抜  歯

 

 

 

 歯が痛くて固いものが噛めなくなり、あわてて近所の歯医者に行った。

 

そこは第一線を退いて後、自宅の敷地の一角に小さな部屋をつくり、診療を続けている老先生の診察室

 

である。前回、といってももう二十年も前のこと、虫歯の治療をしてもらったとき、すでに六十歳を越

 

えておられたので、今は八十すぎのはずである。噂では健在だそうだが、すこし心配ではあった。

 

 九時の診察開始には早いけれども、八時半に待合室にはいって待つ。先客はだれもいない。受付も

 

無人だった。そばに置いてある雑誌や新聞を見ていると、もう一人やってきた。犬の散歩で時々出会う

 

女性である。

 

 九時をまわったころ、ガラガラと戸をあける音がして母屋から先生のお出ましのようである。しかし

 

ハアハアという荒い息づかいが聞こえるだけで、一向にこちらにやって来る気配がない。ひと休

 

みでもしているのかもしれない。

 

 しばらくして目の前に現れた先生は、鼻の下にチューブをつけ、後ろ手に酸素ボンベを引いていた。

 

腰もまがりかけていて、大丈夫かなと一瞬心配になるが、目の前で白衣に着替えたとたんに、信頼

 

できる先生に一変した。

 

「とうとうこんな物をつけるようになりました。これさえなけりゃ何でもないのに、ほんまに腹

 

たちまっせ」

 

 という。聞いてみたら、昨年肺気腫から肺に穴があき、それ以来酸素吸入器が手放

 

せなくなったそうである。前回来たときはまだお元気で、大阪のホテルでの歯科医師会のパーティ

 

などにも車を運転して行かれていたのだから、その不自由さはよくわかる。

 

「どうしました」

 

「奥歯が痛くてものが噛めなくなりました」

 

「さあ、虫歯かな、歯槽膿漏かな。どれどれ」

 

 と口の中をのぞいたとたん、

 

「これは痛いわ。もう割れてきてるし、抜かなあきまへん」

 

 と事もなげにいう。六十五歳のいままで、すべて自分の歯で通してきたのに、これは一大事である。

 

なんとか抜かずにすませたい。しかも、歯は割れているとはいえ、根っこはしっかりしているので、

 

この歯をむりやり抜くと思うとぞっとする。

 

「簡単に抜けるんですか」

 

 とちょっと鎌をかけてみたが、すまして返事もしない。そして手にはもう麻酔注射の準備

 

をしている。観念するしかない。

 

 虫歯のまわりの歯茎に何ヶ所か注射をしておいて、先生は机に向かって書き物をはじめた。麻酔が効

 

くまでの間に、カルテを書いているにちがいない。健康保険証の番号を何度も声にだして読

 

みあげている。

 

 そろそろ麻酔が効いてきたとおもわれる頃、ピンセットのような物を取って、奥歯をぐいぐいと押

 

しはじめた。痛くはないけれども、かなり手荒い仕草である。麻酔の効きかげんを調べているのかと思

 

ったが、そうではないようだった。

 

「ふんふん、そういうことか」

 

 と、ひとりで納得している。

 

「レントゲンをとれば簡単にわかることやが、そうまですることはない。どういうふうに生

 

えているかぐらい、ちょっと触ればわかることや。二本の根っこがかたよって生えている人

 

がけっこういて、そういう場合は、一方に押せば抜けまんねん。しかしあんたの場合は両側に根

 

をはっとるんでそうはいかん。割ってから抜くしかないな」

 

 と、ますます物騒なことを言いだした。

 

「昔はそれこそノミと槌で骨を割って抜いたものやが、今はこれができて便利になりましたわ」

 

 と、細いドリルを取ってスイッチをいれた。麻酔が効いているので、何をされても痛くはないが、

 

されていることは手に取るようにわかる。そのドリルで歯を縦に二分割しているようである。この段階

 

で割れかけの歯のかけらが出てきたが、

 

「まだ抜けたわけではありません」

 

 という。そして二分割した歯をそれぞれ別の方向からぐいぐいと押しはじめた。痛

 

くはないけれども、悪戦苦闘しているのはわかる。しばらくしてやっと手を休めたと思うと、

 

「漱いでください」と、肩で息をしながら言った。

 

「もう抜けたんですか」

 

「抜けました」

 

 漱ぎおわっても先生はまだ荒い息をしている。そして治まってからもしばらくじっと呼吸

 

をととのえてから、気合をいれるように、

 

「よし」

 

 と言ってから、傷口の止血をはじめた。その日の治療はそれでおわり、疼きだした時のための頓服

 

とうがい薬をだしてくれた。

 

「ひょっとしたら今夜、腫れるかもしれません」

 

 とも言ったけれども、腫れることもなく、頓服の必要もなく翌日になった。

 

 そして翌日は、傷口が化膿しないように再度消毒をして、ついでに周辺の歯石を掃除してそれで終

 

りだった。

 

「これでまた当分は大丈夫です。八十才で二十本、自分の歯を残そうという運動があるが、

 

あんたはまず問題ないでしょう。毎日しっかり掃除してください。それでは結構です」

 

 と太鼓判を押してくれたのはいいけれども、抜いたあとの入れ歯はどうなっているのだろう。聞

 

いてみると、

 

「親知らずを抜いた後は、入れ歯はいらんのです」

 

「えっ、あれは親知らずやったんですか」

 

 すこし得をしたような気がする。しかしもう一本、歯槽膿漏らしき歯が見つかっていて、

 

これがいつまでもつか解らない。もし悪化して要治療の状態になった場合、その時は又先生の治療を受

 

けたいものだが、言いつけをよく守って掃除を丹念にしていると、ひょっとして治ってしまう可能性

 

もある。そうなるともう二度とお会いできないことにもなりかねない。しかしそれはそれで成り行

 

きにまかせるしかないだろう。

                                                                (09.05.31)