伊 勢 二 章

(JTB出版事業局主催 第14回日本旅行記賞佳作入選作品、

初出はJTB発行月刊誌「旅」1988年4月号)

第一章 伊勢疼痛記

 

 ひと月程前に、私は会社の先輩とふたりで、伊勢までの道を、弥次喜多道中を気取って歩いてみた。京都府の木津を出発点

に、伊勢までのおよそ百二十キロの道程を、四日間かけて歩いたのである。

 私の会社の先輩に、私と同様に歩くのが好きという変わり者がひとりいる。姓は中村というのであるが、あまりありふれた名

前で同姓があちこちにいて紛らわしいので、普通は誰でもミツヨシさんと名前で呼んでいる。光儀と書くが、こちらは将軍様の

ようで恐れ多くてどこにでもある名前ではないので、人ちがいする心配はない。

 このミツヨシさんは体格が私などよりずっと大きくがっちりしていて、見るからに頼もしい先輩であるが、その上に飄々とし

た大人の風格があって、まわりの人に慕われている。

 ある日会社で、自分の放送している番組を見ていたら、関西落語界の大御所が、以前、若手の落語家何人かで、歩いてお伊勢

参りをやったという話をしていた。

「はじめは一日に四十キロも歩いて、足にマメができたそうですがね、それも二、三日で治り、最終日は一日に二十キロしかな

くて、逆に物足りなかったなどと言っておりました。現代人でもその気になってやれば、ちゃんと順応するものですな」

 その夜ミツヨシさんを誘って一杯飲んでいる時に、何となく先輩にその話をして水を向けてみた。するとミツヨシさんは、飢

えた魚が餌にとびつくように乗ってきた。

「それ面白いな。やろう」

「やりますか」

「うん、是非やろう。近来稀にみるヒットアイデアじゃないか」

「そうですか。本当にやりますか」

 こちらがその気になるより先に、ミツヨシさんがその気になったので、私も心を決めた。

 実行は休みを取る都合もあるので、すぐという訳にはいかず、ひと月後ということになった。その頃はちょうど梅雨の最中に

当たるが、雨が降っても歩けないことはないので、決行することにした。それまでの一ケ月間にコースを検討し、宿の予約を取

っておくなどの準備をしなければならない。その方の仕事はすべて私に任された。

 まず出発地を決めなければならない。大阪駅辺りを出発点にすれば、どちらにとってもそこまで出る時間は同じになり、公平

なようであるが、そんなことをしたら初日は私の家のすぐ近くで泊まりということになる。毎日通っている線の沿線で泊まる位

なら、家で寝た方がましである。

 そこでミツヨシさんには悪いが、わが家からそんなに遠くない木津から出発することにした。これも計画を任された者の役得

と言えば役得である。そうすれば後のコース計画がすべてうまくいくのだから、ミツヨシさんには我慢して頂くことにする。な

にしろミツヨシさんは大人である。任せておいて後から文句を言うような人ではない。

 第一日目は木津から国道一六三号線沿いに上野市までの三九キロ、二日目は上野から更に東へ服部川沿いに榊原温泉までの三

六キロ、三日目は南東に下って松阪市までの二五キロ、四日目はまっすぐ南へ伊勢までの二十キロ、すべて合わせて全行程百二

十キロ、これならコースといいペース配分といい文句なしの計画であると自認した。宿もすべて予約をとったので、後は出発ま

でなお一層の体力づくりに励むだけになった。

 私はもう何年も前から、毎朝出勤の時、五キロ近い道程を歩いている。ミツヨシさんも大阪から泉大津の家まで帰るのに、よ

く難波まで歩くという話を聞いている。それまで私は出勤の朝だけ歩いていたが、それからは休みの日も、午前中に二十キロ程

歩くことにした。たまたま三連休のあった週などは、三日間続けて毎朝二十キロ歩いた。

 そうして休み明けに出勤して、まずミツヨシさんにそのことを報告した。するとその日ミツヨシさんは退社時間を待ちきれず

に、「もう帰る」のひと言を残して姿を消してしまった。翌日顔を合わせた時にそのことを聞いてみると、

「いやあ、あれからずっと飲まず食わずで家まで歩き続けて、家に着いたら十時半だったよ」

 六時に会社がひけてからだから、四時間半歩き続けたことになる。それでもミツヨシさんは、帰宅してからそんなことはひと

言も言わず、黙って風呂に入り、ビールを飲んで、寝たそうであった。この辺にも大人の片鱗が窺える。

 

