キ ャ ン プ は 道 づ れ
今年の夏はひときわ暑かった。
わたしの住む氷室台という所は、枚方市のなかでも特に標高が高く、別名、枚方のチベットなどと呼ばれている所で、氷室
台という名前自体、もともと近くに氷室という昔からの地名があったところから付けられたものだから、その名の通り、冬寒
く夏涼しい所である。大阪市内が熱帯夜のときでも、わが家は網戸にしておけば、ひと夏中、クーラーなどなくても気持ちよ
く寝られたものである。
それが今年はどういうわけか、朝起きると全身が寝汗でびっしょり濡れている日が多かった。そしてその度にわたしは、去
年の夏のキャンプを思いだした。下関の山の中で、大男の宮木と、ちいさな二人用のテントに潜りこんで寝たのだが、テント
が小さかったせいか、蒸し風呂に入っているようだった。
それに懲りて、今年もやろうという話になったとき、まっ先に五人用のテントを買いにいった。そのついでに、テントに限
らず、すべての装備や材料を、去年の経験をもとに見直してみた。
まず一番不便を感じたのは、食事のときごちそうを並べる台である。
上が平らで、まともにものが置けるものといえば、アイスボックスくらいしかなかったから、その上にごちそうを置けるだ
け置き、置けないものは手に持って、立ったりしゃがんだりして食べながら、テーブルと椅子があればどんなに便利だろうと
考えた。
そこで今年は、テーブルと椅子四脚が一体になっていて、折りたためば細長い手さげカバンのようになるものを買った。だ
がこれは外観だけで、オモチャのようなものだから、宮木の巨体が座るとつぶれるかも知れない。そのまえに、宮木の尻がこ
のせまいスペースにおさまるかどうかも心配であるけれども、その場合には、宮木にだけ立ってもらえばいいから、それでい
いことにした。
つぎに欲しいものは、バーベキューコンロである。
魚やサザエを塩焼きや壷焼きにしようと思うと、携帯用ガスコンロではひと所に火力が集中して具合がわるい。やはり炭火
のバーベキューコンロがほしいと思っていたところ、近くの日用品店に手頃のものがあるのを見つけた。
最近は、マッチ一本で火がつく炭というものが売りだされている。それは小粒の豆炭をいくつか平らに並べて、そのまわり
を着火材でくるみ固定したようなものだが、その炭の板がちょうど一枚おさまるサイズで、二人用としてはおあつらえむきの
物だった。
さっそく家でテストしてみると、着火材が燃え尽きるまでの三十分ちかくは、臭い煙と炎が出て、とても屋内では使えそう
にないが、その後はおちついた火力が長もちし、うまい焼き肉ができた。これで宮木を驚かす目玉が三つそろったことになる。
こうして着々とキャンプ道具を充実させているところへ宮木から電話があって、今年の夏はちょうどわたしと同じ時期に彼
の弟一家も東京から下関に帰ってくることになったから、そちらにも付きあわなければならないので、わたしとのキャンプは
一泊だけにしてくれということだった。昨年は台風がきてやむなく一泊になったのだけれども、今年こそは二泊しようという
のが当初の予定だったのである。
なにしろ宮木は素もぐりの名人である。彼と海に行くものはだれでも、彼の獲物を目当てにしているのだから、わたしだけ
が宮木を独占するわけにもいかないだろう。
一泊ということであれば、食料はそれほどたくさん持参する必要がなくなる。まず着いた日の昼食は時間もないので、カッ
プラーメンで十分だろう。そして夕食用に、昨年と同じく自作の玉ねぎとピーマンは持参するとして、じゃが芋はやめておこ
う。海からごちそうがたくさん取れるはずなので、カレーライスを作ることもなかろう。みそ汁も今年はインスタントですま
せばいい。そのかわり何かのときのために、松茸入りたきこみごはんの素というものを用意した。
あとは冷奴用に豆腐一丁、サラダ用に生野菜少々、たくあんくらいがあればいい。朝は洋風で、コーヒーにクロワッサン、
べーコンエッグと生野菜というメニューにしたい。
準備する食料はだいたいこんなものだが、飲料で忘れてはならないのがビールである。昨年は、二泊三日分のつもりで持っ
