漁 悦 食 楽

 

 最近はグルメブームなどと言われ、美味しい料理を紹介するテレビ番組や出版物が巷に氾濫している。食べ歩きのガイドブッ

ク等も多く、暇さえあれば食べ歩くという人もたくさんいるようである。

 ここで気になるのが、美味しいものといえば外で食べるものと、常識のように考えている人の多いことである。ヨーロッパな

どでは家庭科理が重要視されており、人を接待するのも外のレストランではなく、自分の家でするのが普通のようである。

 日本も現在のように外食産業が繁盛しているようでは、グルメブームと言っても底の浅いものかも知れない。

 プロのシェフに言わせると、二十年、三十年食べた位ではせいぜいC級グルメで、三代以上経たないと本当のグルメは生まれ

ないらしい。私も食べ歩きは好きな方であるが、これでいくと、C級グルメにも失格ということになる。

 グルメという言葉はもともとフランス語で、食道楽、食通を意味している。英語でもよく似た意味でエピキュリアンという言

葉があるが、これには食道楽という意味はあっても、食通というニュアンスはない。その代わり食道楽だけに限らず、広く人生

全般を楽しもうとする人も指すようである。これなら私も仲間入りできる。

 私の郷里は山口県の下関である。今、郷里の実家には、母がひとりで住んでいる。そしてその近くに、私の高校時代からの親

友宮木もいる。宮木は私同様エピキュリアンに属する人種である。

 昨年の十一月はじめ、私は所用で下関に帰ってきた。母がひとりでいるせいもあって、数箇月に一度は帰っている。そして帰

れば、毎日のように宮木と会う。いくら会ってもエピキュリアン同士、話題にこと欠くことはない。

 今回も早速、宮木が海に行こうと言いだした。どうするのだと聞くと、潜って魚やサザエを獲り、今夜、母といっしょにご馳

走してやると言う。それはあり難いが、今は夏ではない。もう十一月である。しかも空はどんより曇って、今にも降りだしそう

な気配である。大丈夫かと聞くと、大丈夫だと言う。宮木は九十キロ近い巨体をしていて、しかも鍛え抜かれているので、体力

に心配はない。ただ水温だけが気がかりであったが、本人が大丈夫と言うのだから、大丈夫なのだろう。

 母に余計な心配をさせないために、散歩ということにして、自転車で出発した。海までは歩いても三十分、自転車なら十分で

行く。我々の目指す海は、海水浴場のような砂浜ではなく、岩と石ころばかりの磯である。

 この海には高校時代よく、宮木と一緒に遊びに来た。夏以外は人影もなく、絶好の散歩コースで、一度、ガールフレンドと来

た時に、

 

       ごうごうと松風すさぶ晩秋の落ち葉の小道ともに行きしかな

 

