指 揮 者 “U”

 

 今から十五年以上も前の演奏会で、いまだに忘れられない演奏会がある。

 結成後まもないビエール室内合奏団の、たぶん定期演奏会だったのだろう。曲目は、コンサート・ミストレスの松永みどり

独奏による、ビバルディーの「四季」全曲と、チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」だった。

 プログラムを見ただけでも十分に意気ごみが伝わるのだが、演奏の方も期待を裏切らなかった。若々しく生気にみちた演奏

と、丹念に磨きあげられた完成度の高いアンサンブルに、その晩の私は完全に圧倒されてしまった。そしてこの演奏によって

この合奏団は、その年の大阪文化祭賞を受賞したのである。

 鳴りやまないアンコールの拍手にこたえて指揮者は、

「いいものは歴史が判定します。この曲も歴史の試練をのり越えて、必ず後世に残るはずです」と挨拶して、バーバーの「弦

楽のためのアダージョ」を演奏した。

 この演奏ももちろん良かったのだが、私にはそれよりも、演奏前の指揮者の言葉がいつまでも耳に残ってはなれなかった。

小柄な体に闘志をむきだしにして、聴衆に戦いを挑んでいるように聞こえたからである。

 この指揮者は名前を“U”と言い、練習の厳しいことで有名な指揮者であった。東京芸大の器楽科を卒業して、すぐにNH

K交響楽団に首席トロンボーン奏者として入団し、一時は、日本一のトロンボーン奏者とまで言われたが、それだけでは飽き

たりず、指揮者に転向するために近衛秀麿氏について、指揮法と管弦楽法を学び、さらに昭和四十三年には、ニューヨークフ

ィルをふりだしに世界各国で研鑚をつみ、帰国して大フィルの専任指揮者となったのである。

 彼が大フィルを振るのは実質四年間で、中でも特筆しなければならないのは、昭和四十五年十月の定期演奏会で、ベートー

ベンの「ミサ・ソレムニス」を振って、指揮者としてはじめての大阪文化祭賞を受賞したことである。

 だが大フィルにはすでに、創立者で常任指揮者でもある朝比奈隆氏がいる。自信家で、向こう意気が強く、こと音楽に対し

ては妥協を知らないU氏にとって、大フィルはそれほど居心地のよい所ではなかったのであろう。就任して二年後にはもう、

関西の若い音大卒業生やアマチュアを集めて、ビエール室内合奏団を組織した。

 自らの合奏団を組織したU氏にとって、もはや障害は何もなかった。若くて純粋な楽員達に、自分の信ずる音楽をひたすら

叩きこめばいいのである。その特訓は、部外者の見学を禁止するほど厳格をきわめたが、楽員達は教祖に従うような柔順さで、

文字通り汗と涙のしごきによく堪えた。その結果が、再度の大阪文化祭賞につながったのである。

 しかしこれ位で満足するU氏ではない。この二年後には新しく管楽器のメンバーを加えて、楽団の名称もビエールフィルハ

ーモニックと改め、本格的なオーケストラとしての第一歩を踏みだしたのである。

 と同時に、この年、U氏はルーマニアから招待を受け、ルーマニアの三大オーケストラを指揮して、大好評を博する。続い

てその翌年、昭和五十一年にも、ビエール室内合奏団のメンバーと共に、再びルーマニアに招待されて、ルーマニア音楽祭の

オープニング・コンサートで演奏し、アンコールを一時間もやらなければならないほど絶賛を博したという。

 その後も毎年のように、U氏はルーマニアから招待を受けている。これは彼の音楽がいかにルーマニア国民に感銘を与えた

かという証しでもある。

 ルーマニアでの成功をもとに、国内でもU氏は、ビエールフィルハーモニックを大フィルに対抗して、大阪第二のプロ・オ

ーケストラに育てあげるために心血を注ぐのであるが、朝比奈隆氏などは、ビエールフィルハーモニックの成長にいい顔はし

なかったようである。 

 人材の絶対数が少ない大阪で、ふたつもオーケストラを作っては、お互いにつぶし合いになるという理由からである。

 天下無敵のU氏にも泣き所はあった。お金がないということである。お金がなくては、固定した団員を置くことができない。

したがって演奏会は、毎回、半分以上エキストラ・メンバーで補うことになる。これではいい演奏は望めないのである。

 お金をかけずに固定メンバーをふやす、ということで考えだしたのが、ある程度時間の自由がきくアマチュアの奏者達を仲

