男 の 権 威
「男は結婚したら、なるべく早く、お膳をひっくり返せ」
故池波正太郎氏がそんなことを書かれていた。そうしなければ、男は一生、自分の食べたいものが食べられなくなるという
のである。
これから結婚しようという若者ふたりにおなじことを言ってみたら、ひとりは、
「それまでさんざんちやほやしておいて、急にそんなことをしたら、気がちがったと思われます」
と言い、もうひとりは、
「ぼくだったらそんなことはせずに、自分で料理してみせて、こうするんだよとやさしく教えます」
と言った。まったく最近の若者はやさしくなったものである。とはいえ、かく言うわたしも、それができなかったばかりに、
自分で食べたいと思うものは自分で作るしかない生活を強いられている。
たしかにそんなことをすれば、せっかくそれまでうまくいっていた夫婦関係にひびが入ることは避けられないかもしれない。
お膳をひっくり返すことは、あとさきを考えずに衝動的にするなら簡単だが、しかるべき計算づくでひっくり返すとなると、
それなりの覚悟がいるのである。
同様の覚悟を要することで、しかも男の権威をとり戻すためには是非やらなければならないことがもうひとつある、とわた
しは思っている。それはいったん妻に渡した財布を奪還することである。
お膳をひっくり返すことはできなかったが、わたしはこちらの難事業には成功した。といってもやはりこれはクーデターに
近い行為だから、わが家の夫婦間に、一時、不穏な空気がただよったことは事実である。
それほどまでしてでも、このクーデターはじゅうぶん意義のあることだとわたしは信じている。日本中の男性諸氏にも是非
一考ねがいたいところだが、幸いにして賢い奥方に恵まれている人はその対象外であることは言うまでもない。しかし、ここ
でいう賢いというのは、単にしっかり者で、家計をまかせても安心だということではない。遊びにつかう小遣いだとわかって
いても、家計に破綻をきたさない程度なら、にこやかに渡してくれるくらいの鷹揚さのあるという意味であるから、そう簡単
ではないのだ。
だれでも一度自分のふところに入ってきたものは、出すのが惜しくなるのは人情である。ところがひとりの友人が、ある日、
ゴルフに行く資金がなくなったので、奥方に小遣いの追加申請をしたら、その奥方は渋い顔ひとつせずに、
「もともとあなたが稼いできたお金ですから、遠慮しないで、必要なときはいつでも言ってくださいね」
と言ったそうである。わたしはこういう奥方を、なんと賢い女性だろうと関心する。こういう女房なら、安心して財布をま
かせることができるのだが、残念ながらわたしの女房はそのタイプではない。
わたしは道楽者である。したいことがたくさんあって、いくらお金があっても足りないほどである。暇さえあれば、ビオラ
を担いでオーケストラや室内楽で弾いていたいし、旅行をして知らない風物に出会いたい、ついでにその土地のうまいものも
食べたい、車にボートと船外機を積んで、釣りやキャンプもしたい、蕎麦は、もちろんすべて自作で、しかも最高をきわめた
いと思っている。又、そういうことをすべて文章に綴って、たまれば本にして出したいとも考えている。
一見、なんの役にもたたない無駄なことばかりのように思われるかも知れないが、わたしにとっては生き甲斐そのもので、
きわめて貴重なものである。と同時に、これらは将来に対する自己投資でもあると自分では思いこんでいる。自己投資こそも
っとも有利な投資である、と作家の畑正憲さんがどこかに書いていたけれども、そう言ってわたしに味方してくれるのは畑正
憲さんだけで、まわりはだれひとり味方してくれない。ましてわたしの女房などは、理解の外という顔をしている。
わたしとしてはそれでは困るのである。なんとしても小遣いが潤沢でなければ、したいことができなくなる。と言って、自
分で稼いできたものを自分が使うのに、卑屈にあたまを下げてまで、いただく気にはなれない。そこで数年前に、思いきって
わたしは、わが家の預金通帳を取り上げたのである。以来、給料はわたしの預金通帳に振り込まれ、その中から家計に必要な
分だけ、女房に手渡すという形が定着してしまった。したがってそれから以後は、女房はわたしの収入がいくらなのか、まっ
たく知らないはずである。
ただ、わたしが預金通帳を取り上げた真の目的は、家計に破綻をきたさない範囲でわたしの好きなことをするためで、女房
に苦労をさせることではない。わたしだけが好き放題のことをして、女房は買いたいものも買えずに我慢しているというので
は、わたしとしても心苦しい。女房も自由に買いたいものが買えるように、わたしの口座から引き落とされるクレジットカー
ドを、女房にも一枚もたせることにした。
