演 奏 と チ ュ ー ニ ン グ

 

 チューニングとは音合わせのことである。

 オーケストラや室内楽が美しいハーモニーを響かせるためには、まずチューニングが正確でなければならない。もちろん演奏

技術がともなわなければ、いくらチューニングが正確でも響きは良くならないが、一般に行われている演奏を聞いていると、演

奏技術のわりにはチューニング技術が釣り合っていないように思われる。

 先日、ハンガリー国立交響楽団の演奏会を聞きに行った。

 一曲目はハンガリーの作曲家コダーイの作曲したガランタ舞曲で、チューニングも申し分なく、一糸乱れぬ演奏に感心した。

そして二曲目が、私が今回のプログラムの中でも最も期待していた、ハンガリーの現代チェロ界の俊英ミクローシュ・ペレーニ

独奏によるドボルジャークのチェロ協奏曲であった。

 しかしその期待は、オーケストラが第一楽章の前奏部を弾き始めると同時に裏切られてしまった。一曲目であれほど完璧に決

まっていたチューニングが、二曲目に入ったとたんにかなり杜撰になっているのである。

 さらに、長い前奏が終わって、ソロが冒頭のパッセージを弾き始めると、益々おかしなことになってきた。ソロとオーケスト

ラの間のチューニングも合っていないのである。オーケストラ内部でもバラバラなのだから、ペレーニとしても合わせようがな

いのかも知れないが、それにしても、最後までどちらからも合わせようとしないままに、曲が終わってしまった。

 こういう演奏を聞かされると、ひょっとしてオーケストラとソリストの間の人間関係がうまくいっていないのではと邪推した

くなる。

 その後に演奏したブラームスの交響曲第一番や、アンコールのハンガリー舞曲第五番は、再び輝くような素晴らしい演奏に戻

ったけれども、私が最も期待していたドボルジャークが聞くに耐えないものであったので、結果的にこの演奏会は、私を満足さ

せてくれなかった。

 以前、私が宇宿允人氏の率いるビエール・フィルハーモニック(現在の関西フィル)でビオラを弾いていた時、ウィーンフィル

のコンサートマスターのゲアハルト・ヘッツェルとビオラのルドルフ・シュトレンクの両氏をソリストに迎えて、モーツァルト

の協奏交響曲を演奏したことがあった。

 その時、私が感心し、今でも印象深く覚えているのは、ヘッツェルとシュトレンクがお互いの楽器がくっつく程近づけあっ

て、真剣に音を合わせていた姿である。いくらコンサートマスターといえども、若いヘッツェルのシュトレンク翁に対する畏敬

の念がはた目にも感じられて、気持ちのよいものであった。音の調和はまず演奏家同士の心の調和からと言うこともできるよう

である。

 精神論はさておき、次は物理的に音を合わせる実際問題の方である。

 複数の楽器を使った演奏では、必ず演奏前にチューニングが必要である。普通はすべての楽器が一斉にAの音を出して、それ

がひとつの音として聞こえるように、弦の張力や管の長さを各自で調整するのである。

 Aの音の振動数は現在、国際規格で一応四四〇ヘルツということに決まっている。しかし一般にはこれより高いAの音を使用す

るのが普通で、いくらにするかは楽団毎に異なり、高いところでは四四七ヘルツというオーケストラもある。そしてこの振動数

は時代と共に高くなる傾向がある。それは、一度高いAに慣れると、それより低いAは気持ちが悪くて耐えられないという人間の

特性によるものと思われる。

 オーケストラの場合、まずオーボエが基準となるAの音を出して、全員がそれに合わせるという形をとる。オーボエという楽

器は比較的音程が安定しており、しかも基準としても合わせやすい性質の音色をしているからである。

 オーボエのない小編成の室内楽などの場合、リーダーが基準のAの音を出す場合が多い。チューニングとは要するに、この基

準のAの音に自分のAの音を完全に一致させることがポイントで、口で言えば何でもないが、実際はこれがそれほど容易ではない

のである。

 世界の一流オーケストラともなると、さすがにチューニングの能力も優れていて、瞬時にして音が一本にまとまり、聞いてい

ても気持ちがいいが、普通はそうはいかないのである。

 チューニングの能力のない人が、基準のAに合わせているつもりで、違ったAをいつまでも鳴らし続け、他のメンバーがそれに

幻惑されて、正しいチューニングができなくなり、その結果、大幅に音が分散したままで演奏開始ということがよくある。しか

もこういった状況はアマチュア・オーケストラに限ったことではなく、プロのオーケストラでも時々みかけることがある。

 舞台に上がってから完璧なチューニングをすみやかにこなすためには、メンバー全員にそれ相応の耳がなければならないが、

アマチュア・オーケストラなどではとてもそれは無理な相談であるから、そういう場合は、あらかじめ舞台に出る前に計器など

を使用して全員のチューニングを済ませておき、舞台上ではチューニングのまね事だけするというのも一方法である。

 それではチューニングに必要な耳とはどのような耳かというと、それはひと口で言えば、基準のAの音と自分のAの音が完全に

一致した瞬間を判定する耳である。ふたつの似かよった振動数の音が同時に空中に発せられると、空中でまじり合って、ふたつ

の振動数の差の振動数でうなりが発生することは学校の物理で習う。つまり一ヘルツ違っているふたつの音が空中でまじりあう

と、一秒間に一回うなりが出ることになる。このうなりが耳ざわりで不愉快なもとであって、完全に一致するとうなりが消え、

ふたつの音が渾然一体となって溶けあうのである。

 脳の中でのこの判定作用は、快いかどうかという完全に感覚的な判断であって、決して論理的なものではない。ということ

は、この判定は右脳がつかさどっているものと思われる。

