趣 味 か 仕 事 か
大学を出てから三十年以上が過ぎた。
すでに各界の第一線で活躍している同期生もたくさんいる。
十年以上も前に、会社で、以前の職場の上司からわたしの職場に電話があり、
「今、某公社のSさんとお会いしているところだが、いっしょにお茶でもどうだ」
といってきた。S氏はその公社の幹部で、わたしの大学の同期である。といっても在学中べつに親しかったわけではなく、
卒業後もずっと会っていないので、何十年ぶりに会っても、別に話ははずまなかった。
別れぎわに、今夜の都合はどうだという話になり、もし暇ならどこかで夕食でもということかも知れなかったけれど、ちょ
うどその晩は会社の仲間とカラオケアンサンブルの練習をする予定になっていたのでそう言うと、まったく呆れたような、軽
蔑するような顔をしていた。
当時わたしはカラオケを歌うより、なにか曲をきめて、自分でカラオケに編曲し、必要なメンバーは会社の仲間で、楽器を
弾ける連中を総動員して、納得のいくまで練習し、何度聞きかえしても飽きない程度の演奏にしあげ、テープに残すというこ
とをやっていた。
あの時Sはわたしのことを異人種のように感じたかも知れないが、こちらも同様であった。四六時中、仕事のことしか考え
ていない人たちとは、仕事の後まで付き合いたくないというのが本音である。わたしは会社では生活の糧を得るために、まじ
めに働くけれども、勤務時間がすぎれば仕事をわすれて、自分の命をもやすことに時間を使いたいと考えている。仕事に命を
もやせれば一番いいに違いないけれども、わたしにはそれができないのである。
会田雄次氏は男の生きがいは仕事しかないと書いている。いくらお金があって働かなくていい身分になっても、毎日やれパ
ーティだ、ヨットだ、ゴルフだ乗馬だといった生活をしていると、やがて退屈してむなしくなるものだ。また囲碁や将棋にい
くら凝ったところで、日本棋院にごろごろしている子供の遊び相手にされて惨敗するのがおちだし、だれも読まない和歌や随
想などを自費出版するのが生きがいというのではあまりにも哀れな話ではなかろうかと書いている。
会田氏の本には教えられることが多く、いつも興味深く読んでいるが、この説だけは受け入れられない。人生の大先輩が歴
史をふまえた深い洞察から導きだした結論に、わたしのような若輩が異をとなえるのは不遜なことかも知れないけれども、会
田氏は趣味をもたない方のような気がするのである。
一方、作家の瀬戸内寂聴氏によれば、「目分の才能の芽を極限まで伸ばし、開花した花によって人をよろこばせることがで
きれば、こんなにすばらしい人生はない」とおっしゃっている。この説には無条件で賛成できる。といっても寂聴師のいう才
能を、仕事の面での才能と見るなら、会田氏の説と同じことになるのだが、わたしはそうではなく、趣味の面での才能として
同感するのである。
仕事と趣味が一致している人は、仕事に打ち込めば打ち込むほど、趣味を追及することにもなり、両氏の意見を同時に満足
させることができるのだが、芸術家や職人は別として、そういう幸せな人はサラリーマンにはめったにいないのではなかろう
か。仕事が趣味だというサラリーマンは多いけれども、それは趣味をもたないということであって、話が別である。仕事が趣
味ということと、趣味が仕事というのは違うのである。
趣味というものは一生かけて磨きあげるものだと、わたしは思っている。ということは一生続けられるものでなければなら
ないということでもある。特別の体力を必要とするスポーツや、気まぐれに始めた何かに一時的に熱中しているというだけで
は、ほんとうの趣味とはいい難いのである。
ところでわたしの趣味はといえば、まず音楽である。中学三年のときから始めたバイオリンをいまだに弾きつづけ、大学を
出てからもあちこちのオーケストラで弾いていた。現在は会社の仲間やプロをまじえてカルテットを結成し、定期的に練習を
つづけている。これは定年後に本格的な演奏活動を開始するための布石のつもりだったが、すでに固定のファンがついて、毎
年、和歌山まで演奏旅行にでかけている。
つぎの趣味はそばを打つことである。プロのそば屋に弟子入りしてそば打ちをならい、現在はある製粉所から、玄そばをわ
けてもらい、自分で石臼をひいて製粉し、そばに打っている。年末の年越しそばから、お客を招待してのそば会と、冬の間は
大忙しとなる。なぜ冬の間かというと、春になると暖かくなってそばの味が落ちるので、秋に収穫したそばは、寒い間に食べ
てしまう方がいいからである。
もうひとつの趣味は魚釣りである。最初はもっぱら海釣りばかりで、ちいさなエンジンつきボートを車に積んで、日本海や
淡路島に出掛けていたが、最近は近所の主人に誘われて、鮎の友釣りから投網まで手をのばしている。
その外にも旅行をすることや、アマチュア無線などがあるが、これだけの雑多な趣味がどこでどう結びつくのかといえば、
すべてが文章の材料になるという所で収拾がついているのである。ということは、すべての趣味を統括している文章が、わた
しの趣味の頂点ともいえるのである。
誰も読まない文章を書くことを生きがいにするのは愚かだと会田氏はいうけれども、他人が読もうと読むまいと、一生、書
きつづけることが、今のわたしにとっては避けられない道であり、すでに生きがいとなってしまっている。