投 網 の 獲 物

 

 投網をはじめた目的は川でアユを取るためだった。

 アユといっても成魚はすばしっこくて簡単には取れないので、もっぱら夏の終わりころ、琵琶湖周辺の川の河口付近で、小

アユを専門に狙うことにした。小アユは小アユでもここの小アユは、川を上らずに琵琶湖の周辺ばかりをうろうろしていたた

めに大きくなれなかっただけで、体はちいさいけれど一応成魚なのである。一般にアユは川を遡って苔を食んではじめて大き

く育つと言われている。

 この頃のアユは産卵のために集団でたむろしているので、キャンプの夕食用に天ぷらにするくらいなら、数回も網を打てば

すぐにとれる。うまくいけば一回に数十匹入ることもある。

 ふつう川で投網を投げるときは、下半身だけのウエットスーツと鮎タビをはいて川に入るのだが、ここではわざわざ川に入

らなくても、服を着たまま岸から投げても獲れることが多い。

 アユにかぎらず、魚の色というものは一般に、空からの敵に対しては身をまもるために、背中の色は川底や水の色にあわせ

て濃い色をしているし、底からの敵に対しては、腹の色を空の色にあわせて白くしているのが普通である。サバやイワシのよ

うに背の青い魚も、腹は白くなっている。最も顕著なのがカレイやヒラメだろう。

 投網をかぶった小アユたちは危険を察知して、必死で右往左往しはじめる。そのときに白い腹をキラキラと輝かせるので網

に入ったことがわかるのである。このキラキラが投網の手応えといってもよい。

 こちらがその手応えに悦にいっているときは、かれらにとっては突然かぶさってきた異物から逃げ出すために血眼になって

いるときでもある。ちょっと見ただけでは見落としてしまいそうな小さな網のやぶれや、たぐり寄せるときの網裾のかすかな

隙間からでも簡単に逃げてしまう。

 たとえうまく取りこんでも、ほとんどは小さな網の目に頭を突っ込んでもがいている。この状態で水から上げるのがもう少

し遅かったら、その連中まで何匹かは網をすり抜けて逃げてしまうのである。

 せっかくつかまえた獲物を網のやぶれで逃がすほど悔しいことはない。

 投網は軽くて投げやすく、広がりやすくなければ使い物にならないので、細いナイロンの糸でできている。そのため非常に

もろいのである。よほど川底の状態がよければ別だが、ふつうは一度投げるたびに、底の岩角や枯れ木、ゴミなどに引っかか

ってどこかが破れる。

 又、川というものは遠目にはほとんど流れていないように見えても、実際はかなり速く流れているもので、打った網はあっ

という間に下流に流されていき、そのために予想していなかった石や流木に引っかかったりして、そのせいで破れることもあ

る。

 以前、奈良県の布目川で投げていたとき、川底に錆びた針金が隠れていて網をずたずたにしたことがある。また滋賀県の野

洲川に行ったときは、キャンピングカーに泊まり込みでアユの投網漁にきていた男性三人が、まっ昼間、網を車の屋根に吊る

して、破れた個所の繕いをしていた。

 網の補修は杼(ひ)と呼ばれる流線型をした機織具に補修用の糸を巻いておいて、これを破れた部分の網の目のなかに通し

ながら繕っていくのだから、網の目がちいさいほど杼もちいさくなる。

 どんな小さな稚魚でも取ってしまうほど目の細かい網を地獄網という。私のもっているものは地獄網ほど細かくはないが、

小アユが取れる程度だから、普通よりは細かいものである。そしてこの網に通るほど小さな杼をまだ見たことがないので、家

で網を繕うときは、杼を使わずに、指先とピンセットで糸をあやつって補修するしかない。

 さらに川は、どんなに水が澄んだきれいな川でも、たえず枯葉や草などが上流から流れてくる。そのため網の目には毎回、

かなりのごみが引っかかる。もちろん底の小石もたくさんまじる。それで毎回、打つたびにその掃除がいる。家に帰れば当然、

破れの補修のまえに、きれいに洗ってごみを落とさなければならない。

 その点、海だと流れもなく、川とは大分様子がちがうはずで、カヌーイストの野田知佑氏など、船着場や遠浅の海などで網

を打った話をよく本に書いているが、わたしはそれまで海では一度も網を打ったことがなかった。

 ところが先日、海で網を打つ機会がたまたまあった。それが目的で海に行ったわけではなく、状況として投網を打ったらい

いかも知れないという状況に遭遇しただけの話である。車にはいつでも投網を積んでいるので、そういう場合はすぐに対応で