間にいれることであった。アマチュアにとっては、プロにまじって弾けるだけでいい勉強になるのだから、プロのように、一

時間につきいくらの練習料をよこせ、などとは言わないからである。

 この頃のU氏はよく人に、「アマチュアの方が素直でいいのです」と言っていたが、そればかりでもなかったのである。

 そういう訳でビエールフィルハーモニックには、常時、数人のアマチュアが入って弾いていた。比較的年輩の人が多く、会

社社長だとか、白髪の医師とか、現役を引退した建築家といった顔ぶれであった。

 ちょうどその頃である。知りあいの楽器商のM氏が私に、「Uさんがビオラ弾きを探してるようだから、一度練習を見に行

きましょう」と誘ってくれたのである。私も興味があったから、気軽に、見学でもするつもりでその言葉に乗ってしまった。

 当時ビエールフィルは、大阪城のそばの国民会館を練習場にして、本番のない日は毎晩ここで練習をしていた。

 夜、練習をするということは、ふつうプロのオーケストラとしては考えられないことであるが、当時のビエールフィルにと

って昼間は、団員が生徒を教えたりして、生活費を稼ぐ時間として、あけておかなければならなかったのである。これは同時

に、昼間つとめのあるアマチュアにとっても好都合だった。

 こっそり練習を覗くくらいのつもりで、付いていったはずだったが、着くや否や指揮者に紹介され、すぐに後の方で弾くこ

とになった。といっても、その時ビオラはふたりしかいなかったのだから、前から二列目である。

 ビエールはビオラ地獄だ、という噂は聞いていた。指揮者のビオラに対する要求が特に高く、ビオラばかりが集中的にしご

かれるという意味なのである。さすがに初顔の私には何も言わなかったが、前のふたりは、後で見ていても気の毒なほど、し

つこくしごかれた。しごかれたというより、いじめられたという方がいいかも知れない。

 トップの女性などはその日、風邪気味で、熱でもあるのか、最初から浮かぬ顔をしていたのだが、しまいに、

「そんな陰気くさい顔、見たくもない。かえれ帰れ」と、顔にまでとばっちりを受けだした。だがその女性は唇をかんで、じ

っと堪えながら、「いえ、弾きます」と答えて、相手にしなかった。この強さも、結成以来七年かけて鍛えあげられた賜物な

のであろう、聞きしにまさる恐ろしい所のようだ。こんな所にはあまり深入りしない方がよさそうだ、とその時考えた。

 ところがその日の帰りがけ、ふと指揮者が、

「きょうは新しい人が見えたから、一緒にお茶でも飲みましょう」と、みんなを近くの喫茶店に誘ったのである。これは全く

意外であった。せっかくの好意を無にするわけにもいかず、そうかといってまんまと乗ってしまえば、ずるずると引きずりこ

まれることになりかねない。

 結局、その夜のお茶を飲んだことが、それからビエールフィルが消滅してしまうまでの、つまりU氏がビエールフィルをや

めて、東京に帰ってしまうまでの五年間、私がこの楽団に入りびたりとなる運命を決めたのである。

 ビエールに見習い丁稚のような格好で在籍した五年間、私は仕事の都合がつくかぎり、練習や本番に参加した。そうしてこ

なした演奏会は百回ちかい。ある年の十二月などは、ひと月の間に、二十回ちかく演奏会に出たこともある。

 演奏会というのは、学校まわりの音楽教室や、一度オーケストラをバックに弾いてみたいと考えている新進ピアニストが催

すピアノ協奏曲の夕べや、第九の伴奏や、オペラやバレーの伴奏といった、オーケストラにとっては客の入りに関係なく一定

の収入が得られる、いわゆるお座敷と呼ばれる演奏会がほとんどであった。

 そんな中にまじって時折、採算を度外視して、オーケストラ自身が主催する定期演奏会や特別演奏会と称する演奏会もあっ

た。私が出演したものでは、ウィーンフィルやベルリンフィルのトップ奏者達との共演や、世界的プリマドンナ東敦子氏をソ

リストに迎えての、オペラアリアの夕べなどがある。

 私にとってビエールでの五年間は、緊張の連続であった。特に練習の時は、こと更だった。

 一般に、指揮者が主導権を持つのは練習の時で、本番になれば立場は逆転して、楽員の方が強くなる。ウィーンフィルなど、

気にいらない指揮者に当たると、本番で謀反をおこして、指揮棒を無視した演奏をすることもあるという。要するに、楽員に

とって指揮者が怖いのは練習の時だけ、と言っても過言ではないのである。

