氷 室 そ ば の 手 打 ち

 

 早稲田大学の高瀬礼文先生は数学の大先生であるばかりでなく、そばの研究家としても有名である。ご自分で石臼を挽き、そ

ばを打ちながら、とうとう「そばの本」という一般向きの入門書を著わされた。

 それ位であるから、そば打ちに関しても精通しきっておられることと思っていたら、

「本当にうまいそばが打てたら死んでもいい」とテレビでしゃべっておられるのを聞いて驚くと同時に安心した。

 私も自分でそばを打ち始めてもう四年になるが、肝心なところはまだ何も解ってはいないのである。そばを打つ時の水加減ひ

とつにしても、使用するそば粉の性質によって相当に開きが出ることに気づいたのは、つい最近のことである。

 ここで言うそば粉の性質とは主に色の違いのことである。そば粉というのは、そばの実の中心部だけを粉にすれば白いそば粉

になり、周辺まで挽きこむほど色は黒くなる。私が坂本のY製粉からとり寄せているそば粉は、どちらかと言えば黒いそば粉

で、この場合、粉の全重量に対して四割弱の水を混ぜれば、ちょうど適当なねばりをもったそばが出来あがる。

 その経験から私は、どんなそば粉に対しても四割を目安に水を加えてきた。ところがそうしたのでは、うまくいく場合といか

ない場合があることが解ってきた。私の挽く氷室そばは白っぽい方の粉であって、うまくいかない方の部類に属していた。そう

いう粉で打つと、でき上がったそばがぶつぶつにちぎれて、うまく繋がらないのである。

 その場合どうするかと言うと、私は湯ごねという方法で逃げてきた。

 湯ごねというのは、粉の四分の一を別にとり出して、それに沸騰した熱湯をかけながらすりこぎで力いっぱいこねて、そばが

きの状態にし、これに残りの粉を加えてこねあげるという方法で、簡単に言えばそばがきの糊で繋ぐという方法である。

 これはさらしな粉などの澱粉質が多く、色のまっ白いそば粉を打つときに限り使われる手法で、この手を使えば氷室そばも完

全に繋がるが、欠点は粉の酸化が早まり、風味が損なわれることである。しかし繋がらなければ仕方がないので、やむを得ずそ

うしてきた。

 こねるとき水を入れすぎた玉は、延ばすのは楽であるが、切った端から又くっついてしまうので、「切らず玉」などと呼ばれ

嫌われていると、本で読んだことがある。自分でも切らず玉ではさんざん苦労しているので、水をふやしてみようとは考えなか

った。

 先日私は拙著「そばの香り」を、会社の大先輩で、退職されてから、西宮でそば屋を開業されているM氏の所へ持っていっ

て、一冊差し上げた。それから十日ばかりして、M氏から宅急便が届き、中からビニール袋に詰められたそば粉と、うどん粉

と、打ち粉が出てきた。手紙はなくその代わりに、メモが一枚だけ入っていて、これにも粉と水の割合が書いてあるだけで、余

分なことは一切書いていなかった。

 書いてなくても、この粉で一度打ってみろと言おうとしている先輩の自信は十分に伝わってきた。

 このそば粉で打てば、きっと先輩の打つそばと同じものができるに違いないと思い、早速打ってみた。ただ水の量が今まで慣

れてきた割合より格段に多くて、粉の全量に対して約半分にもなっていた。

 これではどう考えても多すぎるように思われる。何かの間違いかも知れないと思い、いつも通りの水加減で打つことにした。

そうしてでき上がったそばは、先輩のそばとは似ても似つかない脆いそばであった。これなら氷室そばと同じである。

 翌日お礼の葉書を書くついでに、私の腕ではどうもうまくいかないのは、外にもこつがあるに違いない。今度伺ったときに、

先輩のそば打ちの過程をすべて見せていただいて、その秘伝を盗みたいものですと書いた。

