永 遠 の ソ リ ス ト

 

 京大オーケストラの先輩の中に、朝比奈隆と吉村一夫のふたりの音楽家がおられる。朝比奈氏は昭和六年の卒業で、現在、

大フィルの常任指揮者として活躍されている。吉村氏の方は、昭和九年の卒業で、先年亡くなられるまで、音楽評論家として、

サンケイ・コンサートセミナー・シリーズなどで広く活躍された。

 おふたりとも在学中から、モギレフスキーについてバイオリンを習い、はじめはバイオリンやビオラを弾いていたが、のち

に指揮者と評論家に転向した。いつかおふたりが会ったとき、朝比奈氏が、

「お互いに、音を出さない音楽家になってよかったな」と冗談を言われたそうである。

 吉村氏のガラガラ声の音楽解説は、わたしが学生時代、下宿のトランジスターラジオでよく耳にしたものである。

 氏の豪快でいて皮肉っぽい話しっぷりから、かなりやんちゃな人にちがいないと想像していたが、やはりその通りで、のち

に何かの会で同席したときに、氏がモギさんと呼ぶモギレフスキー先生から、

「おまえはバイオリンさえ弾かなければ、いい男なんだがなあ」といつも言われていたという話を伺った。

 その吉村氏がしばしば口にされた言葉に、『永遠のソリスト』という言葉がある。

 ふつうソリストといえば、音楽性、技量ともに人なみ以上にすぐれていて、ソロを演奏しても、聴衆をなっとくさせること

ができる人のことをいう。

 とすると、永遠のソリストというのは、いくら年をとっても技量が衰えず、死ぬまでソリストとして通用する人のことをい

うのかと思うと、そうでもないらしい。音楽的に偏狭だったり、技量が未熟だったりという理由で、だれからも嫌われ、仲間

に入れてもらえず、ひとりで楽器を鳴らすしかない、気の毒な人のことを言うらしいのである。

 だが当時のわたしは、そんなことはわたしに限って無関係である、と思っていた。

 その頃のわたしは、現在の関西フィルの前身であるビエールフィルハーモニックで、レギュラーのエキストラとして、ビオ

ラを弾きながら、指揮者の宇宿允人氏から、きびしくその音楽をたたき込まれていた。

 宇宿氏と吉村氏の音楽は、お互いに啓発しあっているのではないか、と思えるほど似かよっていて、とくにフレーズの頭と

してアウフタクトを重視する論法など、そっくりであった。その宇宿氏から、日夜、薫陶をうけているわたしが、永遠のソリ

ストになることなど考えられなかった。

 ましてその頃のわたしは、ビエールフィルハーモニック以外に、恩師の主宰する弦楽合奏やオーケストラも、頼まれて手伝

ったり、沖縄のオーケストラからエキストラの依頼が来たり、結構ひっぱりだこで、自分でもかなり気をよくしていた。

 ところが一方では、いつまでも気をよくしてばかりもいられない状況が、知らない間に進んでいた。その最初の兆候が、息

子の反抗となってあらわれたのである。

 わたしの三人の子供たちには、三才ころから、それぞれ違う楽器を習わせていた。長男にはチェロ、長女はピアノ、次男は

バイオリンで、ある程度ひけるようになったら、家族五人でピアノ五重奏でもしようという夢があった。

 私の家内は一応、音大のバイオリン科を出たバイオリン弾きである。

 そして一番ちいさい次男のバイオリンが、なんとか合奏で使えそうになった頃から、すこしずつその夢が叶いはじめた。

 合奏でなんとか使えると書いたが、三才から習いはじめて、すでに小学校の上級生になっている次男は、長期間かけて練習

した曲に関しては、わたしなどよりずっと上手にひきこなす。ただ、合奏経験という点では、わたしの方がはるかに年季をつ

んでいるので、新しい譜面を渡されて、すぐにその音楽を読みとって、ごまかしながらも合奏するという能力は、息子の比で

はない。

 だが、息子にはその点が理解できず、お父さんは自分より下手なくせして、合奏練習のとき文句ばかり言う、と思っている

ものだから、わたしがひとこと注意するたびに、かならず何か口答えをする。合奏練習で、メンバーがリーダーに口答えする

ようでは、練習などできない。そこでわたしは毎回、癇癪をおこし、持っている弓で譜面を叩きつけては、ハッとするのであ

る。

 弓というものは、ただの木の棒に馬の尻尾を張っただけにすぎないものだが、それほど安いものでもない。とくにわたしの

弓は、本体のビオラより高い。うっかり叩きつけて、折ったりしては大変である。

 亡くなられた桐朋学園の斉藤秀雄先生は、こわい先生として有名だったが、小沢征爾氏のレッスンのとき、やはり癇癪をお

こし、かけていた眼鏡を床になげ捨てて、靴で踏みつぶすシーンを、テレビドラマで見たことがある。迫力としては、この方

がはるかに上だが、値段の点では、眼鏡がいくら高いといっても、弓には及ばない。

 斉藤先生がそこまで計算しておられたか、などという話ではない。問題なのは、そんなことが二、三度あるうちに、息子が

わたしと合奏するのはいやだと言いだし、いつの間にか、わたしは家族の合奏からしめ出されていたことである。

 家族に対してだけでなく、わたしは外でも結構うるさくて、嫌われていたようである。そのうえ、自分から憎まれ役を買っ

てでるくせまであって、ますます話はやっかいになる。

 恩師の主宰する子供たちの合奏団に、ふだんはビオラがいないので、わたしは気をきかして、時間のゆるすかぎり、練習に

出席して手伝うことにしていた。

