老 後 カ ル テ ッ ト・そ の 後
「定年退職後のプロデビュー」を合言葉に、会社の仲間をあつめてABOBA四重奏団を結成してからすでに四年がたった。
結成のいきさつについては以前書いたので、ここらでそろそろ、その後の経過を報告しなければならない。
定年までの十年あまりの間は、なるべく表立った活動はさけて、じっくりアンサンブルをみがくつもりでいたのが、箕島でキ
ッチン喜多亭というちいさなフランス料理店を営む喜多さん夫妻から演奏依頼を引き受けたのがきっかけで、毎年一度、箕島へ
演奏にでかけることになった。
つまりその後も、活動は途絶えることなく続いているのだが、メンバーがすでにふたり入れ替わった。同じ目標をもって集ま
った仲間とはいえ、人の心は変わりやすいものである。最初の箕島演奏会が終わるや否やチェロの鹿島が、
「本番がこんなにプレッシャになるとは思わんかった。毎年、こんなプレッシャにはよう耐えられんから、降りさせてもらう
よ」
と言ってきた。たしかに第一回目の演奏曲目は、彼が十年以上かかって溜めてきたレパートリーを、すべて一度に吐き出した
ようなものだから、これから一年のうちに、又、同じ量の新曲を自分のものにすることは、彼にはちょっと荷が勝ちすぎるだろ
う。残念だが、むりもないことである。
同時に、ビオラの大竹氏も、仕事か忙しいという理由で辞意を表明した。彼は大阪府の研究所でエイズの研究をしている医学
者である。数年前から急にエイズの問題がおおきく取り上げられるようになり、彼は学会に出席したり、外国の研究所を訪ねた
りと、世界を股にかけて跳びまわっているのだから、これもむりのないことである。
しかし四人のうちふたり抜けたとはいえ、一且思いたって始めたことを今更やめるわけにはいかない。となれば、早速メンバ
ーを補充しなければならないが、ふたりに代わるアマチュアの奏者をさがすことは、至難なことである。鹿島は入社以来、二十
年以上かけて育ててきた貴重な仲間だし、ビオラの大竹氏はプロとしても十分通用する腕で、彼に匹敵するアマチュア奏者とな
ると、おいそれとは見つからないだろう。
それならプロということになるが、プロは演奏に生活がかかっている。時は金なりで、アマチュアの道楽のような活動に、ま
じめにつきあう余裕などないのが普通である。しかしプロの演奏家のなかには、ほんとうに喜んで聞いてくれる人がいるならギ
ャラなしでも弾きたいという心意気をもった人がいることも事実である。頼むならそんなプロにしたい。しかも欲をいえば、つ
いでに腕も超一流な方が、こちらも刺激になっていい。
身の程もわきまえない、贅沢な注文である。虫のよすぎる話である。そんな都合のいい話はない、と誰でもそう思う。ところ
が「一念岩をも通す」で、その無茶な話が実現したのである。
私のバイオリンの恩師、高瀬乙慈氏の次男の恵理也(えりや)君は、私がレッスンに通っていたころは、まだやんちゃな小学
生だった。休みの日に兄の真理(まこと)君といっしょに、京都の鞍馬の方にハイキングに連れていったことがあるが、ぐずっ
て歩いてくれなかった。大原まで行けば茶店があって、ぜんざいが食べられると励ましたら、今度は「茶店はまだか」と言い続
けた。
その恵理也君がいまは立派に成人して、宝塚歌劇場のオーケストラでチェロを弾いている。また同じ宝塚のオーケストラに
は、私が以前ビエール・フィルハーモニックにエキストラ出演していた頃、おなじくエキストラでビオラを弾きにきていた深井
氏がいる。ふたりに同時にお願いしてみたら、ふたりとも快く引き受けてくれたのである。
それで二回目の箕島演奏会はこのメンバーで行うことになった。
本番の日の朝、メンバーは二台の車に分乗して大阪を出発し、まず喜多さんの店に寄って挨拶をしてから、会場となる箕島文
化福祉会館に行き、リハーサルをして、タ方から本番という段取りになっていた。ところがこの日は、阪和自動車道が全線開通
して間もない頃で、途中の道が大渋滞して、着くまでにたいへん気疲れした。そのせいかビオラの探井氏が、本番直前に気分が
わるいといって、楽屋のたたみの上に横になってしまったのである。
あわてた我々は、たまたま恵理也君が持っていた救心を飲ませたところ、その薬が効いたのかどうか解らないが、なんとか持
ち直して、無事に本番を終えることができた。
その時すでに深井氏は、宝塚のオーケストラを定年退職して、悠々自適の生活にはいっておられた。家では食事担当で、奥様
と娘さんの食事を、買い出しから後片づけまですべてひとりで引き受けているということであった。せっかくのんびりしていた
ところをひっぱりだして、無理をさせてしまったのかもしれない。
それでその翌年は、深井氏の代わりに恵理也君の兄の真理君にバイオリンをお願いした。彼はウィーンの市立音楽院を最優秀
で卒業したバイオリニストである。彼がバイオリンを弾いてくれれば、私は本来のビオラにもどれて、より好都合である。そし
て食べることがすきな真理君は、演奏会が終わったあとギャラの代わりに喜多亭のフランス料理がご馳走されると聞いて、一も
二もなく引き受けてくれた。この兄弟ふたりなら、息もあうし、腕も超一流である。
というわけで、贅沢な夢が実現したのである。
第三回目の演奏会をこのメンバーでやったところ、演奏会終了後、ひとりの中年の男性が会館の玄関前にすわりこんで、われ
われを待っていた。そして思いつめたように眩いた。「毎回、聞いているが、今回は特にすばらしかった。最初の音から違って
いた」
そう言ってその男性は、その後もいつまでもその場を去ろうとしなかった。その翌年は喜多さんの方から、「昨年とおなじメ
ンバーなら、今年もお願いします」
と言ってきた。よほどメンバーのとり合わせがよかったようである。それならということで、今年の第四回目はさらに欲ばっ
て、昨年のメンバーにくわえて、関西フィルの首席ファゴット奏者である星野則雄氏に賛助出演をお願いしてみた。彼とはビエ
ール・フィルハーモニック時代のおなじオーケストラ仲間であり、そんな関係で彼ももちろん快くひきうけてくれた。
豪華なメンバーによる第四回目の演奏会が、より一層大成功であったことはいうまでもない。我々が箕島に行くたびに泊まっ
ているA観光ホテルのS社長が今回聞きに来られていたようで、翌日の帰りがけに、ロビーでお会いしたとき、「今度、わたし
どものロビーでも是非演奏してください」と、新たな演奏依頼を受けた。又、第五回の箕島演奏会は、すでに来年の九月に本決
まりとなっている。