 などという歌を作ったりもしたが、今は山を切り開き、高層住宅が海辺に林立して、当時の雰園気はなくなってしまった。

 岸から百メートルほど沖には、平たい大きな瀬が水の上にいつも姿を見せていて、我々はそれを「沖の瀬」と呼んでいた。瀬

のまわりは魚介類の宝庫である。

 ところが最近、その瀬と岸との間の海を埋めたてて、終末処理場を作るという計画があるらしく、行ってみると、昔の海は小

さな池を残すだけで、周囲はもう埋めたてが完了していた。

 埋めたての最前線はコンクリートの防波堤で、更にその外側は一面のテトラポッドで補強されていた。テトラポッドの海中に

つかった部分は、黒っぽい海藻が付着して、もう自然に同化し始めている。

 テトラの端まで下りれば、沖の瀬はひと跳びで渡れそうな程、目の前にある。宮木はここから海に入るつもりらしい。真夏の

ように上半身はだかで、海水パンツだけ身につけて潜るのかと思っていたら、そうでもない。メリヤスのシャツを三枚、パッチ

を二枚、靴下も二枚履き、更にその上にジョギング・シューズを履いた。不思議に思って、

「いくら着ても、水がしみたら一緒だろう」と聞いてみたら、

「体温でぬくめられた水が体をとり囲んで逃げないから、相当違うんよ」と答えた。だが簡単には信じ難い。第一、そんなに着

たら、水の中で動きにくいだろうと思う。そんなことはお構いなしに宮木は、

「もし雨が降りだしたら、テトラの下にでも隠れとったらええ」と言い残して、オットセイが真夏のがまん大会に参加するよう

な格好で、水に入っていった。そして水につかるや否や、ヒャーッという悲鳴をあげた。

 宮木の悲鳴は夏でも同じことなので、余り心配しない。沖で潜っている時など、水面に浮いてくるたびに、ホーッという悲鳴

とも叫びともつかない声が聞こえてきて、心臓マヒでも起こしたかと、最初の頃はこちらも心配したが、今はもう慣れてしまっ

た。宮木は海に入ると大声を出したくなる体質かも知れない。

 その宮木が一度だけ、本当の悲鳴をあげたことがある。

 今から二十年以上前のある日、我々ふたりは大学の夏休みで帰省していて、今日と同じように、この海に来て遊んでいた。

 沖で潜っていた宮木が突然、大声をあげながら戻ってきた。足を海中の瀬にのせたとたん、たまたまそこに休んでいたオコゼ

を踏んだらしい。もともと大きな足は、裏から甲にかけて大根のように腫れあがり、見るも痛々しくなっている。さすがの宮木

もオコゼの毒にはかなわないと見えて、大の男が浜の石ころの上を七転八倒した。その姿を見て、私も放っておけず、何かでき

ることはないかと考えた。

 毒へびに噛まれたら、すぐに傷口を吸うと良いということを聞いたことがあるが、この時もまずそのことが頭にひらめいた。

と同時に、汚いとか格好が悪いなどということを考える余裕もなく、私は宮木の足の裏に吸いついていた。もし人が見ていたら

何と思っただろうと、後から想像してみたりするが、幸いその時はまわりに誰もいなかった。

 この努力が効を奏したのかどうかは判らないが、一時間もすると、宮木は何もなかったような顔で立ちあがったので、こちら

もホッとした。

 それから二十年以上経ったというのに、依然我々は同じことをしている。そして今日も、宮木は元気に潜っている。水温も陸

上で心配している程ではないようである。はじめのうちは、浮き上がるたびに見えていた宮木の姿が、やがて沖の瀬に隠れて見

えなくなった。そうなるとこちらが退屈になる。

 少し離れた所に何人かの釣り人がいて、テトラの上から竿を出している。釣況を偵察に行ってしばらく見ていたが、さっぱり

釣れていない。そのうち心配していた雨が降りだした。宮木はまだ小一時間は帰ってこないであろうから、どこかで雨宿りをし

なければならない。

 宮木が言うように、テトラの下に隠れるしかなさそうだが、そうしようと思っても、実際にはそんなに簡単ではない。一本の

足の長さだけでも私の背丈ほどもあるテトラポッドが、粗雑に組み合わされているのである。ヘたにその下に潜りこむと、出て

くるのに誰かの手を借りないと、二度と上がって来られないようなことになる。そんな所に落ち込んでは大変なので、もっと安

