読 書 二 態
大阪のあるドイツ・レストランに行ったとき、一枚のポスターが目にとまった。ドイツのかわいい男の子が若い女牲のスカー
トをめくって、覗いている写真であって、その上にはドイツ語で、「知識は力なり」と書いてあった。
覗いて見ただけでどれだけの力になるのか、よく解らないが、ただ私はこの言葉を聞くと、ある外国映画を思い出す。
その映画は、南米のジャングルで飛行機事故に遭遇した一少女の、体験をもとに映画化した実話で、奇跡的に一命をとりとめ
た少女が、十日間近く、ジャングルの中をさまよい続けた末に、救出されるというストーリーであった。
少女がジャングルを脱出するために、指針とした信念は、「ジャングルで道に迷ったら、どんなに小さな水の流れでもいい、
その流れと共に下っていけば、必ず大きな流れになり、人の住む所に出られる」という父親の教えであった。少女がもしこの知
識を知らなかったなら、恐らく人跡未踏のジャングルで、力尽きてしまったことであろう。知識は確かに力である。
我々が読書をする場合にも、知識を求めるために読書をするというのが普通である。
現代の競争社会にあっては、知識は特に力となる。少しでも人より多くの知識を身につけた者が、他を制するのは疑う余地が
ない。より裕福に、より高い地位に、より健康に、より充実した人生にと、人によって目的はいろいろでも、殆どの人が知識を
求めていることに変わりはない。又は、このような功利的な目的を抜きにして、純粋に知識欲を充たすためだけに、本を読む人
もあるであろう。
しかし一方では、知識を得るために本を読むということは、筋を追うだけの読み方であって、読書法としては皮相的と言うこ
ともできる。
私も最初は、知識を得ることが楽しくて、学者や研究者の書いた、論文調の本ばかり読み漁った時期があった。特に好んだ分
野は心理学、生理学、社会学などであって、法律や歴史には興味がなかった。
私は小さいころから歴史という科目が嫌いで、断片的な事柄をまる暗記することによって、何とか合格点を取ってきたもの
の、成績は芳しくなかった。
私の高校時代の歴史の先生は、原田正平先生といって、銀縁の丸眠鏡をかけ、真面目を絵に書いたような先生であった。先生
は口癖のように、「歴史は流れでつかみなさい」と言われたが、私は流れをつかむことができない劣等生で、何度か叱られた記
憶がある。
最初に叱られたのは、高校に入学して初めての授業の時であった。先生がいきなり、「第二次世界大戦は何と何の対立です
か」と全員に質問した。それに応えて殆どの生徒が手を挙げたが、私はその答えが今でも解らない位であるから、当時も解るは
ずがなく、手を挙げなかった。すると先生が、つかつかと私のそばにやって来て、
「君はこんなことも知らないのかね」と大声で言われた。それ以来、私は先生に目をつけられたらしく、事あるごとに指名され
るようになった。
このように、歴史を勉強しても流れがつかめないという事と、読書しても筋しか追わないという事に、何らかの共通点がある
かどうか考えてみると、どちらも細かい事にとらわれ過ぎて、全体が見えていないということが言えそうである。「眼光紙背に
徹る」という言葉があるが、私の場合、正に紙背に徹っていないのである。
もっとも、知識だけを与えるために書かれた書物には、紙背に徹るほどの眼光を必要としない本も多い。書いてある事をその
まま受け取ればいいし、そのまま受け取って理解できない場合は、文章がまずいことが多い。
私の歴史嫌いについて、無理にこじつけたようであるが、要するに、興味のない分野は、脳が受けつけなかっただけの話かも
知れない。とにかく、少々固くても、好きな分野の本はどんどん読み漁ったのである。
ところが百關謳カの随筆を読み始めると、それまで読んでいた類いの本が、ばかばかしく思えるようになってきた。
百關謳カの文章には、先生のおさな友達の実業家が、「実益がない」と評したほど、一見、実益がないのである。にも拘わら
ず、その文章は読むにつれて、私に、
「もう知識なんかいらない」と言わせるほどの魅力に溢れていた。そして知識よりもっと大事なことを、無意識のうちに教えて
くれたのである。以来、先生の文章は私にとって、麻薬のようなものになった。
知識を拒否した時点で、私は競争社会から脱落したかも知れない。そんなことは構わない。ただ、私もそういう魅力的な文章
が書きたいと思った。だが、いくらそう思ったところで、私の書く文章が、百關謳カの格調に届くわけがない。それは当然の話
だが、せめて気持ちだけでもそのように心掛けたいと思ったのである。
私も技術屋のはしくれであるから、筋の通らないことはやはり嫌いである。文章を書く場合も、論理を一貫させることには特
に気をつかっている。たまには理屈っぽいことも書くかも知れない。しかし筋だけがすべての文章とはしたくない。もっと味の
ある文章を書きたいと思っている。
私の高校時代からの友達に、かなり鋭い読み方をする友人がひとりいて、書いたものはすべて、彼に目を通して貰っている。
いつも適切なアドバイスをしてくれるので、感服しているのであるが、時々アレッと思うこともある。同じ文章を数箇月して見
せると、
「あれから書き足したな。前にはこんなこと書いてなかったぞ」と言うのである。彼はどうも筋を追うのではなく、ムードで読
んでいるのではないかと思う。それでも私は、この読み方で読まれる方が好きである。
私の働いている部署は技術職場であって、私をふくめて、まわりは技術屋ばかりである。
一般に技術屋という人種は、あまり文学的な本を好まず、主に読む本といえば、専門に関係のある雑誌が多い。当然、情報収
集のための読書であるから、筋だけを追う読み方となり、文章の質を問題にしない。そのせいか、私の文章を読んでもらうと、
こちらが予想もしなかった質問や感想が返ってくることがある。
前稿『靴屋』を読んだある先輩は、
「靴底の、縦に切り込みを入れた接触面とはどこですか」と言って、実際に靴を持ってきた。この旺盛な知識欲には、こちらが
たじたじさせられるが、ワープロの誤植だけ指摘してくれる人や、何も言わない人よりは愛嬌があって面白い。