リンの脱走

 

 

「犬を繋いで飼うと性格が悪くなる」という人もいる。

 

 カヌーイストの野田知佑さんは、パートナーでもあるカヌー犬を、放して飼える場所をさがして千葉県、鹿児島県、徳島県と

 

引越しを繰り返している。わが家は大阪府の県境にも近く『枚方のチベット』とも呼ばれる辺鄙な所とはいえ一応住宅街

 

なので、野田知佑さんのような放し飼いはもちろんできないが、せめて庭の中だけでも放してやりたいと思う。

 

というわけで、リンがわが家にやってきてからしばらくは鎖につないでいたが、そのうち庭の一部を仕切り、自由に動

 

きまわれるようにしてやった。同時に生垣には金網を張って、外に出られないようにもした。

 

 自由にしてやったその晩、外出先から帰ってきた家内が、リンがいないといって騒ぎはじめた。垣根の隙間という隙間

 

はすべて塞いだつもりだったが、どこかに逃げ道があったようである。慌てて探しにでた。まず行先はいつも通いなれた散歩道

 

だろうと目星をつけて、団地のはずれまで行ってみると、案の定その辺りで知らない人にじゃれついていた。

 

 どこから逃げたかは翌朝明るくなってから調べることにしていたら、脱走の味をおぼえたのか、その深夜

 

にもまたいなくなった。あわてて探しにでたら、まだ遠くに行っていなかったのですぐに見つかった。その時に垣根の疑わしい

 

隙間も逃げられないように補強した。生垣のカイヅカイブキが密集している所は大丈夫だろうと思っていたのが間違いで、リン

 

にとってはその間をこじあけるようにすり抜けることなど何でもないようだった。

 

 隙間を補強するたびに、さらに弱点を見つけては脱走するという、犬と人間の知恵比べがその後毎日のように半月も続

 

いたのである。冬の寒いころだったので、いなくなるたびに夜中でもパジャマのままで外にとびだし、団地中を探

 

しまわっているうちに体は冷え切った。リンが脱走するとたいていその近所の犬が吠えはじめるので、だいたい居そうな場所

 

はわかる。やっと見つけて目が合ったとたんにこちらに跳んでくれば可愛いのだが、かくれんぼでもして遊んでいるつもりか、

 

さっと逃げてしまう。

 

 ある時などは、どうしても捕まらず、あきらめてしばらく放っておいたら、明け方にお腹を大きく膨らませて帰ってきた。

 

さすがにその日は、一日中、小屋のなかで苦しそうに目を白黒させていた。

 

 またある夕方、リンと散歩にでかけたら、団地のはずれの所であるご婦人が声をかけてきた。

 

「そのワンちゃん、お宅のですか」

 

「はい・・・・」

 

「今朝、うちの植木鉢を割りました」

 

 訪ねていった先のワンちゃんとじゃれあっているうちに割ったようである。

 

 そうやって毎日のように追いかけっこをしているうちに、リンの行動パターンが解ってきた。リンを脱走に駆り立てている

 

原動力は食欲にちがいない。当然、訪ねてゆくのは犬のいる家にかぎり、もちろん目的は残っているドッグフードである。

 

いつも餌を残している犬は決まっていて、したがって脱走しても最初に行くのはどこで、その次はどこということがこちらにも

 

解ってくる。そうなると捕まえるのも楽である。脱走に気づいたらすぐに、ドッグフードを一つかみ持って駆けつければ、ほぼ

 

確実に捕まる。

 

 それほど脱走の好きなリンが、夏の夕方、鎖をつけずに抱いたまま公園のベンチに夕涼みにでかけた時だけは、不思議

 

なことに、まったく逃げようとはせずに、おとなしくいつまでも一緒にベンチにすわっている。子供をつれて花火をしに来たお

 

母さんが、「おとなしくて可愛いワンちゃんですね」と感心するほどである。

 

 ある晩、例によってベンチでのんびり夕涼みをしていたら、弱ったアブラゼミが足もとに落ちてきた。

 

ばたばたしているのでリンが興味をしめし、ベンチから跳びおりた。そしておりたとたんに、セミよりももっと大事なことに気

 

がついたのか、一瞬はっとしていたが、自分は自由なのだと解った瞬間、あっという間に逃げてしまった。

 

 包囲網の弱いところを見つけては脱走し、その度にこちらは弱点を補強するというイタチごっこが半月ほどつづき、

 

とうとうこちらが根負けして、庭の放し飼いをやめることにした。

 

 ところが鎖に繋がれてもそれまでの脱走の味が忘れられないのか、また抵抗を試みたようである。リンの姿が見えないので

 

鎖をたどってみたら、首輪だけが生垣を乗り越えて、宙ぶらりんのかっこうでぶらさがっていた。これだと確実に首吊り状態

 

になったはずだが、運良く首輪がはずれたので助かったのだろう。

 

 しかしさすがに一時的とはいえ首吊り状態はリンにとっても怖かったようで、二度と鎖つきで垣根を乗り越

 

えようとはしなくなったばかりか、低い所に跳び下りるのも慎重になった。それだけ懲りればまず大丈夫だろうが、念のために

 

首輪をやめて、胴輪につけかえてやった。

                                                (2007.09.16)