ていった大缶六本のビールがひと晩でなくなった。それで今年はアイスボックスをふたつ用意して、ひとつをビール専用とし
た。
これで食料についてはすべて万全である。ところが肝心の行き先がまだ決まっていない。
今年は下関から北へ山陰の海岸沿いに車を走らせ、行きあたりばったりで適当な所が見つかれば、そこをキャンプ地とする。
もしなければ島根県境に近い須佐湾まで行こうということだけ決まっていた。
そのため朝はなるべく早く出発しようというのが宮木の意見であったけれども、わたしが反対した。近くのパン屋が開くの
を待って、焼きたてのクロワッサンを仕入れてから出発したかったのである。ただのパン屋ならどこにでもあるが、焼きたて
のバターたっぷりのクロワッサンとなると、山陰の片いなかではまず手に入れることができない。
二年ほど前、妙高高原の国民休暇村に泊まったとき、朝食にクロワッサンがついていたのだが、それは形といい味といい、
ヤボったくぼってりとしたもので、たぶんクロワッサンのつもりで焼いたのだろうとしか思えないものであった。
逆にこんな話もある。
作家の阿川弘之氏と故開高健氏が辻静雄氏のお宅に招待されて、朝から晩までフランス料理を食べ続けるという会をされた
ときの話である。最初に出てきたクロワッサンがあまりにうまかったので、阿川氏が、あとの料理はいらないから、これだけ
を腹いっぱい食べたいと言ったそうである。
ところでキャンプになぜクロワッサンかと言えば、クロワッサンならバターを別に持参しなくても、それだけでおいしく食
べられるからという、ただそれだけの理由なのだけれども、だからといって、クロワッサンなら何でもいいという訳ではない。
やはりどちらがいいかと言われれば、阿川氏の食べたクロワッサンの方がいいに決まっている。
たかが一泊二日のキャンプで、クロワッサンにばかり引っかかっていては、いつまでも出発できないので、そろそろ出発し
たいと思う。いくら焼きたてにこだわったところで、食べるのは翌朝である。
ともかく二人分のクロワッサンを仕入れて、七時半に出発した。
今年は昨年とちがって天気の心配はまったくなく、今日も朝から焼けつくような日差しが照りつけている。とりあえず北浦
道を北にむけて走る。
この道はJR山陰線と並行して山陰の海岸沿いを通る国道だが、海が見えるのはごく一部で、ほとんどは海岸から数キロは
なれた内陸部を通っている。そしてこの道からはずれて海へ出ようと思うと、とたんに道は細くて解りにくくなる。どの道を
行っても結局は海に出られるのだが、めざす海岸に出られるかどうかが解らないのである。
下関を出発して、途中、釣りエサや氷を買いながらのんびり一時間も走ると、阿川という所を通る。下関からほぼ北に向か
っていた山陰線が、大きく東へむきを変えるところで、ここはその昔、阿川弘之氏の先祖が住んでいた所でもあるらしい。
その阿川を過ぎてしばらく走った頃、宮木が急になにかを思いだしたように言った。
「そのさきで左にはいれ。たしかこのさきに、キャンプもできるええ浜があるちゅう話を、うちのもんがしちょった」
宮木は会社の部下のことを「うちのもん」という。
海の見えない国道ばかりで、すこし退屈していたところなので、ここらで海を見て気分転換するのもいいだろうと思い、言
われた通りの道にはいる。だがここからだと海までは山をひとつ越さなければならない。
道はしだいに木や草がうっそうと生い茂った山道へと入っていった。道幅もすこしずつ細くなり、しまいには木の枝や草で
車の横腹や天井を擦りはじめた。付近に農家や田畑がないから、車もほとんど通らないのだろう。いつ行きどまりになっても
おかしくない道である。
ところがそのうちに視野が急にひらけたと思うと、二本の線路が目の前に現れた。山陰線である。遮断機のないその踏みき
りを渡ると、ほどなく海が見えてきた。
浜はほとんどが石と岩ばかりの磯で、碧くすんだ水は真夏の太陽をあびて、目に痛いほど輝いている。海岸沿いの道は細い
けれど舗装されていて、一キロほど先にあるちいさな海水浴場につながっている。そこには海の家も一軒あって、すでに何人
かが泳いでいるようだ。
沖には瀬がたくさん顔を出していて、サザエやアワビも多そうだから、宮木も満足している。砂浜もあってボートを出すの
