〜書きなぐり文其の一〜
海上機動旅団変遷史
この研究室に載せてる文は結構、まじめに書き込んでいるので(それでも勉強不足ですが)、なかなか
時間がかかります。そういったわけで、最近全然増えてません。
このままではまずかろうと言うことで、ちょっと調べ尽くしていないものでも、ちょこちょこっとまと
めて乗っけてしまうことにしました。更新対策とも言えます。
ついでにいうと、文体も軽めでいきます。そのほうが書いてて楽なので。
さて、第一段として、なかなか調べの付かなかった「海上機動旅団」について、ちょこちょこと
載せてみます。
海上機動旅団・・・数ある日本陸軍の編成の中でも、ここまで影の薄い兵団はなかなか
ありません。合計4個旅団もあったのに。
といっても、聞いたことのないかたもいると思うので、まず海上機動旅団について、ちょっと
まとめてみましょう。
太平洋戦争はアメリカやイギリスとの戦いになりました。当然海を越えないと戦場に行けませんし、
島から島へどんどん飛び回るような島嶼戦も起ります。ところが日本陸軍は、それまで相手はソ連軍、
大陸では泥沼のように続いている中国軍が相手で、海を渡るような戦場は考えていませんでした。
正確にいうとまったく考えていなかった訳ではなく、日本からどこに遠征に行くにしても必ず海を越える
必要があります。また、将来中国大陸沿岸に上陸作戦をかけたり、内陸の大河やクリーク地帯で戦うこと
もあるだろうと考えて、工兵連隊にちょこちょこと準備をさせてはいました。
もともと日本軍の上陸戦術は、敵のいないところにこっそり上陸して、準備万端になった後、威風堂々と
陸上を進撃することを前提としていました。そのため、日清・日露の戦争では、宇品や広島の沖仲仕を
掻き集めて、手漕ぎの船でのんびりと上陸する方法でした。当然、時間もかかります。
ですが、この方法だと時間がかかりますし、砲の射程も伸びて安全な上陸地も必ずある訳じゃなくなりましたし、
飛行機が発達して、上陸中に敵に見つかって大騒ぎになるということも考えられるようになりました。
そろそろ、手持ちの上陸用の船を準備するしかないかな?という雰囲気になってきたわけです。
そんなこんなで、上陸戦用の工兵が誕生しました。丁編成と呼ばれている部隊です。最初に工兵第五連隊第三中隊
が改編されました。広島の第五師団に所属していましたが、この師団は
当時より上陸戦部隊に指定されていた特定師団で、第一次上海事変で七了口に上陸戦を
実施しています。
同様に工兵第十一連隊第三中隊(第十一師団)、
工兵第十二連隊第三中隊(第十八師団)も丁編成に改編され、それぞれ第二次上海
戦、バイアス湾上陸戦の主力となっています。
このあたりから陸海軍とも上陸作戦を本気で考えるようになり、海軍の水雷戦隊と合同の
特別上陸演習なんかが、年一回行われたりしました。丁編成の部隊も、最初は工兵連隊の
第三中隊だけでしたが、ちょっとづつ数、規模とも拡大し、昭和12年くらいからは上陸
専門の独立工兵連隊が、さらには船舶工兵連隊が、続々と編成されていきました。
杭州湾のクリーク地帯で輸送作戦に従事した独立工兵第二連隊
、漢口方面
での上陸戦に従事した独立工兵第十連隊(のち船舶工兵第五連隊に改編)、
バイアス湾より広州での上陸戦を実施した
独立工兵第十五連隊等がこの時期編成された部隊です。
太平洋戦争が始まると上陸作戦があっちこっちで実施され、船舶工兵はひっぱりだことなりました。もともと
そんなに数のある部隊ではないので。
開戦時にマレーやフィリピン、インドネシアなんかに上陸作戦をしたあと、海軍の主戦場となったニューギニア・
ソロモンの南東方面に集結して、このあたりの舟艇作戦に従事することとなります。ご存知の通り、この戦域では
「大発の墓場」と呼ばれるような激戦区でしたので、ろくな武装を持っていない「大発」(大発動艇、日本陸軍の