きる。

 その日は、若狭の方に釣りに行ってボートをだしていたのだが、海が荒れてきてのんびりボート釣りを続けるわけにもいか

ず、早々に上陸し、暇つぶしに防波堤の様子を覗きに行ってみた。

 防波堤には先客が3人ほどいて、突端の方でチヌをねらっていた。手前の方は遠浅で非常に浅くなっていて、川が海にそそ

ぐ河口でもあるので、ちょうど産卵のために川を下ってきたカニがあちこちでうろうろしていた。

 このカニは手の爪の部分がやわらかい毛に被われていて、モクズガニとかツガニと呼ばれているカニで、上海ガニというの

もこのカニのことをいうようである。体はせいぜい七、八センチほどだが、茹でてもすりつぶして味噌汁にいれても美味しく、

上海の人々はこのカニが出回るころは目の色をかえて市場に殺到するそうである。

 以前、ある夏の夜、ここの地元の人たちが総出でヘッドライトをつけて潮の引いた遠浅の海に入り、炭ばさみでカニを取っ

ているのを見たことがあるが、今は海に入るにはちょっと寒いころなので、海に入らずにこのカニを取るには、ひょっとして

投網が使えるかもしれないと思い試してみた。

 防波堤の上から手頃なカニが射程距離にはいってきた時をねらって網を打つと、もちろんカニにはうまくかぶさるのだが、

引き上げる時うまく網のなかに留まってくれず、逃げられることが多かった。カニもさるもので、網裾の鎖が自分の背中の

上を通過していく間、じっと身を縮めてやりすごすという知恵をもっていたのである。

 しかしそれは慌てて網を上げようとするからで、じっくり時間をかけて網を引くと、カニもそんなに長くは忍耐が続かず、

体がすこし浮いてきたところに網が引っかかってうまく取りこめるようになった。

 そんなことをして遊んでいるところに、突端の方から「スズキが来たぞー」という大きな声が聞こえてきた。振りむくと、

はやく来いと手招きをしている。早速、網をもって駆けつけてみると、たしかに体長七、八十センチのスズキが悠々と防波堤

ぎりぎりに泳いでいる。われわれが行っても逃げる気配はない。そこでゆっくり狙いをさだめて網を打ってみた。いくら鷹揚

に泳いでいても、突然上から網がかぶさってくれば驚いて騒ぎだすかと思うとそうでもなく、まったく手応えがない。ひょっ

として逃げられたかなと思ったところに、誰かが「いる、いる」と教えてくれたので、気をつよくして網を上げてみた。

 たしかに網の中には、今まで釣ったこともない大きな魚が、エラ蓋を網に引っかけた状態で観念したように静かにあがって

きた。まな板のコイというたとえがあるが、スズキも網にかかってしまうとまな板のコイとおなじである。なんの抵抗もせず

にあがってくるスズキをよく見ると、おなかだけは大きいけれども、体は非常にひきしまって痩せている。よほど運動がたり

ているのか、逆にエサが不足しているのか、いや、あの大きなおなかを見るとエサが足りないとは思えない。

 一緒に行っていたご隠居さんが、すぐにナイフをだして、尻尾の付け根に切れ目をいれて血抜きをしてくれた。そしてその

スズキを抱えて、意気揚々と宿に帰り、今夜の酒の肴に洗いにでもしてくれるよう頼んだ。宿の主人は目の前の防波堤でこん

なスズキがとれたことに感心していたが、快くひきうけてくれた。

 夜の食卓に主人が運んできたスズキの洗いを見た瞬間、おやと思った。とれたてのスズキの洗いだから、さぞ身がひきしま

った洗いになるだろうと予想していたのだが、まったく逆にすべての切り身が水っぽく、いかにもまずそうに寝ているのであ

る。主人も、

「変なんですわ。ちっとも身が立たんし、塩焼きにしたらこんなに縮んでしまうし、こんなん初めてですわ」という。

「それじゃ、さばいていて何か変わったことはなかったですか」

「そういえば、胃のなかにおおきなプラスチックを飲みこんでましたなあ」

 このひとことですべてが解決した。防波堤のそばを悠々と泳いでいたわけも、いとも簡単に投網にかかったわけも、網がか

ぶさってもちっとも騒がなかったわけも、お腹だけ大きく身が極端に引き締まっていたわけも、洗いにしても身が立たないわ

けも。彼はエサとまちがえて大きなプラスチックを飲みこんだために、エサが食べられなくなり、日に日に体力を失い、つか

まった時はすでに瀕死の状態だったのである。

 ちっとも美味しくはなかったけれども、せっかく捕まえた彼の冥福を祈ってすべて食べた。

(2001.11.22)