異文化観察

 

 

 パリで古楽を勉強している娘が先日久しぶりに帰って来て、二週間ほど滞在し、又あわただしく戻

 

っていった。それはいつものことで珍しくはないが、ただいつもと違うのは、今回は娘一人ではなくド

 

イツ人のボーイフレンドを連れての帰国だった。

 

彼の名はアンドレといい、リュート奏者である。妻はその直前に旅行社の主催するヨーロッパツァー

 

に参加し、パリで娘に会い、同時に彼にも会っているので、しきりに「可愛い、可愛い」というけれど

 

も、私は会ったこともなければ、写真を見たこともない。

 

 名前だけは娘からときどき聞かされていて、単なる男友達くらいにしか考えていなかったが、妻に

 

よれば、パリの下宿も二間つづきの部屋をふたりで借りていて、食事の世話は娘がしているそうで、こ

 

れでは事実上の同棲状態である。

 

 そんな男に我が家の敷居を跨がせていいものかどうか問題だが、まず本人に会ってみて、その第一

 

印象で歓迎するかどうか決めることにした。帰国の出迎えは関西空港ではなく、わが家からも近く空港

 

のリムジンバスが来ているJR松井山手駅である。

 

 バスから降りてきた青年はすらりと背がたかく、颯爽としていて、温厚な笑顔は上品でさながら

 

ヨーロッパの貴公子然としていた。初対面の握手をしながら歓迎の言葉を久しぶりのドイツ語でしゃ

 

べった。二十年以上前に友人とウィーン・ザルツブルクを旅行したとき以来のドイツ語である。それも

 

旅行の下準備としてNHKのラジオで勉強したものである。

 

 私のドイツ語を聞いた彼は、娘にむかってフランス語で、

 

「お父さんのドイツ語は僕の日本語よりうまいよ。だけど二週間後は解らないけどね」

 

 と言った。もちろん娘の通訳を介してである。彼はパリにいる時から、娘を通して日本の言語、習

 

慣、味覚などを仕込まれているはずだが、だからといって私が一年かけて勉強したものをわずか二週間

 

で追い越されてはたまらない。

 

 来日三日目の晩、京都の八瀬にある日本料理屋に夕食を食べにいった時、あとからやって来た壮年

 

の男性四人組が、アルコールの入る前から上機嫌で盛り上がっているのをみて、あの人たちはどういう

 

話題であんなに楽しんでいるのかと興味をもったが、彼の日本語力ではとても理解できなかったよう

 

で、もっと日本語を勉強しなければと悔しがっていた。

 

又、来日十日目に西宮甲東園の小さなホールでリュートのリサイタルを行った時、できればあいさつ

 

を日本語でしてはと勧めたのだが、自信がなかったのだろう、英語であいさつをした。

 

そんな彼も二週間の日本滞在の間に、かなり日本語がうまくなったのは事実である。

 

 ある日、大阪の谷町四丁目に用事のある彼を娘が現地まで送ってやり、「帰りは自分で帰ってき

 

て」と言って別れたところ、用事のすんだ彼は地下鉄南森町の駅から家に電話をかけてきた。家には家

 

内しかおらず、家内は日本語しかしゃべらない。彼は日本語で、

 

「アンドレです。いま南森町にいます。迎えにきてください」

 

 と言ったそうである。もちろん迎えに行くのは南森町ではなく、いつも送り迎えしているJR長尾

 

駅である。彼は地下鉄南森町でJR南北線に乗り換えるのだから、長尾駅の到着時間は予測できる。

 

 彼の日本語の上達ほどには、私のドイツ語は進歩しなかった。こちらの言いたいことは予め辞書を

 

ひいて作文しておけばかなり込み入ったことでも言えるのだが、会話に必要な臨機応変のあいづちや、

 

聞き取りが弱いので会話が続かないのである。相手から何か聞かれて、それが理解できた時点で、ヤー

 

(はい)かナイン(いいえ)と答えるのが精一杯で、それで途切れてしまう。相手もじれったいので、

 

つい娘のフランス語による通訳に頼りたがるから益々勉強にならない。

 

 それでもドイツ語の語彙がすこし増えたのは事実である。畑をしている関係で毎日の食卓でも野菜

 

の話題が出るはずだから、めぼしい野菜の名はすべて事前に辞書で調べておいた。ただ、魚の名前まで

 

は考えていなかった。

 

たまたま彼がいる時に、隣の主人が釣りたてのヤリイカをたくさん持ってきてくれたので、早速、造

 

りや天ぷらにして出したが、いざ説明しようとしてイカのドイツ語も英語も知らないことに気がつい

 

た。そこで逆にこちらから、これはドイツ語でなんと呼ぶのかと聞いてみたら、“ティンテンフィッ

 

シュ”だという。“ティンテ”はたしか“インク”のことである。日本ではイカはスミを吐くが、ドイ

 

ツではインクを吐く魚のようだ。

 

彼はそのイカの造りを喜んで食べた。娘の薫陶もあるのだろうが、納豆といい、生魚といい、沢庵と

 

