心 は い つ も バ イ オ リ ン

 

 私が初めてバイオリンというものを間近に見たのは、小学校三年のときだった。

 ちょうどその年に、父が家を新築して、下関の駅にも近かった古い住宅街から、新町四丁目に引っ越しし、学校もそれまで

の関西(かんせい)小学校から、文関(ぶんかん)小学校に転校したのである。

 文関小学校は音楽のさかんな学校で、器楽部にはハーモニカやマリンバや打楽器のほかに、バイオリンも何人かまじってい

て、私も音楽がすきだったから、転校すると同時にその器楽部に入ってハーモニカを吹きだしたことが、私とバイオリンとの

宿命的な出会いとなった。

 バイオリンの音色に魅了されたというのではなく、ただ単に楽器の構造と弾き方に興味をもっただけなのだが、自分も弾い

てみたくて、毎日、夢にみるほどであった。なんとか習わせてもらおうと、母に頼んでみたが、父の方が頑として許してくれ

なかった。バイオリンなんか金持ちの子女が習うものだというのが父の持論で、貧乏人の男子がそんなものをやる必要はない

というのである。

 文関小学校は音楽の備品として、バイオリンを数挺そなえていて、それらは太鼓などと一緒に、講堂のそばのちいさな部屋

にしまわれていた。掃除当番としてその部屋にはいれたときは、うれしくて掃除ところではなく、すぐにバイオリンをとりだ

しては「黒田節」や「五木の子守唄」のさぐり弾きをした。

 バイオリンの調弦法も左手の指のポジションも、音楽の教科書にのっていた説明を穴があくほど読んでいるから、理屈の上

ではわかっている。その上、「黒田節」を弾くのはどのように指と弓を動かしたらいいかなどという応用問題も、頭の中でイ

メージトレーニングを積んでいるので、はじめて持った楽器でも、なにを弾こうとしているのか他人にわかる程度には弾くこ

とができた。

 中学校では又、音楽的貧困状態に逆もどりし、バイオリンとの縁がきれてしまい、そのかわり唯一の器楽部である鼓笛隊に

入部した。今ならブラスバンドというところだが、当時の中学校にはそんなしゃれたものはなく、たて笛と太鼓だけからなる

鼓笛隊だった。その鼓笛隊でよりによって引っ込み思案の私が、指揮者として運動会で行進の先頭をいくという晴れがましい

役を演じることになり、なんともはずかしい思いをした。

 そんなときでもバイオリンを渇望する気持ちは消えていなかったようで、とうとう母が根負けをして、中学三年の時、父の

夏のボーナスがでるとすぐに、スズキのいちばん安物のバイオリンを買ってくれた。たしか当時の額で二千四百円だった。

 だが、父の了解もなく私がバイオリンを弾きはじめたことは、父のプライドをおおいに傷つけたようで、あるとき私が練習

をしていると父がきて、「うるさい、やめろ。これから目の前でそれを弾いたら、叩き割るぞ」と激怒して言った。それ以来

私は、父のいないときをねらって練習をした。

 そんな父も、私が大学生になったころには、親戚があつまった時など、子供の教育論になると、「子供は音楽かスポーツさ

えやらせておけば、ほっておいても何の心配もなく育つもんです」などと言っていたので、おやと思った。

 夏休みの四十日間、ひたすら独習しているのを母が聞いていて、これではだめと判断したのか、夏休みが終わると同時に、

母は私をあるバイオリン教室につれていってくれた。

 十字堂という楽器屋の二階が教室になっていて、そこで教えておられたのが県立下関南高等学校の坂田哲夫先生で、当時の

坂田先生は、東京芸大を卒業して間もない、まだ溌剌とした青年だった。

 先生は私が夏休みの間ひとりで練習したというと、ハ長調の音階を弾かせ、弾き終わるやいなや、「きみは音楽がすきだな

あ」と感心された。ちっともうまくはないけれども、意気込みだけは感じられたかもしれない。ただ高校受験を間近にひかえ

た者が、のんきにバイオリンなどを習いにきて大丈夫かと心配されたようで、こっそり私の通っていた日新中学に電話をして、

私のことを問い合わせたと、後日おしえてくれた。

 坂田先生はその後、胸をわるくされて療養所に入られたので、実際に私が坂田先生から教えを受けたのは一年そこらである。

そのわずか一年の間に、先生は私に、ホーマンの教則本全五巻、カイザー二巻を卒業させただけでなく、小野アンナの音階教

本、クロイツェル教本、さらにセブシックの教本をかじり、そのほかにもやさしいソナタや協奏曲を何曲か卒業させてくれた。