 準備万端ととのい、お互いにあふれる自信をそれとなく漲らせながら、梅雨晴れのある朝、国鉄木津駅を出発した。梅雨の合

間とはいえ、空気はさらりと乾燥していて、木陰を渡る風は快い。

 出発して一時間ほどは国道を歩かなくても、木津川をはさんで対岸に並行した道がある。

 ある集落のそばを通る時、後ろの方から自動車が何か言いながら近づいてきた。耳をすますと、「皆さんお早うございます」

と言ってから、その後ハミガキがどうこう言っているようであった。

 さすがに田舎ではハミガキも車で売りにくるのかと感心しているうちに、もっと近づいてきてはっきり聞こえだしたら、

「皆さんお早うございます。自民党のタニガキがご挨拶に参りました」と言っていた。これからの長旅をひかえて気分が浮いて

いたのか、選挙演説もハミガキの宣伝に聞こえたようである。

 一時間半ほど歩くと、道は自然に川を渡って国道一六三号線に合流しそうになるが、その前に最初の休憩をとることにした。

天気が良いのでよく喉がかわき、魔法びんに詰めてきた冷たいお茶がうまい。

 その後は道が完全に国道に合流してしまい、ダンプカーがそばを通ると、非常に肩身のせまい思いをしなければならなくなっ

た。

 更に二十分ばかり歩くと、道端に古いバスを改造したうどん屋が出ていて、我々を誘惑した。出発してから二時間しかたって

いないのに、もう喉はかわいているし、腹もすいていない事もない。

「入りますか」

「うん、入るか」

 即座に意見は一致した。これからの長い道程を考えると、今からこんなことでいいのか、という不安もあったが、誘惑には勝

てなかった。

 思わぬ所で寄り道をしてしまい、その分を取り返そうと、十二時まで休まずに歩く。そして今度は、川の水面すれすれにかか

った小さなコンクリートの橋の上で休憩した。

 ここでは二人の釣り人が、橋の上から鮎の友釣りをしていて、我々が休憩している間に、バタバタと大きな鮎を二匹釣り上げ

た。川は浅く、小鮎やハヤがそこらじゅうを泳ぎまわっていた。

 最初は一時間半おきに休憩していたのが、暑さと疲れのため次第に一時間おきになり、しまいには四十五分おきに休むように

なった。

水筒のお茶も、途中の自動販売機で何度か補給した。

 そうしてまだ明るいうちに、上野市駅近くの宿にたどり着いた。全行程三十九キロ、初日はまずまず予定通りに歩くことがで

きた。

 体はそんなに疲れたとは思わないが、足の裏がヒリヒリするので、部屋に落ち着いてから良く見ると、皮膚が白くふやけて盛

り上がり、その盛り上がった所が折れかえってしわになっていた。

 だがそれも風呂に入ると元通りになり、夜は下駄をつっかけて散歩に出ることもできた。

 しかし散歩をしてみても、夜の上野市など早くから店がしまって、面白くも何ともないので、すぐに帰って寝てしまった。

 

