退職セレモニー


 今年の一月に還暦を迎えたので、三月はいよいよ定年の月である。

 

 定年を迎えるのは構わないが、付随してくるいろいろな行事を考えると気が重いのも確かである。

 

大勢で寄ってたかって送られるのは気恥ずかしいし性にあわない。毎回かしこまった挨拶をするのも億

 

劫である。なにしろ生来口が重く、ひとたび喋り始めるためにはかなりの思い切りがいるのだ。

 

 それで事前に上司の志筑さんに、送別会はできればなしでお願いしたいと申し出たら、即座に、

 

「そういう訳にはいきません」とことわられた。「それならなるべく内輪でひっそりとお願いします」

 

ということにしておいた。

 

 ふつう異動で職場をかわる場合、歓送迎会と称して送る方と迎える方、双方の部と局で宴会がある

 

から、四回は飲み会がある。しかもこの飲み会は仕事のつづきのようなもので、ほとんど義務的な感じ

 

があり、特別な理由もなく欠席はしにくいものである。特に「内輪で」とお願いしたのはそういう意味

 

で、あまり気の向かない人まで強制したくないという気持ちがあった。

 

 そのうち社内の他の部署にいる友人の数人から、個人的に送別会をしたいという申し出がぽつぽつ

 

と来始めた。個人的な送別会というのは文字通り個人的な会で、一対一のふたりきりのものから、数人

 

のものまでいろいろだが、すべて気のおけないメンバーばかりだから、こちらも気楽である。こういう

 

話なら大歓迎だ。

 

結局、昼食をいっしょにというものが三件、夕食をかねて飲みましょうというのが三件の、合計六件

 

の申し出があった。そうして夜のあいている日が順に埋まっていった。

 

志筑さんから正式に部の送別会の日程調整の相談があった時には、部として人が集まりやすい日は、

 

わたしの方はすでに別な送別会でつぶれていた。そこで志筑さんが考え出した苦肉の策は、昼食会で送

 

別の宴をはるというものだった。しかし、昼となると全員がいっせいに部屋を空にするわけにはいかな

 

い。それでやむなく二日にわけて行うことになった。

 

 場所選びの方は、店と料理にうるさいあいつのことだから、彼のふだん行きつけのうなぎ屋「西

 

川」にしておけば文句はあるまいというわけで簡単に決まったのだが、職場の中にうなぎが絶対にだめ

 

という女性がひとりいる。絶対だめという人を無理に連れて行くわけにもいかないだろうから、もう一

 

店別に選ばなければならない。といっても、会社からそう遠くなく、味が良くて、昼間から大勢でおし

 

かけてもゆっくりできる店となるとそう多くはない。

 

 結局、近くのフランス料理レストラン「ヴェリテ」が選ばれた。ヴェリテはホテルプラザで働いて

 

いたシェフが、数年前にプラザが営業停止した際にやめて独立開業した店である。二年前の送別会でも

 

利用したことがあり、味には定評がある。

 

 二日にわたる職場の送別昼食会の初日をそのヴェリテですることになった。いくら内輪といって

 

も、職場の送別会となると一応公式なものだから、最後に主賓のあいさつは求められるだろう。うまく

 

いけば何もなしで終わるかもしれないが、たとえ何かあいさつを求められても、メンバーは職場の仲間

 

ばかりだから適当になにかしゃべればいいだろうと高をくくった。

 

 現在の職場はザ・シンフォニーホールというクラシック音楽専用に設計されたホールである。これ

 

は朝日放送の部局の一部で、もともと朝日放送の技術職として働いていたわたしが、奉職最後の三年

 

間、このホールの建物と設備といったハード面を維持管理する仕事を仰せつかっていたのである。

 

 朝日放送は一応、定年は六十才だが、本人が希望すれば六十三才、さらに六十五才までも残れるよ

 

うになっている。しかしわたしは体が元気で動けるうちにやっておきたいことがいくつかあり、六十才

 

でやめることに前からきめていた。そのことについては人事の了解もえて、めでたくこの三月末に退職

 

できる段取りになっていたのだが、土壇場になって志筑さんから待ったがかかった。

 

