定年後の日々

 

 

 今年の春に定年を迎えて半年以上が過ぎた。

 

 毎朝、会社に行くという束縛から開放され、そろそろ新しい生活のリズムにも慣れてきたところで最

 

近の日々を綴ってみようと思う。ただ、束縛するものが何もないといっても、やりたいことがたくさん

 

あって結構一日は忙しいのだが、それは自分の意志で自分を束縛していることで、束縛と感じないだけ

 

の話である。

 

 定年後の生活の問題としては、少ない収入でいかに家計を維持するか、健康をいかに保つか、すべて

 

自分の思い通りになる時間をどう過ごすかという三つの大きな問題がある。

 

 まず経済面である。

 

 在職中に好き放題なことをしてきたので貯えなどというものはほとんどない。ただ支出のおおきな部

 

分をしめていた住宅ローンをすべて退職時までに返済してしまっているので少しは楽になるのだが、娘

 

がまだ海外に留学中なので教育費だけが残っている。しかしこれからの第二の人生を考えると、退職金

 

に手をつけるわけにはいかない。すべて定期預金と投資信託にまわしたのは、今まで縁のなかった財テ

 

クなるものの真似事をして少しでも低金利による目減りを補おうという魂胆もある。

 

 というわけで生活費の基本は年金だけである。退職後、五ヶ月間は失業保険がでるが、その後は厚生

 

年金と企業年金、それに在職中に積み立てた財形年金などが収入のすべてとなる。贅沢をせずにこれで

 

なんとかやっていかなければならない。

 

 そのうち“畑野音楽スタジオ”の名でビオラ演奏や編曲、コンサートの出張録音等の仕事を請けてと

 

も考えているが、これは道楽に近いものでまったくあてにならない。

 

 音楽スタジオという名前も、先日、たまたまバイオリニストのT君と私のビオラの二重奏をわが家の

 

練習室で録音してみたら、意外にきれいに録音できたのでそう呼んだだけで、人にいわせると単に応接

 

間兼練習室である。

 

 最近、テレビ局のニューススタジオなど、セットを一切組まず、がらんどうの中にキャスターが立っ

 

て、セットはすべてコンピュータのソフトでまかなうバーチャルスタジオというシステムが使われだし

 

ているが、わが家もまさに実体のないバーチャルスタジオである。

 

 これからの経済的な問題などを考えると不安も多いが、深刻に考えても仕方がないので適当に切り上

 

げて、つぎは健康の問題に進む。

 

 独断と偏見ではあるが、健康をたもつ三要素は、食事と運動と休養だと思っている。簡単にいえば、

 

よく食べ、よく遊び、ストレスを溜めないことである。

 

 ただし、『よく食べ』というのはたくさん食べるということではなく、安全な食べ物を美味しく楽し

 

んで食べるということである。テレビや新聞を見ながらでは楽しんで食べることにならない。そして量

 

は少な目の方がいい。会社勤めをしている間は、付き合いによる外食が多く、つい美食の大食になりが

 

ちだったが、会社をやめてからは外食をする機会がほとんどなくなったのと、畑仕事をする時間がふえ

 

たので、安全な食物という点でも、すこしは理想に近づきつつある。

 

 外では贅沢な美食家で通っていたけれども、家に帰るとその逆で、粗食を心がけている。納豆だけが

 

必需品であとはなんでも良い。肉は特に食べたいとは思わない。好きなものは野菜か魚だが、ただ素材

 

だけは何でもいいというわけにいかず、新鮮で安全なものに限る。そうすれば当然味も良いはずだか

 

ら、料理はごてごて手を加えず、素材の良さを生かすだけでいい。

 

 そういう意味でも、畑や釣りは単に趣味というだけではなく、良い素材を手にいれるための手段でも

 

ある。無論、畑では農薬と化学肥料を一切使用せず、完全な無農薬・有機栽培をしている。その分、今

 

年のように秋になってもいつまでも暑い日がつづく年は虫に悩まされる。せっかく芽が出た野菜の新芽

 

にすべて小さな虫が入り込んでいる。新芽を傷つけずに虫を退治するにはピンセットを使うしかない。

 

