赤旗読者通信のページ
2003年5月4日号
公演「その日はいつか 峠三吉と子どもたちの原爆詩」を見て
(砂田喜昭)
劇団はぐるま座公演「その日はいつか 峠三吉と子どもたちの原爆詩」・ひとり芝居「日本の孫たちへ」が4月28日、クロスランドおやべメインホールで、ほぼ会場いっぱいの参加者を集めて開かれました。
主催は劇団はぐるま座おやべ公演実行委員会で、後援は小矢部市や小矢部市教育委員会、市社会福祉協議会、市PTA連絡協議会、市連合婦人会など多数の団体です。
ちょうどアメリカ、イギリスによる無法なイラク戦争が行われた時期だけに、原爆投下の不当性を告発する公演は参加者に多くのものを考えさせたと思います。
公演「その日はいつか」は、峠三吉の「原子雲の下より」の序文をもとに、広島の当時の小中高校生らの詩を構成したものです。原爆詩集で知られる峠三吉は、1953年に36歳の若さで亡くなりましたが、被爆者でもあり、日本共産党員でした。
会場には、「原爆と峠三吉の詩」と題する原爆写真のパネルが展示されていました。そのパネルの一つに「峠三吉のこの詩(8月6日)は、広島のアカハタ中国総局が発行していた『平和戦線』の特集号に載せられたもので、この時、日本で初めて原爆の残虐さが6枚の写真グラフで公然と発表され」と、紹介してありました。
1945年8月6日朝、市民たちは突然の「ピカドン」にそれまでの人生が断ち切られてしまいました。
その前夜、広島を襲うと見せかけたB29の大編隊に激しい空襲警報で逃げまどった市民たちが、敵機が山口県の方面へ飛び去って空襲警報も解除され、ほっとして自宅に戻ったり職場に出勤しつつあったちょうどそのときに、原爆が投下されたのです。広島市民が市の中心部へ集まりつつあり、外に出ている市民が一番多い時間をねらって投下されたのです。
公演では、アメリカの原爆投下の狙いを「ロシアの参戦前に日本をたたきつぶすこと」と告発し、戦争を起こした日本政府の責任、原爆投下したアメリカの責任を鋭く追及しました。
「イラク戦争を容認できない」とする浄土真宗両派の意見広告に続いて、このような企画が広範な市民の皆さんの共同で実行され、成功を収めたことはたいへん有意義であったと思います。
いま国会では、自民党・公明党が「有事法制」をねらっています。これは、アメリカの先制攻撃に自衛隊の出動ばかりでなく、自治体や民間企業を強制動員する法律です。このことが広く市民に知られるなら、根強くある平和を願うエネルギーと合流し、このたくらみを止められるはずだと確信を深めました。