今ではほとんどの会社が、給料の銀行振り込みをしていて、そのため世のサラリーマン諸氏の中には、亭主の権威がなくな
ったとぼやく人が多い。亭主が直接、給料を奥方に手渡さなくなったから、奥方たちは、亭主から給料をもらうのではなく、
銀行からもらっているような錯覚に陥って、亭主のありがたみを忘れてしまうのだろう。
そういうぼやきを聞くたびにわたしは、わたしのやり方を推奨したい衝動に駆られるけれども、すぐに抑えることにしてい
る。一旦渡した財布をとり返すことなど、だれにでもできることではないことは、よく解っているからである。
ある人は、お前の稼ぎがいいからそんなことができるのだと言い、またある人は、俺が財布を握ったら家計はむちゃくちゃ
になるだろうと言った。だがそれは言いわけに過ぎず、どちらも違っている。単に稼ぎだけの問題なら、日本中に財布を握る
亭主は無数にいるはずであるし、浪費家は家計を握れないとなると、わたしなどは一番に失格である。
そういう逃げ口上を言う人にかぎって、最近、子供に対する父親の権威がなくなったとぼやくのである。
聞いてみると、たとえば子供が、学校から自由参加のスキースクールや臨海学校にいきたいと言いだした時に、どちらが決
定権をもっているかと聞けば、かならず奥方の方だと言う。わたしのやり方がいいのかどうかは疑問だが、わが家の場合はそ
ういう時は、まず、お父さんに相談しなさいということになり、よろしいということになれば、子供たちは自発的に、「お父
さんありがとう」と言う。
こう言ってくると、わが家は、亭主の権威も父親の権威も安泰で、すべてうまくいっているように聞こえるけれども、そう
でもない。女房にとってはやはり、家計をまかせてくれないという不満がどこかにあるようで、なにかあった拍子に、
「そんなに好きなことがしたいのなら、結婚なんかしなかったらよかったのよ」
となってわたしを責める。そしてそれを言われると、わたしはもうグウの音も出ないのである。なぜなら、わたしが安心し
て好きなことができるのも、家庭があればこそで、わたしは結婚したことを後悔してはいない。むしろ結婚してよかったと思
っている。とくに三人の子供たちに恵まれたことで、わたしは、はかり知れない幸せを与えられたと思っている。
現在のわたしは、いっときの時間もむだにせずに、好き放題のことをして、毎日をおくっている。それがいかに充実してい
るかは、自分の頭のなかに、確かなかたちで、毎日が記憶として残っていくのでも実感できるけれども、客観的には、すでに
わたしの二冊の本に結実している。
ところがそれほどの充実感も、わたしが不惑をすぎた頃から、徐々に感じはじめたもので、結婚してからそれまでの十数年
というものは、まるで記憶喪失症にでもかかったように、わたしの記憶からすっぽりと抜けおちているのである。それは言い
換えれば、その間のわたしが、それほど夢中で子育てに熱中していたということになる。わたしには、そうとしか思えない。
長男が生まれたときから、子供の入浴はほとんどわたしが面倒をみた。すこし大きくなれば、子供たちを寝かせつけるのも、
すべてわたしの仕事だった。女房はお話をしたりということをしない女なので、わたしが毎晩、日本昔話などの本を読んで聞
かせ、ネタが尽きれば、勝手な作り話をし、しまいには、
「きょうは、なんの話をしようか」
と問いかける。すると長男はしばらく考えて、
「ええとねえ、ライオンさんとねえ、ブタさんとねえ、カマキリの話」
などと勝手な三匹の動物を挙げるのである。落語に三題咄というのがあるが、それと同じで、わたしはこの三匹の動物を登
場させて、即座に三匹咄を作りあげるのである。長女や次男なども、言葉がろくに解らないうちから、真剣にこのお話ゲーム
の仲間入りをしていた。そんな影響かどうか、長男などは高校生になった今でも、テレビの「まんが日本昔話」に特別の興味
を示すようである。
その子供たちも、今ではそれぞれに親離れをして、遊ぶのにわたしを必要としなくなっている。女房はもともと遊びにまっ
たく興味を示さない。というわけで、不惑を過ぎたわたしに、やっとわたしひとりの充実した時間がもどってきたのである。
家庭と遊びの両立という難問はいぜん残るけれども、まずまず文句のない、幸せな境遇と感謝しなければならないだろう。
これからの日本を担う若者諸君にも、自分自身のため、また国際社会でひけをとらないためにも、ぜひ男の権威を取り戻して
ほしいと切に願っている。
お膳をひっくり返すのも、財布を奪い返すのも、やるなら早い方がいい。できれば財布などは、初めから与えないのが一番
いいのだが、すでに与えてしまっている人は仕方がないから、とり返すことに専念してほしい。しかしその際、お膳をひっく
り返すか、財布を奪い返すかは、わたしの関知する所ではなく、それぞれの選択にまかせたい。