に苦労しないから、私もここで文句はない。ただテントを張って一泊するとなると、少々の料金を払っても海水浴場を使用す
る方が、シャワーやトイレや炊事場が自由につかえて便利であるということから、宮木が交渉に行った。
管理しているのは、昼間だけ出てきているという、人のよさそうなおじさんだった。
交渉の結果、すきな所にテントを張ってよい。シャワーやトイレその他の施設も自由につかってよい。サザエやアワビも、
漁協が管理している範囲を除いて、自由に採ってよいということになった。しかし最初に宮木が目をつけた沖の瀬は、漁協の
管理区域に入っていた。
ここは看板によると、粟野海浜センターというしゃれた名前がついている。粟野といえば湯谷湾のどまん中である。湾内で
あれば海上保安庁の指定する平水区域にちがいないから、私のボートを出しても問題ないはずである。
私のボートの母港は敦賀である。自分で登録するのだからどこでもいいわけだが、敦賀に行きつけの船宿があって、そこに
釣りに行くことが多いからそうしたのである。したがって私のボートの自由航行区域は一応、若狭の美浜あたりから敦賀湾を
経て、越前岬までの沿岸三海里以内ということになっている。しかしそれ以外にも、波のおだやかな湾内で、海上保安庁が平
水区域と指定した所なら、全国どこででもボートをおろしてよいことになっている。
と確信していたのだが、ところが先日、意外なことが起こった。先日というのは、このキャンプを終えて大阪に帰ってきて
からのことだから、話はすこし飛ぶのである。
淡路島の志筑のちかくでボートを出し、小鯵をたくさん釣って、意気揚々と浜に帰ってみると、制服を着たふたりの青年が
立っていて、そのうちのひとりが私のそばにやってきて言った。
「船長さんはあなたですか。海上保安庁のものですが、この船に関する書類を見せてください」
いわゆる臨検のようである。臨検というのは海上で遭うもの、とばかり思っていたが、こういう臨検もあるようだ。今まで
に和歌山の加太の沖で、救命胴衣をつけずに釣りをしていた近くのボートが、臨検に遭って、免許証と救命浮環の提示を求め
られているのを見たことがあるが、そのときは私の方には来なかったので、私にとっては今回がはじめての臨検である。
私はボートに乗るとき、いつ臨検に遭っても大丈夫なように、かねがね気をつけている。そのため、真夏の暑いさかりでも
救命胴衣を着用し、同乗者にも付けてもらうようにしている。救命浮環もせまい船内では邪魔になるのだが、かならず積むよ
うに心がけている。だから海上保安庁としても、一見して法定備品に関しては文句のつけようがなくて、書類検査の方にした
ようである。
書類というのは、海技免状と船舶検査証書と船舶検査手帳の三つである。なんとかアラを探そうとしていた臨検員が、船舶
検査証書の航行区域という欄を読みはじめたとたん、「ああっ」という大声をだして、鬼の首でもとったような顔をした。
「この船は母港が敦賀ですね。敦賀の船がこんなところで船をだすということは、臨時航行許可証をお持ちですか」
と言う。そんなものは聞いたこともない。とにかくここは大阪湾というれっきとした平水区域だから、まったく問題ないは
ずだけれども、うかつに逆らって、もし本当にそういう規則があった場合めんどうだから、素直に、
「持っていません」と答えた。すると彼は、
「そうですか」
とだけ言って、相棒のところに相談に行った。しばらくして戻ってきた彼は、
「こう言っては失礼ですが、おたくのボートはちいさいですわねえ。このちいさいボートが慣れない海で船をだすということ
は、行政上も問題がありますが、今回は口頭での注意だけにしておきます」
と言い残して、自転車で帰っていった。なんとも納得のいかない臨検だった。
それで早速、翌日、十二メートル未満の船舶の検査を一手にまかされている日本小型船舶検査機構に電話してみた。
「わたしのボートは敦賀が母港なんですが、先日、淡路島の志筑で臨検に遭い、臨時航行許可証を求められたのですが、臨時
航行許可証というのはどういう手続きをしたらもらえるのですか」