 私もU氏の練習の時は、いつも震えながら弾いていた。あまりの怖さに、じんましんのかゆみさえも忘れたことがあった。

U氏はいつか、「私は体調のわるい時でも、音楽すると治ってしまう」と言ったけれども、私のじんましんは治ったのでは

なく、忘れていただけで、終わると又かゆくなった。

 U氏は練習中に、楽員のだれか気に入らないことがあると、その楽員を名ざしで面罵する。ひどい時は指揮棒を投げつける。

又、近い場合は、指揮台をかけ降りてきて、指揮棒を突きつけて、「殺すぞ」と怒鳴ることもある。私も一度だけ、この恐怖

を経験したことがある。

 チャイコフスキーの交響曲第五番を練習している時であった。当時は、たまたまビオラの正団員がひとりもいなかった時期

で、本番の前日になればエキストラがすべて揃うのだが、それまではいつも私ひとりでビオラを弾いていた。特にその日は、

管楽器までがほとんど揃っていたのに、どういうわけかビオラは私ひとりであった。こうなると私の責任は重大である。とこ

ろが責任がいくら重大であっても、私には一方で、見習い丁稚だというひけ目があるから、そんなに大胆にも弾けない。

 一般に西洋音楽のフレーズは、小節の頭ではなく、その一拍前のアウフタクトから始まるのが普通である。だから指揮者が、

何々小節からと言って振り始めても、楽員は気をきかせて、その一拍前のフレーズ頭から音を出すことが多い。

 その時は、ビオラパートにだけアウフタクトがついていたのに、私はその音を一瞬まよったために、弾き落としてしまった。

と同時に、指揮者が指揮台をかけおりてきて、「弾け。殺すぞ」と叫んだのである。

 これには私も参った。いくら何でも、少し乱暴な言いかたである。席を蹴って帰ってしまうほどの勇気もないまま、私はそ

の場にふてくされていた。謝る気もしなかった。

 U氏が怒るのは練習の時だけで、本番では楽員がどんなミスをしても怒らない。又、怒っても仕方がない。それは自分でも

解っているようで、いつか練習のとき、ホルンのA氏に向かってこんなことを言った。

「私が怒るのは練習の時だけです。本番ではあなたがたが何をしても怒りませんよ。そうでしょう、A君。君が昨夜、第九の

三楽章でボロボロになった時、終わってからあなたの後を追っかけましたか」

 それを聞いたA氏は即座に、「それが後を追ってるんです」と反論した。この小さな反撥は、後の管楽器奏者達の指揮者ボ

イコット運動を暗示するものであった。

 本番でのミスは気にしないはずのU氏が、一度だけ、本番後に楽員のひとりをつかまえて、つめ寄っている所を目撃したこ

とがある。

 東敦子氏のオペラアリアの夕べでの出来事だった。有名なオペラアリアばかり六曲集めたプログラムだったが、間にオーケ

ストラだけの演奏で、序曲や前奏曲が数曲はさまれていた。

 六曲のアリアの中の一曲である、ワーグナーの楽劇「タンホイザー」の「エリザベートのアリア」の前にも、序曲がはいっ

ていた。この序曲は演奏時間が十分以上かかる大曲なので、その間ソリストは舞台の袖で待ち、序曲が終わってから出てくる、

という段どりになっていた。

 ところがどういう訳か、東敦子氏は、序曲の始まる前に出てきてしまったのである。それを見たU氏は、一瞬うろたえたよ

うだった。が、すぐに平然と指揮を始めた。東敦子氏もそのうち自分のミスに気づいたはずであるが、今さら引っこむわけに

もいかず、何もなかったような顔で、序曲が終わるまで、舞台中央に立ちつくしていた。

 その夜の演奏会は、そんなことが問題にならない程すばらしいものだったから、聴衆も演奏者も十分満足したように思われ

たけれども、U氏だけはそれでは済まなかったようである。終わるや否や、当夜ステージマネージャをしていたパーカッショ

ンの女性をつかまえて、たいへんな剣幕で怒りはじめた。うっかり舞台にとびだした東敦子氏を、なぜすぐに止めなかったの

かと言うのである。私は楽屋に帰る途中、ふたりの横を通りながら、叱られている女性の方に同情した。

 U氏の癇癪の相手は、楽員ばかりとは限らない。ソリストに対しても同様である。

 現在の日本は、音大のピアノ科を出たピアニストたちで溢れている。あまり多すぎて、彼女達には、よほど優秀か、よほど

運がよくなければ、オーケストラを伴奏にコンチェルトを弾く機会など巡ってこない。その彼女達が、どうしてもその夢を実

