工時に「最新最強の精鋭駆逐艦」と言われたのも頷けますし、乗員も呉鎮守府所属の 優秀な兵員が優先的に割り当てられていたそうです。

「島風」竣工は1943年5月18日で、戦況がいよいよ厳しくなってきた時期です。舞鶴で竣工した「島風」は慣熟と戦闘 訓練のために桂島に回航され、そこでしばらく各種試験(テスト艦という意味もあり、その沈没まで各種データを艦政本部 に送っていました)と、戦闘訓練を実施していましたが、6月8日に「陸奥」の爆沈に至近で遭遇しています。これは乗員の 記録等でも印象深かった事件のようですが、その直後に初出撃のため、あまり記録には残っていません(しかしながら、この 後、緊急出港訓練が実施されているのは、陸奥爆沈の影響かと思われます)。




竣工直後は第十一水雷戦隊に編入されて、訓練に従事していましたが、1943年7月1日に、 第二水雷戦隊 に編入され、呉を出港し、横須賀を経由して千島方面に出撃しました。この直後に 日本海軍の実施した作戦の中でも、最も著名なものの一つとなる「キスカ撤退作戦」に参加します。
竣工直後の「島風」が何故、いきなり北方の撤退作戦に投入された理由は、その高速力ではなく、装備していた最新鋭の22号 電探にあります。アリューシャン諸島は年中霧に包まれており、極めて視界の悪い海域でした。この時期、米艦艇はすでにレー ダーの標準装備を実施しており、濃霧の中でも充分な戦闘を実施出来たのに対し、日本艦艇で水上電探を装備した艦艇は数える ほどしかありませんでした。
最新鋭の電探を装備した「島風」は、撤退作戦中の会敵に備えた警戒艦としての役割を持たされたのです。実際、警戒艦ということ で「島風」には撤退する陸軍兵は乗艦していません。

このキスカ撤収作戦は数次の突入延期や、霧の中での艦隊運動等、注目すべき点のたくさんある作戦ですが、ここでは「島風」 を中心として簡単に捉えます。この作戦は第一水雷戦隊司令官、木村昌福少将 )が実施したものですが、「島風」は二水戦所属ながら、電探装備艦のため臨時に指揮下に入って作戦に参加しています。作戦区分 の中で第一警戒隊に所属しており、キスカ島の守備隊収容時も湾外に待機して警戒態勢を取っていました。第一警戒隊の指揮官は 「島風」艦長、広瀬弘中佐でしたが、キスカ突入直前の7月27日に起った艦隊内での衝突事故のため、 第二一駆逐隊「若葉」が損傷して速度能力が低下し、二一駆司令の 天野重隆大佐が臨時に移ってきて、二一駆も合わせて指揮を取ることとなっていました。

突入直前の29日12時35分頃に「島風」の電探はキスカ東方海面に米軍のレーダー波を捉えました。この時期、この海域には米駆逐艦 が哨戒活動を行なっており、その電波を捉えたのです。艦隊の各艦は警戒しつつ、撤収作戦を実施していきました。
29日にキスカ突入、8月1日に無事、幌筵に帰投し、キスカ撤退作戦は成功のうちに終了しました。8月3日には「島風」に原隊復帰命令 が出て、横須賀に入港し、若干の整備と補給を実施したのち、9月15日に重巡「摩耶」を護衛してトラック へと出撃しました。



こののち、「島風」は内南洋やラバウルに対して、輸送・護衛作戦をしばらく続けます。10月5日には艦長が二代目の 上井宏中佐へと変わっています。
44年の頭まで、日本本土と南方の輸送船団を護衛する、この補給作戦を続けていましたが、1944年2月11日に連 合艦隊主力とともにトラックを脱出、その5日後にトラック大空襲があり、トラックの泊地能力とソロモンより内南洋ま での制海権が失われました。
なお、「島風」はこの南方護衛作戦中に、3隻の潜水艦撃沈を報告しています。

4月頭にリンガ泊地に集結した「第一機動艦隊」以下の連合艦隊は、ここで訓練を開始、さらに 5月にはより燃料補給に便利なタウイタウイに移ります。ただ、このタウイタウイ泊地は燃料補給には最適の位置でしたが、 潜水艦の跳梁が激しく、母艦航空隊はろくに訓練も出来ない状態でした。潜水艦の行動を押える為に、護衛部隊として艦隊 に所属していた第二水雷戦隊第十戦隊の駆逐艦は、2隻づつで ペアを組んで、港湾周辺の対潜掃討を実施しました。

