流 れ た あ い さ つ

関西文学会編・「関西文学賞'97年随筆セレクション」より転載

 

 口が重たいので会議やパーティでしゃべることが億劫である。

 もともと口が重たいためにロべたになったのか、あるいはロべたなために口が重たくなったのか、どちらかわからないけれど

も、とにかくなにかしゃべり始めるためには相当の覚悟がいるのである。そのうえ頭の回転がおそいときて、用意していないこ

とを聞かれると、てきめん答えにつまってしまい、ますます口が重くなる。

 そういうわけで、以前の職場にいたとき、ある年の忘年会で、あいさつをさせられることが予めわかっていたので、事前にス

ピーチを用意をした。

 

「みなさん今年はどうもおつかれさまでした。わたしは思うのですが、忘年会というのはひょっとしたら、若いひとたちのため

にあるのではないでしょうか。なぜならわたしなど今現在、この一年いろいろなことがあったということだけは覚えています

が、実際になにがあったかということは、忘年会をする前から、すでに忘れてしまっています。一般に若いころは、心の傷は治

りにくいけれども、肉体的な傷はすぐ治る。逆に年をとると、体の傷は治りにくいが、心の傷はすぐ癒えると言われています。

実際、わたしくらいの年になりますと、体の傷がすぐによくなるような体力を取りもどすのはもう不可能ですが、若いみなさん

が、心の傷がすぐに癒える程度のボケを先取りするのは簡単なことです。目の前に並んでいるアルコールの助けをちょっと借り

ればすむことです。というわけで早速、乾杯といきましょう」

 

 乾杯の音頭でもスピーチでも、どちらでも通用するようにと考えたつもりであったが、結局、どちらにも通用しなかった。と

いうのは、仕事の都合などで、出席者のあつまりがバラバラになり、最後のメンバーが到着してやっと、「それでは乾杯の音頭

を」となったときには、先着組はすでにかなり崩れかかった状態で、あらたまったあいさつをする雰囲気ではなくなっていた。

しかたなく、「それでは、乾杯」と、ひとことで済ませてしまったというわけである。

 忘年会や新年会といった宴会以外でも、あいさつをさせられる機会が多いのは、人事異動のあとである。この十年ほどは、二

年おきに異動しているので、少々の異動には驚かないけれども、今年の異動だけはかなり精神的な衝撃が大きかった。今までは

いくら異動しても、技術の現場内での異動だったが、今回はまったくお門違いの経営企画室という所である。そこで又、異動先

でのあいさつのためにスピーチを準備した。

 

「ラジオ技術部からきました畑野と申します。わたしはこのところ二年おきに異動していまして、二年前に制作技術からラジオ

技術に異動したときは、制作技術の局会で、こんな遊牧民のような生活はいやだから、はやく農耕民族にもどりたいと挨拶しま

した。そしてラジオの方の局会では、長年の放浪のすえやっと故郷にかえってきたような気がすると言ったのですが、これはま

ったく本音で、今度こそじっくりラジオ技術部に根をおろして、ゆくゆくはラジオに骨をうずめようとそのとき決心しました。

そのためにはラジオ技術部にとってなくてはならない存在になるのが一番だと考え、積極的にいろいろの仕事を取り込んでまい

りました。そのかいあって、二年目にしてすでにかなり根をはってきたなと思っていた矢先、このたびむりやりに根っこから掘

りおこされてしまいました。二年ごとに根がのび始めたら掘りかえされることにはもう慣れっこになっていて、普通ならこんな

ことで枯れたりしおれたりはしませんが、今回だけはちょっと不安です。本人だけでなく家族も同様です。内示がでたその晩、

家族にその話をしたら、全員あぜんとした顔をしていました。それもそのはずで、お金をもたせたら使うことしか知らず、貯め

たり、殖やしたりする才覚はゼロの極楽とんぼのようなおやじが、会社の経営計画に口をだしたら、きっと会社がつぶれてしま

い、ひいては自分たちの学費まであやうくなることを、とっさに覚ったようでした。さすがに家族で、その判断はまったく正し

く、わたしなどに経営計画がたてられるとはとても思えません。とはいえ子供たちの学費のこともあり、とりあえず努力してみ

ますが、もし使い物にならないとわかれば、会社がつぶれる前に現場に返していただきたいものだと考えています。それではど

うかよろしくお願いいたします」

 