現したい場合どうするかと言えば、お金の力を借りるしかないのである。つまり同志が三人集まって、ひと晩オーケストラと

ホールを借りきり、ピアノ協奏曲の夕べを開くのである。

 大阪では現在、月に数回は、この種の演奏会が開かれている。私がビエールにいた五年間でも、つきあったピアノ協奏曲だ

けで、延べにして百曲近いはずである。

 要するにこういった演奏会は、オーケストラにとってありがたい収入源であり、彼女達はソリストでもあり、又スポンサー

でもあるのである。

 このありがたいスポンサーに対しても、U氏は徹底的に自分の音楽を押しつけて妥協しなかった。あるピアニストは自分の

演奏会に友人を誘う時に、「でも私の音楽じゃなくて、指揮者の音楽だから、そのつもりで聞いてね」とつけ足したそうであ

る。

 又ある時、ひとりの老練なピアノ教師、といった感じの婦人がソリストになり、モーツァルトの協奏曲を弾いたことがあっ

た。その練習をしていた時のことである。この時は、特に指揮者と肌が合わなかったようで、U氏はソリストのする事なす事、

ことごとくケチをつけた。

 ピアノの大家の中には、時々、上行のアルペジョを弾き終わったところで、格好よく右手をあげてポーズをとる人がある。

この婦人もそれを真似たのか、アルペジョの終わりに、おずおずと右手をあげた。とたんにU氏が、

「そういうことは、ちゃんと弾き終わった人がすることです。あなたはしてはいけません」と怒鳴りつけた。この思いがけな

い言いがかりにも臆することなく、この初老の婦人は、長音の和音をたたいた後、今度は、鍵盤をおさえた両手を、深い思い

をこめて前後に揺らし始めた。と同時に、又もや指揮者が、

「そんなことをしても、いい音は出ません。やめて下さい」と言った。

 こと音楽に関しては、一切妥協を許さないU氏だから、いくらスポンサーであろうと、一緒に音楽するかぎりはみじんも容

赦しない、という態度は理解できないことはない。ところがU氏は、自分を贔屓にし、力を貸してくれる大事な後援者にまで

喧嘩を売って、敵にしてしまうことがある。

 大阪のある小学校の講堂で、生徒を対象にした、音楽教室をしていた時のことである。

 会場に集まった生徒の中にひとりだけ、落ちつきがなく、たえず奇声を出す生徒がいた。気になって演奏できないU氏が、

演奏を中断して客席の方に振りかえり、その生徒につき添っている若い男の先生に向かって、頭の上で人差し指をまわし、す

こし頭がおかしいのか、という意味の身ぶりをしたのである。

 その身ぶりが気に入らなかったのか、若い先生は突然大声で、U氏に向かって抗議をはじめた。

「何ですかその態度は。生徒に対して失礼ではないですか。謝って下さい」

 が、U氏も負けてはいない。

「いえ謝りません。謝るのはそちらでしょう。それならそうとどうして事前に仰ってくれないのですか。これでは演奏できま

せん」

 謝るの謝らないのと、およそ音楽会らしくない大声の押し問答が、舞台の上と下から、数分間くり返された。

 この場合は、生徒の手前だという自制心がお互いに働いたのか、別に仲裁もなく収まったけれども、大人ばかりの場合は、

仲裁が入らないと収拾がつかなくなることがある。

 あるライオンズクラブの主催する式典の伴奏を頼まれ、その予行演習をしていた時のことである。表彰を受けるためか何か

で、十数人の会員が、行進曲にあわせて舞台にあがる練習をしていた。曲はエルガーの「威風堂々」である。ところが歩き方

がどうもダラダラとして、曲にそぐわなかった。

 とたんにU氏は指揮をやめて、行進中の会員に文句を言いはじめた。

「何ですかあなた方のその歩き方は、だらしない。そういうことだから日本は戦争に負けるんです」

 これには一同唖然とした。と同時に、ビエールフィルの後援会委員でもあり、この式典の主催者でもあったひとりの実力者

がとび出してきて、まあまあということでU氏をなだめ、その場はなんとか収まった。

 自分に正直なあまり、誰に対してもすぐ攻撃的になるU氏の性格は、本人にとっては勿論、オーケストラにとってもマイナ

スの要素が大きかったけれども、一度だけプラスに働いたことがある。

 ある晩、ビエールフィルの演奏会を、サントリーの佐治敬三氏がこっそり聞きにこられた。そして演奏に感激した佐治氏は、

終演後、楽屋にU氏を訪ね、激励したそうである。ところが佐治氏の励ましに対してU氏はずけずけと、