畑を始めて十年以上になるが初めてのことである。同じ畑の仲間にその話をしたら、彼もポケットから

 

ピンセットを取り出した。

 

 また、海で釣った魚は大小種類にかかわらずすべて持って帰って食べる。最近はやりの、ルアー釣り

 

の若者達のようにキャッチアンドリリースなどという事はしない。おもに狙う魚はキス、ベラ、コアジ

 

のような小魚である。大物にはあまり興味がない。小魚だと唐揚げにして頭から尻尾まですべて食べら

 

れる。大物の刺身もいいが、骨ごと食べる小魚は格別である。

 

 適度の運動という点では、毎日歩くことを日課としている。小さい頃から運動神経が鈍く、スポーツ

 

と名のつくものはすべて苦手だった。大人になってから釣りやカヌーを始めたのだが、これはアウトド

 

アスポーツというより単に遊びであって、たまに体を使っても健康維持にはなんの効果もない。その

 

点、歩くだけなら毎日続けられる。

 

 会社勤めをしていた頃は、毎朝出勤のとき、駅までの三十分を歩いていた。毎日続けている時は体も

 

快調だが、土、日の連休になるととたんに便秘が起きる。しかも出勤のついでにしか歩かないというの

 

では、退職後は歩かなくなるに決まっている。唯一の運動である歩くことを退職後も続けるためには、

 

駅まででなく別のルートを決めて、歩くことを自分に義務づけるしかない。ルートはなるべく車の通ら

 

ない気持ちのいい道ということで、わが家の裏山を一周するルートを選んだ。この道なら車はいっさい

 

通らず、民家もない里山を歩くことになる。適当な起伏があり、時間にしても四十分ほどだからちょう

 

どよい運動量である。

 

 春に会社をやめた当初ははりきって毎日歩いていたが、そのうち梅雨になり、夏がやってきて蒸し暑

 

い日が続くようになると、いつの間にか歩かなくなった。そんなある日、毎日昼のご飯を食べるととた

 

んに頭がぼうっとしてきて体もしんどくなり、何も手につかなくなることに気がついた。そうなるとも

 

う横になるしかなく、そのまま二、三時間寝てしまう。極端なときは夕方まで寝ることになる。まった

 

く時間の無駄遣いである。

 

 これではいけないと奮起して散歩を再開した。それまでは午後の畑仕事の終わった夕方に歩いていた

 

が、夏も終わりになると日暮れがはやくなる。途中で暗くなっては心細いので、その後は午前中に歩く

 

ことにした。そして歩きはじめて一週間もしないうちに、昼食後の眠気はなくなった。

 

 食事と運動のつぎは休養である。私にとって休養とは睡眠のことである。起きているときはたえず何

 

かしているから休養にならない。そのせいか若いころから寝つきはいい方で、布団にはいるといつのま

 

にか寝ている。そのまま八時間ほどぐっすり眠る。一日に数時間の睡眠でもつという人がいるが私には

 

真似ができない。

 

 退職祝いとして下の息子がモンテーニュの『エセー』全六巻を買ってくれたので、寝る前に布団の中

 

で読むようにしている。これが又、持ってまわったむつかしい表現が多く、頭が先に疲れてすぐに眠く

 

なる。もともと寝つきがいい上に、睡眠薬を飲んだようなものである。

 

 健康に関して気をつけているのはそんな所で、最後は自由な時間の使い方の問題である。

 

 会社に行かなくなったといって生活のリズムが乱れては意味がないので、一日のうちの起床、就寝、

 

食事の時間はなるべく今まで通りに合わせ、そうしておいてその間に毎日こなす日課を決めている。

 

 まず最初が朝食後しばらくしてからの散歩である。順調に歩けば四十分ほどのコースだが、途中で何

 

人かの知り合いの畑のそばを通過する。そのたびに声をかけたり立ち話をすることになる。その中には

 

会社の後輩にあたる宮脇さんもいる。彼は休みの日など一日畑で過ごすのが日課なのだが、畑仕事をし

 

ている時間より七輪で地鶏を焼きながらビールを飲んでいる時間の方が長い。たまたまそういう所に通

 