おかげで私は、小器用にバイオリンを弾くことにかけては、かなりの能力を身につけることができたようである。

 坂田先生のもとで身につけたこの小器用さは、その後関西に出て、大学四年間のオーケストラ活動や、卒業してからもしば

らく続けていたアマチュアのオーケストラでも、非常に役にたった。しかしそのうちに高瀬先生と出会い、その生徒たちによ

る合奏団でビオラを弾くようになってからは、その小器用さがいかにいい加減なものだったかを思い知らされた。

 私はそれまでオーケストラの中で、どんなにむつかしいパッセージでも、なんとか弾きこなしてきたつもりだったが、それ

は自己満足にすぎなかった。子供たちの出す音は私よりはるかに立派で、テクニックもずっとしっかりしていたのである。

 そこで一念発起して、高瀬先生について一からやり直す決心をした。高瀬先生は鈴木鎮一氏の提唱する指導法である鈴木メ

ソッドによる指導をされていて、二十歳をとっくに過ぎた私が、子供たちにまじってキラキラ星の練習をはじめたのである。

 高瀬先生のレッスンは、私が会社の帰りに枚方にある先生のご自宅に伺い、まず夕飯をごちそうになり、それから先生のご

帰宅を待って教えていただくという段取りになっていた。だが先生はすでにひと仕事終えて疲れておられるから、大好物のビ

ールを早く飲みたいという気持ちの方が先で、レッスンもそこそこに私がビールのお相手をすることになり、あげくの果ては

そこで泊めていただき、翌朝はそこから出勤するというのが常であった。

 その頃の私は、一日も休まずバイオリンを練習することに決めていた。まだ独身で下宿暮らしだったので、練習場所は会社

のあいているスタジオである。夜のコンサートなどを聞きにいった晩は、終わってから又会社にもどって練習をした。

 大阪の演奏会はそれができたが、京都まで演奏会を聞きにいった時は、そういうわけにもいかず、といって練習をさぼるわ

けにはいかないので、大学時代のオーケストラの練習場にいって弾かせてもらった。そこなら二十四時間、だれにも苦情をい

われることなく音がだせるのである。

 放送局のスタジオも、二十四時間、気兼ねなく音がだせるのだが、すこし違うのは夜中でも仕事がはいってくることである。

わたしがある晩練習をしていると、突然、仁鶴師匠がはいって来て、ラジオ番組の収録がはじまった。それだけならまだしも、

楽器をかたづけている私のそばにディレクターが来て、飛び入りで何か弾けという。しかもなるべく下手に弾けというのであ

る。下手に弾くのならなにも問題はないし、ふつうに弾けばいいと思い、軽い気持ちでひきうけた。

 師匠は番組の冒頭に、「今日はスタジオに赤壁先生がバイオリンをもってきてくれてはりますよって、なんぞ一曲弾いても

らいますかな」というような紹介をした。そのとき何を弾いたか覚えていないが、曲の途中でわざと半音さげて、音痴のバイ

オリン弾きをよそおったつもりだったが、あとから考えてみると、きっちり半音さげたのでは下手とはいえない。もうすこし

中途半端にはずした方が、ディレクターの期待にそえたのかもしれないと反省した。

 高瀬先生のレッスンによって、それまでの小器用さよりも、きれいな音、立派な音をだすことがいかに大事かということを

教わった私は、それ以来、むつかしい協奏曲などに手をだすことを一切やめ、やさしい曲をいかに美しく弾くかということば

かり考えるようになった。中学三年というそろそろ身体がかたまりかけた頃から始めたのでは、高度な曲を弾くことはもう無

理なのである。

 そういう練習が功を奏したのかどうかは解らないけれども、数年もするうちに、プロのオーケストラにはいっても、ビオラ

ならなんとか勤まるようになった。そして実際、その後十年ちかく、今の関西フィルの前身である宇宿允人(うすきまさと)

の率いるビェール・フィルハーモニックで、専属エキストラとしてビオラを弾くことになった。

 ほかに勤めをもちながらそんなことができたのは、ビェール・フィルハーモニックがまだ財政的に安定しておらず、昼間の

時間は団員のアルバイトのためにあけておいて、練習はもっぱら夜におこなっていたためと、もちろん私自身も暇な立場にあ

ったためであるが、さすがにいつまでもそんなこともできず、今は、しばらくオーケストラから遠ざかっている。

 しかしバイオリンヘの愛着は衰えることなく、私の心のなかで、たえずオーケストラヘの郷愁をかきたてている。