 ハード面の管理というのは、建物そのものや空調、電気、ガス、水道といった設備の面倒をみるだ

 

けでなく、消防署がらみの年二回の消防訓練や消防計画の作成、変更から立入り検査の対応まで、さら

 

には市の環境事業局のゴミ減量に対する立入り検査の対応と、幅広くカバーしなければならないのだ

 

が、後任としてやってきた川田君とは引継ぎの時間がじゅうぶんにとれず、彼としてはかなり心細い状

 

態だということで、志筑さんがいうには、なんとかホールとわたしの間の個別契約という形で、なにか

 

ある時だけ川田君の後見役として出てきてほしいということだった。

 

 館長志筑さんの頼みとあれば無碍にことわることもできず、節をまげてお引き受けすることにし

 

た。ということは送別会でのお返しのあいさつにも、このことは触れなければいけないだろう。しかし

 

原稿を下ごしらえするまでもなく、その場で臨機応変に喋ればなんとかなるだろうと甘く考えていたの

 

が間違いだった。実際に、フランス料理のデザートが運ばれだしたころに、「なにかひとこと」と言わ

 

れ、喋り始めたのはいいがすぐに話の継穂を忘れてしまい、内心は慌てていながら外見上は平静をよそ

 

おって、一旦コーヒーをすすったりとみっともない姿を見せた。

 

 それで次回はもうすこしまじめに準備をして、そつなくやろうと反省した。

 

 今度はうなぎ屋で、メンバーも人数も前回とおなじ程度になるはずだったのが、途中でだんだん話

 

が変わってきた。外部からの飛び入りが三人ふえたのだ。技術の大先輩で現在、朝日放送の常勤顧問で

 

ある家田氏、ホールのステージまわりとチケット予約センター業務を委託している会社の二村社長、楽

 

屋まわりの管理を一手にお願いしている阿保女史である。

 

 どなたも日ごろからお世話になっている方々ばかりだから気持ちはたいへん嬉しいのだが、内輪で

 

ひっそりとと考えていた者としては、少しばかり意外だった。特に家田さんには入社以来いろいろ世話

 

になったり、教わったりと関わりは深いわりに、わたしの方が少しもなじまず、それどころか折角の好

 

意は無にしたり、期待にはそむくはと失礼ばかりしてきた。

 

 入社して間もないころだった。家田さんから突然、「今度の日曜日、うちに遊びに来ないか」と誘

 

われたのである。当時、わたしは南海電車の住之江にひとり下宿していて、家田さんは同じ沿線の貝塚

 

で新婚の生活を送られていた。家が近いからだろうと思い、気楽にご招待に応じた。

 

 バイオリンも持ってくるようにということだったので、楽器を片手に約束のお昼前にうかがうと、

 

そこには当時まだ珍しかったお座敷てんぷらの用意が整っていた。そしてなぜかもうひとり知らない若

 

い女性が同席していた。彼女はピアノを弾くそうで、食後に一緒になにかやってみろということにな

 

り、なにか一、二曲合わせたかもしれないが、よく覚えていない。

 

 どうやらこの席が見合いの席だったようである。そしてその女性は家田さんの親戚すじのお嬢さん

 

だった。しかしその時点でわたしに結婚する気持ちなどまったくなく、この話はそのまま流れてしまっ

 

た。このお見合い事件が家田さんに対する失礼のさきがけとなり、その後いくつも失礼を積み重ね、そ

 

してつい最近その失礼にとどめを刺すことになった。

 

 六十才ですぐに退職することに人事との話がきまった直後に家田さんから電話で呼び出された。当

 

時、専務取締役だった家田さんの部屋に伺うと、家田さんは、「なぜそんなに早くやめてしまうのか。

 

今から家でぶらぶらしていてもしようがないだろう」とおっしゃって、いくつかの再就職先を提示され

 

た。そのこと自体は非常にありがたいことだが、すでにやめる決心をしたあとだったので、お礼を申し

 

上げながらも丁寧に辞退した。

 

 その家田さんがわざわざご自分で希望されてわたしの送別会に出席して下さるという。しかもほか

 

