空      砲

 

 毎年、田んぼの稲が穂を出す頃になると、私の朝の通勤道も急に騒がしくなってくる。

 赤いT字型の煙突のようなものが、田んぼのあちこちに出現して、ドンドンと空砲を鳴らし始めるからである。せっかく実り

かけた米を、雀に荒らされないようにするためということは解るが、歩いている道のそばから突然鳴りだすと、こちらもびっく

りする。

 今から十年ばかり前のちょうど今頃、一歳そこそこの娘を抱いて、近くの野山を散歩していたら、やはり空砲があちこちで轟

いて、その度にまだ何も喋らない娘が私にしがみついてきた。

 どういう仕掛けであんなに大きな音が出るのか知らないが、夜が明けると鳴りだし、日が暮れると静かになるようである。と

ころがあまり早朝から鳴りだすものだから、団地の誰かが市に苦情を申し出た。それでその田んぼを作っているお百姓は、市か

らお小言を頂戴したそうだが、その後も騷々しさは一向に変わっていない。

 最近、自治会で発行している新聞を読んでいたら、同じ団地に住むあるアメリカ人が、

「自然が残った静かな環境が気に入ってここに来たのに、あのパーンという音は戦争のようでいやです」と書いていた。

 人間に対してもこれほど効果のある空砲が、あの小さな雀達に及ぼす影響力は容易に想像することができる。しかし毎日観察

していると、その効果の程を疑いたくなるような場面に出くわすこともある。

 そろそろ稲穂が色づき始めたある日の午後、田んぼ沿いの道を歩いていたら、私の気配を察して、穂の中に隠れていた雀達が

一斉に飛びたった。その数といったら、これだけ多くの雀の群れを今までに見たことがない程で、優に数百羽はいたようであ

る。そしてそのまま上空に張られている送電線に留まったが、飛びたった時には一瞬空が暗くなるようだった。

 その田んぼの隅には例の赤い煙突が立っていて、たえずドンドンいっていたのに、その音は気にもかけずに腹ごしらえに熱中

し、私が近づいて初めて飛びたったのである。

 こういうことがあるからお百姓さんも、空砲を設置しただけでは安心していられないと見えて、ありとあらゆる工夫を凝らし

て、雀を寄せつけないようにしているようである。

 私の子供のころには案山子がよく立っていた。今はほとんどその姿を見なくなり、その代わりかどうか知らないが、竹棒の先

に帽子やゴム長やポリバケツをのせて、それらしく見せたものが立っていたりする。

 又、表は銀色、裏は赤に塗り分けた、ピカピカ光るテープを、田んぼの周園に張り巡らしているのも良く見かける。この方法

は、風のある時にはテープが揺れてピカピカするので、効果があるかも知れないが、風がないと役に立たないように思われる。

 それよりも、最近よく見かけるようになったのが、大きな目玉である。丸い大きな紙に手で書いたものや、黄色の円盤形の風

船に、赤や黒の同心円を描いたものを、田んぼの上にぶらさげている。この目玉の効果については、以前NHKの「ウルトラア

イ」で実験しているのを見たが、かなり効き目があるようであった。

 この外にも死んだカラスをぶらさげて見せしめにしたものや、模型のタカをぶらさげて威嚇するものもある。

 しかし何と言っても一番確実なのは、田んぼ一面にかすみ網をかぶせる方法であろう。

 私の通勤道のそばにも一箇所だけそんな田んぼがある。これを見ているとよほどの高級米で、もっぱら自家用に供するもの

か、ひょっとすると宮内庁にでも献上するものであろうかなどと想像する。

 私が近所のご隠居さんにお願いして作ってもらっているそば畑も、この一、二年というもの鳥の害を受けて、ほとんど収穫が

ない。と言うよりも、蒔いた種の分だけ収穫するのがやっとで、全く何をしているのか解らない状態である。

 種を蒔くとすぐに鳩にほじくられ、芽が出ると夜盗虫に食い倒される。やっと実ったら実ったで、今度は雀達の餌になってし

まうという風で、私の口にはさっぱり入らないのである。

 こんなことをしていては、せっかくの氷室そばも名ばかりになってしまう。いよいよ空砲か網で防衛しなければならないかと

考えていたところ、ご隠居さんの方も本気で考えたとみえて、この夏は、画用紙に大きな目玉を書いて切り抜いたものをたくさ

ん作り、そばを蒔いた畑の上に所狭しとぶらさげた。

 そのせいかどうか、今年は蒔いた種がすべて順調に成長し、先週あたりは白い花が一面の満開となった。この調子でいけば、

今のところ空砲を鳴らしたり、網をかぶせる必要はなさそうである。