「それはこちらに来て申請書を書いてもらえば出ますが、おかしいですなあ。どこで臨検に遭いました」
「淡路島の大阪湾側の志筑という所です」
「それなら平水区域ですわなあ。おたくの検査証書には航行区域のところに、敦賀湾のほかに、船舶安全法施行規則第一条第
六項の水域というのが追加されていませんか」
そこまでは覚えていなかったので、そう答えると、
「よく覚えておいてください。それがすなわち平水区域ということで、大阪湾なら平水区域だから問題ありません。海上保安
庁のまちがいですな」
という結論になった。
家に帰ってから、早速、検査証書を調べてみると、たしかに船舶安全法施行規則第一条第六項の水域が追加されていた。す
こし勉強不足だったけれども、私の確信は正しかったのだから、湯谷湾でも安心してボートを出していいわけである。
まずボートを波うちぎわにおろし、船外機をセットし、法定備品と釣り具を積みこんで、いつでも船出できるようにしてか
ら、テントの設営を始めた。最近のドームテントはよくできていて、組み立てはいたって簡単である。フレームなどは折りた
たんであっても、ゴムが通してあるから、手をはなせば勝手に長く繋がるようになっている。
そしてテントが立てば、その正面にテーブルと椅子をおいて設営は完了である。十分もかからないうちに、キャンプの格好
がついてしまった。
設営場所は海の家から小川をひとつ隔てた青草の上である。離れて見ると、うす緑のこんもりとしたテントに、白いテーブ
ルの組み合わせは、どこかしゃれた別荘の雰囲気がしないでもない。宮木も、「ほう」と言いながら中にはいってみて、その
広さに感心したのか、「これならゆっくり寝られるわい」
とうれしそうに言った。
「去年もゆっくり寝てたじゃないか」
「そうかあ?暑うて寝てないはずじゃが」
実際、宮木は台風でテントが飛ばされるのも知らずに、ぐっすり寝ていたのだが、むし暑さにだけは辟易したようであった。
テントの準備ができれば、休むまもなく、食料の採集に出なければならない。いつものように、宮木は素もぐりで、私はボ
ート釣りだ。
波がないのはいいのだが、ここの海はあちこちに浅瀬があって、スクリューが当たりそうで、自由に動きまわれない。その
上、いつの間にやってきたのか、アワビの魚礁をつくるための作業船が、沖にロープを張りめぐらして作業を始めているのも
目障りである。あんなに乱暴におおきな岩を次から次に放りこまれては、魚も警戒してエサを食わないだろう。
案の定、あまりアタリがない。中型のベラをやっと四尾釣ったところで、あきらめて上がり、ベラのさしみを作る。魚はち
いさいが、上身におろして、片身をひと切れとすれば、それらしい大きさのさしみとなる。
そのうちに宮木も上がってきた。獲物は小粒のサザエが二、三十個と、アワビとウニと大きなカサゴ一尾である。狙ってい
た沖の瀬に行こうとすると、すぐ監視船がとんで来るそうで、宮木にしては不満の漁だったようである。これは今夜の夕食用
にとっておくことにしよう。
私がカップラーメンを作っているのを見て、宮木は、
「おお、それでええ、それでええ」
と上機嫌である。たぶん宮木はカップラーメンが好きなのだろう。熱いカップラーメンによく冷えた缶ビール、それにとり
たてのベラのさしみが昼のメニューである。
さしみをひと切れ食べた宮木が、
「うまいやないか。これは何かあ」
と聞く。ベラだと答えると、ヘエッという顔をした。いくら下関でうまいさしみを食べつけていても、ベラのさしみという
のは初めてのようだ。私だって初めてである。
腹がいっぱいになれば涼しい日蔭で昼寝をしたい。海の家でキャンプをしている高校生のグループだけは、炎天下も気にせ
ず、浜辺や水の中で元気に遊んでいるけれども、われわれ中年にはもう真夏の昼下がりの太陽は強すぎる。
元気な高校生を横目に、横になりたい。しかしテントの中は、風通しがわるく暑いから、海の家の床下に移動した。そこは
京都の鴨川の夕涼みの床のような格好で、浜にむかって張り出している床だから、広くて風通しもよい。
この床下も有料らしく、ゴザが敷いてある。料金は上の座敷よりもちろん安いのであろう、高校生のグループはこの床下の
