わ が 音 楽 の 師
二 坂田哲夫先生
私が坂田先生に初めてお会いしたのは、今から三十年も前、私が中学三年の初秋の頃であった。
その年の夏休みが始まって間もないある日、私は母から買い物について来るように言われ、黙ってついて行くと、母は下関駅
に近い楽器屋へ私を連れていき、小学校以来ねだっていたバイオリンを買ってくれたのである。たまたまその店には鈴木の一番
安いバイオリンしかなくて、値段はたしか二千四百円であったと思うが、長年の念願が叶った私は天にも昇る気持ちであった。
それからの夏休みは毎日、バイオリンの練習に明け暮れた。調弦法や左指のポジションは、音楽の教科書に出ていたので、覚
えてしまっている。ところがいくら頭では解っていても、実際に楽器を持ってみると、少しもうまくいかず、音程はきまらな
い、音はきたないと自分でもいやになる程であるから、はたが迷惑したのは言うまでもない。
とうとう父は、自分のいる時にバイオリンを弾いたら叩き割ると言って怒りだすし、母も、いくら私が頑張ったところで、独
習ではとても物にならないと判断したのか、夏休みが終わるや否や、私をあるバイオリン教室に連れて行った。そこで教えてお
られたのが坂田哲夫先生である。
その頃の坂田先生は、東京芸大を出たばかりの溌刺とした青年で、市内の女子高校で音楽教師として教鞭をとるかたわら、駅
に近い楽器屋の二階を借りて、バイオリンを教えておられた。
私が一ケ月間独習したことを告げると、それでは音階を弾いてみろということになり、弾き終わったとたん先生は、「君は音
楽が好きだな」と目をまるくされた。
その日はそれだけで終わり、帰りにホーマンの教則本第一巻を渡され、「次からはこれを練習して来るように。どこまでとい
う制限はつけないから、出来るところまで練習して来なさい」と言われた。
一週間で全曲さらってしまった私は、次のレッスンの時、始めから順番にすべて弾いていった。最初はたかをくくっていた先
生が、そのうちにしびれをきらして、「一体どこまでやってきたのかね」と尋ねられた。
「最後までやってきました」と私が答えると、びっくりされて、
「それではこれを弾いてみたまえ」と、最後の曲を指して言われた。これもがむしゃらに弾いたら、納得されたのか、されなか
ったのか、教則本の終わりに近い曲を示して、
「途中はもういいから、次はここからやって来なさい」ということになった。
その後も先生のレッスンは、すべてこの調子で進むものだから、全部で五巻あるホーマンが一年たらずで終わってしまう。ホ
ーマンだけではない。並行して進んでいた副教材の教則本やいくつかの協奏曲なども、同時に上げてしまったのである。
先生は下関に弦楽合奏団を作って、ビバルディなどの合奏協奏曲を演奏したいという夢を以前から持っておられ、そのため私
に過大の期待をかけて、少し速く進ませ過ぎたかも知れない。お陰で私はどんな曲を与えられても、すぐに何とかそれらしく弾
くという器用さは身につけたが、あまり上手にはなれなかった。
と言っても、その当時そう感じていたのではなく、学校の文化祭などに自ら進んで出演していたところをみると、ある程度自
分はうまいと思っていたようである。
私が坂田先生から教わった大事なポイントは、合奏の喜びを教えられたことである。そしてそれは現在の私の人生において
も、貴重な宝物となっている。
毎週練習していったホーマンの練習曲に、先生が伴奏パートを弾いて二重奏して下さるのが楽しみで、私はレッスンに通った
と言っても過言ではない。先生自身も私との含奏を楽しまれていたようで、レッスン日以外にも日曜日など朝から先生の下宿
で、プレイエルの二重奏曲集を合わせて頂いたこともある。
当時、すなわち昭和三十三年頃の下関には、バイオリンを弾く生徒など数える程しかいなくて、先生の私に対する期待は並々
ならぬものがあったと思われる。ところがその一方で、高校受験を間近に控えた者が呑気にバイオリンなど始めて大丈夫なのか
という心配もあったようである。
私が母に連れられて初めてバイオリン教室を訪れた直後、先生は私が通っていた日新中学校に問い合わせの電話をされたそう
であった。大丈夫という返事が得られて先生も安心されたそうだが、当の本人はそんなことも知らずに、バイオリンを弾き続け
た。
そして学校の予言通り、半年後に私は志望の高校である県立下関西高等学校に入学した。
早速サークルで何か音楽をやろうと思ったが、この学校にも弦楽合奏はなくて、仕方なく男声合唱をやることにした。合唱は
