娘 の 成 長

 

 最近、娘と喧嘩をして、顔をあわせてもお互いなにも言わない状態がしばらく続いた。いい年をしてあまり褒められたことで

はないとは思ったが、自分としては、これはそもそも娘の思い上がりが原因であって、ここではっきりと解らせておかないと、

ますます手がつけられなくなると思ったものだから、こちらから折れることはしなかった。

 犬などでも、飼い主があまり可愛がりすぎて、なんでも言うことを聞いていると、自分がその家のリーダーだと勘違いして、

気に入らないことがあると、飼い主に対しても吠えたり噛みついたりするという。娘にもそんな勘違いをされては困ると思った

のである。

 そもそもの原因は家が狭いために起きたことで、それならわたしの甲斐性がないためだということにもなるが、そのことは棚

にあげておく。

 数年まえに、三人の子供たちがだんだん大きくなってきたために、息子二人にひと部屋と娘にひと部屋それぞれ勉強部屋をあ

たえたら、わたしの書斎がなくなってしまった。ただ、一階の洋間に、グランドピアノとバイオリン、ビオラ、チェロ等の楽器

類、それにステレオ機器と千本ちかいカセットテープを収容して、わたしの城として占領していたうちはそれでもよかったが、

その部屋も娘が音大に行き始めて、ピアノを毎日、長時間弾きだすと、自然にわたしが追い出された格好となった。

 最後の砦もうばわれて、仕方なく机や本棚を二階の寝室のすみに移し、机の上にワープロやアマチュア無線機を置いて、書斎

の代わりとした。すこし狭いけれども、それで我慢するしかないと観念した。

 そうこうしているうちに、この春から会社でコンピューターをさわりだしたのをきっかけに家にも一台ほしくなり、思いきっ

て買ったのはいいが、置き場所に困り、やむを得ずピアノの部屋に持ち込んだ。そして娘が練習しているすぐ後でインターネッ

トなどをしていたら、そのうち娘が、気が散って練習にならないからやめてくれと言ったのである。

 しかしこちらには、犠牲になっているのはこちらだという被害者意識があるから、そう簡単にうんとは言えない。それで、

「おとうさんが建てた家だから、おとうさんの好きなように使わせてもらう」

 と宣言した。それでは練習ができないと娘が言うから、

「練習ができるできないはお父さんの知ったことではない。おまえが音大にいきたいというからお父さんはむりをして行かせて

いるだけで、こちらから頼んで行ってもらっているわけではない」

 だれのお陰で練習ができるか考えてみろ、とまでは言わなかったけれども、これだけでも娘にはかなりの衝撃だったようで、

下関にいるわたしの母にまで、泣きながら電話で訴えたらしく、あとから母が知らせてきた。

 わたしは結婚した当初、人から子供は男の子か女の子かどちらがほしいかと聞かれるたびに、男の子とこたえてきた。女の子

というのはかわいいのは年頃の数年間だけで、ちいさい頃はこまっしゃくれて生意気だし、年をとればずうずうしくなるからい

やだと考えていた。

 しかし実際に娘が生まれてみると、その考えは一変した。まだろくに言葉もしゃべれない娘が、わたしが夕方帰宅すると、玄

関先にとびだしてきて、理解できない片言で星空を指さしてなにか説明してくれるその姿をみて、娘とはなんとかわいいものか

と思ったものである。

 まだ幼稚園にいく前のころ、ある休みの日の午後、外出先から帰ったら、二階で昼寝をしていた娘が、おとうさんが帰ってき

たというのでとび起きてきて、いきおいあまって階段を下までころがり落ちた。わたしはそのあとも用事があってすぐに外出し

たけれども、家内は娘を病院につれていってレントゲンで調べてもらったそうである。さいわい何の異常もなかったけれども、

家内にはあとあとまで嫌みをいわれた。

 ある晩、娘の両手をもってぶらさげて遊んでやっていたら、娘の左の腕のあたりでポキッと音がして、とたんに娘が泣きだし

た。それからはその手がぶらっと下がったままで、上がらなくなった。ひょっとしたらどこか間接がはずれたかも知れないと思

ったけれども、病院につれていくにはもう夜が更けすぎているので、そのまま寝かせると、しばらくはしくしく泣いていたが、

そのうちあきらめたように眠り始めた。

 翌朝、早々に接骨医につれていったら、医者はいとも簡単に腕をポキッといわせて折り曲げ、あっというまにはずれた関節を

つないでくれた。びっくりして泣きべそをかいている娘に、「一晩もがまんさせられてかわいそうに」と言ってなぐさめていた

が、こちらはその言葉に責められる思いがした。

 長男をつれて付近の野山を散策するときも、必ず娘を抱いて連れていった。そのせいか娘は完全に親を信頼して、ちいさい頃