「島風」もこの任務についていたのですが、6月9日の夕刻、僚艦の「谷風」が米潜水艦 「ハーダー」の雷撃を受けて轟沈、慌てて、対潜攻撃にかかりましたが、貧弱な対潜装備では 効果も期待出来ず、「ハーダー」は悠々脱出しています。艦隊型駆逐艦として雷装に重点を置いて設計された「島風」では、 対潜戦闘はかなり困難なものがあったようです。

しばらくして、マリアナ沖海戦が生起しました。この戦いには「島風」も第二艦隊・第二水雷戦隊の一艦として参加して いますが、その高速や雷装を活かす場もなく、機動部隊壊滅に打ちひしがれながら、呉に帰投し、次の決戦に備えた整備を 開始しました。

7月1日にはフィリピン方面が風雲急を告げる状態となり、再び、リンガ泊地へ出撃、整備中に増備した対空機銃を利用する 対空戦闘の訓練を続けながら、次の出撃を待ちました。
10月になり、いよいよ連合軍はレイテに侵攻、海軍も全戦力を持って迎え撃ち、ここにレイテ沖海戦が起ります。「島風」 は、次々と襲い掛かってくる艦載機相手に対空戦闘を実施しましたが、艦隊の中核となる「武蔵」 に次々と魚雷が命中、「武蔵」は戦闘力を失い、大傾斜しました。
「島風」は「武蔵」の直援につき、「武蔵」に収容されていた「摩耶」の乗員を収容しています。 また、この戦闘で「島風」も至近弾により若干の損害が出ており、直援は「浜風」と後退、主力 部隊に合流し、10月26日の米護衛空母部隊との戦闘に参加、雷撃戦を実施しています。
二水戦の旗艦「能代」と共に高速での雷撃戦となったのですが、これが後にも先にもただ一度の 「島風」の魚雷戦となったのです。この戦闘で、米護衛空母部隊に大損害を与えていますが、日本艦隊も駆逐艦と艦載機の必死の 反撃にあい、甚大な損害を受けています。



至近弾や機銃掃射で被害を出しながら、海戦の後、無事にブルネイに帰投した「島風」ですが、戦局はいよいよ悪化し、休む間 もなく第二水雷戦隊の旗艦(司令官、早川幹夫少将)となり、マニラに進出しました。レイテへの補給 作戦、「多号作戦」に参加するためです。

「島風」が参加したのは、「第三次多号作戦」。レイテ島オルモック港に第35軍の直轄部隊を増援するための作戦でした。この時期 第三次・第四次の多号作戦が平行して行われたのですが、第四次(一水戦護衛)が比較的優速な優秀船で実施されたのに対し、第三次 は低速艦中心の輸送船団で、早川司令官以下、第二水雷戦隊の首脳部はこの作戦に猛反対しました。
作戦参加艦艇は、旗艦「島風」、駆逐艦「浜波」「初春」「竹」「掃海艇30号」 「駆潜艇46号」で、5隻の輸送船を護衛しています。
途中で輸送船の一隻が座礁、「駆潜艇46号」が救助のために残り、また、第四次船団とすれ違った際、「初春」「竹」と、駆逐艦 「長波」「若月」「朝霜」が護衛を入れ替わっています。護衛艦は6隻となり、旗艦の「島風」はオルモック 突入時には3番艦の位置について、高速で湾に突入しようとしていました。

オルモック湾中央水道付近で米軍機の大編隊につかまり、船団は分散隊形をとって、煙幕を展張しましたが効果なく、次々と襲われて いきました。「島風」は護衛艦潰しを先に図った米機に最初に捉まりましたが、直撃弾はなんとか回避していました。前を進んでいた 「若月」が爆沈するのを見ながら、対空戦闘を続けていましたが、銃撃にと至近弾により電路の切断や浸水が続き、主砲等は次々と 沈黙、主機すら浸水のため停止し、11月11日11時半頃、総員退艦命令が発令、17時45分に沈没しました。司令官早川少将は 艦橋で戦死、銃撃のため、司令部は壊滅状態となり、また応急員や機銃員を中心として、銃撃のため、乗組員も相当の戦死者が出てい ました。
船団も輸送船は全滅、護衛艦艇も「朝霜」を除き、全て撃沈され、輸送作戦は完全に失敗に終りました。日本最高速の艦艇を低速船団の 護衛に使い、性能を活かすことなく沈めたのは、日本海軍の終焉の一つを感じさせます。450名近く乗り込んでいた乗組員はほとんどが戦死、 わずかに生き残ってマニラに帰れた乗員もその後の市街戦で戦死し、沈没時の島風乗組員で終戦まで生き残ったのは、たったの17名 でした。


2000/3/30



主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜

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