 一般に、おとなのプレーヤーが集まって合奏するときは、練習の開始時間より三十分くらい早くきて、会場の準備をしたり、

楽器のコンディションを整えておくとか、練習を能率よくすすめるために、雑談をしない、指揮者の注文は一度で聞いて、か

ならず譜面にメモする、弓づかいが変更になった場合は、すばやく譜面を書きかえる、といった暗黙のマナーがある。

 こういったマナーは、子供のころから、すこしずつ身につけるように教育した方がよい。ところが指揮をしている先生は、

音楽の注文はつけるが、マナーに関してはなにも言わないので、わたしは見かねて、この子供たちにプレーヤーとしてのマナ

ーをしつけるのは、おとなであるわたしの勤めだと思い、やかましく口をはさむことにした。

 先生にとっては、それが煙たくてしょうがない。ある日、先生はわたしを呼んで、

「きみは頼みもしないのに出てきては、雰囲気をこわす」と言われたので、それ以来わたしは、余計なおせっかいを一切やめ

ることにした。

 もうひとりの恩師である、下関の坂田先生が主宰するオーケストラでも、同じような失敗をした。

 ベートーベンの交響曲第一番の第三楽章「メヌエット」を練習しているときであった。

 バイオリンパートが、二分音符と四分音符からなる三拍子のリズムを、楽譜にスラーがついているからといって、スラーで

弾きはじめた。

 ふつう弦楽器の楽譜についているスラーは、ひと弓でひくという意味を示すもので、楽典でいうスラーとは意味のちがうこ

とが多い。とくにこの場合のように、後ろの四分音符にスタッカートの点がついているときは、はっきり分けてひかなければ

ならない。たとえスタッカートの点がついていなくても、この場合のフレージングは、後ろの四分音符の方が頭でなければな

らない。これをふつうのスラーでひいたのでは、フレーズが完全に逆になり、ちがう曲のように聞こえてしまう。

 このときも見かねて、コンサートマスターの女性に注意した。その女性は音大を出て、下関でバイオリンを教えている指導

者だったが、自分の後ろでひいている子供たちに向かって、わたしの注意を、「せめて楽譜通りに演奏しようよ」と言いかえ

た。

 その説明が気に入らないわたしは、早速、休憩時間に彼女のところに抗議しに行った。

「わたしは楽譜通りにひいてほしいと言ったのではない。正しいフレーズでひいてほしいと言ったのです。音楽表現は楽譜で

表現できない部分が多い。とくに欧米の音楽は、小節の頭がフレーズの区切りではなく、アウフタクトがフレーズの頭になる。

英語でもドイツ語でも、名詞がはだかで頭に置かれることはまずなく、かならず冠詞や前置詞が前についているでしょう。そ

れがアウフタクトです」と、宇宿先生の持論と、自分が日ごろ考えていることをミックスして、まくし立てた。

 そばでわたしの抗議を聞いていた、東京芸大から帰省中のべース弾きは、

「すばらしい説明です。いったいどこで勉強されました」と感心してくれたけれども、彼女の方はその場で卒倒してしまった。

 わたしが一番おとなしくしていたのは、やはりビエールフィルハーモニックで弾いていたときである。おとなしくしていた

といっても、根はうるさい方だから、地金がでるのは時間の問題であった。数年もすると、すこしずつ図々しくなり、チュー

ニングがすこしいい加減だったりすると、先頭にすわっているパートマスターに注意したりするものだから、面白くないパー

トマスターは、わたしのことをバックシートマスターだと皮肉った。

 ビエールフィルハーモニックからわたしへのエキストラ依頼がこなくなったのも、オーケストラの財政が安定して、正団員

をたくさん抱えられるようになったせいばかりでもないのである。

 ともあれ気がついたときには、わたしは誰からもお呼びのかからない『永遠のソリスト』になっていた。

 このような自分の性格のいやらしさに嫌気のさしていたわたしは、会社では同じあやまちを決して犯すまい、と最初から心

にきめていた。そのためにはまず組合に入り、ふつうの組合員として行動し、けっして目立たず、仕事でリーダーシップをと

ることなど、夢にも考えないことにした。

 そう考えていても、入社後二十五年もすると、課長を拝命せざるを得ない羽目になり、それを機会に、組合をやめてしまっ

た。するとすぐに、組合の活動家であるひとりの先輩が、わたしのところに説得にきて言った。

「きみは人を押しのけても出世したろうとするようなタイプやないし、孤立するだけやないか」

 わたしはすでに『永遠のソリスト』である。孤立することには慣れている。だがいくら慣れているといっても、孤立しない

に越したことはない。では孤立しないためにどうするかと言えば、また組合にもどるのではなく、これ以上偉くならないよう

にしようと考えている。

 偉くなれば必然的にリーダーシップを発揮せざるを得ない。ところがわたしのようにその器でない者がリーダーシップを発

揮すれば、かならず嫌われて、孤立するのが目に見えている。そのためにも、無用の心配かもしれないけれども、これから

万一、もっと出世するようなことにならないよう、ますます警戒しなければならないだろう。

 自分がこういう立場になってはじめて気づいたのだが、ひょっとすると吉村一夫氏は、自分自身のことを意識して、『永遠

のソリスト』という言葉を考えだされたのではないか、という気もするのである。