リンとの散歩

 

 

 

 リンがわが家にきてからは、よほどの悪天候でもないかぎり朝夕の二回、かならず散歩に連れ出

 

すようにしている。

 

 今までの経験によれば、どの犬も散歩にでることを非常に喜んだ。先代のユリなどは、散歩

 

にでようとしている時に、つい目についた庭の雑草でも抜こうものなら泣き叫んだ。しかし今度のリン

 

はなぜかそれほど喜ばない。それどころか面倒くさそうに小屋の中に寝そべって、「また行くのか」

 

という顔をすることもある。

 

 イタリアのトリノでは条例により、犬を飼っている人は日に三回以上散歩に連れださなければ罰

 

せられるそうだが、リンには却って迷惑な条例かもしれない。しかし喜びの表情

 

をあらわさないだけで、内心では散歩に行きたいと思っているときなど、裏木戸のところまで出

 

てそわそわしているのですぐに解る。

 

 そして散歩にでかけるときの最初の行動は身ぶるいである。これはリンがわが家にきてから一度も欠

 

かしたことのない儀式といってもよい。体についたごみを振りおとすためか、戦場におもむく前の武者

 

ぶるいか解らないけれども、ちょっと神経質なところがあるのかもしれない。

 

 散歩コースはだいたい決まっていてふつう裏山を一周するのだが、所要時間は冬で三十分、夏なら

 

四十分かかる。季節によって差がでる理由は、夏はハアハアと息が切れて、登り坂の途中で何度も座り

 

込んだり、バイパス道路の下を抜けている風通しのいいトンネルではすぐに駆け込んで休憩

 

しようとするからである。

 

 毎日おなじコースを散歩していると、何匹かの犬と顔なじみになる。リンはもともと他の犬に対して

 

友好的で、こちらから喧嘩をしかけることは決してなく、とくに気の合った犬とは、毎回会

 

うたびにじゃれあって喜ぶ。しかしたまに喧嘩好きな犬が襲いかかってくると、たとえどんなに大きな

 

犬でも怯えることなく応戦する。この辺はさすがに柴犬で、むかし猪と戦っていた遺伝子が残

 

っているのかもしれない。

 

 他の犬に対してだけでなく、リンは人間に対しても友好的で、誰に対しても物おじすることなく、

 

興味をしめして見つめる。ただ例外は小さい子供で、近くで子供の騒ぐ声が聞こえただけで吠える。

 

これはペットショップにいた頃に、小さい子は何をするか解らないという警戒心が刷り込

 

まれたのかもしれない。

 

 子供以外は誰にも愛想がいいのだが、それも大きくなるにつれだんだん人を見るようになってきた。

 

散歩で会うたびにいつも可愛がってくれていたNさんがリンをなでようとすると、以前なら身

 

をよじって喜んでいたのに、最近は面倒くさそうな顔をするので、

 

「リンちゃんも大人になって、愛想がわるくなったねえ」

 

 とやや不満そうに言っているところに、小型のコリー犬を連れたTさんという女性が通りかかった。

 

その姿を見つけたとたん、リンは目の色をかえて甘えはじめた。Tさんは散歩のときいつもバッグ

 

のなかにおやつをしのばせていて、毎回くれるのである。その豹変ぶりを目の当たりにしたNさんは、

 

「わたしも今度からなにか持ってこよう」とつぶやいた。

 

 これもすべてリンの食いしん坊癖のなせるわざだが、散歩していてもこの癖は常時つきまとう。

 

なにしろ散歩コースが人里はなれた里山なので、季節ごとに自然の恵みがいろいろあるのである。

 

 もっとも好きな物は初夏の野いちごと秋の柿である。ただ、野いちごにはトゲがあるので、むやみに

 

飛び込んで食べたりはしないで、その場所につくとこちらが食べやすいように口の前まで持

 

っていってやるのを待っている。柿も落ちているもの以外はふつう背がとどかないので、生っている木

 

の下までくると、おすわりをして取ってくれという顔をする。ほとんどが渋柿だが、渋みも甘みも感

 

じないのか、熟していない渋柿でも平気で食べる。

 

 その他の季節には、もっぱら道草を食べる。といっても食べる種類は二種類にかぎられていて、刀

 

のように細長くてやわらかい草と笹の若葉である。細長い草は調べてみると、イヌムギという草で、

 

食物繊維が豊富で胃腸を整える作用があると書いてあった。笹の葉も昔から殺菌作用があるといわれ、

 

ちまきや寿司を包んだりしているから、犬にとっても何かの薬になるのだろう。

 

 この食いしん坊癖は飼い主が注意してやらないと危険なこともある。

 

 散歩コースは里山で、民家はないけれども畑や田圃はあちこちにある。そしてその作物を獣から守

 

るためか、時々、道端に毒入りの食べ物を置いてあることがある。そのため団地内には愛犬を毒で死

 

なせた人がたくさんいる。わが家の初代犬ジュリーも、お隣の先代犬ジョンも毒を食べてあっけなく死

 

んだ。

 

 リンがきてまだ一年がたたないある年末に、散歩中、いつものように何か興味をひくものを見つけて

 

臭いを嗅いでいると思ったら、ガリガリと何かを噛む音がしだした。見ると、鶏ガラに青い液体

 

がかかったものが置いてある。あわてて口に手を入れて、食べかけのものを出させた。青い液体

 

はたぶん農薬だろう。ほとんど食べてはいないはずだったが、数歩あるいて立ちどまったとおもうと、

 

胃の中のものを戻しはじめた。これでうまくすべてを吐きだしたようで、あとは何もなかったように

 

元気に歩きだした。これを食べた近所の犬は、瀕死の状態で入院し、三日ほどで奇跡的に一命

 

をとりとめた。

 

 口からの毒以外にも、散歩道にはまだ毒がある。

 

 ある秋の夕方、道端に落ちた渋柿を食べようと枯葉の中にとびこんだとたん、赤ん坊のような悲鳴

 

をあげ始めた。見ると左前足をもちあげて鳴き叫んでいる。抱いてやっても一時

 

もじっとしていなくて、耳をつんざくようなヒーッという高い声をだしつづける。ほかの犬を連れて通

 

りかかった人には、虐待でもしているかのように見えたかもしれない。

 

 家に帰ってからも鳴きながら、たえず動きまわるので心配になって、行きつけのペットクリニックに

 

連れていったら、獣医は足の裏をみて、

 

「全体に腫れてきていますから、きっとなにか虫にでも刺されたのでしょう。ほっておいても大丈夫

 

ですが、念のために化膿止めを注射しておきましょう」

 

 とあっさり診断した。枯葉の下に隠れていたムカデでも踏みつけたかもしれない。

 

「夜も痛くて鳴きつづけるということはないですか」

 

「虫に刺された傷みはせいぜい二時間です。夜はおとなしく寝るはずです」

 

 これでひと安心したのは私だけではなかったようで、帰途めずらしく運転している私の膝のうえに乗

 

ろうとしてきた。車のなかでこういう甘え方をしたことは今まで一度もなかったことで、よほど心細

 

かったのだろうが、運転にさしつかえるので追いかえした。             (2008.04.26)