わ が 音 楽 の 師
一 田中幸夫先生
私は小さい頃から楽器と楽譜に異常な興味を示し、小学校に上がる前に、もう兄の教科書を盗み見て、自分なりに楽譜の勉強
を始めていた。
ところが最初に入った下関市立関西小学校は音楽教育があまり盛んでなかったようで、器楽部などもなかった。しかし三年に
なって転校して行った文関小学校は、バイオリンの入った器楽部を持っていて、当時としても珍しい文化的な学校であった。
その器楽部に入って、私は卒業するまでハーモニカを吹いた。内心ではバイオリンが弾きたくて、何度か母に頼んだのである
が、その度に父の反対にあって習わせては貰えなかった。
父は後になると、「子供はスポーツか音楽さえやらせておけば、何の心配もなく育つものだ」などと人に言っていたが、当時
は口癖のように、「音楽なんか金持ちの子女のやるものだ」と言って、相手にしてくれなかったのである。
バイオリンこそやらせて貰えなかったものの、小学校六年間、楽譜に親しんだ私は、中学に上がる頃には、どんな曲でも楽譜
を見れば即座に歌え、逆に頭に浮かんできたメロディはすぐに楽譜に書くこともできるようになっていた。
そうして次に進んだ中学校は、下関市立日新中学校という学校であった。この中学校で二年になった時、大学を出たばかりの
男の先生が赴任して来られて、私達の学年の音楽を担当されることになった。この先生は田中幸夫先生といって、黒縁の眼鏡を
かけた真面目でやさしそうな先生であった。
田中先生は最初の授業の時、私達の学力を確かめるためか、教科書の最初に載っていた「美しき」という曲を指して、「この
曲が歌える者はいるか」と言われた。そんなことは朝飯前の私は、まっ先に手を挙げ、いい気持ちで歌ったら、先生は驚いて、
「このクラスは東京の水準にも劣らない」と言われた。
下関を余程のいなか町と思われていたようであるが、私は逆に、いくら東京といえども誰もが楽譜を初見で歌えるものでもな
かろうと高をくくっていた。
そんなことがあって、私はだんだん田中先生が好きになっていった。
当時の私のクラスには、私の外にも音楽が特に好きというY君とN君がいて、三人でいつも田中先生の音楽の時間を待ちわび
ていた。その気持ちが先生にも通じたのか、先生もいつか、私達のクラスに来るのが楽しみだと言われたことがあった。
そのうち我々三人は時々、田中先生の下宿に招待されるようになった。ある時三人で夕飯をご馳走になった後、部屋の隅にあ
ったウイスキーを面白半分に飲んだところ、三人共まっ赤な顔になり、それを見た先生がオロオロされた。それが面白くて益々
調子にのり、一層先生を困らせた。
当時の中学校には今のようにブラスバンドという酒落たものは勿論なく、せいぜいあっても鼓笛隊というところであった。そ
の鼓笛隊が我々の中学校にも出来ることになり、私は田中先生からその指揮者に任命されてしまった。
鼓笛隊の指揮者はオーケストラと違い、一箇所にじっとして指揮棒を振るのではなく、行列の先頭に立って大きなバトンを振
りながら歩くという派手な役柄で、私のような引っ込み思案な者によく勤まったものである。それ以来私は、英語の先生に「楽
長」というあだ名を頂き、本来の名前では呼ばれなくなった。
その頃ピアノはまだ貴重品で、講堂と音楽室にアップライトのピアノが一台ずつあるだけであった。しかもそのピアノにはい
つも鍵がかかっていて、授業かクラブ活動以外は使用できないようになっていた。しかし私はそんなことは気にぜずに、釘を曲
げて合鍵を作り、放課後によく音楽室に行っては、ピアノを叩いて遊んでいた。それでも、私がピアノをこじ開けて弾いている
とは誰も思わなかったらしく、注意をされたことは一度もなかった。
ある時私がピアノで遊んでいる所に、ひょっこり田中先生が来られたことがあった。そして「浜辺の歌」や「平城山」を自ら
伴奏しながら歌ってくれたり、「五ツ木の子守歌」のメロディを四オクターブ離れたユニゾンで弾かれて、「ピアノもこうして
弾けばオーケストラの音がするだろう」と言われたことを覚えている。その頃の私はオーケストラさえまともに聞いたことがな
く、初めて聞くピアノの不思議な響きに、感心して聞き入ったものである。
田中先生が我々の学校に来られてから一年たつかたたないある日、朝の全校朝礼の時、突然朝礼台の上に田中先生が上がられ
て、我々に別れの挨拶をして、「アロハオエ」を歌われた。
校長先生の説明では、田中先生は教師をやめて、上智大学の神学部に入り直し、神父になる決心をされたそうである。だがそ
のことについて、我々は前もって何も聞かされておらず、全く寝耳に水であった。
その時の我々三人は、田中先生を随分冷たい先生だと恨んだものだが、先生にしてみれば我々子供には言えない事情があった
のであろう。
あれからほぼ三十年たった。あの時の田中先生も今頃は熟年になられて、日本のどこかの教会で、神父として立派に勤めを果
たされているに違いない。一度お会いしたいものである。