全な所となると、今度は狭すぎる。しかし濡れた体が冷えてきたので、早くしなければならない。

 やっと手頃なすき間を見つけて、体を横にして潜り込み、海老のように縮こまって、ほお杖をついた。これで何とか濡れずに

済む。落ちついてしまえば、居心地もそんなに悪くない。雨の様子はポツポツという音を聞いていれば解る。時々小降りになる

ようだが、やむ気配はない。こうして宮木が上がって来るのを待つのも悪くないと、腰をすえることにした。

 ほお杖をついたまま、テトラの間の狭い海面を眺めていたら、十センチほどのフグが現われて、しばらく視界内を泳ぎまわ

り、まもなくどこかへ消えた。こちらの存在には気づいていないようで、その後も何度か姿を見せた。

 こうしてじっとしていても寒いことは寒いが、外で雨風に晒されることを思えば極楽である。それどころか宮木は冷たい水の

中にいるのである。ぜいたくは言えない。

 やがて大きな咳きばらいを辺りに響かせながら、宮木が上がってきた。穴から這い出るようにして出迎えると、水から上がっ

てきたばかりの宮木の体からは、湯気が立ちのぼっている。それにひきかえこちらは、青い顔をして震えている。宮木はニヤニ

ヤしながら私の顔を覗きこんで言った。

「どうしたい?唇までまっ青やないか」

 だがその時の私の関心事は、寒さよりも獲物であった。

 宮木が持って上がってきたスカリを見ると、大粒のサザエがこぼれそうなほど詰まっている。その中にはアワビもまじってい

るようである。ホコで突いたアブラメやメバルも数匹いる。珍しいのは赤ナマコで、これは今年の初物である。

 雨が本降りになってきたので、着替えもそこそこに、自転車を飛ばして宮木の家に帰ってきた。家に着いても濡れた体を乾か

す暇はない。すぐに今夜の料理の下準備にかからねばならない。宮木はサザエの殻を割り、私の方はアワビの殻をむいたり、ナ

マコを開いたりと役割分担が決まっている。

 なにしろ宮木の奥さんは、料理は上手であるが、魚の処理は苦手のようで、ナマコなどフォークで押さえつけて切り開くらし

い。それで私が下ごしらえを代わりにすることにしたのである。

 ナマコに包丁を入れたとたん、腹からどっと出てくる水を見ていたら、百關謳カの俳句をひとつ思い出した。

 

      滾々と水湧き出でぬ海鼠切る

 

 百關謳カはこの句を自分の経験をもとに作ったのか、それとも誰かがナマコを切るのを見て書いたものかと、ふと考えた。

 岡山の造り酒屋のひとり息子として生まれ、蝶よ花よと育てられた臆病ものの百關謳カが、自分で包丁をふるってナマコを切

る姿は想像できない。やはり人がそうするのを見ていて、感動したのであろう。

 下ごしらえをしたら、後は科理上手の奥さんにまかせて、私は一旦、自分の家に引き上げた。そして夕方母を連れて、あらた

めて出直した。

 テーブルの上の大皿には、すでに料理されたアワビとサザエの造りがどっさり並んでいる。

 まずはこの造りを肴にビールで乾杯する。宮木の言葉を借りれば、同じ活き物でも獲れたてのものとそうでないものでは柔ら

かさが違うらしいが、確かにこのサザエやアワビは柔らかくて旨い。その後アブラメとメバルの煮付け、サザエのつぼ焼きと続

き、次に小さなアワビをまるごと甘辛く煮たものが出てきた。アワビのこんな贅沢な食べ方は初めてである。トコブシの煮付け

に似ているが、それとは又ひと味違った、とろけるような上品な味があった。

 それから口直しに食べたナマコの酢のものは、皆の期待と不安を越えて、絶品と言ってもよいものであった。そして最後の締

めくくりが、サザエ飯と大きなアブラメをぶつ切りにした吸い物である。サザエ飯は今までにも食べたことがあるが、科理上手

の奥さんの手にかかると、磯の香が口の中に充ちて、腹の都合に関係なくいくらでも食べられそうな感じがした。

 こうして獲れたての海の幸ばかりの、だがほとんど金のかかっていない豪華な饗宴は、全員にみち足りた幸福感を残して終わ

ったけれども、雨の中を震えながら待たされた私は、その翌日から一週間ばかり風邪っ気が抜けなかった。

 人の足の裏に吸いついたり、テトラの隙間にもぐり込んだりと、エピキュリアンになるのも楽ではないのである。