主力上陸舟艇)では魚雷艇や中爆に追いかけられて大きな被害を出すことになります。
また、このあたりの戦闘が本格化した17年の8月に新たに舟艇用工兵として船舶工兵連隊が編成されました。
この時期に南東方面で作戦した主な部隊は、
ニューギニア方面・・・船舶工兵第一連隊、同第五連隊、
同第八連隊、同第九連隊、独立工兵第十五連隊、
ソロモン方面・・・船舶工兵第二連隊、同第三連隊、
同第十二連隊、独立工兵第十九連隊
これらの部隊がガダルカナル島揚陸、中部ソロモン輸送、東部ニューギニアの舟艇機動を担当しました。
制海権も制空権もほぼ連合軍に奪われた状態で、航空機や魚雷艇により損害が続出しながら、終戦まで
戦闘を継続しています。特にソロモン方面でのコロンバンガラ島撤退作戦
(南東支隊12000名の撤退)や、ニューギニアでの猛号作戦の支援等、
消耗を重ねながら陸上部隊の支援を実施しました。
そんなこんなで苦闘を続けた陸軍舟艇部隊ですが、ガダルカナルでろくに上陸作戦が出来ず、2個師団半が着の身着のままで飢え死に寸前まで
いってしまいました。なんで、そんなに上陸作戦がうまく行かないのだろう?と考えると、まあ、制空権と制海権がないのは仕方ないとして、
普通の徴用貨物船でデリックから重装備下ろして、のんびり舟艇で沖と陸を行ったり来たりするような上陸では、あっという間に空襲にあって、
全滅するよねっていう話になりました。
敵前上陸なんだから、桟橋なんかないし、かといってこのあたりの島の海岸は遠浅や珊瑚礁に囲まれた所が多いから、岸に近づき過ぎると座礁するし、
という訳で、専用の上陸用輸送船を作ろうということになりました。
ちょうど同じ頃、海軍もガ島輸送に鈍足の輸送船で突っ込むと全滅するからというわけで、駆逐艦を代わりに使ってて、
これの損害が結構馬鹿にならない状態でした。もともと必殺の水雷夜襲戦をする予定の駆逐艦が、魚雷下ろして輸送
船の代わりになっていて、ぼこぼこ沈められていたわけです。
という訳で、陸軍が半分鋼材を出して海軍が設計して同じ輸送船を作ろうということになりました。これで出来たのが
二等輸送艦です(陸軍名称はSS艇)。イギリスが北アフリカに上陸戦をした時の船の設計図をドイツが入手して、それが
技術交換で日本に渡って、だいぶ参考にして設計されたようです。
これらの船は昭和19年にフィリピンのレイテ輸送作戦で酷使されて、たくさん沈みました。
まあ、陸軍も上陸用艦艇を持っていなかった訳ではなく、「神州丸」とか有名な船はありました。いまでいう強襲揚陸艦の走りですね。
俗に言うドック型揚陸艦で、船の中に設けたドックに水を入れて、そこに上陸用舟艇を浮かべて、迅速に発艦させようという訳です。
ちなみにアメリカも結構たくさん同じタイプの船をもっていました。
そうこうしているうちに昭和18年になり、戦局は急展開します。連合軍の反撃がいよいよ熾烈となり、ギルバート・マーシャルといった
南洋諸島の守りを固めなければならなくなりました。
昭和17年8月の米海兵隊のマキン島奇襲以来、海軍側ではギルバート諸島の各島の陸戦隊を強化し
ていましたが、昭和17年秋に出された「占領地防備要綱」に沿って、マーシャル・ニューギ
ニアに対する陸軍部隊の強化を図ることとなりました。
最初に独立混成第二一旅団が、ハノイよりこの方面の守備につくことになりましたが、
同旅団は東部ニューギニア方面へ緊急派遣され、代わりに南洋支隊
が守備隊として、数個新設されることになりました。
- 南洋第一支隊
- 歩兵一二二連隊を改編。主力はミレー島、ヤルート島
に第二大隊、ウォッゼ島にも1中派遣。
- 南洋第二支隊
- 満州鉄嶺で臨時編成。クサイ島守備。
- 南洋第三支隊
- 満州独立第一、第三、第三三大隊を基幹として編成。のち独立混成第五二旅団に改編。ポナペ島守備。