 ふつう人事異動があれば、その日のうちに臨時部会がひらかれ、異動対象者は古巣と異動先の両方の部会であいさつをするこ

とになっている。ところが経営企画室というのは、フラットな組織の率先モデルとなるために、部内では全員、肩書をなくする

ことになっていて、そのフラットのついでかどうか、異動者のあいさつさえなかったのである。

 そしてその異動があった一カ月後の四月一日は、会社から勤続三十年の表彰を受ける日にあたっていた。勤続表彰というのは

十年ごとにあるもので、前回はちょうど十年前の勤続二十年表彰であった。表彰されるわれわれの方は同期四人である。対して

表彰する方は、会長、社長、副社長、専務までが出席していたのではないかと思う。なにしろ緊張していたので、はっきり覚え

ていない。

 そのうち司会をしていた人事担当者が、「それでは恒例となりましたが、各自ひとことずつ仕事に関連したエピソードをまじ

えて、なにかしゃべっていただきましょう」と言った。毎年のように立ち会っている人事担当者には恒例かもしれないが、わた

しには寝耳に水であった。しどろもどろに何かしゃべったものの、冷や汗をかいた。

 その失敗がこの十年間、わたしの脳裏からはなれなかった。この十年間というもの、毎日のように、つぎの表彰式のときには

どんなあいさつをしようかと考えつづけた。そしていくつかのアイデアが浮かんでは、月日とともに色あせて消えていった。挙

句の果てに、この度の劇的な異動である。自然と、テーマは決まった。

 

「本日はありがとうございます。今日までわたしが朝日放送につとめてきました三十年のなかでも、この十年というのはとくに

公私ともに充実した十年だったように思います。こういう席ですから私的な方は別として、仕事に関係した方だけを思い出すま

まにあげてみましても、二年おきの頻繁な職場の異動や、民放連のVTR技術専門部会の委員として三年以上かけて、『D-

2VTRテープの交換規準』を制定したことや、NAB(全米放送事業者協会)大会の視察にアメリカヘ出張させていただいた

ことなど、数えあげればきりがありませんが、その中でも何といっても一番おおきなできごとは、ちょうどひと月ほど前にあっ

た人事異動です。今回の異動だけは私にとって青天の霹靂などというなまやさしいものではなく、天と地がひっくりかえったよ

うな驚きでした。今まで現場の視点でしか物を考えたことがなかった者が、いきなり全くちがった視点の情報に取り囲まれたも

のですから、地上をのそのそ歩いていた亀が、突然ヘリコプターで上空に吊り上げられたようなもので、動転し自信喪失におち

いり、毎日が、会社をやめようか、いやもうちょっと頑張ってみようかという迷いの連続でした。今でこそすこしは開きなおれ

るようになりましたが、そんな時いちばん救いになったのは、先日の社長のお話のなかにありました、われわれの前任者の解散

会のときに誰かが、『一年間やってみてよかった、楽しかった』と感想をもらしたというお話です。おかげで今はやっと、自分

にもいつかそんな日が来るのなら、それだけを頼りにひとつ頑張ってみようかという気になっています。本日はどうもありがと

うございました」

 

 ところが表彰をうけるわれわれ四人は十年前とおなじ顔ぶれでも、表彰をする側の顔ぶれがすっかり変わっていた。司会をす

る人事担当者はもちろんのこと、社長も新社長になってから一年そこそこの駆け出しである。逆にわれわれ四人のなかには人事

のベテランのS君がいる。われわれの前に現れた社長がまず口にした言葉は、「S君、三十年勤続表彰というのはどういうこと

をするのかね」というものであった。

 そういうわけで、十年前の恒例は、十年後の今年には恒例でもなんでもなく、ただ表彰状と金一封をもらっただけで、ゆっく

りお茶を飲む間もなく、あわただしく解散となった。

 それはそれで結構だが、この十年間、いつも心のどこかにあいさつをしなければならないという責任感のようなものが居座っ

ていて、一時もその呪縛から解放されなかったわたしの苦労は一体どう片づけたらいいのだろう。まったく人騒がせな恒例では

ある。