一部に蚊帳をはってキャンプをしている。
そのグループのなかには女の子がひとりいて、さぞマドンナ的存在だろうと見ていると、そうでもなく、男の子たちは表面
的には、その娘を無視するかたちで遊んでいる。そんな彼らのようすを眺めていると、自然に自分の青春時代が思いだされて、
眠ることを忘れてしまった。私の高校時代は受験勉強一色の灰色時代で、これほど自由な雰囲気のなかで遊ぶ余裕などなかっ
たのである。
それにしてもこの辺の海水浴場は、関西などとくらべて想像もできないほど閑散としている。実際この海も、目の前の高校
生グループ以外には、数えるほどしか人がいない。その数えるほどの人たちも、海の家で休憩しているのか、浜から姿を消し
ている。
そんな殺風景な浜辺に、いつの間にやってきたのか、とつぜん見なれない華やかな三人組が登場したのである。若いおとう
さんと二人の娘で、妹の方は小学校の上級といった感じだが、姉の方は二十才前後で、よくしまったグラマーな肢体を、はち
切れそうなワンピースの水着でつつんでいる。顔だちは姉妹とも、つくりのはっきりした美人である。
宮木もそれとなく興味を示して観察していたらしく、静かにひとこと、
「パスカル・プチやな」
とつぶやいた。すこし前に活躍したフランス映画の小悪魔的女優のことらしい。おとうさんは二人の娘にくらべて、すこし
若すぎるようにも見える。しかし兄や恋人にはどう見ても見えないから、おとうさんなのであろう。
そういう訳で、昼寝にはならなかったけれども、もうそろそろ起きて活動を開始しなければならない。夕食用の獲物をとり
に出なければならないのである。宮木は午前中のもぐりで疲れたのか、午後は私のボートに乗って、釣りにつきあうと言って
いる。夕食用のサザエ、アワビ、ウニの類はもうすでに確保できているから、それでも構わない。
ふたりでボートを漕ぎだして、十分な深さに達したところで、スクリューを降ろし、エンジンをかけようとした時である。
近くで妹といっしょに泳いでいたプチが、そばに寄ってきて、
「沖へ出られるんですか」
と声をかけてきたのである。私は自分から女性に声をかけたことはほとんどないのだが、声をかけられたこととなると、も
っとない。まさに千載一遇のチャンスである。といっても、今さら若い娘に声をかけられたところで、何がどうなるというも
のでもない。それを知っているからこそ、先方も気楽に声をかけてきた訳だけれども、すこしは鼻の下が伸びていたかも知れ
ない。
「そうだよ。いっしょに乗るかい」
「ええっ、そんなあっ、と言いながらも近づくこの図々しさ」
などと調子のいいことを言いながら、目を輝かせて寄ってきた。おもしろい娘である。
そうなると乗せない訳にはいかないだろう。宮木も気をきかして、さっさとボートを降り、かわりに勧めている。宮木とい
う男は、黙っていても、このへんの気遣いがすばらしいのである。ともだち甲斐のある男とは、彼のような男をいうのだろう。
プチは躊躇することなく、ボートにはい上がってきた。ところが妹の方はプチと正反対に、いくら呼んでもボートに寄りつ
こうとしなかった。プチが、
「いい思い出になるから乗せてもらいなさい」
とボートの上から呼んでもだめ。そうこうしているうちに、おとうさんが浜から、乗せてもらうようにと合図しているのが
見えて、はじめてその気になったのか、やっと宮木に抱えられて乗ってきた。
それにしても二人ともまっ黒に日焼けしている。顔ではなく、私の目の前に並んだ、ふたつの背中である。同じ程度に焼け
ているところを見ると、いつも二人いっしょに泳ぎに行っているのだろう。
名前は姉が「りさ」で、妹は「よしみ」といい、おとうさんだと思っていた人は、おとうさんの知りあいで瀬角(せすみ)
という名前だそうで、二人はそのおじさんを気安く「せっちゃん」と呼んでいた。三人は九州の門司から遊びにきたというこ
とだった。
「釣りでもするか」
と聞くと、例によってプチの方はすぐに、
「はい、やります」
と乗ってきたのに、妹の方は、魚をさわるのが気持ちわるいから見てますという。よほどの慎重派である。
