リンの夜鳴き
リンを我が家に迎えるにあたってまず気になったのは、ペットショップに長くいた犬がおとなしく外で寝てくれるかというこ
とだった。我が家の庭には先代のユリが使用していた小屋がそのまま残っている。一応雨露のしのげる所に置いてあるので、鉄
製だが塗装もはげていないし錆もきていない。掃除をすればすぐにでも使える状態である。
時候は四月だから夜もそんなに寒くはない。奈良の香芝から我が家にやってくるときに一緒についてきたお気に入りのふかふ
かマットを小屋に敷いてやったら、その晩からすなおに小屋に入り、夜もおとなしく寝た。
これなら大丈夫だと安心したのも束の間、そのうち夜中の二時ころになると、くんくんと鳴きだした。なにしろ時間が『草木
も眠る丑三つ時』なので、大声で叱るわけにもいかず、起きていってはしばらく遊んでやる。昼間にじゅうぶん寝ているので、
目がらんらんと冴えている。退屈していたのだろう。大喜びでそこらにあるボールでも棒切れでも手近な物をくわえては、ウー
と唸りながら遊ぼうという。
一度そんなことをすると癖になるのか、毎晩その頃になるとくんくんと言いだした。いくら退屈しているとはいえ、毎晩夜中
の二時に起こされてはこちらの身がもたない。悪い癖は早めに断ち切らないといけない。そこで夜中にリンが鳴きはじめると、
布団をもって二階から下におり、リンとはサッシ戸のガラス一枚隔てたキッチンの床に寝転んで、リンが鳴くたびに小さい声
で、「だめだ。静かに寝ろ」と叱ることにした。
もともと聞き分けのいい犬なのか、この作戦は効果てきめんだった。三晩も続けるとピタリと夜鳴きがおさまった。気立てが
よく、おとなしく、夜鳴きはしない、むだ吠えもしないとなると、今度は逆にお向かいさんなどは、
「リンちゃんはおとなしいねえ。これで番犬になるやろか」
と別な心配をしはじめた。だがこの心配も杞憂だった。
まず小さい子供の叫び声に反応してはかすかに吠え出したのである。子供は犬の心理まで考えず、可愛いがっているのか、い
じめているのか解らないところがあるので、すでにペットショップで小さい子供のふるまいに辟易していたのかも知れない。
ある晩、お向かいさんが親戚の子供たちを呼んで、庭でバーベキューパーティをした。その日は日暮れころから始め、夜の九
時ころまで子供たちのはしゃぐ声が聞こえていた。その度にリンはぼそぼそと遠慮がちな声で吠え続けた。そしてその翌日、お
向かいの奥さんがリンの所にやってきて、
「リンちゃん昨日はうるさくてごめんね。でも、ちゃんと吠えるんやねえ」
と感心したように言った。番犬になるかどうかという点に関しては、その後も成長するにつれて徐徐に自信がついてきたの
か、怪しいものには決然と吠えるようになったので心配はない。
しかしいくら吠えるといって喜んでいても、それが何の怪しい気配もない静かな夜更けとなると話は別である。梅雨もあけて
そろそろ夜も暑くなり始めたころ、また毎晩のように丑三つ時に吠え始めた。我が家は昼間でも静かな住宅街にあり、ましてや
夜中はまったく人の声も動きもないところである。そんな夜中に犬が吠えては近所迷惑となる。
むだ吠えなら早い時期にやめさせなければならないが、考えられることは、こちらが何もないと思っていても、リンは何かを
感じているのかもしれない。起きていって、実際の現場を確認することにした。
こっそり起きていって様子をうかがってみると、たしかに何かある物に向かって吠えていた。ただそのある物とはタマネギ
だった。そしてそのそばには小さな植木鉢も転がっていた。軒下に吊るしていたタマネギのひとつが何かの拍子に落ち、そのつ
いでにエアコンの室外機の上に並べていた植木鉢にあたり、いっしょに落ちてきたのだろう。ドミノ倒しのように二つの物が連
続して落ちてきては、さすがのリンもびっくりしたにちがいない。
つぎに吠えた相手はアブラゼミである。リンが寝ている小屋の前に、とつぜん死にかけのアブラゼミが落ちてきて、ばたばた
と騒いだようだ。散歩をしていても野鳥には一切興味をしめさないが、草むらの昆虫にはちょっと動いても跳びこんでゆくリン
である。放っておけるわけがない。興味はあるがそれ以上に怖いという気持ちもあって、恐る恐る吠えたのだろう。
そんな夜鳴きも経験を積むにつれて、何でもかんでも吠えることはなくなった。そして今では誰もが感心するほどおとなしく
利巧な犬に成長したが、子供の騒ぎ声だけはよほどのトラウマがあるのか、未だに神経質に反応している。
(2007.1.19)