いい、たいていの日本料理を美味しい美味しいと言って食べる。まったく世話がやけないのである。

 

八瀬の料理屋では会席の一品としてナマコの酢の物がでた。私が先にひとくち食べて、すぐにナマコ

 

だと気づいたが、何もいわずに彼の食べるのを見ていて、食べ終わったあとに、「いまのはナマコだ

 

よ」と言ったら、「どうりで異様な感触だった」と言ったけれど顔は平然としていた。

 

そのあとに出てきたワカサギのマリネは、「頭のついた魚はどうも」と怖がったけれども、これもな

 

んとか食べた。しかしその後に、

 

「ボクの両親をここに連れてきたら、父はなんとかこれを食べるだろうけど、母はたぶん卒倒すると

 

思う」

 

と言った。だがこれほどなんでも食べる彼が、ただひとつ、「これだけは勘弁してください」と言っ

 

たものがあった。それは山芋のとろろである。お餅のねばりとあまり変わらないと思うが、お餅は喜ん

 

で食べるのに、とろろが食べられないというのはよほど何か汚い物の連想でもあるのだろうか。

 

わが家での生活でまず彼が驚いたのは、家の造りがお粗末だということである。

 

壁がうすい上に、材料が紙でできているのをまず指摘し、ドイツではこんなことは許されないと言っ

 

た。たぶん消防法上の問題だろうが、それだけでなく向こうの冬の寒さは日本の比ではないので、家の

 

断熱と暖房は完璧にゆきとどいているのだろう。特にわが家は外の新鮮な空気をたえず取り込むため

 

に、冬でもお手洗いや洗面所や浴室の窓はすこし開けている。彼にはこれが耐えられなかったようで、

 

「この家はシャワーから出て着替えるときも修行です」

 

と言っていた。娘と二人の時はもっとはっきりと、

 

「この家は東ドイツのコミュニストの家だ」

 

と言ったそうである。彼らの感覚では家の中が寒いことはすなわち貧しいことのようである。そこで

 

私がすこし弁解をかねて、

 

「日本は冬が寒いといっても耐えられないほどではない。日本の家は冬の寒さよりも、夏の蒸し暑さ

 

をいかに快適にすごすかということに重点をおいて作られている。しかも日本人は欧米人とちがって、

 

自然を征服して人間に従わせようとは考えず、自然と同居して仲良くしようと考えている。外が寒けれ

 

ば、家の中も寒くて当然なのだという考えである」

 

 と力説したら彼もうなづいて、

 

「京都や奈良の古い建物を見て、よく昔の武士は冬でも暖房のない障子一枚の部屋で暮らしていたも

 

のだと驚いたけど、その話を聞いて理解できました」と納得した。ただ、家の造りのお粗末さのわりに

 

は、トイレの設備の立派さに驚いていたが、こちらはうまく説明できない。わが家のトイレにはごくふ

 

つうのヒーター付便座と洗浄、乾燥機がついているだけである。

 

 彼は日本に来たのは今回がはじめてで、来たついでに東京と西宮で演奏することが決まっていた。

 

根がまじめな性格なので、毎日何時間かはかならず練習をする。そしてある程度集中して練習すると、

 

気分転換の散歩に出たがった。わが家の近辺はまだ里山が多く、散歩コースにはこと欠かない。

 

 雑木林と畑ばかりの里山を歩いていて、あちこちに竹が群生しているのを見ては興奮し、特に畑の

 

すみに朽ちた竹でも転がっていようものなら、信じられない光景だと感心する。それほど竹が珍しいの

 

だろう。椿の葉のように、緑が濃く肉厚な木の葉を指して、ドイツではこの手の葉は見たことがないと

 

も言う。

 

 散歩コースの途中に友人の宮脇さんの畑と小屋がある。宮脇さんはその小屋の前に椅子とテーブル

 

を置き、いつでも人を集めてパーティができるようにしている。テーブルのそばには一本の竹の棒をた

 

て、その節々の小枝にこれまた竹でつくったカップを無数に掛けている。彼はその光景を見てまた興奮

 

し、面白がったので、後日、宮脇さんに頼んでお土産用に新しい竹カップを作ってもらった。

 

 生活習慣という点でも、日本での常識が彼には非常識ということがいくつかあった。

 

 そのひとつが、いくら寒い日でも風呂に入ろうとせず、シャワーだけですませることである。体が

 

温まっていないから、服を着るとき寒いのは当然である。

 

もっと極端なのは、家の内と外を区別する感覚のちがいである。

 

欧米の映画などで見ると、彼らは家の中はもちろん寝室までも土足のままで入る。日本では内と外の

 

境界は玄関の上がりがまちで、はっきりと区別をつけている。さすがにアンドレは娘の指導もあって、

 

上がりがまちで靴を脱がなければいけないということは知っていた。脱いだ靴を揃えることも知ってい

 

た。しかし、彼が上がったあとを見ると、きれいに揃えられた靴が、上がりがまちの上に鎮座してい

 

た。

 

異文化を理解することは並大抵なことではない。

 

                               (2005.05.28)