 二日目は朝から小雨もようで、傘をさして出発した。

 宿の前の道をまっすぐ東に行くと、ほどなく市街地を抜けて、服部川が道に寄り添ってくる。この服部川に沿って更にしばら

く歩くと、目の前が急にひらけて、刈り入れを待つばかりの麦畑が一面にひろがっていた。

 最近では麦畑など滅多に見られなくなったが、この麦を粉に挽いてうどんに打ったらどんなにうまいだろうと思う。だが今日

歩く道すじには食堂など一軒も見当たらない。勿論、最初からその覚悟で、昼の弁当はパンで済ませることにして、あんパンや

メロンパンを買ってきてある。

 昨日と同じように、服部川にもコンクリートの低い橋がかかっていて、その上で昼のパンを食べることにした。

 足の裏が昨日より痛むので、座ったついでに靴を脱いでみると、白い靴下の底が血で赤黒くよごれている。マメがつぶれたよ

うである。私の履いてきた靴は登山用の靴であるが、少し窮屈すぎたかも知れない。ミツヨシさんが予備に持ってきていた大き

めのジョギングシューズを借りて履きかえた。

 この辺からミツヨシさんと私の立場が逆転し始め、先輩に対して余り大きな顔ができなくなった。出発前に、準備するものと

して予備の靴を挙げたのは外ならぬ私自身だからである。

 一時やんでいた雨が、午後になって再び降りだし、又傘をさして、どこまで続くか知れない長野峠の緩やかな坂道を登ってい

くうちに、道の両側の民家は次第に姿を消し、人はおろか車さえも滅多に通らなくなった。そして道は自然に杉や檜の森の中に

入っていった。

 どの位歩いただろう。そろそろ峠に近いと思われる頃、突然右手に建物が現れて、看板に養鱒場と書いてあるのが見えた。今

日は昼にろくなものを食べていないので、ニジマスの塩焼きでも食べられればと思い中に入ってみた。

 家の中はひっそりとしていて全く人気がない。二、三回呼んだらやっと、昼寝でもしていたのか、奥さんが眠そうな顔をして

出てきた。

 やっと人心地ついて再び出発した我々に、雨はいよいよ激しく降りつけ、更に峠のトンネルを抜けると風も加わり、台風の中

を歩いているようなことになってきた。半袖、半ズポンで歩いていた我々は、体も冷えて、一層みじめな気持ちになる。どこか

で雨やどりでもして着替えたいと思ったが、そんな手頃な場所はどこにも見当たらない。

 一刻も早く民家かバス停のある所までたどり着こうと、黙々と先を急いだが、体は温まるどころか、強い風雨のために益々冷

える一方であった。珍しく車が一台通りかかり、我々の横に停まって、中年の紳士が声をかけてきた。

「乗っていきませんか。津まで行きますよ」

 我々が雨の中で難渋しているのを見かねて、声をかけてくれたのであろうから、あり難いことではあるが、我々は津まで行く

のではなく、この道をもう少し行った所で右に曲がる予定であったので、好意には感謝しながらもお断りした。

 そうしてやっとのことで峠をおりた所に、バス停を見つけて、早速そこで長袖に着替え、更に保温用にビニールのレインコー

トを着た。体さえ温まれば、気分も落ちつく。

 南長野という所で右に折れ、きれいに舗装された急坂を登る。まっすぐ行けば青山高原に行けるらしいが、我々は登りつめた

所ですぐ左に折れて、細い山道を下るのである。誰も通らない細い山道を五十分ほどかけて下りきった所が、目指す榊原温泉で

あった。

 宿に着いてスリッパに足を入れようとして、跳び上がった。痛くてスリッパも履けないのである。足の裏は白くふやけた皮膚

が完全にめくれて、十円玉くらいの大きさで真っ赤な地肌が現れていた。

 部屋に落ちついて、水墨画のような外の景色を眺めていると、ミツヨシさんがこの景色はいつかどこかで見たような気がする

と言い出した。榊原温泉は清少納言の昔から七栗の湯と呼ばれて有名だったそうなので、ひょっとするとミツヨシさんは前世に

も清少納言に同行して、ここに来たことがあるのかも知れないなどと考えてみた。

 宿の女中は、投げ出した私の足のマメを見て、「すごい趣味やなあ」と驚いたが、その日の私にはまだ平気で温泉に入る元気

があった。

 

