も う す ぐ 定 年
二十二才のときに今の会社に勤め始めて、現在、五十八才だから、三十六年間勤めたことになる。よく続いたものだと思う。
というのは、その間、やめようかと思ったことが何度かある。
最初は、入社してまだ一、二年目のころだった。大学時代のオーケストラの仲間たちと集まったときに、なにげなく「やめよ
うかな」と言ったら、寄ってたかって、「何でや、おまえが一番恵まれた会社にいるんやで」と反論された。なにが恵まれてい
るかと言うと、テレビ局は一般に他のメーカーなどより初任給が高かったことと、社内にスタジオがいくつもあって、仕事を終
えてからバイオリンを練習する場所にこと欠かないということが大きかった。
つぎにやめようと思ったのは、会社がいやになったのではなく、日本という国がいやになったのである。会社をやめて海外に
移住しようと画策しはじめた。原因は有吉佐和子さんが書いた『複合汚染』という本である。当時の日本は高度経済成長期で、
その分、日本中が公害に汚染されていた。こんな危険な国でなく、もっと安全で美しい国に移住しようと、カナダを考えた。
そんな話を会社の先輩にしたら、彼も乗り気になった。彼は日本である宗教団体の教授の資格をもっている。その資格だけで
も、カナダ在住の日本人信者の間では尊敬の的になるそうである。彼の情報によれば、カナダ人は日本人のようにあくせく働か
ないから、自分の時間がたっぷりある。冬の夜などは、楽器でも弾かなければ暇をもてあますということだった。それならます
ます魅力的ではないか。
彼を団長にして、十日間ほど冬のカナダを見てまわる計画をたて、希望者を募ったらすぐに十人以上が集まった。その中には
途中でわれわれと別れてバンフでスキーをするグループもまじっていた。バンクーバーからスタートして、オタワ、トロント、
モントリオール、ケベック、シャーロットタウンとまわり、帰りに又、バンクーバーに戻ってきたときに、友人のジョンに会っ
た。
ジョンは以前日本に留学していたことがあり、その時わたしの弟と知り合い、弟の紹介でわたしも自然に友達になった。彼は
その後、バンクーバーに戻り、移民局に勤めていたので、われわれの目的のためにも好都合だった。
ジョンが言うには、カナダという国はいたって利己的な国で、ホワイトカラーは国内にありあまっていて、もういらない。ほ
しいのは植木職人やタクシーの運転手、料理人といった人たちで、われわれの目論見と完全にあい反するものだった。
つぎに会社をやめたくなったのは、入社三十年目にして、技術職場からはじめて経営企画室という未知の職場に異動になった
ときである。それまでにも異動は数年おきにあったけれども、技術職としてラジオやテレビの制作、中継、送出の現場をまわっ
ていたにすぎない。当然、技術の範囲内だから、異動当初は新しいことをいろいろと覚えないといけないとしても、それは技術
的なことばかりで専門分野内である。
ところが経営企画となるとまったく専門外の分野でもあり、まいにち聞きなれない言葉が周辺に飛び交い、異次元の世界に迷
い込んだようで、こんな仕事が自分につとまるわけがないと、やめたくなったのである。
ところがその仕事もしばらくたつうちに慣れてきたのか、それほどいやでなくなった。
それでなんとか今日までやめずにやってこられた訳だが、定年を一年半後にひかえた今から振りかえってみると、いかに自分
勝手に会社勤めをしてきたかとつくづく思う。
どのように自分勝手かというと、バイオリンを弾く、釣りをする、そばを打つ、文章を書く、畑をつくる、旅行をするといっ
た自分の楽しみが人生の最重要事で、決して会社の仕事をそれより優先させないという意志を貫いてきたことである。
入社して最初はラジオの技術職場に配属されていたが、一年半ほどしてテレビに異動になるという時に、当時の上司が、
「これからは忙しくなるから、バイオリンも弾けなくなるだろう」と言ったのは、そろそろいい加減にそんなものはやめろとい
う意味が多分にふくまれていたのだろうと思うけれども、そのときも、バイオリンをやめるつもりはまったくなかった。それど
ころか、入社したときにS社長から、がんこな技術屋にならないためにもバイオリンを弾きつづけるようにと言われていたこと
を思い出した。
その教えを守って、余暇という余暇はすべてどこかの室内楽団かオーケストラでバイオリンやビオラを弾くことに費やした。
そのあげく、現在の関西フィルハーモニー管弦楽団の前身であるビエール・フィルハーモニックのエキストラ・ビオラ弾きとし
て同団に入り浸りのような生活が何年かつづいた。
ほかに仕事をもちながらそんなことができたのは、まだ若くて仕事にそれほど責任がなかったことと、週に一度、夜勤のある
職場にいたので、夕方に出勤して翌朝まで働けば二日分働いたことになり、朝には開放されて、その後二日間の休みがつづくの
で、昼間の自由な時間がたっぷりあったことも大きい。