 一般に右脳が処理する仕事は、現在のコンピュータではなかなか手が出ない領域である。そしてコンピュータの出来ない仕事

でもやってのけるのが人間である。およそ脳の機能というものは、正しく訓練さえすれば、死ぬまで発達し続けるものである

が、いい加減に自分を甘やかしていたのでは、永久に能力にならないのは当然であって、自分の音が狂っていることを認める柔

軟さと厳しさがなければならない。

 うなりの概念を使ってチューニングを定義するならば、チューニングとは基準の音と自分の音とがまじりあって発生するうな

りを聞きとって、うなりがなくなるように自分の音を調整することであると言える。

 うなりが出るのはふたつの音が同時に鳴っている時であるから、別々に鳴らしたのでは正確なチューニングはまずできない。

基準の音を一瞬のうちに記憶し、その記憶した音に自分の音を合わせるということは、そういう特殊な訓練をした人にだけでき

ることで、ふつうは記憶した音と自分の音の間にはうなりが発生しないので、正確を期すことができないのである。

 結局、チューニングとは如何にうまくうなりを聞き分けるかという問題になる。これはピアノの調律でも同様であって、微妙

なうなりが聞き分けられるか否かによって調律の精度が決まるのである。

 ではどうすれば微妙なうなりが聞き分けられるようになるかと言えば、耳を訓練することとなるが、それ以外にも聞きとり易

くするためのコツがないことはない。それは基準の音と自分の音を同時に、しかも同一の耳で聞くことである。

 私が以前、ふたつの発振機を使って実験したところでは、それぞれの発振機出力を別々のイヤホンで左右の耳に入れた場合、

頭の中にはっきりしたうなりが発生しないのである。これは、左右の聴覚神経の情報が、脳内の交叉点においても足し算されな

いためと考えられる。高校でならう三角関数の公式からもわかるように、足し算されないことには、うなりの成分は発生しない

のである。うなりが発生しなければ、一致した瞬間の判定もあいまいなものになる。

 やはりうなりは空気中でミキシングされたものを聞かなければ、聞こえないということになる。そのためには、自分の音と基

準の音とが同一の耳から入ってくるように、体の向きを変える必要がある。

 バイオリン弾きやビオラ弾きは、自分の出している音の殆どを左耳で聞いているし、フルート吹きは右耳で聞いている。した

がってバイオリン弾きはチューニングの時、基準のオーボエの音が左耳から聞こえるように体を向けたほうが、うなりが聞きと

り易いのである。チェロのように自分の音が両耳に均等に入ってくる楽器では、まず頭を左右のどちらかに振って、どちらか片

方の耳にだけ入ってくるようにしてから、基準の音も同じ耳に入ってくるように、体全体の向きを変えればよいのである。

 うなりがはっきり出るためには、ふたつの音の音量が等しい方がよい。そのためにまず、基準の音と自分の音がほぼ同じ音量

で聞こえるように、自分の音を加減するのである。最初、音が合っていない時は、ふたつの音が別々に聞き分けられる。言いか

えれば、この状態ではまだ相手の音が聞こえるのである。

 ところが自分の音を徐々に基準の音に近づけていくと、そのうち急に相手の音が聞こえなくなる瞬間がある。そこが一致した

点であって、この時点ではふたつの音が渾然一体となって溶けあっているから、相手にとってもこちらの音は聞こえていない。

この相手の音が消えてなくなるという感じを体得することが大事なのである。

 普通、チューニングの良くない人というのは、十人が十人まで、基準の音より高めに合わせる傾向がある。これは無意識のう

ちに、自分の音が埋もれてしまうのを恐れているためで、高めにとれば確かに自分の音が目立つのである。ソリストなどはこれ

を逆手にとって、意識的に高く合わせる人がいるが、程度問題で、高すぎて不愉快に感じる場合もある。

 この少し高めに合わせるということは、ソリストにはある程度許されても、オーケストラ奏者やアンサンブル奏者には決して

許されないことである。そのような方法で自分を主張することは、アンサンブル奏者として邪道なのである。ふだんは全体の中

に自分を埋没させておき、ここという時にだけ自分を主張し、又すぐ引っ込むという微妙なかけひきが、アンサンブルの醍醐味

と言ってもよい。そういう意味で、常時めだちたい人はソリストならともかく、アンサンブル奏者には適さないということにな

る。

 ここまではチューニングについて主に、基準のAの音に自分のAを合わせることばかり述べてきた。だが弦楽器の場合、その後

に残りの三本の弦を合わせる作業が残っている。バイオリン、ビオラ等は隣あわせの二本の弦を同時に弾き、完全五度のハーモ

ニーを耳で聞きながら、他の弦を合わせていくのであるが、この作業は奏者にとってはAを合わせるより楽なのである。それは

小さい頃から先生に合わせてもらった正しい完全五度の響きが、自然に身についているからである。しかし、いくら簡単だから

といえども妥協は禁物で、完全五度がこれ以上美しく響く所がないという究極のポイントを追及しなければならない。

 以上のことをたえず心がけて練習すれば、誰でも正確なチューニングができるようになる。ところがこの正確なチューニング

ということに、一見矛盾するような考え方もある。

 前にも出てきたビエール・フィルハーモニックでの話である。

 あるパッセージの歌い方について、ファースト・バイオリンのパートに注文をつけて、何度も弾かせていた指揮者が、

「そんなきれいに揃った音は、線が細すぎて嫌いです。少しずつ音程にずれがあった方が、音に広がりが出て、私は好きです」

と言ったことがあった。

 これはしかし完璧なチューニングができた上での、高度な芸術的要求であって、チューニングができなくて音程を乱すのとは

話が別なのである。