 三日目の朝も雨は降り続いていた。昨日のこともあるので、最初からレインコートを着て、傘をさして出発した。

 この日の行程は二十五キロと距離が短い上に、地図の上で榊原温泉から松阪まで直線をひいて、ほぼそれに沿うようコースを

選んだので、国道は殆ど通らず細い道ばかりとなり、車さえ少なければ歩き易く、高低差もない楽な道のはずである。

 しかし足の痛みは激しくなるばかりで、一歩踏みだす毎に、非常な苦痛に堪えなければならなくなった。特に休憩した後の歩

きだしは大変である。十分ばかり歩いて、慣れれば少しおさまるが、それまでは痛い方の足を大地につけるのが怖く、又つけて

も痛いのですぐ離すという繰り返しで、見るからに痛々しい歩き方となった。

 ただ何よりの救いは、その日の全行程が初日や二日目に比べて十キロ以上少ないということである。そのため午後の四時過ぎ

には、松阪市の郊外の高台にある宿に到着した。

 冷房のきいた二階の部屋に落ちついて、足をのばしていても、足の裏がずきんずきんと疼いて、もう館内を歩くこともできな

かった。

 今回の旅行ではリュックをかついで長時間歩くということで、荷物を軽くするために、着替えなども少ししか持ってきてない

ので、毎日、宿に着いたらまず洗濯をしなければならない。ところが私の足の具合を見かねたミツヨシさんが、この日から私の

分まで一緒に洗濯してくれることになった。

 それだけではない。足の裏がこんなに傷だらけになっていては当然、風呂など入れる状態ではない。そうかと言って、一日歩

いて汗をたっぷりかいているのに、入らないというわけにもいかない。そこで又ミツヨシさんが、私が両足を浴槽の外に出した

ままで、体だけ浴槽に浸れるように、私の体を抱えて入れてくれたりした。こうなるともう申しわけないどころではなく、まこ

とに面目ない。

 風呂もそこそこに上がって冷房のきいた部屋に戻っていると、何だか寒気がするようであった。熱が出る前の感じに似てい

る。ひょっとして足の傷がもとで発熱するのかも知れない。もしそうだとしたら大変である。明日は早々に医者にみてもらわね

ばと、だんだん弱気になってきた。そしてとうとう家に電話して、健康保険証の番号を確認した。

 ミツヨシさんもこの様子をみて、これは大変だと思ったのか、食堂に駆け降りていって、しばらくすると氷の袋を持って帰っ

てきた。

 