- 南洋第四支隊
- 久留米で編成。戦車中隊のみ戦車第一八連隊より編成。モートロック諸島守備。
- 南洋第五支隊
- 福山編成。進出中に潜水艦の攻撃により海没。のちに第七派遣隊と合体して、独立混成第五〇旅団に
改編。メレヨン島守備。
- 南洋第六支隊
- 松山編成。当初、パラオ島の守備についていたが、ニューギニア方面戦況悪化のため、
重装備部隊をパラオに残し、ホーランジアに進出、途中で海没し、その後壊滅。
これらの守備隊は歩兵2〜3個大隊を基幹に、戦車・工兵中隊を付属して編成されていました。
また、これらの守備隊の他に、「甲支隊」が編成されました。この支隊は当初、
トラック方面に進出準備中だった第五二師団のうち、
第一〇七連隊を中心とした部隊で、南鳥島への連合軍の奇襲攻略に対して、
急遽編成されたものです。
その後、南鳥島に対する危険が減少し、代わりに中部太平洋方面において、機動兵団として利用することに
なりました。昭和18年10月にポナペ島に集結した同支隊は、当初、
ブーゲンビル島タロキナ岬に逆上陸を準備して、11月中旬に機動準備をしていましたが、
11月21日にタラワ・マキンへの連合軍の上陸が
開始され、急遽、同方面への逆上陸部隊として十四戦隊の軽巡
「那珂」「五十鈴」に乗船し、第二艦隊の重巡・駆逐隊に守られ、
クェゼリンに集結しました。しかし、集結時点でタラワ・マキンが玉砕し(25日・23日)、逆上陸は中止され、
甲支隊はポナペ・クサイ・ミレーの3島に分駐し、各島守備隊と協力して守備に
つくことになりました。
この「甲支隊」は陸軍最初の海上機動兵団でしたが、別に普通の混成連隊となんにも変わらず、上陸作戦ができたかというと
疑問が残ります。この支隊も戦局と戦略の変換でいったりきたりすることとなり、結局普通の島嶼守備隊として終戦まで
孤立した島々で守りを固めていました。
この段階では、陸軍はまだ海上機動というものにあんまり理解がなかったのでしょう。ちなみにアメリカは上陸用の部隊として
海兵隊という専門の軍がありますし、イギリスはレンジャーという部隊を編成して、スカンジナビア半島やフランス沿岸にちょこちょこ
上陸作戦をやったりしてます。ちなみにレンジャー部隊はいまでこそ有名ですが、当時は北アフリカのトブルク上陸戦で返り討ちに
あったり、名高いディエップ上陸戦で逆ノルマンディとも呼べるような悲惨な目にあっています。肝心のノルマンディでは結構目立てなかった
ので不幸と言えば不幸ですね。ちなみにイギリスにも海兵隊はあります(というか、こっちが本家です)。
そうこうして陸海軍が大騒ぎになっている時に幾つかの兵団が編成されています。その中の一つが海上機動第一旅団 です。
満州で編成された同旅団は昭和19年諸島からマーシャル方面に到着、各島に分駐しつつ守備につきました。その守備は、旅団司令部と第二中隊等が
メリレン島に、第一大隊をエニウェトク島に、第三大隊をエンチャビ島
に、第二大隊と第七中隊がクェゼリン島に、第四中隊をウォッゼ島に派遣して守備に
ついていましたが、同旅団が集結して戦闘することはついにありませんでした。
この海上機動第一旅団が甲支隊と違う点は旅団所属の船舶工兵を持っていたってことです。昭和19年2月に、
フィリピン、パナイ島にあった独立工兵第二連隊を、
海上機動第一旅団輸送隊に改編してくっつけました。同隊は丁編成の舟艇部隊を充実させた工兵連隊でしたが、
海陸の輸送任務につくための編成になっており、輸送隊といっても通常工兵連隊に匹敵する人員を誇っていまし
た。海だと自前で大発が出せるし、陸だとちゃんとトラックを持ってるわけです。もちろん戦闘工兵としての機能も
一通り揃ってました
ただ、編成後、パラオに進出して本隊を追求しようとした時点で、旅団主力はマーシャルで玉砕しており、