プチの方はすべてに積極的なだけに、はじめての釣りにもかかわらず、アンカーの上げおろしから、ゴカイのつけ方、リー
ルの使い方まですぐにマスターして、嬉々として釣りを楽しんでいるようだった。
最初のうちはオモリが底についた感覚が飲みこめず、したがってアタリもまったくとれなかったようで、私の竿先にたえず
ピクピクとアタリがでるのを不思議がっていたが、そのうちにコツを飲みこんだのか、突然大ベラを釣りあげた。そして、生
まれてはじめて魚を釣ったと大はしゃぎした。つづいて今度はちいさなフグを釣りあげた。釣られたフグが鉤をはずすときに、
キュッキュッと鳴いたり、おなかをふくらませるのを見て、これまた姉妹二人で大喜びをした。こんなに喜んでもらえれば、
乗せた私としても悪い気はしない。
結局、一時間たらずの間に、私はベラ一匹だけしか釣れなかったけれども、プチの方は大ベラ二匹に小鰺一匹、それに小フ
グ一匹を釣った。釣果としてはすくないが、夕食のおかずの足しには十分なる。プチも食べたそうな口ぶりである。
それならばと、陸にあがるなり、魚の調理をはじめた。
そこへたまたま近所の魚屋が、誰かに頼まれたさしみの盛りあわせを出前にきた。魚屋はその一皿さえ届ければ仕事はおわ
りのようで、用がすむなり管理人のおじさんといっしょに、私の腕前をのぞきにやってきた。そしてふたりして、そのベラは
背ごしにしたらうまいとか、宮木が午前中に突いた大カサゴを見ては、これは一匹いくらする、みそ汁にしたらいいなどと、
勝手なことを言いだした。
言うだけでなく魚屋は、私のちいさなナイフとまな板を見かねたのか、車にひきかえすと、商売用の大きなまな板とさしみ
包丁をもってきた。そしてうむを言わせず私にとってかわり、手際よくベラの背ごしをつくりはじめた。
一方、カサゴの方は管理人が家にもってはいり、みそ汁にしてくれることになった。管理人も若いころ東京でコックをして
いたということで、料理には自信があるらしく、飯盒のご飯は、ここでは海水でといでから炊くとうまいなどと教えてくれた。
とにかくこれでプチにうまい魚を食べさせることができるとひと安心しているところへ、一台の車が近寄ってきた。見ると
プチたちの車である。そして運転している瀬角さんが、お世話になったが夜までに帰らなければならないので、これで失礼す
るというのである。そんなことをされては、今までの努力がむだになってしまう。なんとか引きとめなくてはならない。瀬角
さんに、
「せっかく釣ってきた魚を、プロがいま料理してくれてますから、食べて帰られたらいかがですか」
と誘ってみた。この誘いは効いたようである。ちょっと思案して、やがて諦めたように降りてきた。そしてあらためて瀬角
さんだけ車にのって、どこかへ姿を消したと思うと、しばらくして缶ビールを一ダースほど買ってかえってきた。さすがに九
州男児、いったん飲むときめたら飲むようである。
やがてベラの背ごしの大皿をかこんで、酒盛りがはじまった。ちょうどまっ赤な夕陽が水平線に沈むところである。
料理はまず背ごしの大皿と、宮木が朝とってきたウニにはじまり、そのうちにカサゴのみそ汁ができあがり、バーベキュー
コンロで焼いていたサザエの壷焼きも、次から次へと焼けてきた。すこしだけ飲んで、今夜のうちに門司に帰るはずだった瀬
角さんが、とりたての海の幸と赤い夕焼けにすっかり感激して、今夜はここに泊まると言いだした。
海の家は窓も壁もない、柱だけの吹きさらしだが、今時分ならすこしの寝具さえあれば、泊まれないことはない。急いで管
理人のおじさんをつかまえて、蚊帳と毛布を借りだした。おじさんは店じまいをして、帰りかけているところだった。
これで安心したのか、瀬角さんはますます腰をすえて、本式に飲みはじめ、同時に重い口を開きはじめた。ボソボソとしゃ
べったことを要約してみると、今年はプチのおとうさんたちと一緒にキャンプをする予定で、今日はその下見にきたのだが、
さっき電話してみたら急に仕事がはいって、それができなくなった。それでこの娘たちに申しわけないと思っていた矢先、こ
んな形でキャンプすることができてちょうどよかったです、というようなことだった。