それまでにもよくやった。だが声がハーモニーする本当の楽しさを覚えたのは、この合唱団に入ってからである。
坂田先生の方も、オーケストラを作りたいという夢をたえず持っておられたのだが、当時の女子高では、それだけの地盤がま
だなかったようで、もっぱら女声合唱の方にカを入れておられた。そしてコンクールでは、毎年、優秀な成績をおさめられた。
坂田先生の元気な指揮姿は、今でも私の目蓋の裏に焼きついている。その先生が突然胸の病に倒れ、一年以上も療養されるこ
とになろうとは、誰も想像できなかった。私が高校二年の時のことである。
たまたま級友の中に先生の親戚に当たるT君がいたので、二人で早速お見舞いに行くことにした。
先生のご実家は山口県の厚狭(あさ)という所にあって、ある休みの日に下関から汽車とバスを乗り継いで、やっとのことで
ひなびた農村の中の一軒家を探し当てた。
ところが着いてみると、先生は実家で療養されているのではなく、宇部の療養所に入られており、結局お会いできなかったの
である。我々ははるばる訪ねて来た甲斐もなく途方にくれていたら、先生のお母さまが、「せっかくおいでんさったんや、ゆっ
くりして行きなされ」と仰って下さったので、お言葉に甘えることにした。
まわりはひなびた農村であっても、この家は坂田先生を育てた家である。家の中にピアノもあれば、バイオリンもある。少し
も退屈などしない。
バイオリンを出して遊んでいるうちに、先生の妹さんが帰って来られて、ピアノで伴奏して下さる。そのうちにお母さまも仲
間入りされて、ピアノの弾き歌いで、当時はやっていた「南国土佐を後にして」を歌いだされたり、さすがに開けたもので、遠
くのあぜ道を帰る農夫も立ち止まるほどであった。
結局、何をしに伺ったのか解らないようなことになったが、薄れかけた記憶の中で、タ飯をいただいた後、うす暗闇のバス停
でバスを待ったその心細さばかりが、今でも印象に残っている。
それからしばらくして学校の遠足で、宇部の常盤公園に行くことになった。遠足にいけば自由時間がある。その自由時間に坂
田先生をお見舞いすればいい。その考えには、T君もすぐに賛成してくれた。
その日、常盤公園から療養所までどうして行ったのか、タクシーに乗ったか、バスに乗ったかそれとも歩いたのか、全く思い
出せない。しかし坂田先生にお会いしたその後のことは良く覚えている。
先生は思ったよりもお元気で、とても療養中の病人には見えなかった。広い療養所の敷地内を足どりも確かに歩かれて、病状
や療養生活について話をして下さった。
「手術はしなくても良さそうだが、一、二年療養することになりそうだ」と言われた時、当時の私にとって、それは気が遠くな
る程長い時間に思われた。
その長い療養生活もようやく終わり、私が大学に入り京都で下宿生活を始めた頃には無事退院され、そればかりでなく、めで
たく奥様も迎えられて、再び元気に活躍を開始された。
下関と京都に別れてしまったために、今までのようにレッスンで結ばれた関係は自動的に消滅してしまったが、精神的な師弟
関係はそのままで、大学の休みで帰省すれば、まっ先に先生のお宅に何い、夜の更けるのも忘れて、私のバイオリンにピアノで
伴奏をして頂いたりした。
そのうちにいつしか先生は、魚釣りに凝り始められた。下関という土地柄を生かして、一時期ご自分の船を持たれたことがあ
り、真夏のある日、私を釣りに連れて行って下さることになった。
その頃の私はまだ貧乏学生で、釣りを趣味にする程の余裕もなかったので、釣りの醍醐味を知らなかった。
船のある浜辺までは先生の愛車マツダ・キャロルに乗せて頂いた。そろそろ日本も高度経済成長の波に乗りかけた頃で、マイ
カーを持つ人が増え始めた頃である。
マツダ・キャロルという車は、初期の軽四輪車で、馬力が小さく、坂道で発進する時など、一旦あとずさりして、ウーッと唸
ってからでないと登らないので、マンボ・カーなどとあだ名する人もいたようである。
そのマツダ・キャロルに乗せて頂いて、あとずさりしながらも、無事に船を置いてある浜に着いた。着くことは着いたもの
の、それからが又大変である。炎天下にふたりで重たい船を押して、海まで出さなければならない。船というものは海に浮かん
でいる時は便利なものだが、陸に上がるとこれほど厄介なものとは思わなかった。
そして海上に出たら出たで、今度は重たい潮帆を上げたり下ろしたりする仕事が待っていた。
潮帆というのは海中につけるパラシュートのようなもので、それによって潮の動きと船の動きを一致させて、釣り糸がいつも
