受 賞 の 顛 末

 

 前に私が書いた「伊勢疼痛記」を、親友の宮木が読んで、突然、

「日本旅行記賞に応募してみたらどうだ。いい線いくかも知れんぞ」と言い出した。私はそれまでそういう賞のあることさえ知

らなかったが、学生時代から文学青年だった宮木は、この十年来、受賞作品を読み続けてきたと言う。その宮木が、これまでの

受賞作品と較べても遜色ないと言うのだから、私もその気になった。

 早速、その賞を主催している交通公社の雑誌「旅」を買って、応募規定を調べてみた。すると、枚数が四百字づめ原稿用紙四

十枚から五十枚となっていて、想像していたより多い。私の「疼痛記」は三十枚もない。この点だけ何とかしなければならない

が、あらためて書き直す気にはなれない。続きに何か書きたして五十枚程度にしようと考えた。

「伊勢疼痛記」は伊勢市駅前に到着したところでフィナーレとなっている。これは実は、足のトラブルでそれ以上歩けなかった

ため、仕方なくそこで歩くのをやめただけのことで、最初の計画としては、伊勢で一泊したあと翌日もう一日かけて、賢島まで

歩く計画になっていたのである。

 私は一度計画したことはやり遂げないと気がすまない性分である。われながら堅苦しいと思うくらいだから、巻き込まれる方

はなお更であろう。そう思うと相棒には心苦しいけれども、そのままにもしておけず、それから四ケ月たった初秋のある日、前

回と同じ相棒と共に、残された伊勢、賢島間の踏破に再挑戦した。

「疼痛記」を第一章、この再挑戦を第二章とし、あわせて「伊勢二章」とでもすれば、作品としての格好はつきそうである。

 そのつもりで第二章を書きあげたのが昨年の二月で、締め切りまではまだ半年もあったけれども、原稿を出さなければならな

いという拘束感から一日も早く解放されたい一心で、すぐに郵送してしまった。そうすれば、あとは宝くじを買ったようなつも

りで、発表までの一年近くを、希望をもって過ごすことができると考えたのである。

 投函した後で、原稿のコピーを又、宮木に見せたところ、宮木は第一章と二章で、文体や文章のレベルに大きな差があること

を指摘し、今のレベルで第一章をもう一度書き直してはと言う。

「締め切りまでまだ半年もあるじゃないか。入賞するような作品はなあ、ぎりぎりまで手元に温めておいて、直前にすべり込む

というパターンが多いんだぞ」

 そう言われても、私はもともと宝くじを買ったくらいの軽い気持ちで、落ちて元々と考えているものだから、今さらそこまで

する気は起こらない。第一章と二章で文体に大きな差があるのも、私が文章を書き始めてまだ間がないために、自分の文体が確

立しておらず、たえずふらついているからで、今のところ何か文章を書いても、半年もすれば文章に対する感じ方が変わってし

まい、前の文章を読む気がしない、手を入れる気もしないということになるのである。生意気といえば生意気であるし、無責任

といえば無責任でもあるが仕方がない。

 応募してから締め切りまでの半年間は、思ったより時間のたつのが遅かった。私がわくわくしている間にも、毎日、応募作品

が編集部に届いているはずである。それは言いかえれば、私の作品が取り上げられる確率が、日に日に小さくなっているという

ことであって、のん気にわくわくもして居られない。八月三十一日の締切り日がきてホッとした。

 発表は「旅」の二月号というから、二月号の発売される一月十日頃までには、まだ四ケ月以上の間がある。その間だけはのん

びりと、応募したことさえ忘れて、日が過ぎていった。

 完全に忘れてしまった十一月の中頃、突然、「旅」の編集部から、私の職場に電話がかかってきた。私の「伊勢二章」が佳作

に入選したというのである。

「おめでとうございます。表彰式は来年の一月十日過ぎになりますが、東京まで出て来て頂けますか」

 そういう編集部のA氏の声を、私は呆然と夢見心地で聞いた。宝くじが当たったのである。宮木も私からの知らせに、自分の

ことのように興奮しているようであった。応募作品二百八篇の中から受賞作一篇、佳作二篇の、その二篇の中に入ったのである

から、私だって興奮する。

 表彰式はどんなものだろう。あとでパーティがあるかも知れない。ひょっとして審査の先生方も来られるのでは。そうなると

ひとりずつ何か挨拶しなければならないだろう。では今から挨拶を考えておかなければと、もういっぱしの作家の仲間入りをし

たような気持ちでそわそわする。

 そんな風であるから、誌上の本発表までの二ケ月間は、なんとなく幸せな気分で過ごずことができた。

 二月号の発売日である一月十日が近づいてくると待ちきれず、少し早いがひょっとしてと思い、八日の日に書店を覗いてみた

ら、果たして二月号の「旅」がもう台の上に積み上げられていた。

 その場で開いてみると、発表と同時に、四人の選者の先生方がそれぞれに選評を書かれている。店頭での立ち読みなので、落

ち着いて読むわけにはいかないが、どうも私の「伊勢二章」に対する雲行きがあやしいようである。急いで本の勘定をすませ

て、近所の喫茶店にとびこみ、あらためてゆっくり読みなおした。

 どうも面白くない。票が真っ二つに割れて、四人の選者のうち二人までが「伊勢二章」を駄作ときめつけているのである。日

く、文章がお粗末でがっかりした、ヘたな語呂あわせが全篇に充満していて鼻もちならない云々。

 そんな中でひとり村松友視氏が、「私が全責任を持って推す」とおっしゃって下さったので、やっと佳作に入れたということ

らしい。F氏にいたっては、今年は受賞作一篇だけに絞って、佳作をなしにしてはと提案されたそうだから、私などはお情で入