私の方から言いだしたことだけれども、それにしても大変なことになった。なにしろ我々は、ふたりで一泊分の食料しか用
意していない。だが今となっては、そんなことも言っていられない。とにかく五人分の食料をなんとかしなければならないの
である。
男三人は、たっぷりのビールと海の幸とみそ汁があるからそれで構わないとして、飲まないプチ姉妹のために、急いで松茸
いりたきこみご飯を炊くことにした。それにアイスボックスの中のトマトとオレンジを添えれば、一応の格好はつくだろう。
姉妹は飯盒のたきこみご飯を、おいしいと言って、きれいに食べてくれた。我々三人も、ご飯こそ食べていないが、じゅう
ぶんに満足している。
そのとき、酔って気のよくなった宮木はプチたちに、あすの朝はクロワッサンをごちそうすると口をすべらせてしまった。
クロワッサンといっても、ふたり分しか買ってきていないのだから、あまり大っぴらに宣伝すると、あとから幻滅させること
になってしまう。ふだんは慎重な宮木なのに、酔うと時たまこういうミスをする。だが言ってしまったものは仕方がないから、
我々はがまんして、プチたちに食べさせることにしよう。
元気なプチ姉妹は食後、夜の海で泳ぎたいといって、また海におりていった。それを追って宮木も水にはいったが、すぐに
震えながら戻ってきた。
あすは瀬角さんもプチも仕事があるので、朝がはやい。五時起床を約束して、宮木とわたしはテントにひきあげた。いくら
キャンプでも五時起床はちょっとつらいが、プチたちにクロワッサンを公言している手前、どうしても起きなければならない。
テントの中は昨年とちがい、広くて空気もすがすがしい。昨年のちいさいテントとは雲泥の差である。これなら快適に寝ら
れそうだ。テントの裏の小川では、一匹の食用蛙が鳴いている。図体のわりには途方もなく大きな声だが、まったく無意味な
鳴き声なので、邪魔にはならない。
ところが宮木にはそれが気になるらしく、イライラしながら、
「うるさいのお」
を連発した。宮木もあすの朝のために、早く寝ようと努力しているのだろう。
しばらくしてむっくりと起きあがった宮木は、しずかに外に出ていった。何をしに行ったのかと考えていたら、突然、裏の
川面でズボッという大きな音がした。宮木が鳴き声のする方をめがけて、盲滅法に石を投げているようである。当たるはずは
ないのだが、一瞬しずかになる。五、六回投げたところで、あきらめたのか疲れたのか、無言でテントに帰ってきて、すぐ寝
てしまった。
ふたりとも熟睡していた真夜中に、こんどは子供のさわぐ声と花火の音で目がさめた。
管理人のおじさんが、夕方かえりがけに、今夜の夜中ごろに、小倉でスナックをやっている人が家族でキャンプにくると言
っていたが、その連中が到着したのだろう。
キャンプではしゃぐ気持ちはわかるが、時間をわきまえなければ、はた迷惑である。親も非常識だ。食用蛙のときのように、
また宮木が石でも投げにいくかと思っていたら、それよりさきにひと声、食用蛙より大きなどなり声が聞こえてきた。瀬角さ
んの声である。
こんどは蛙のときと違って、ひと声でさわぎがおさまったからいいけれども、どうやら瀬角さん本人があすの早起きを一番
気にしているようだ。
朝五時、我々ふたりは眠い目をこすりながら、テントをはい出した。きょうも快晴だ。
さっそく夜露でびっしょり濡れたバッグやアイスボックスをかついで、海の家へかけつけた。約束通り、クロワッサンとコ
ーヒーとベーコンエッグとサラダの朝食を作らなければならない。すべて二人前の材料しかないが、この際、三人で仲よく食
べてもらうしかなかろう。われわれの分は、あとで何か考えればいい。
ところが宮木とわたしが海の家にかけつけた時には、プチたち三人はもう車に乗っていた。かろうじて瀬角さんが、窓から
顔をだして、ひと言あいさつしただけで、姉妹はろくに顔も見せずに行ってしまった。よほど急ぎの用でも思いだしたのだろ
うか、それとも起きたての顔を見られるのが恥ずかしかったのかどうか知らないが、われわれの涙ぐましいサービスに対して、
そんな態度はなかろう。
残された我々は、あまりの拍子抜けに呆然として、去っていく車を見送ったのちも、しばらくその場に立ちつくしていた。