あ と が き

 

 本著に収録した十八篇は、昭和六十一年七月から六十三年六月までの、ほぼ二年間に書き溜めたものである。単純に計算して

も、一篇に一ケ月以上かかったことになる。一篇の長さが前よりやや長くなったせいもあるが、ひとつ書きあげる毎に、推敲に

要する時間が格段に長くなってきたのが主な理由である。

 今から思えば最初の頃の推敲は、かなりいい加減なものであった。最近では、ひとつ書く毎に数十回読み返し、最終的にひっ

かかる所がなくなるまで、徹底的に推敲することにしている。推敲のいい加減な文章は、二、三ケ月もすれば、読み返す気がし

なくなるということに気づいたからである。

 百關謳カは彫心鏤骨して推敲すると書かれていた。大先生にしてそうであるから、私のような未熟者がろくに推敲もしない文

章を発表するなどは論外である。もともと流行作家のように、締め切りにせまられて文章を書いているのではないのだから、い

くら推敲に時間がかかろうと、そのための時間は惜しむべきではない。又そうするしか現在の私の拙い文章を、少しでも読める

ものにする方法はないようである。

 ところで二年前、私の『そばの香り』が初めて世に出た時、読まれた方々の反応は正にさまざまであった。私としては団伊玖

麿氏の名随筆集『パイプのけむり』がパイプの本ではないように、私の『そばの香り』はそばの本ではないという自負のような

ものがあったのであるが、そこは文章の拙さのせいであろう、なかなかそのようには受け取って貰えなかった。

 会社の廊下などでばったり会った同僚に、「そばの本を出されたそうですね」と声をかけられて、答えに窮したことが何回か

あった。それに反して、「詩のようでした」とか「美しき水車小屋の娘のようでした」という、私にとって身にあまる評価をし

て下さった方もある。

 又、最近やめられたある重役からは、「あんたはオモロイ男やな。そんなオモロイ男とは思わなんだ。あんたみたいなオモロ

イ奴はいつまでもこんな会社にくすぶっとったらアカン」と、ほめられたのか退職勧告されたのか解らないような評価も頂い

た。

 そばの本として受け取られた方の中にも、私にとって非常に有り難かった方もおられる。

 大津の坂本にあるY製粉の社長さんで、冒頭の「そば粉の買い出し記」に登場して頂いた方である。拙著を一冊お送りした

ら、早速毛筆による懇篤なお礼状が届き、その上に後進の教育のためにと、四十冊まとめて注文して下さった。

 新年早々に舞い込んだ縁起のいい手紙に気をよくした私は、四十冊の本をまとめて、いそいそとお届けにあがったが、それか

らひと月もたたないうちに、その社長は亡くなられてしまった。遅ればせながらこのあとがきの中で、お礼を申し上げると同時

に、心からご冥福をお祈りしたい。

 まえがきでも書いたように、私はそばに関して全くの素人で、知識として役立つようなことは一切書いていないつもりである

し、又恐れ多くて書けない。にも拘わらず前著『そばの香り』に対して、プロのそば屋さんの反応が大きかったのは意外であっ

た。

 予想もしなかったあちこちのそば屋さんから、「ぜひ会ってお話がしたい」、「うちのそばを食べてみて下さい」とか、前か

ら顔見知りだったそば屋さんには、「あなたに食べてもらうのが怖くなりました」という声を頂いた。

 だが、私はまだそばに関して求道中の身で、本当にうまいそばとはどんなものかもよく解っていない。その解っていない所

を、解らないと文章に書いているだけだから、読んだところで毒にも薬にもならず、何かを求めて読まれる方には、完全に期待

はずれとなるに違いない。しかし長年ひとつ事に打ち込んでいれば、少しは進歩があってもよい。本著をお読み頂いて、前より

は少し解ってきたなと感じられれば、私も今までそば道で迷い苦しんできた甲斐があったということになる。

 いずれにしても、そばの道と文章の道は、まだまだ深くて遠いようである。

 この度も、母の絵でこの地味な文集に花を添えてもらった。又、立花書房の頴原信二郎氏と、陸上競技社の若山清氏には前回

と同様、出版までの諸事にわたりいろいろお世話になった。あわせてお礼を申し上げたい。

 お礼と言えば、前著をお読み頂いた数人の女性の方から異口同音に、次のようなご指摘を項いた。

「あなたが好きなことをしてこんな本が出せるのも、奥様のご理解があればこそです」

 ごもっともなご指摘である。私も決して家内に対して感謝していない訳ではない。ただ身近すぎて、あらためて書くのは照れ

くさいのである。そんなことをわざわざ書かなくても解るだろうという甘えもあった。だがこの際そんな甘えを排して、私のわ

がままをブツブツ言いながらも許してくれた家内に、心からお礼を言おう。そしてささやかながら、感謝の気持ちにかえて、こ

の本を贈ろうと思う。

 最後に、「伊勢二章」の本著への転載を快く承諾して下さった日本交通公社出版事業局にも謝意を表したい。

 

   昭和六十三年盛夏

著者