りかかるとかならず呼び込まれる。こういう日は散歩に三、四時間はかかる。

 

 文章を書くことと編曲をすることも一日の日課のひとつである。どちらも今までは時間のある時にだ

 

けしてきたことだが、今は毎日時間があるのだから、毎日しようと決めたのである。

 

 文章を書くことについては、何か適当なテーマを決めてはエッセイにまとめ、出来上がるとホーム

 

ページに発表するということを今までずっと続けてきた。定年後はそのペースが上がりそうなものだ

 

が、退職直後に一編出したきりで、六ヶ月たった今でもまだ次のエッセイがアップロードできていな

 

い。そのわけは退職後まもなくして歩いた琵琶湖一周の紀行文に手間取ったせいである。その紀行文

 

はある賞に応募するつもりで、書きあげてからも数ヶ月推敲をかさね、やっと八月の終わりに投函し

 

たところである。というわけで、この文章が退職後ふたつ目のエッセイということになる。

 

 編曲の方は、今までは毎年一回、ABOBA四重奏団の演奏会で最後のアンコール用に、日本の懐か

 

しい曲を一曲アレンジする程度だったのが、「バイオリンとビオラの二重奏で歌謡曲の名曲をどんどん

 

アレンジしては」というバイオリンのT君のすすめもあり、退職を機に始めたもので、美空ひばりの

 

『川の流れのように』や『愛燦燦』を手始めに、島倉千代子の『人生いろいろ』などすでに十四曲ほど

 

できあがった。

 

 畑に行くことも毎日欠かせない日課である。今までは土、日の休みのときだけだったのが、退職後は

 

ほぼ毎日行けるようになった。週に二日で間に合っていたものが、毎日行ってもあまり仕事がないので

 

はと当初考えていたが、行けば行ったなりにやることがいくらでもあるものである。雑草はたえず生え

 

てくるし、虫にも気をつけなければいけない。肥料は定期的にやらなければならないし、えんどう、き

 

ゅうり、トマト、三度豆のように成長の早い野菜は、棚をつくってたえず上に吊ってやらなければなら

 

ない。そういえば昔、ラジオしかなかった時代に、NHKの番組で毎晩、『明日の農作業』というコー

 

ナーがあった。

 

 愛情をこめて毎日世話をしていると、野菜もそれに応えてくれるが、あまり放っておくとすねる。楽

 

器も同じである。バイオリンとビオラを持っているが、自分ではビオラ弾きのつもりだから、ビオラは

 

ほとんど毎日弾く。これも日課のひとつである。バイオリンはたまにしか弾かないから、よく鳴ってく

 

れない。旅行のときでもなるべく楽器を持ち歩いて、一日一度は弾くようにしているが、どうしてもそ

 

れができずしばらく弾かなかったあとは、てきめんにビオラも鳴らなくなっている。そうなるとあとの

 

機嫌とりが大変である。

 

 以上は特別に予定のない日の一日の過ごし方だが、実際は結構予定のある日が多い。というのは、

 

せっかく退職して自由時間がたっぷりできたのだから、今までやりたくても出来なかったことを実行す

 

るチャンスでもあるのである。

 

 二十年ちかく前から考えていたことで、退職したらぜひやりたいと思っていたことが三つある。まず

 

琵琶湖を歩いて一周、カヌーを漕いで一周の合わせて二周することと、四国八十八ヶ所をお遍路するこ

 

と、それに小さなアンサンブルを組んで老人ホームをまわって演奏することである。

 

 琵琶湖一周に関しては、歩く方は事前にある程度の予定がたつので、宿を予約して泊まることもでき

 

実行は簡単である。ところがカヌーの方は天候まかせで、風がでたらその場で上陸して風のやむのを待

 

つか野宿することになり、まったく予定がたたない。すべてひとりで野宿するとなると、周到な準備を

 

してからでないと行動に移れない。

 

 カヌー本体はちょうど一年前にノルウェー・ベルガンス社のアリーという組み立て式のカナディアン

 

カヌーを買ったのだが、長期の遠征となると雨対策としてオプションのスプレーカバーが必要になる。

 

これをノルウェーから取り寄せるのに一年かかり、やっと先日届いたばかりである。あとは決行する時

 