のメンバーは、家田さんにとって初対面のシンフォニーホール独自の委託業者が多い。わたしとしては

 

他のメンバーに家田さんを紹介する意味もこめてあいさつしなければならないだろう。しかもせっかく

 

お運びいただいた家田さんが不愉快な思いをするような失礼があってはならない。やはりじっくりあい

 

さつの中身をねることにした。

 

 送別会の当日、家田さんはわたしの入社当時のエピソードを披露された。

 

わたしは入社と同時にまずラジオに配属されたのだが、当時のラジオ放送部長が大胆な人で、入社し

 

たばかりのわたしをすぐに一人で泊まり勤務につけた。当時のラジオ放送というのは今のように自動化

 

されておらず、すべて手でテープをかけ、時計を見ながら手でスタートするということをしていた。特

 

に早朝は5分きざみの番組が多く、ひとりでてんてこ舞いしなければならない。ベテランでも気をつか

 

う仕事に、入社したてのわたしを付けたので、心配になった家田さんは自発的に泊まってわたしに付き

 

合ってくれた。そしてその翌朝、高石にあるラジオの送信所が火事で燃えるというハプニングが起こっ

 

たそうである。

 

“そうである”という無責任な表現をしたのは、わたし自身その話にでてくることをすべて覚えてい

 

ないのである。家田さんの話が終わり、うなぎのコースも終わりにさしかかった頃、「なにかひと

 

こと」ということになった。

 

 本日はありがとうございます。送別会をするならなるべく内輪でひっそりととお願いしていたので

 

すけれども、結果的にはこのように盛大な会となってしまいました。家田顧問、二村社長といった思い

 

もかけない皆さまにもご出席いただいてまことに光栄です。特に家田顧問には入社以来、公私にわたっ

 

ていろいろお気をつかっていただきましたけれども、何ひとつご期待にはそえず、その上ご好意は無に

 

するという不義理をかさねてまいりました。このような出来のわるい部下の送別会にまでわざわざご足

 

労いただいて非常に恐縮です。ほんとうにありがとうございます。

 

 これほど盛大に見送られては、どうしてもこの際きっぱりと「あとは皆さんよろしく」といって去

 

っていかないと、ドラマにしても格好がつかないと思うのですが、そうもいかないという状況もありま

 

す。というのは現在やりかけの宿題がいくつかあって、それが片づくまで卒業させないと館長がおっ

 

しゃっているからです。館長の命令とあれば逆らうわけにもいかず、これからも、落第坊主のように放

 

課後居残って、ぼちぼちと宿題を片づけることになりそうです。しかしこういうあいまいな状態という

 

のは、私の人生美学からいっても非常に不名誉でみっともないことで、一時もはやくこの状態から脱却

 

して、天下はれて卒業できる日がくるよう皆さんのご支援とご協力をお願いしてあいさつに代えたいと

 

思います。本日はほんとうにありがとうございました。

 

事前に準備をしていただけに、なんの破綻もなくすらすらと喋ることができたのだが、人によって

 

は、家田さんに気を使いすぎて通り一遍で面白くなかったという意見もあった。

 

つぎにやってきたセレモニーはまったく突然で予想外なものだった。

 

ザ・シンフォニーホールで勤務していると、月に数回はコンサートの立会当番で居残ることになる。

 

立会当番にあたると何か事故やトラブルがあった場合の全責任者ということで責任は重い。そのうえ毎

 

回、案内係の若い男女二十数名に対して、開場前と閉館後にミーティングを開き訓示をするという役目

 

もある。

 

退職を直前にひかえた最後の当番の日、何も知らない案内係諸君にはあえて何もいわずにそっと消え

 

てゆくつもりでいたのだが、ホールロビーでの最終ミーティングもおわり、さあ解散という時に、ホー

 

ルマネージャの合田さんが、みんなそのまま待ってほしいという。何事かと思っているうちにどこから

 

か花束がでてきて、そのうち今夜の演奏会を撮影していた川本カメラマンがカメラを持って現れて、そ

 

の場で案内係の女性から花束の贈呈をうけ、全員の記念撮影となった。

 

この時はまったく予期しない事態だったので、言われるままに、「有難う、有難う」と花束をうけ、

 

