赤旗読者通信のページ
2000年8月20日号
被爆の実相を語る会 8月11日
長生きしてよかったといえる平和な国を作っていきたい
8月11日、小矢部市平和委員会(代表太田房子さん)は総合会館会議室で『被爆の実相を語る会』を催しました。20名の参加者を前に、市内の被爆者笠岡正一さん、原水爆禁止世界大会広島に参加の堀内喜亨さんが平和への願いを込めて語りかけました。
かろうじて直撃をまぬかれる
笠岡正一さん(八一歳、芹川在住)は広島市の出身で、被災時、広島駅北方約一キロ、爆心地より東北東約三キロの小高い丘(二葉山)にあった高射砲陣地で軍務についていました。前の晩は一二時過まで爆撃があり、そのため「翌朝九時まで就寝」の命令が出ていて、原爆投下時には兵舎の中にいたこと、その兵舎がさらに北側斜面にあり、原爆の爆風・放射線が二葉山に遮られて直撃しなかったことなどで、現在も元気で活動しておられます。笠岡さんは元気だったのでずっと被爆者手帳を申請していませんでした。しかし、昭和六二年に、市の健康診断で結核の疑いあり、とされ、それまでも物を吐く癖があって、癌の心配もあり、「手帳」を申請することに決心されました。ところが申請に必要な二人の証人がどう探しても見つからず(軍隊にいた上官や友人は多くが死亡していた)、結局、自分の体験記と「兵籍簿」の記載事項をもって承認してもらった、とその苦労を述べられました。笠岡さんは、そのときの「体験記」をめくりながら話されます。
熱線で藁葺き屋根がぱっと燃え出す
衛兵所より「敵機爆音」の報あり、高射砲陣地へ向かって走ったとたん、ピカドンだった。そのまま、二〇メートル上の砲台まで駆け上がって見ると「きのこ雲」が見えた。広島中心部は黒雲で何にも見えず、何万という銀紙のようなものがキラキラしながら舞落ちていた。そのうちあちこちから火の手が上がった。山の下の藁葺き屋根がバッと燃え出した。原爆の熱線のせいでした。 隊長は、陣地を守れと命令しました。そのとき、ほとんど真っ裸の被爆者が陣地まで上って来ました。まだ若かった笠岡さんたちには女性の裸身は興味のあるものでしたが、それは一瞬のこと、次々におなじように手をダラリと下げ、焼けただれた被爆者が上ってくるのです。笠岡さんたちは、山の反対側、火のない安全な場所へと誘導を続けました。
地獄絵を見た・・・死体の収容作業に従事
そのうち、同じように裸の、腰に残ったベルトでようやく兵隊と分かる、本部からの伝令が来ました。「本隊、閲兵中に被爆、生存者僅か。弁当一〇〇人前を用意して、本部へ届けよ」。三八〇〇人のうち、弁当の必要な者は一〇〇人か?。11時頃、弁当を準備して町へ降りてみて驚きました。建物がぺしゃんこにつぶれ、歩くところがないのです。駅の高架まで来ると、町は火の海でした。一キロ半を四時間半もかけてようやく本部に着いてみると、兵隊が広い練兵場いっぱいに豆をまいたように倒れていました。握り飯を食べた人は皆、ほどなく死にました。痛くて何も見えない、という者もおりましたが、見ると目玉が飛び出ていて、気の毒で、事実を告げることは出来ませんでした。軍医のいる山へ四時間もかけて上って行っても、何の薬もなく、大砲のオイルを塗ってあげるのが精一杯で、それも無くなると新鮮な小便をつけてやるというような状態でした。
死体は一週間もたつと、みな、腹が膨れて、ハエの山で、ものすごい臭いでした。イカダの上には、ぎっしり死人がおり、肌は真っ白でした。水を求めてイカダに来て、みんな死んだのです。京橋の下には、将校らしき死体ですら何日も収容されずに潮の満ち干で上流・下流を行ったり来たりしていました。それほど、始末する人がいなかったのです。その近くに三人の被爆者がいて、何度も「水をくれ」とせがむので、末期の水と思って飲ませてやりましたら、「ありがとう」と。でも、予想通り翌朝には死んでいました。このような死体収容作業に、九月二五日の除隊の日まで当たりました。
広島のことは何時間あっても語り尽くせません。富山新聞に載った被爆直後の写真を見てもいろんなことを思い出すのです。人生の大きな勉強をしました。みんなで平和な国を作って行きたい。長生きしてよかったと言えるように。
核廃絶へ、世界の世論が新しい段階に
原水爆禁止世界大会・広島に参加して
堀内喜亨
久しぶりに世界大会に参加して、核兵器の問題が、現代の最大の問題であることを実感できました。
4日の開会総会で、ロシアのセミパラチンスクから来たレナータさんを見て、私はショックを受けました。彼女は18歳なのですが、いまだに身長は82センチ、体重は14キロ。核実験場の周辺には、彼女のような奇形やガン、さらに精神障害など、さまざまな悪影響が・・・。アメリカ、カナダや南太平洋の島々にも同じ苦しみを持つ人々が数百万もいる事を目の当たりにしました。
世界の世論は核兵器廃絶に向けて大きく前進しています。特に、昨年の国連総会で「核保有国に自国の核兵器を無くす誓約を求める」新アジェンダ連合案が、反対わずか13カ国で採択されたことは、世界の世論が大きく核保有国を包囲しているためです。反対したのは、中国を除く核保有国とロシアの影響下にある東欧諸国の一部、およびイスラエルでした。唯一の被爆国として、率先賛成すべき日本は、NATO諸国とともに、棄権に回っています。今年の4〜5月に開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議では、核兵器廃絶を「究極の課題」とするアメリカなどの主張が否定され、「自国核兵器の完全廃絶を達成するという全核保有国の明確な約束」が合意されました。
大会には、7県知事と89の市長・区長、111の町村長からのメッセージが寄せられています。市議会の議長や村長さんが全体会議で発言されています。こんなことは以前にはなかったことでした。わたしの参加した第1分科会では「反核平和、草の根活動」の交流が楽しく、熱心に行われました。
閉会集会では「広島は核惨禍の炎獄を見た。ヒロシマは、生の尊厳を問う墓標となった。」で始まる「広島からのよびかけ」が採択されました。そこには、早く核廃絶の流れに合流するように政府に求める運動や、非核三原則法制化の運動が提起されています。また、ヒロシマ・ナガサキを若い世代へ引き継いで行くために、多彩な取り組みが呼びかけられています。
福岡駅で町が原爆写真展
昨日、用事で福岡町のJR駅に行って驚きました。改札口のすぐ隣から、30枚近くの原爆パネルが展示してありました。そのようなことが全国的、全世界的に行われているということでしょう。小矢部市も早く非核都市宣言をしてもらい、福岡町のような取り組みが出来るように願っています。