「そんな言葉は結構です。それよりお金を出して下さい」と言った。この率直だが、少しばかり失礼な要求に対して、佐治氏

は顔色も変えずに、「よし、わかった」とだけ言い残して帰ったという。

 約束はすぐに守られた。佐治氏の音頭で、関西の大企業十社が集まって、ビエールフィルに助成金を出してくれることにな

ったのである。これはビエールフィルにとって、大きな励みとなった。

 それまでの貧乏所帯では、管楽器の各パートのトップ奏者でさえ、ほとんど毎回エキストラで間に合わせていたのだが、そ

れからは徐々に、若くて優秀な奏者を、固定の団員として置けるようになった。わざわざ東京から呼びよせた奏者も何人かい

た。

 この頃がビエールフィルの歴史の中でも、最もめざましい発展の時期である。しかしこの発展が同時に、U氏にとっては、

失脚の始まりにもなったのである。

 弦楽器のおもだったメンバーはすべて、団の発足当初から、U氏と苦労を共にしてきた人達である。指揮者と一心同体とな

って、どこまでも付いていく覚悟ができている。それに比べると、管楽器のメンバーは新しく、昔の苦労など知らない。入団

したのも生活のためで、別にU氏に傾倒しているわけではないから、U氏が一所懸命になればなるほど、彼らの心は指揮者か

ら遊離していく。そして、指揮者が何か言うたびに、管楽器奏者の誰かが反撥するという光景が、毎回見られるようになった。

この反撥が、指揮者ボイコット運動へと発展していくのに、時間はかからなかった。

 やがて毎日のように、練習が終わってから、楽員会が開かれるようになった。私は楽員ではないから、そこで何が話されて

いるか知るよしもなかったが、なかなか物々しい雰囲気であった。

 U氏も当然その雰囲気は感じているから、お互いに不信感がつのるばかりで、練習は日に日にギスギスしたものになってい

った。

 このくすぶり続ける火に、油を注ぐ結果となったのが、U氏の暴力事件である。

 真相は不明だが、聞いたところによれば、ある日、関西ピアノ界の大御所的存在の先生が、自分の弟子のレッスンをU氏に

頼んだ。ところがU氏は、演奏を聞いてみると、自分の音楽とあまりにかけ離れていて、レッスンする気にもならず、癇癪を

おこして帰ろうとした。その時、止めようとした先生を、U氏が突きとばしたというのである。

 突きとばされた先生は、翌日学校で、仲間の先生達にすぐに報告した。もともとそういう話は広がりやすいものだから、そ

の日のうちに、関西のすべての音大生に、ビエールフィルからエキストラの依頼があっても行かないように、という指令が飛

んだのである。

 困ったのは、ビエールフィルの各パートの責任者である。彼らは演奏日程が決まると、ひと月以上も前から、すべての演奏

会に必要なエキストラを集めるために、毎晩、電話の前に釘づけになっている。それが急に、どこに電話をしても、断られる

ようになったのである。

 その原因がU氏の暴力事件にあると知った時、彼らの怒りは頂点に達した。オーケストラ内の混乱は、収拾のつかないもの

となり、もはや音楽のできる状態ではなくなった。

 数年前からオーケストラの経営をまかされ、事実上のオーナーであったO氏は、この状態を見かね、思いきってU氏に辞任

を促したのである。

 まもなくU氏は、個人所有で、ビエールフィルのレパートリーの大半を占めていた、楽譜類をすべてまとめて、東京に帰っ

ていった。昭和五十六年の終わり頃である。

 年があらたまると同時に、ビエールフィルは名称を関西フィルハーモニー管弦楽団と改め、常任指揮者に若手の小松一彦氏

を迎えて、再発足した。

 その後の成長ぶりは、誰もが目をみはる程で、今や、名実共に大阪第二のオーケストラとして、大阪の地にしっかりと根を

おろした感がある。さらに最近は、大阪府の運営する吹奏楽団が、新たに弦楽器奏者を採用して、第三のオーケストラとして

活動を開始している。

 大阪を追われ、大阪を捨てたU氏が、大阪に残した功績は大きいのである。と同時に、私の心の中に残していった音楽の置

き土産も、はかり知れず、私の生涯の貴重な財産となることであろう。

 その後、U氏の消息はほとんど聞かないが、わずかにもれ聞くところによれば、U氏がたまたま神戸に出てきた時、大阪の

知人に電話をして、大阪にはもう二度と降りたくない、と漏らしたそうである。