期の問題と、携帯する食料をどうするかという問題が残っている。

 

時期については最初、真夏の炎天下を避けて、九月に入ってからと考えていたが、先日、歩いて一周 

 

した時に泊まったある民宿の主人によると、

 

「九月になると台風がきますよ。琵琶湖で天候が一番安定しているのは八月です」

 

 ということだった。秋から冬の間は北西の季節風が吹くので、どちらにしても決行は来年以降になり

 

そうである。

 

 四国遍路に関しても最初は八十八ヶ所を一気にまわるつもりにしていたがT君から、

 

「ひと月以上もビオラから遠ざかっていると、腕がなまって取り返しがつかなくなりますよ。来年も箕

 

島での演奏が決まっているのだから、それではお客さんを裏切ることになりはしないですか」

 

 という忠告をうけた。もっともである。これはカヌーでの琵琶湖一周にもあてはまる。遍路の方は四

 

国各県ごとに『発心の道場』とか『修業の道場』などと別々の名がついていることでもあり、各道場を

 

四回にわけてまわるという手があるが、カヌーの方は頭がいたい。いずれにしても最初の遍路出発は来

 

年の春先になるだろう。そして道中のもようは『遍路日記』と題してホームページにリアルタイムで発

 

信していくつもりで、一年以上も前から小型のノートパソコンと無線用のカードを買って準備をしてい

 

る。

 

 定年退職後の夢で、すでに実行し終わったり活動開始したのが、歩いて琵琶湖一周と老人ホームめぐ

 

りのアンサンブル結成の二つである。

 

 アンサンブルの編成はフルート、ビオラ、チェロによるトリオである。このトリオを組むにあたって

 

は、わが家からそう遠くない高槻に住む二人の若い男女に声をかけてみた。フルートは自由業の女性

 

で、チェロはあるコンサートホールでステージマネージャをしている男性である。どちらも以前からの

 

知り合いで、声をかけるとすぐにのってきた。

 

 ところが何回か練習をつみ、近所の老人ホームとの打合せも現実の日取り調整の段階まできた頃、ま

 

ずフルートの方が、

 

「人に聞かせることがこんなに厳しいとは思いませんでした。やっぱり自分だけで楽しむ音楽をやりま

 

す」

 

 といって抜けていった。残ったチェロも、突然転職問題がおきて、チェロどころではなくなった。

 

 その時点で、本番は一ヶ月半後にきまっていた。すぐに別なメンバーを探さなければならない。さい

 

わいフルートはABOBA四重奏団でずっと一緒にやってきたM君がひきうけてくれた。チェロは若い

 

ころ一緒にバロックアンサンブルをやっていたOさんにお願いした。彼は大阪のテレビ局を十年前に退

 

職し、現在は悠々自適の生活をしている先輩である。このメンバーで、第一回目の老人ホーム演奏会は

 

なんとかぶじに乗り切ることができた。

 

 楽団の名前はフェニックス・トリオと名づけた。フェニックスは日本語では不死鳥と訳されている。

 

もともとエジプト神話にでてくる鳥で、アラビアの砂漠に住み、五、六百年に一度、香木をあつめ自ら

 

焼死し、その灰の中から若鳥として生まれかわると言われている。定年退職をした老人が生まれかわっ

 

たように新しいことを始めるという意味ではあるが、欲張った名前でもある。

 

 ところがこの団名にはさらに欲張った意味が隠されている。辞書によると、『フェニックス』という

 

言葉は精力絶倫な人の喩えにも使うと書いてあるのである。さらにその上にこのトリオでは、テーマソ

 

ングとしてモーツァルトの歌劇『ドン・ジョバンニ』、言い換えると『ドン・ファン』の中の有名なメ

 

ヌエットを、毎回コンサートの冒頭に演奏することに決めている。

 

 表立っては何もいわないけれども、これだけ段取りが揃うと、気づく人は気づくであろう。いかがわ

 

しい色事師集団と思われてもかまわない。人間年はとっても夢は大きいほどいいのだ。

 

 このようにして私の定年後の日々は、順調にすべりだしたところである。

                                                                        (2004.12.11)