真下に垂れるようにするもので、無くては糸が流れて釣りにならないので、省略するわけにはいかない。
こう書いてくると、せっかく釣りに連れていって貰っておきながら、文句ばかり言っているようであるが、本来の釣りの方
は、小鯛がひっきりなしに釣れ、一度に釣りの楽しさを覚えてしまい、以来今日までやみつきとなってしまったのである。
そうするうちに私も大学四年になり、そろそろ就職のことも考えなければならなくなった。そんな時たまたま研究室の教授
が、朝日放送はどうかと仰って下さったので、すぐに応募することにした。
その時の身上調書に、尊敬する人という欄があって、私は迷わずそこに坂田先生の名前を書いた。幸いその朝日放送に就職が
きまり、翌年の四月に無事就職したのである。
そしてその年の夏、帰省した時に、先生は私に打ちあけ話をされた。
「実は君が就職する時、尊敬する人という欄に僕の名前を書いたんで、朝日放送から調査の人が僕の所に来たよ。たまたま留守
にしてたんで、翌日、又出直して来られてね。勿論君のことは、非常に優秀な青年だから是非とるようにと薦めておいたけど、
来られた人が又立派な人でね、やはりえらくなる人は違うもんだ。記念品を貰ったんだが、シックというかみそりで、これがよ
くそれるんだ。人に上げる物はやっぱりこれくらい心がこもってないとだめだね」
それから数年たったお正月に帰省した私に、先生は、
「とうとう南高にオーケストラを作ったよ」と言われて、最近の演奏を録音したテープを聞かせて下さった。私も大学入学と同
時にオーケストラ活動を始め、就職してからもアマチュアのオーケストラに所属し、活動は続けていたので、アマチュアの水準
はだいたい解っているつもりである。そんな私の耳にも、そのテープの演奏はとても板についたものに聞こえたのである。先生
の熱の入れようが伺える演奏であった。
それ以来、帰省する度に先生のオーケストラに参加して、練習をお手伝いすることになった。
そして更に数年後、先生は市内の他の高校や短大の先生方と協力して、下関ジュニア・オーケストラを結成された。この時点
で先生の長年の夢がやっと実現したのである。指導は坂田先生を筆頭に、三人の先生方が集団指導体制をとられていた。
坂田先生の人徳もあって、三人の指導陣がはた目にも気持ちの良い調和を保っておられたので、私も進んで先生の夢の実現に
協力することにした。そうすることがとりも直さず、私の夢の実現でもあったのである。なぜなら二十年も前から先生が描いて
おられた夢のイメージは、私にとっても同様であったからである。
ジュニア・オーケストラは年に二回、真夏とお正月に定期演奏会を開いた。そしてそのプログラムには、毎回、出演メンバー
の短い文章が載ることになっていて、私も「坂田先生と私」と題する一文を出したことがある。
ある時、先生から電話がかかってきて、今度のプログラムに全員の自己PRを三十字以内で出すことになったので、私にも何
か書けということであった。しかし三十字というのは、少なすぎてかえってむつかしい。困った末、ふと短歌ならどうだろうと
思いついた。
すべてひら仮名で書けば三十一字になるが、漢字を入れれば三十字以内におさまる。我ながら名案だと満足しつつ、次のよう
な歌を作った。
このオーケストラ活動によって、坂田先生の下関音楽界での地位は不動のものとなったようである。音楽のこととなると、す
ぐに坂田先生がひっぱり出されるようになったばかりでなく、講演依頼なども舞い込むようになった。私の目から見ても、この
頃が先生の人生の中で最も華々しい時期ではなかったかと思っている。
ところがこの絶頂期はそれ程長くは続かなかった。
今から一年半ばかり前に突然先生は、三十年近く勤めた高校をやめて、市内の別の高校に転任することになったのである。先
生ご自身は、
「あまり長く南高に勤めたので、ここらでM先生と交代することにした」と仰ったけれども、詳しいことはよく解らない。ただ
それからの先生は急にファイトを失われたようで、以前のような元気がなくなったのも事実である。
又それと関連しているかどうか知らないが、あれほど情熱を注がれていたジュニア・オーケストラも、十一回の定期演奏会を
終えたところで消滅してしまった。それだけではない。新しく転任して行った高校も一年ほどでやめてしまい、実家に近い厚狭
の方の学校に、引っ込んでしまわれたのである。
先生のお齢は現在五十代の半ば、まだまだこれからである。どのような事情があるのか私には解らないけれども、できればも
う一度、私達の目の前に、あの溌刺とした指揮姿を見せてもらえないものであろうか。