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2001年12月16日号

「赤紙」配って、反戦平和を呼びかけ
太平洋戦争開始60周年の日に

 戦前の召集令状「赤紙」を配って戦争反対を訴える宣伝行動が、太平洋戦争が引き起こされた12月8日、県内4ヵ所で行われました。小矢部市では高教組、コープとやま、新日本婦人の会、小矢部平和委員会などから11名が参加しました。参加者の一人、柴田絹代さんにその思いを寄せてもらいました。


 八日午後三時半から約一時間、ユニー前で平和を守る母親行動の一環として赤紙配布宣伝行動に参加しました。太平洋戦争突入から今年は六十年です。戦争が始まったとき小学生だった私は、「日本は正義のために戦っていて勝利を収めている」と言われ、その後の苦しい生活もただ「勝つまでは我慢だ」と思っていました。

疎開。親許を離れて・・・

 女学校二年生の秋、学徒動員で福野の工場へ行きました。上級生はすでに不二越へいっていました。飛行機の部品を作りましたが、もう資材がなくて一部木製だったようです。完成祝いと称して赤飯をもらいましたが、最近のテレビで木製飛行機のことをやっていて、本当に飛んだのだと驚きました。この工場には名古屋から工場が疎開、滋賀県から草津高女や木之本高女の生徒も疎開して来ました。親許を離れてどんなに淋しかったかと今にして思います。同級生も関東関西から疎開してきた人たちで、一時は定員一五〇名のところ二〇〇名位になったようです。卒業前に転校された方もあり卒業時は一八〇名位。三クラスですから一クラス六〇名余でした。

「赤紙」一枚で召集され
還らぬ人となった若い父親の心は・・・

 戦争は本当に残酷で、あの頃の荒廃した人心は十代だった私にも感じられました。父親の顔もまだ覚えられない幼児と若妻を残し、赤紙一枚で召集され還らぬ人となった若い父親の心は、如何ばかりだったでしょう。私の一番上の兄は、学生のとき病気がちだったのに兵隊検査(通称)で甲種合格とされ、フィリピンのマニラで終戦を迎え帰ってきた時は栄養失調でした。四年前なくなりましたが、何年も前から骨粗しょう症で苦しみました。戦争中の栄養不足と悪環境のせいだと思います。私の友人は、戦地にいる兵隊に毛皮を送るためと猫まで供出させられて、泣く泣く持っていったと言います。
 二度とこんなことがあってはなりません。子どもたちに平和で美しい地球を渡す責任を、私たちは担っています。赤紙一枚で戦争に駆り出された暗黒の時代を二度と繰り返さぬため、平和を守る行動を続けてゆきたいと思っています。 (野端・柴田絹代)

「赤紙」配り「私の息子は当時、学生でしたが、戦争に行って死んでしまった。戦争だけは絶対やってはいけない」。「赤紙」配りの女性に語りかける老婦人が印象的でした。=12月8日、ユニー前

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