 氷袋で足の裏を一晩中冷やしたからであろうか、翌朝はかなり痛みがひいて、もう一日くらいなら何とか歩けそうな気になっ

てきた。

医者にかかれば、すぐに歩くのをやめろと言うに決まっている。空は昨日とうって変わって、がらりと晴れているし、よし、今

日は病院に行くのはやめて、もう一日頑張ろうと密かに決心した。

 それにしても二人とも早起きしすぎて、朝食の時間までには、まだ一時間以上も時間がある。室内を見まわすと、碁盤と将棋

盤が部屋の隅にあるのが目に入った。碁の方は、ミツヨシさんは社内の囲碁ファンの中でもかなり熱心な方であることを知って

いるが、私は囲碁どころか碁ならべもろくに知らないので勝負にならない。そこで将棋をやりましょうということになった。将

棋なら駒の動かし方くらいは知っている。

 昔、京都で下宿していた頃、隣の部屋の医大生と将棋に夢中になって、毎晩のようにさしていたら、布団に入って目をつぶっ

てからも、頭の中に駒がちらちらして困ったことがあった。多分それ以来のことである。

 お互いに初対戦なので、最初は相手の実力をさぐるために慎重に打っていたが、そのうちに大いに乱れてきて、相手がこちら

の飛車を取れば、こちらも相手の飛車を取る。こちらが相手の角を取れば、相手もこちらの角を取るというようなことになり、

そうなれば取った飛車や角をただちに、しかもできるだけ有効に打ち返そうとするので、ふたりの王様が将棋盤の上を縦横無尽

に逃げまわった。そうして結局王様をうまく逃がした私が勝ってしまった。

 ミツヨシさんは、「僕に勝ったからといっても、威張れないぞ」と言ったけれども、私としてはこれで大いに元気が出てきた

のである。

 朝食がすんで部屋に帰ってくるとミツヨシさんが、今まで毎日半ズボンで歩いてきたのに、今朝は長ズボンをはいている。

「おやミツヨシさん、今日は長ズボンで歩きますか」

「何言ってるんだ。今日は病院に行って、帰るんだろ」

「いや、今日も歩きますよ」

「その足で歩けるかい。医者に行くって言ってたじゃないか」

「一晩冷やしたら、歩けそうになってきました」

 将棋に勝ったからとは言わなかったが、それでミツヨシさんも思いなおして、半ズボンにはき替えた。

 医者には行かないことになったからと言って、このまま放っておく訳にもいかないので、途中の薬局に寄ってちゃんと治療し

てもらうつもりで、道端の店に気を配りながら歩いた。一時間ばかり歩いたところで一軒見つかり、ちょうど開店したばかりの

ところらしく、若くて感じのいい奥さんが店の前の掃除をしていた。足の裏を出すと、まず消毒してくれて、薬を塗り、その上

に大きなバンドエイドを貼ってくれたり、なかなか親切であるが、めくれて白く縮んだ皮膚をピンセットで伸ばすのだけは気味

悪がったので自分でやった。

 これで安心して歩けるようになったが、安心というのは気分的なものだけで、やはり歩くと痛い。だがその日の行程はほんの

二十キロ程で、いくらびっこをひきながら歩いても、そのうちに着くだろうという安心感はあった。その上に今日のコースは近

鉄電車に沿って歩くことになるので、乗るつもりはないが、どうしても歩けなくなればいつでも乗れるとという心強さもある。

 櫛田川を渡って左寄りの旧街道に入れば、益々線路が近くなる。橋の上から櫛田川を見おろし、浅い水の中に小鮎の群れ泳ぐ

姿を見て心なごんだのもつかの間、旧街道に足を一歩踏み入れてみて驚いたというか、失望してしまった。旧街道とは名ばか

り、今や街道のおもかげは全くない。

 家々は新築ブームでどんどん新しくなってはいるが、どの家もこの家もすべて旅人を拒絶している。街道が梅雨晴れの炎天下

にさらされても、旅人が休憩する軒下ひとつない。

 それだけならまだしも、食堂もなければ喫茶店もないのである。一時に疲れと痛みが出てきて、「従是外宮三里」の道標を見

てもホッとするより、まだ三里もあるのかとうんざりするばかりで、快適にそばを通過していく近鉄特急がうらめしい。

 足の方も惰性で歩いてはいるものの、痛みは限界に達し、考えることはただひとつ、自転車のペダルを踏むように、足の裏を

大地につけず、宙に浮いたままで歩ける方法はないものかということだけであった。しかし今朝、強がりを言って出たてまえ、

弱音をはく事はできず、ただ黙々と外宮目指して歩く。外宮前が伊勢市駅前となっているので、そこまで歩けばいいことに決め

ていたのである。

 宮川を渡って伊勢市駅までの最後の数キロは、全く無我夢中で歩いた。そしてやっとのことで伊勢市駅にたどり着くや否や、

何も考えずにタクシーにとび乗り、ひとまずホッとしてから考えてみると、長い道程を歩き終えたという感激より、歩かなくて

も移動できる便利な乗り物に乗れたという感激の方が、大きかったような気がする。

 この度の旅行中、行く先々のいろいろな人から、「学生さんがそんなことをされるのは良くありますけど」と、我々中年のこ

の挑戦を、いかにもいい齢をしてもの好きなと言わんばかりの顔をされたが、この言葉を我々としては如何に受けとめたら良い

のであろうか。学生時代から精神的には少しも成長していないと恥じるべきか、いつまでも若い気持ちを失わずにいることを誇

るべきか、大いに迷うところである。