そういう勤務態度だから、会社内での立身出世はもちろん望めず、というより自分からも望まなかったのだが、最低限の昇進
は甘んじて受けざるをえず、そうなると自然に責任も重くなり、関西フィルに弾きにゆくこともだんだん困難になって、とうと
うやめてしまった。その代わりにABOBA四重奏団というフルート、バイオリン、ビオラ、チェロからなるカルテットを仲間
と結成して、年に一度だけ外で演奏するということを始めた。
自分勝手に生きるということは、ストレスを感じないということでもある。
以前、会社で管理職研修会があったとき、そのテーマがメンタルヘルスケアだった。講師は若い女性で、彼女はわれわれ全員
に日頃のストレス解消法を質問した。わたしの番になったとき、すこし意地悪く、
「あなたはわれわれすべてがいつもストレスを感じつづけているという前提でそんな質問をされているのだと思いますが、わた
しのようにまったくストレスのない者はどう答えたらいいのでしょう」と逆に聞いてみた。
実際、会社の仕事でまったくストレスを感じない者など、よほどの不良社員にちがいないから、この管理職たちの中には当然
いないだろうと考えても不思議ではないのだが、あいにくわたしはその不良社員である。あきれた講師はわたしと関わりあうの
を避けるかのように早々に隣りのF氏に質問を移した。するとF氏は、
「わたしのストレス解消法は畑野さんと付き合うことです。彼とつきあっているとちっともストレスを感じません」と答えた。
ますますあきれた講師は、
「そういうことですから、みなさんもストレスを感じたときは、畑野さんと付き合うようにしましょう」とうまくかわしてしま
った。
ストレスを溜めないことが健康で長生きするための秘訣でもある。そのせいか年のわりには大病を患ったことがなく、まずは
健康な状態にあるようである。そしてせっかく健康な状態にあるものを、わざわざエックス線を照射したり、バリウムを飲まさ
れたり、血を抜かれたりして体調をくずしたくないから、人間ドックは決して受けない、会社の定期検診もできれば受けたくな
い。
ところがわたしは何かのなり行き上、会社で安全衛生委員会の委員になっている。この委員会では、春と秋の定期健康診断を
いかに全社員に受けさせるかというようなことが議論されるけれども、健康診断反対派だから、
「エックス線間接撮影などやめようというのが本来この安全衛生委員会の仕事ではないのか。あんな危険なものをいまだにやっ
ているのは文明国では日本くらいのものです」
などと嫌味をいう。もっとも、会社が主導で社員に健康診断を受けさせるなどというお節介なことは、個人主義の外国ではも
ちろん考えられないだろうが。そういうわけで、定期健康診断は受診しても、エックス線撮影だけはパスするようにしている。
また、社員食堂の調理された野菜に虫がついていたとある委員が騒いだときも、
「これで味のよさと安全性が証明されたようなものですね」
と混ぜ返したら、笑いとともにその話題は立ち消えになってしまった。
このように出世を望まず、上役に尻尾もふらないマイペース社員は、上司にとってはやりにくく、憎らしい部下にちがいな
い。
ある時、それまでの部長が定年でやめることになり、その送別会で、酔っ払った当の部長が、日頃から目をつけていた何人か
の部下のそばに来て、積もりに積もった鬱憤を吐き出した。わたしの所にも来た。
「畑野くん、あんたは言われたことだけやっとったんではあかんで」
わたしのためを思って忠告してくれた上司の気持ちはありがたいのだが、わたしは会社で偉くなろうとは思っていない。言わ
れたことはきっちりやるけれども、自分の時間を犠牲にしてまで会社にすべてを捧げるつもりはない。
そして、こういう生意気な不良社員にも会社はきちんと給料をくれる。
先日、そろそろ定年が目の前に見えてきたので、今までの給料袋を整理がてら見なおしていたら、なんと律儀なことだろう
か、ひと月も抜けることなく袋がそろっているのである。この律儀というのは自分のことではなく、もちろん会社のことであ
る。この律儀さのおかげでわたしは今まで好きなことをしながらも家族をやしなって来られたのである。
定年退職してこの給料がなくなることを考えると一瞬愕然とするがそれは仕方がない。これまでの浪費癖をあらため、これか
らは心がけを一新して節約につとめ、畑仕事にも精をだし農作物はできるだけ自作しよう。などと殊勝なことを考える一方で、
心はすでに退職後の夢である四国八十八ヶ所遍路の旅や、カヌーによる琵琶湖一周ツーリングに飛んでいる。
ある人が、なぜそんなに早く会社をやめるのかと聞くから、
「好きなことをやりたいから」と答えたら、
「今でもやってるじゃないですか」
痛いところを突かれて、はたと考えた。なるほどと感心している場合ではないが、そう言われてぐうの音もでないところが悔
しい。
(2002.12.29)