からなにごとにも大胆で、ものおじしなかった。プールなどに連れていっても、わたしが先に入っていると、自分も入れてくれ

とプールサイドで地団駄をふんだ。初めて海に連れていった時もそうだった。

 娘の通う幼稚園は、わたしが毎朝、駅まで歩く通勤コースのそばにあった。ある朝、幼稚園のそばを通りかかると、娘が運動

場のすべり台で遊んでいるのが目にはいったので手をふったら、娘が気づき、いっしょに遊んでいた相手に、「お父さんだ、お

父さんだ」といって知らせようとした。だが、その相手はまったく相手になってくれなかった。その子にとっては、お父さんに

会ってうれしいのは、自分のお父さんだけで、他人のお父さんなんかには何の興味もなかったのだろう。

 小学校に入って、なんとか平仮名が書けはじめた頃、たまたまひとりで留守番をさせることになり、晩ごはん用にばらずしを

こしらえておき、なにか困ったことがあったら、お隣のおばちゃんに相談しなさいと言ってでかけた。用事がすんで帰ってみる

と、娘の姿はなく、ばらずしもそのままで、一枚の紙切れが置いてあった。その紙切れには平仮名ばかりの大きな字で、

「おかあさん かえちゃんはこまりました おかあさん おみそしるをつくってください おかあさん」

 と書いてあった。いつもばらずしのときは、なにか吸物を作っていたので、吸物がなくては食べられないと思ったようであ

る。その置き手紙をのこして娘はお隣にあがってテレビを見ていた。

 幼稚園、小学校と娘はその素直さでだれからも愛された。しかし中学校にはいった頃から、その素直さに他人にたいする厳し

さが加わった。嫌いなものは嫌いとはっきり言い出したのである。それはそれで成長のあらわれとして結構なのだが、時には行

きすぎと感じることもあった。親に似たのか、向こう意気が強いのである。

 中学校の一年生のときに、制服のブラウスの一番ボタンをはずしていたら、なまいきだということで、上級生の女生徒数人に

呼びだされ、校舎のすみの便所に連れていかれた。そして寄ってたかっていじめられかけたところで、

「何をするんですか、やめてください」と言って、彼女たちを突きとばして帰ってきたそうである。

 この種の向こう意気の強さなら、親としても声援をおくるところだが、批判精神が旺盛なあまり他人に対してむやみに厳しす

ぎるのは困りものである。自分に厳しいのはいくら厳しくてもいいが、他人には寛容でないと嫌われる。冒頭の親子喧嘩も、こ

の向こう意気が原因であった。

 娘との冷戦がつづいていたある日、外から帰ってみると、ひとりで留守番をしていた浪人中の次男が飛び出してきて、

「かえちゃんがセイリツで倒れ、今、救急車で病院にはこばれた」というのである。

 とっさに息子の言っていることが理解できなかった私は、再度、聞きなおした。しかし息子の言うことは同じであった。セイ

リツ、セイリツと頭のなかで反芻しているうちに、生理痛のことだということが理解できた。生理痛なら命に別状はないだろう

から、ひとまず胸をなでおろす。

 そういえばさきほど帰りがけに、団地内のスーパーで買い物をしていたら、外を救急車がサイレンを鳴らして通過していった

が、あのなかに娘が乗っていたにちがいない。それならすぐに駆けつけてやらないと、ひとりでは心細いだろう。

 健康保険証はと聞くと、持っていったという。とっさにしてはよくできている。救急車の担当者の注意があったかもしれな

い。病院はI産婦人科病院だという。そこは娘が生まれるとき、取り上げてくれたI先生の病院で、I先生なら安心である。別

に直接面識があるわけではないけれども、妊産婦を集めての熱心な育児教育の模様を家内から聞いて、単純に信頼しただけのこ

とである。

 すぐに車を運転して、家から距離にして十キロほどあるI病院にむかったが、ふだん道さえすいていれば、十五分もあれば着

く距離なのに、その日はたまたま道が混んでいて、三十分以上かかった。

 駐車場に車をとめるのももどかしく、いそいで病院に駆け込むと、中は意外にひっそりしていて、だれもいない待合室に、治

療をおえた娘がひとりぽつんと座っていた。そして、わたしに気づいた娘はほっとしたように、「あっ、お父さん」とひとこと

だけ言った。

 生理痛の原因は貧血によるもので、注射を一本打って、あとは貧血用の飲み薬をもらっただけで、娘はもう何もなかったかの

ようにけろっとしていた。娘の容態がたいしたことではなかったという安堵感もあるが、それにも増して娘の「お父さん」とい

う言葉を久しぶりに聞いた私は、娘以上にほっとした気持ちであった。