占 い 嫌 い

 

 すべて占いと名のつくものに興味がない。嫌いといってもいい。もちろん信じない。子供のころから手相、人相、おみくじ、

カード占い、占星術、四柱推命等、すべて縁のない生活をおくってきた。すくなくともこちらから積極的に接触することは避

けてきた。

 と大見得をきりたいところだが、いいことを言われるのは別にわるい気がしないし、それどころか、むしろ積極的に聞きた

いというところもあり、今までの人生で、まったく占いに縁がなかったというわけでもない。

 占いというものがあることを最初に知ったのは、私が小学校に入ったばかりの頃だった。母が何かの雑誌で勉強したのだろ

う、私の手相を見たのか、姓名判断をしたのかはっきり覚えていないが、なにか占いをして、「たかしは大器晩成型や」と言

ったときだった。

 もちろんその時の私は大器晩成などという言葉は知らなかった。天才型とちがい、年をとってから成功するタイプだと聞か

されて、人生、慌てずこつこつとやっていれば何とかなりそうだというおぼろげな自信を、その時に得たような気がする。と

いうことは、その時は占いだからといって疑うこともせず、母の言うことを素直に受け入れたようだ。

 その後は、二十年以上にわたって占いとは縁がきれてしまい、つぎに占いと出会うのは三十代にはいって、結婚して子供も

できたころである。

 用事で下関に帰省した帰りに、京都駅構内のあるレストランでひとりで食事をしていた。混んでいたので、席は相席だった。

そのとき私の向いに座っていた老人が突然、話し掛けてきて、変なことを言い出した。

「私は高嶋易断をしているもんだが、あんたは将来かならず成功する相をしとる。しかし、なにを決めるにも独断専行は避け

て、奥さんとよく相談してからにせなあかんな」

 なにを根拠にそんなことが解るのか知らないが、成功はともかく、独断専行はおおいに心当たりがある。私は、女というも

のは本能的に目先のことだけを見る癖があり、男の深慮遠謀は理解できないものだとあきらめているから、人生の大事な決断

は家内に相談しないことにしている。相談すれば反対されるにきまっている。

 だからその後も、老人の注意を無視して、自分のやり方をかえてはいない。

 つぎに占いが登場するのは、今から二年ほど前のことである。

 音大の学部を終えて、つぎの進路に迷っていた娘が、近くのスーパーマーケットにテレビで有名なある女性占い師がきてい

るのを聞きつけて、早速伺いをたてに行ったようである。そして喜んで帰ってきて言うには、その占い師は娘にむかって、

「大丈夫です。あなたの家には蔵があるから、大学院に進学するなり留学するなり好きなようにしたらいいでしょう」

 と言ったというのである。

 これには私の方が目をむいてしまった。わが家にはがらくた入れの物置はあるが、蔵などない。それは娘もよく知っている

はずである。そんな物があるなら、こちらが教えてほしい。一度、その占い師に問いただしてみる必要がありそうだ。

 と、憤慨しながらも、すこしばかり興味がないこともない。面白そうだから、ついでに私も見てもらおうかという気になり、

それで翌日、のこのこと出かけていった。

 占いコーナーは、三階売場の一角につくられていて、女性の先客がひとりいたが、すぐに終ったので、だまってその前に着

席した。名前と生年月日を聞かれて、答えると、紙のうえに何やら書いては計算のようなことをしていたが、ほどなくして、

「あなたはこの十年ばかり、仕事でも健康面でも非常に苦しかったはずです。でもそのどん底も今年あたりで終りで、これか

らの十年は運がひらける一方です。これからは順風満帆、なにをやってもうまくいきますよ」

 というなんとも嬉しい占いが返ってきた。

 しかしよく考えると、嬉しいのは後半の予言部分だけで、前半は心当たりがない。私はこれまで健康面で苦労した覚えはな

い。又、仕事面での苦労とは何だろうと考えてみた。ひょっとして一昨年、人事異動で突然、技術職場から、およそお門違い

の経営企画室などに行かされて、一時は会社をやめようかとまで悩んだことがある。そのことだろうか。けれども、あの異動

にしても、最初だけ取越し苦労で悩んだけれども、慣れるとそんなに苦労ではなかった。とするといよいよ心当たりがない。

 これまでのことが当たらないのに、今後の予測が当たるはずがない。しかし、結果的には悪いことを言われたのではないか

ら、あまり追求しないでおこうなどと考えながら、納得したようなしないような顔をしていると、

「ほかに何か聞いておきたいことはありますか」という。

 ここで、わが家の蔵をもちだすのもおとな気ない気がしたのでそれはやめにして、至極まともに、

「今、会社をやめて転職しようかと考えているところですが、どうでしょうか」

 と聞いてみた。

「大丈夫です。これからは何をやっても大丈夫です」

「今までの仕事とはなんの関係もない、趣味のビオラを弾きたいと考えているんですが、それでも大丈夫ですか」

「大丈夫です。芸術面でもお金がもうかると出ています」

 なんと無責任なことを言うものである。いいことを言われるのは悪い気はしないものだが限度がある。ここまで保証される

と、かえって嘘っぽくなる。

 母の占いと、高嶋易断が私のこれまでの人生でそれなりに力になったことは事実である。失意の時、自分は大器晩成型だ、

又、成功とはどういうことか解らないけれども、解らないなりに将来かならず成功するのだと自分に言い聞かせることができ

たことは大きな力になった。ということは、占いを信じないと言いながら、実は内心では信じていたのかもしれない。しかし

今回の占いだけはとても信じるわけにはいかない。

 現に、それから二年の間に、世の中は不況のどん底に陥り、私の勤めている会社でも、手当てのカットや賞与の減額などで

収入は一割以上すくなくなったばかりか、健康面でも最近、尿管結石にかかり緊急入院したり、たえず襲ってきては数時間持

続する激痛に七転八倒したりと、今までに経験したことのない苦労をした。

 これでも順風満帆といえるだろうか。今までの十年よりひどくなっている。しかし、それくらいの苦労は世間では当たり前

で、年収の一割変動などサラリーマン以外なら当然つきものであり、尿管結石にしても別に命とりの病気というわけではなし、

長く生きてきた垢がたまったようなものだから病気ともいえないと言われればそれまでである。

 そういう見方からすれば、現在も私は順風満帆のなかにいることになる。つまりどんな苦労でも、それは神があたえ給うた

試練だと考えれば、苦労ではなくなってしまうように、占いにも逃げ道はいくらでもある。だから占いは信じられないのだが、

もし万一、今まで出会った占いがほんとうに正しいのなら、そろそろ私にも成功とやらがやってきてもいい頃である。

(2000.5.2)