選したようなものとも言える。

 裏の事情が解ってしまうと、今までの浮いた気分はどこかへふき飛んでしまい、表彰式に参加することさえ気が重くなってき

た。挨拶にしてもいい格好はやめて、なるべく控えめにしておこうと思いだした。

 そうは言っても、このまま引き下がるのも能がない。一体、私のようないい加減な文章を佳作にとり上げるとは、先生方もど

うかしておられたのではないかと、少々やつあたり気味ではあるが、それ位は言ってもいいだろう。

 表彰式は一月の十四日と決まった。余裕をみて前日のうちに上京し、あらかじめ交通公社が用意してくれたホテルに泊まっ

て、当日を待つことになった。初めての経験だが、悪い気分ではない。

 ホテルには夕方、編集部のA氏が挨拶に来られることになっている。それまでは外に出られない。又、出られたとしても、明

日の挨拶が気にかかって、外を散歩する気にはなれない。シャワーでも浴びて待つ方がよさそうだ。

 そのうちフロントから呼び出しがあって、降りてみると、現れたのは二人であった。若くて背の高い方がA氏で、もうひとり

はA氏の上司で、作家に同行して「旅」誌にもよく登場するB氏であった。

 予想は的中した。B氏が急に思い出したように、

「あすは表彰式のあと簡単な記者会見がありますから、何かひとこと挨拶を用意しておいて下さい」と言った。予想していたこ

とであるから、それはそれで構わないが、審査の先生方が来られるかどうかが気になるので聞いてみると、来られないという。

それならひと安心である。

 部屋に帰ってから、挨拶の原稿を何度か書きなおし、練習をしているところに、私の向かいの部屋にチェックインされたばか

りの、もうひとりの佳作入選者であるK氏が挨拶に来られた。

 K氏は京都の大学に勤める、インドネシア語担当の先生で、入選した紀行文も、昨年の夏休みに奥様とインドネシアを旅行さ

れて、オラという大トカゲを見てきた話を書かれたものである。

 K氏が私のメモ用紙をチラッと見て、「何ですか」と聞くから、

「あすの記者会見用の挨拶の草稿を考えているところです」と答えると、サッと目を通して、「じょうずですね。いいなあ。そ

れじゃあ僕も帰って何か考えるか」と言い残して、出ていかれた。

 翌日は、午前中、まず我々三人で神田にある「旅」編集部に挨拶に行き、そのあと編集部の方々と昼食をともにし、午後二時

から丸の内の交通公社本社で表彰式という段取りであった。昼食は近くのレストランの一室を借りきって、フランス科理をご馳

走になる。科理にはワインやビールもついていたが、午後からの式のことを考えて、三人ともあまり口をつけなかった。

 表彰式は交通公社本社の一室で、新聞や雑誌関係の記者とカメラマンの見守るなかで始まった。三人の受賞者がひとりずつ前

に出て賞状を受け取るたびに、カメラのストロボが一斉に光る。表彰式というのは、受賞者のためにだけあるのではなく、記者

に発表するためのセレモニーでもあったのだ。続いて記者会見に移り、まず司会者から三人の名前と作品の紹介があり、ひとり

ずつ自己紹介となった。

 受賞したW氏は若い天文学者で、文章はすばらしいが、挨拶の方はとつとつとした調子で、あまり印象に残らない。次のK氏

は、自分の学生達全員に「旅」を買わせて、読後感をレポートで出させることにより、「旅」の売上げに協力すると挨拶して、

記者団を笑わせた。そして最後が私である。昨日からホテルでさんざんリハーサルしてまる暗記しているので、却ってスムーズ

にしゃべりすぎたかも知れない。

「ほんの軽い気持ちで応募したものが、こういう晴れがましい結果になり、正直言って、大変なことになってきたなという感じ

です。

 長年、文章に縁のなかった私が、四十をすぎて突然なにか書きたくなり、少しずっ書くまねごとを始めたのでずから、多分、

文章と呼べるしろものではなかったと思います。

 応募のきっかけにしても、友人にすすめられてというだけですから、旅行記としての体をなしていようがいまいがお構いなし

に、所詮、落ちてもともとと居直って応募したような次第です。

 このようないい加減な作品を、出す方も出す方なら、取り上げる方も取り上げる方だなどと憎まれ口をたたいて、今さら取り

消されても困りますから、ここの所はとりあえず、諸先生方の勇気に敬意を表しますと申し上げて、受賞の言葉に代えたいと思

います。どうも有り難うございました」

 この挨拶さえすめば、昨日から気にかかっていたセレモニーは、ほぼ終わったようなものである。記者団も主催者側の人達も

にやにやしている。してやったりという気持ちで席についた。このあと記者団からの質問に答えるくらいは何でもない。さあい

らっしゃいと待ち構えた。

 だがこちらの意気込みに反して、質問は少しもこちらに廻って来ない。先程の昼食会の時には、我々三人に対して均等に、編

集部の方達から話題提供があったのに、ここではすべての質問が受賞者のW氏に向いている。

 それは考えてみれば当たり前で、昼食会の時には、我々三人は編集部の客として接待されていたのである。私は昼食会の名残

で、肝心なことを忘れていたようだ。受賞式というのは受賞者が主役で、われわれ佳作入選者は所詮、脇役なのである。それは

それとして、では、まる一日苦心した私の挨拶は、空振りだったのか。

 後日、会社の同僚が記者会見の模様はどうだったと聞くから、私がこうこうと挨拶したと言うと、それは少々言い過ぎだと笑

われた。だがそう言われれば、そんな気もしてくる。とすると、やはり空振りでよかったのかも知れない。