 それから数箇月後、近くに用事があったついでに、ちょっと寄ってそばをいただき、さて帰ろうとしてふとレジの横を見る

と、M氏が木鉢の傍らに立って、今からそばをこね始めるところであった。

 今までにも何度も伺っているが、こねるところを見せて頂くのは初めてである。わざわざ私の帰る時間に合わせて下さったと

しか思えないタイミングの良さであった。これを見過ごしたら罰があたると思い、緊張して一部始終を見せて頂いた。

 M氏はやや大きめのビーカーに一定量の水を入れて傍らに置き、その水を木鉢の粉に一度に加えてから、手速く水まわしを始

め、あれよあれよという間につるつるの塊にまとめ上げられた。あまりの手際よさに目をまるくしている私に向かって、

「木鉢は木鉢屋にまかせとったらあかんで。これなんか自分で指定して彫らせたんやが、これにしてから今まで十五分かかっと

ったもんが、八分でできるようになった」

 と言われたのである。

 十五分というのは私がふだんかけている時間の半分であって、これだけでも驚くべき速さであるが、八分となるともう信じ難

い。ただこの木鉢は誂えるのに百万円もかかったそうで、私も先輩のまねをして百万円の木鉢を誂えたとなると、又家庭争議を

起こし、再び蒸発旅行に出る羽目になりかねない。

 旅行は好きであるから、蒸発旅行であろうと何であろうと出るのは構わないのだが、百万円を使った上に、更に旅行で散財し

たのでは、後が苦しいのが目に見えている。まあよしておいた方がよさそうである。

 商売でそばを打っているのではないのだから、少々時間がかかるのは問題ではない。ただそういう木鉢でないとうまいそばが

作れないというのなら、又少し考えるが、いろいろな情況を総合してみるとそうでもないようで、水加減を間違えずに丹念に水

まわしさえすれば、木鉢はそんなに問題ではないということが解ってきた。

 M氏にしたところで、前の木鉢でも立派にうまいそばを打たれていたのである。又最近紹介された箕面のあるそば屋さんは、

ぎりぎりの資金で開店したために木鉢まで予算が廻らず、安物のアルミ鉢を使用されているが、それでも見事なそばを打たれて

いる。氷室そばがうまく打てなかったのは、どうやら水加減が少なすぎたのが主な原因のようである。

 こんな簡単なことに最近やっと気づき、早速、氷室そばで試してみた。結果は大成功で、今まで湯でしか繋がらなかった氷室

そばが、水でも見事に繋がったのである。熱を加えないので風味もずっと良くなったようである。

 生そばの段階では比較的もろく、ちぎれ易いけれども、ひとたび五十秒ほど茄でると、上等のこんにゃくも叶わないほどの弾

力をもった瑞々しいそばに一変する。その弾力ときたら噛んでも噛み切れない位で、江戸のそば通が、そばは噛まずに飲みこむ

ものだと言った意味が解るようなそばである。だがそのくせ決して固くはないのである。

 以前私が「氷室そばの誕生」を書いて団地新聞に発表した時、氷室そばは収量が少なく、人の口にまではなかなか廻らない。

しかしタイミングよくわが家を訪れた方に一杯ご馳走するくらいは何でもないと書いた。冗談で書いたわけではないので、実際

に希望者があればどなたにでもご馳走しようと思っていたら、本当に来られたのはひとりの奥様だけであった。私自身すこし常

識はずれな所があるせいか、こういった常識に縛られずに行動する人は好きである。

 昨年の秋はめずらしく氷室そばが豊作で、少しくらいならお客さんにも出せる余地ができた。それで又希望者をご招待しよう

と思う。とは言っても、誰もが私の好みに合わせて常識をはずされては、まかないきれない。かと言って誰ひとり来ないという

のでは、又寂しい。そこのところのかね合いがむつかしい所で、この微妙な判断は、読者諸賢の良識におまかせするしかないよ

うである。