そのまま、パラオに留まって、第十四師団の指揮下に入り、パラオ方面の作戦任務
につきました。第一海機は結局、海上機動能力を持つことなく壊滅したのです。
編成時は太平洋上での機動戦用部隊として考えられていた同旅団は、緊急性の高いマーシャル守備隊として利用され、
分割されたまま、次々と玉砕していきました。旅団が守備していた、メリレン・エンチャビ・エニウェトク
の4島は、19年2月に相次いで玉砕し、一部の中隊等が残存したに過ぎませんでした。
予備兵力として細切れにされた第一旅団と異なり、海上機動第二旅団は少しだけ運がよかった
部隊でした。この部隊は編成後、パラオ経由でニューギニアに転進し、マリアナ沖海戦の前哨戦ともいえる、ビアク島
攻防戦「渾作戦」に参加することになりました。結局、海軍の輸送隊がビアクまで辿りつけずに、そのまま、ニューギニアに
留め置かれ、無茶な転進と駐屯守備をして、あっという間に戦力を消耗して終戦になりましたが。
「渾作戦」後はソロンあたり
にあった第二方面軍の配下の機動兵団だったのですが、幾ら機動旅団といっても、自前の船舶工兵で全部運べるような編成には
なってません。当然といえば当然ですが、戦場までは輸送船で向かうことを前提にしています。
そんな中、道なき道を切り進みつつ転進させられた訳です。舟艇使って海上輸送すればいいのにと思いそうですが、この時期、
制空権も制海権も完全に連合軍のもの、魚雷艇と哨戒機がわんさかいるニューギニア沿岸でまともな輸送作戦が成立するわけでなく、
ちょっと動けばあっという間に猛攻食らって消耗していたのです。
さて、海上機動旅団はあと2個あります。第三と第四です。どこにいたかといいますと、北の果て、千島樺太を守備していました。
これにはちょっと理由があり、南東方面と同じように、北方は島が点々と続いています。しかも交通網なんか整備されていないので、
まともな防御戦をこの辺でするには海上機動能力が必要でした。という訳で、残り二個はこの辺に配置されて守備していたのです。
両旅団とも、あまり目立った戦歴はありません。理由はソ連がこの方面に攻めてきた時、本土決戦部隊として内地に転進していたり、
予備兵力として後方に下がっていたから。ちなみに両旅団とも内地で新編された訳ではなく、この辺にあった部隊を掻き集めたものが
基幹となっており、重装備部隊と舟艇部隊だけ内地より持ってきてくっ付けたものでした。
北方戦線の話も結構色々あるのでそのうち書こうかなとは思うのですが、色々奥が深く・・・。
海上機動旅団は泣いても笑っても、この4つだけです。ちなみに第十四師団や第二九師団
なんかは船舶部隊をもっていたので、そこそこの機動力を持っていましたが、どっちも島の守備についてそれっきりです。二九師は玉砕してしまいましたし、
一四師はペリリューに逆上陸の準備して、決行はしたのですが、兵力が少なすぎて大した影響を与えられませんでした(そういえば、二九師も逆上陸部隊編成してました)。
ここまで書いてきて、海上機動旅団が本来の目的通りに作戦しようとしたのは、「渾作戦」ただひとつきり、しかも中止でした。船舶工兵の他に戦車とか
迫撃砲もたくさん装備して(あくまで日本軍としてはですが)、戦闘力は高かったのですが、それを行かす機会はありませんでした。
ちなみに、新人物往来社の「日本陸軍旅団総覧」にも何故かこの部隊は紹介されておらず、ひじょうに寂しい思いをした記憶があります。
ちょっと簡単な紹介になってしましましたが、他にも日本陸軍には全然知られていない部隊があります。砲兵情報連隊や航測連隊、船舶砲兵連隊や高射砲連隊・・・。
独立海上輸送中隊なんか知ってる人が何人いるでしょうか?この辺もちょっと紹介してみたいところではあります。
2000/10/7
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