記念撮影におさまるだけで済んだが、残るあと二つはそうはいかない。やはり何か喋らなければいけな

 

いだろう。

 

まずそのひとつは奉職最後の日である三月三十一日の午後四時から、人事部の主催で会長、社長ほか

 

主だった役員と定年退職者の懇談会がある。送られる今年の定年退職者は六人で、送る方の役員が五

 

人、それに司会が人事部長という会だった。社長の挨拶の後、記念品の万年筆をいただいて、退職者ひ

 

とりずつなにか挨拶をということになった。誕生日順にならんでいたので、わたしは五番目だった。今

 

回は原稿を事前に書いたりはしていないが、言いたいことは頭の中でざっとまとめてあるから大丈夫だ

 

ろう。

 

本日はありがとうございます。生来、口下手でこういう話が一番苦手です。今までで一番困ったのは

 

勤続二十年表彰のときで、とつぜん一人ずつなにか喋ろと言われて、予想もしていなかったので、しど

 

ろもどろで冷や汗をかきました。この苦い経験をもとに三十年表彰のときはちゃんと準備しておこう

 

と、その後十年間、悩んで考え続けたにもかかわらず、その三十年表彰は、ちょうどこの部屋でした

 

が、社長のお話があってお茶を飲んだだけですぐに解散になってしまったのです。この苦い経験をもと

 

に、今度やってくる定年退職者懇談会のときは準備などするものかと心に決めました。とくに人間六十

 

にもなればずうずうしくなるし、わがままにもなります。いやなものはいやで通せばいいのだと居直り

 

ました。ところがそうは言っても、やはりひとことだけは言っておかなければいけないことがありま

 

す。というのは、定年も間近になった先日、長年頂いては机のひきだしに放り込んでいた給料袋をひっ

 

ぱりだして整理してみました。そうしたらなんと入社以来、ひと月も抜けることなく給料もボーナスも

 

そろっている。これはあらためて考えてみるとたいしたことです。朝日放送という会社はなんと律儀な

 

会社なのだろうと感心しました。このことだけはこの席をおかりしてお礼を申し上げておかなければい

 

けないことです。ほんとうに有難うございました。

 

全員のスピーチがひと通り終わると同時に、話題がまず“入社以来の給料袋”に集中した。どのくら

 

いの嵩になるのかという質問があったけれども、これはわたしの説明不足で、袋でなく中身の明細だけ

 

を溜めていたのでひきだしひとつに収まる程度の嵩である。“律儀な会社”という話題では、「ほんと

 

に律儀なのはあんたや」という説もあった。

 

この懇談会がすむと、のこるセレモニーはいよいよひとつだけになる。

 

夕方六時の終業時、事務所やその近辺にいる者全員が集まって花束で送ってくれるのである。当日の

 

コンサート撮影担当の家島カメラマンもカメラをもって控えている。ここでは今までも送られる人がな

 

にかひとこと喋るのが恒例になっている。しかしもう固苦しいことは喋りたくない。

 

みなさんどうも有難うございます。わたしがこのホールに来てから三年がたちました。この三年間わ

 

たしはホールの建物、設備といった固いものばかりに携わってきました。しかし六十才という節目の年

 

をむかえ、そろそろ固いものをやめ柔らかいものの方に手をだそうかと考えていた矢先、館長が「もう

 

しばらく固いもので辛抱しろ」とおっしゃるものですから、仕方なくそうすることにします。というこ

 

とでこれからも時々こちらに顔をだしますが、今までとちがうのは、今までのように朝日放送の社員と

 

してではなく、コンサルタントの先生として顔をだします。ですからみんなもこれからは少しは敬意を

 

表するように。よろしくお願いします。

 

このあいさつは真面目にとられると面白くもなんともなくなるが、さいわい写真を撮っていた家島カ

 

メラマン自身がすぐにふきだしてくれたので救われた。

 

すべてのセレモニーをぶじ終えて、今日だけ特別に乗ってきていた車に花束と私物を積んで阪神高速

 

を帰るときのハンドルの軽さと、開放感は未だかって経験したことのない程爽快なものだった。

                                                (2004.05.06)