TATSURO LANDへ Last Update 2001.1.1
バイオグラフィー
&
PERFORMANCE
1953年 | |||
1960年 1965年 1966年 1967年 1968年 1969年 | |||
1971年 1972年 1973年 1974年 1975年 1976年 1977年 1978年 1979年 | |||
1980年 1981年 1982年 1983年 1984年 1985年 1986年 1987年 1988年 1989年 | |||
1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年 1998年 1999年 | |||
2000年 2001年 | |||
2月4日 |
東京都豊島区池袋に生まれる。 | ||
4月 |
豊島区立池袋第五小学校入学。 | ||
※小学校1年生のときの音楽の成績は先生のえこひいきで「2」 | |||
※6年生の運動会で鼓笛隊に入り小太鼓を叩く | |||
4月 |
豊島区立高田中学校入学。 | ||
※希望クラブを科学部からブラスバンドに変えて入部。 | |||
1月 |
お年玉で9000円のシナノのガット・ギターを買う。 | ||
※中学1年の三学期に練馬に引っ越すも、高田中学に通学。 | |||
春休み |
生まれてはじめてベンチャーズのコンサートを見に行く。 | ||
※ジェリー・ゴールドスミス、ジャッキー・デシャノン、キャロル・キング等のソングライターに注目する。 |
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※ロイオービソンの歌い上げるような感じに影響を受ける。 | |||
4月〜 |
バンド結成(高山、並木進、石川、山下)。バンド名”バウエルン” | ||
※高山:医者の息子でポップスの先生、並木:地主の息子でビートルズの異常なファン。 | |||
※豊島区音楽会、小田急デパート屋上で活躍。レパートリーは「ギミ・サム・ラビン」「ホワッド・アイ・セイ」「青い瞳」「青空のある限り」 | |||
4月 |
都立竹早高校入学 | ||
※都立高校41群に入るのを条件にドラム・セット(パールのチャレンジャー:\42,000)を買ってもらう。 | |||
※バンドは5人編成となる。レパートリーは、トレメローズ、ビーチ・ボーイズ・・・このころからコーラスの譜面を採りだす。フォー・フレッシュメン、アソシエーション、ママス&パパスもよく採った。 | |||
※高校で並木くんと同級生の鰐川己久男(後にシュガーベイブのオリジナルメンバーとなる)と出会う。 | |||
※最初にひとりでコーラスをダビングしたのは「シー・ユー・イン・セプテンバー」。次がアソシエーションの「ネバー・マイ・ラブ」 | |||
10月 |
ヤマハ池袋店のアマチュアサークル”WIS(ワールド・インストゥルメンタル・ソサエティ)”のコンサートに出演。 | ||
※演奏しながらコーラスができないので、ブラバンの先輩を呼んできてカラオケを録って、本番ではカラオケでステージに5人並んで歌う。 | |||
※曲目は、ブラス入りの「シー・ユー・イン・セプテンバー」「ハッシャバイ」「ラグドール」「アイ・ドント・ラブ・ユー・エニーモア」以上4曲。 | |||
クラスで髪の長い男は3人しかいなくて、その中で一番過激だったから、教室のいちばん前に座らされて授業のたびに髪を引っ張られ、精神的に登校拒否状態だった。 | |||
4月〜 |
バンドから医学部受験のため高山君が脱退。代わりに、並木君の高校の友達が入ってきた。彼の先輩が村松邦男(シュガーベイブのオリジナル・メンバー)。 | ||
学生運動が始まり、バンド瓦解。 | |||
9月 |
2学期から校舎の改築があって、1年間、新宿高校(坂本龍一の母校)に間借りすることとなる。明けても暮れてもダンモと雀荘の日々。あとは名画座かジャズ喫茶。 | ||
※竹早高校は'60年代から'70年代初めにかけて、全国でただひとつバリケードを築いて全学ストをやったところ。 | |||
3月 |
都立竹早高校卒業 | ||
大学はどこも受けずに予備校へ行く。 | |||
並木君とかの付き合いが復活。生ギターとコーラスだけでもやろうとなんとなくやっていた。 | |||
4月 |
明治大学法学部入学 | ||
5月 |
このままバンドを続けても何にもならない、楽器もない、じゃやめよう。だけど、何か形に残るものを残そうという話が誰からともなく出てきて、それが、レコードを作ろうということになる。 | ||
※ティアックのテレコ2台と、ヤマハから出たばかりの”イエス・マシーン”というミキサーを使って、多重録音を行う。 | |||
7月 |
3ヶ月かけて「アド・サム・ミュージック・トゥ・ユア・デイ」完成。 | ||
※A面がビーチボーイズB面がロックンロールのカバー。東芝の特販部で13万円で100枚プレス。それをメンバー4人で25枚ずつわけ、ほとんどを友達にムリヤリ売る。1枚1,500円。最後はほとんどタダであげてしまう。 | |||
四谷のロック喫茶店”ディスク・チャート”で長門芳郎と出会う。 | |||
※長門芳郎。シュガーベイブの初代マネージャー。現在は青山のレコード・ショップ、パイド・パイパー・ハウス店主。ライターとしても活躍。 | |||
※毎週水曜日の夜、店でセッションを行う。大貫妙子、野口明彦、矢野誠、徳武(後のラストショー)、山本コータロー・・・で毎週セッションをやる。 | |||
暮れ |
自分なりのバンドの構想が出来上がる。 | ||
※コーラスレンジを広げるためター坊をムリヤリ引っ張りこむ。村松君と鰐川君を引っ張り込む。指は鰐川君のほうが速かったが、村松君のはフレーズが泣くという理由で、村松君がギター,鰐川君がベースとなる。 | |||
※ドラムは最初、自分で叩こうと思っていたが、野口君がやりたいと言い出す。横暴の限りをつくしていじめる。オカズを全部指定し、出来るまでドラムの前に座り、体育会系のノリであった。 | |||
※野口明彦。シュガーベイブのオリジナル・メンバー。後にセンチメンタルシティロマンスに在籍。竹内まりやのバッキングを務めたこともある。 | |||
※ター坊とは、大貫妙子のニック・ネーム。当時、彼女は”三輪車”というフォーク・トリオに在籍。そしてシュガーベイブのオリジナル・メンバーとなるが、やれ歌がすべったのころんだのと、何回も泣かされる。 | |||
※当時のレパートリーは、ジョー・サウスの「デビルメイケア」とキャロルキングの『ライター』というアルバムの1曲目に入っているもの。 | |||
8月23日 |
長崎NBCビデオホール”大震祭VOL・4”にてデビュー・コンサート。 | ||
※共演は、グッド・モーニング、ドゥワー・ブラザース。長崎にしたのは長門君の郷里だから |